インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

モノは人間を豊かにしてくれる

渡辺京二氏の発言集『幻のえにし』を読んでいたら「モノは人間を豊かにしてくれる」というお話がありました。

モノというのは、よく清貧とかなんとか言うけれど、人間にとって、自分が来ているシャツが気に入っているとか、着てて気持ちがいいとかは、実はとても大事なことなんです。(中略)精神と物質を分けてさ、物質がどんなに豊かでも精神が貧しければダメだなんていうのは、本当はおかしいんです。いい物質というのは精神も豊かにしてくれるんです。(99ページ)

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幻のえにし 渡辺京二発言集

なるほど。「貧すれば鈍す」と言いますけど、確かに自分を取り巻くモノの豊かさというのは精神の健全さ、というか元気さに影響を与えているように思います。もちろんモノに執着して集めまくるとか、分不相応なモノをローンまで組んで買うというのは逆に病態ですけど、自分の身の丈に合った範囲で、自分の周りに心地の良いモノがあるというのは、それだけで心の豊かさと穏やかさに大きく寄与しているのではないかと。

私はけっこう「断捨離」が好きな人間で、とにかく暮らしはシンプルな方がいい、なるべくモノを持ちたくないと、これまでいろいろなモノを捨ててきました。一時はそれが嵩じてミニマリズムとか無一物みたいなライフスタイルに憧れたこともあります。でも、過度なミニマリズムは、特に小さい子供にとってはむしろ有害ではないかという説に触れて、なるほどとちょっと考えを改めました。

成長過程にある子供にとっては、最初から選び抜いた最小限の要素に囲まれた環境では刺激が少なすぎるため、精神の発達に悪影響があるのではないかという説でした。人間はそんなに単純な存在ではなく、良いモノだけを与えていれば理想的な精神が育つと考えるのはちょっと「頭でっかち」に過ぎるのではないか。良いモノも悪いモノも混ざった雑多な選択肢の中で、自分で経験しながら良い・悪い、あるいは快・不快を感じ、学び取ることを蓄積していかなければ、健全な精神が育たないのではないかというのです。

これは子供だけでなく、大人や、私のような中高年にとっても同じではないかと思います。「頭でっかち」で極端な純粋主義は、常に危うさをはらんでいます。私は何事も極端に走りがちな性格なので、こうした説にとても触発されました。自分の懐との相談が前提ですが、衣食住のさまざまな側面で「着られりゃいいんだ・食べられりゃいいんだ・住めりゃいいんだ」とは考えず、それなりの質を追求することはとても大切だと思うようになりました。

私が何度挑戦しても「電子書籍」にどうしてもなじめないのも、モノとしての存在感が希薄だからなのかもしれません。書籍がなにがしかの情報なりデータなりを伝える媒体であるという点では「紙」も「電子」も違いはないはずで、むしろ「電子」の方が軽い・すぐ手に入る・検索できる・データのさらなる利用がしやすい・パソコンやタブレットなどとの相性がいい……など利点は「紙」の比ではないのです。

なのに電子書籍だとどうにも読後感が薄く感じるのは、ページをめくる手触り、既読部分と未読部分の厚みの比率、紐のしおりを引っ張る感覚、装丁から受ける感覚(紙質・デザインなど)、はてはインクの匂い……などなど、それはそれは豊富な「モノとして感覚に訴えてくる力」に乏しいからなのかもしれません。

『幻のえにし』にもこうありました。

たとえば「本なんて装丁なんかいらなくて、活字だけで綴じたらいいじゃないの、なんで装丁するのよ」という人がいるかもしれない。でもモノによって人は育つのよ。モノがなかったら、精神の育ちようがない。想像力も育たない。(100ページ)

そうなんだよなあ。私は電子書籍をかたくなに受け入れられない自分がイヤで、それは、それがそのまま自分の「老害」化に直結しそうな予感があるからなのです。だからこちら↓の記事など読むと「もう一度挑戦しよう」などと思うのですが、やはり味気なさが否めません。

kot-book.com

今回この本を読んで、電子書籍からまた一段と足が遠のいてしまった自分を感じました。困ったものです。