インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

試験も成績もいらない?

夏が終わり、期末試験の季節がやってきました。私が勤めている学校のうちの一つは四月に開講して、前後期の二学期制なので九月の末に前期末試験があるのです。毎年この時期になると不思議に思うのは、普段の授業にはあまり身が入っていないように思える学生さんも、この試験時期ばかりはものすごくセンシティブになっているということです。

試験範囲を細かく確認してきますし、成績評価についてもその基準を知りたがります。試験を行う教室に何を持ち込んでいいのかを直前まで気にしている人もいます。いずれも学期開始時に印刷された授業案内を配布し、授業でも何度も伝えているにもかかわらず、直前になってにわかに、それらに敏感になるようなんですね。

もちろん私は何度でも繰り返して説明しますけど、どうして試験だけはこんなに真剣なんだろうと、ちょっと不思議な気持ちがするのです。試験だから真剣なのは当たり前だろう、それで成績がつき、後々の人生(進学とか就職とか)にも影響するのだから……とおっしゃるでしょうか。まあそれは当然理解できます。でもそれって損得勘定ですよね。

そして同じ損得で考えるなら、なぜ普段の授業に身を入れずに、期末試験という一点にのみかけるような「リスキー」なことをするのかが分からないのです。普段からコンスタントに学び、訓練し、技術を身につけておく(私が担当しているのは通訳科目なので、身体技術という側面が比較的強いです)ほうが一番自分にとって「得」じゃないですか。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_515.html

私は期末試験を控えてセンシティブになっている学生さんに、「普段みなさんきちんと学んできているんですから、実力で受ければ大丈夫ですよ」と言います。これはイヤミじゃなくて、本当にそうあってほしいという祈りのようなものです。それに私は普段の授業でこまめに全員の訳出(通訳すること)の録音をとってはその都度評価しており、そのいわば「平常点」が成績の6割、期末試験は4割で按分しています。この割合はもちろん授業案内にも書かれており、授業の初日にも説明しています。だからなおさら期末試験一点突破という戦略(?)は奏功しないはずなんです。

……でも。

ここに至って私は、なんだかこういうシステムそのものが「学び」という観点からすればとても不毛なものに思えてきます。だって学びは、特に私が担当しているような大人の学びは、義務教育とは違って自分で選んだものです。なのに初志をどこかに置き忘れて、コツコツと技術を身につけることをせず、期末試験だけ目の色が変わるというのもおかしいじゃないですか。

それに私自身、なにも厳格に試験を行い厳格に採点して、まるで戒めのように不合格とか再試判定などを出すことに何の喜びも感じません(当たり前ですけど)。学生のみなさんがなにがしかの学びを得て、自己肯定感や達成感や幸福感を味わって、それぞれの人生の糧にしていただけたら一番うれしいのです。

そう、試験を行うとか、成績をつけるとか、そういうシステムはいらないのかもしれません。普段の授業で評価はするけれど、それも誰かと比較して順列をつけるためではなく、その学生個人の努力目標を指し示すものでさえあればいい。学校全体の枠組みから行くと、試験を行わず成績もつけないということはできないのですが、そこはそれ(大きな声では言えないけれど)なんとでもやりようはあると思います。