インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

翻訳における「キャラ立ち」

先日の東京新聞で、師岡カリーマ氏が「翻訳の職業差別」というコラムを書かれていました。外語を日本語に訳す際に、男尊女卑が透けて見える「無意識の印象操作」が行われているという批判です。またスポーツ選手など特定の職業の人々の発言を訳す際にも、なぜかくだけた文体ばかりが採用され、存在が軽く扱われているような印象操作が感じられると。

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これは確かに根深い問題だと思います。日本語は年令や性別や職業などの属性によって文体がかわることがある、いわゆる「役割語」の存在が大きく、これは諸外語とは少々異なる特徴の一つだと思います。中国語にも例えば「女性らしい」表現や「お年寄りっぽい」表現みたいなものがないわけではありませんが、日本語のように語尾を少し変えるだけで明らかに「キャラが立ってしまう」というほどではないように思います。どちらかというとそれは言い方(語調)の問題であったり、時と場合による語彙の選択の問題という感じで、特殊な場合(時代劇に出てくる宮廷内の言葉とか)を除けば、現代中国語の文字面にキャラは日本語ほど色濃く表れません。

私は学校で字幕翻訳の授業を担当していますが、留学生がドラマなどに字幕をつけると「キャラが立っていない」ことがままあって、役割語の説明や、いわゆる「男言葉・女言葉」みたいなものの説明を加えることがあります。しかし、これらもやりすぎるとベタで嫌味に読めます。師岡氏も指摘されているように、女性だからといってすべて「〜だわ」「〜よ」などと処理するのは思慮に欠けますし、お年寄りが「わしは〜」「〜じゃのう」などと実際に言っているだろうかと考えると、決してそんなことはないですよね。

ましてやスポーツ選手やミュージシャンは一律に少々フランクな「タメ口」だとか、特定の政治家や有名人に対して恣意的にキャラ付けをして語らせるなどというのは、やはり印象操作のそしりは免れないと思います。テレビのニュースなどでも、字幕のみならず音声での吹き替えでも異なる声色の声優さんを使い分けることで、意図的な印象操作がかなり行われていると感じられることはよくあります。

その意味で師岡氏の指摘には大いに共感するのですが、ではこれらを実際にどうより公正な方向に変えて行けるかと考えると、けっこう難しいものがあります。実際に字幕翻訳の作業をやってみるとわかるのですが、特にエンタテインメント作品の字幕では、上述したような「役割語」がかなり力を発揮してくれるんですね。というよりこれは、私たちが長らくこうした「役割語」に親しみすぎたせいで、そういう安易なキャラ付けに寄りかかり過ぎているのだと思います。

考えてみれば映像作品なら画面にそのキャラ自体が映し出されているわけですから、字幕でさらにそのキャラクターを立てる必要はないのかもしれません。でもどんなキャラでも一律の文体になってしまったら、それはそれで無味乾燥な作品になってしまいそうです。難しいですけど、よりフラットで公正な視点を求めつつ、キャラの書き分けにも腐心しつつという線を目指すしかないのでしょう。

そしてエンタテインメントではない報道における字幕や吹き替えについては、これは師岡氏が指摘するようにもっと「色を付けすぎない」努力が行われるべきなのでしょう。日本語のように明らかな「役割語」的表現の少ない外語も、知的かどうか、論理的かどうかなどの差は歴然としてあります(この点、日本語のほうがいわゆる「階級差」みたいなものの希薄な言語かもしれません)。そうした差や、その発言の背後にあるものなどを注意深く勘案しつつ、訳文を作っていくしかないのだと思います。