インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

薙刀のお稽古

ほそぼそと続けている「お能」のお稽古は、秋の温習会に向けて『船弁慶』の仕舞を練習しています。船弁慶の「キリ」、つまり平知盛の亡霊が海上で嵐を巻き起こしながら薙刀を使って源義経ら一行に襲いかかるという、一番最後に盛り上がる超スペクタクルな場面。仕舞ですから面(おもて:仮面)も装束も着けませんが、慣れない薙刀の扱いに苦労しています。


www.youtube.com

かつてお稽古を始めたばかりの頃に、お師匠から「次は船弁慶の仕舞をやりましょう」と言われて、ええっ、初手からそんなのを? と思ったら、その時は船弁慶の「クセ」でした。これは義経との別れを惜しんで静御前が舞う部分で、初心者が取り組むことの多い仕舞(私がお稽古している流儀では)なんだそうです。

さっきブログを確認してみたら、能のお稽古を始めてもう10年近い時間が経っていました。はやいなあ。なのにほとんど何も会得していないような気がします。これまでにいろいろな仕舞や舞囃子をお稽古してきましたが、そのどれもマスターした、つまりいつでも舞える状態になっているわけではなく、常にその時にお稽古している舞が舞えるだけです。多少は身体の記憶として残ってはいるでしょうけど、上達と言うにはほど遠い状態。お師匠には大変申し訳ないのですが。

ふつうお稽古ごとを10年も続ければ、そのジャンルに関してはそれなりにこなれてくるんじゃないかと思います。ギターでもピアノでもレパートリーと呼べるものがいくつかはできるでしょうし、語学だったらけっこう聴いたり話したり、あるいは読んだり書いたりできているかもしれません。なのに能のこの「攻略不可能っぷり」といったら。奥が深すぎるのです。

奥が深いといえば、薙刀の扱いも奥が深いです。もちろん本物の薙刀じゃありませんし、ましてや能の舞はリアリズムともまた違うところにあるので、戦闘シーンでありながらも独特の様式美があります。その様式美を体現するのが難しい、というか素人の我々にはほとんど無理筋ではあるのですが、お稽古しながらなんとなく分かってきたのは、自分の背丈をも超えるほどの長さの薙刀を使うというのは、日常生活ではあり得ないほどに身体の拘束がともなうという点です。

ふだんは扇を手に舞うので、ともすれば手先で(まさに小手先でという感じ)こちょこちょと技巧に走ることがたやすい(もちろんそれはよくないので直されますが)のですが、薙刀を使いながら舞うとなると、これはもう薙刀という長い棒で拘束された身体全体を、腰や体幹から発するような動きかたにさせなければ、舞の形にすらなりません。特に両手で薙刀を持っている際に身体を回転させるときがいちばん難しく、たぶんまだ私はその動きが合理的ではないからでしょう、すぐに疲労困憊に陥ります。

f:id:QianChong:20210910102937p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/01/blog-post_417.html

玄人(プロ)の能楽師による薙刀を使った舞をみていると、力強くもどこか軽やかな印象(それが優美さにつながる)すらあるのですが、実際にやってみると、とんでもなく奥が深いのです。まあ薙刀に限らず、能の舞はいずれもそういうものなんですけど。ともあれ、11月中旬の発表に向けてこれからもほそぼそとお稽古を続けていきます。唯一の悩みは、薙刀を使って練習をする場所がなかなか確保できないことです。激狭の自宅は論外ですし、公園なんかで薙刀振り回していたら警察に通報されそうですし。職場の退勤後に、大教室へこっそり忍び込んで練習しようかしら(こらこら)。