インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「中国的なもの」に向き合う姿勢

台湾の新聞ポータルサイトをのぞいていると、今回の新型コロナウイルス感染症に対して“武漢肺炎”という呼称が使われていることに気づきます。政治的に中華人民共和国と距離を置く紙面編集路線の『自由時報』や『蘋果日報』がそうです。一方親中的スタンスを取る『中國時報』や『聯合報』は“新冠肺炎(新型冠狀病毒肺炎)”を使っているようです。

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アメリカのトランプ大統領は“Chinese virus”という呼称を繰り返し使って「黄禍論」の復活に余念がないようですが、うちの国でもこの感染症が蔓延し始めた頃にはずいぶん中国人を排斥するような差別的言動が各地で見られました。感染症や原因不明の病気は、その「伝染するのではないか」という不安と結びつき、容易に差別へと亢進します。

さすがに最近は、それどころじゃないほど深刻な影響が社会の隅々に及んでてんてこ舞いなためか、なんとなく鳴りを潜めているような格好ですが、いつかこの状況が収束にいたる頃には、また性懲りもなく形を変えて、様々な「中国的なもの」に対する差別的意識が露骨にぶり返すのではないかと危惧しています。

そんなことを思ったのは、ウェブサイト「B面の岩波新書」に掲載された藤原辰史氏の「パンデミックを生きる指針——歴史研究のアプローチ」を拝見したからです。

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たまたま先日、安宅和人氏の『シン・ニホン』を読んで多くのことを考えさせられた一方で、そこでの提言の数々がいずれも理数系教育の充実にやや軸足を置きすぎているのではないかという違和感を覚えていたところだったので、冒頭にあるこの言葉がまず心にしみました。

想像力と言葉しか道具を持たない文系研究者は、新型コロナウイルスのワクチンも製造できないし、治療薬も開発できない。そんな職種の人間にできることは限られている。しかし小さくはない。

そう、この一種異様な時期に直面して、わたしたちは未来への想像力を失い、語るべき言葉を掴みかねているのですが、こんなときこそより一層想像力と言葉の力を鍛えなければと思うのです。そして差別的な言動など言葉の持つ負の側面についても想像力を働かさなければと。

武漢肺炎”や“Chinese virus”といった呼称を使いたがる心性に引っかかりを覚えながらこの論考を読んでいると、こんな記述がありました。

現在も、疑心暗鬼が人びとの心底に沈む差別意識を目覚めさせている。これまで世界が差別ととことん戦ってきたならば、こんなときに「コロナウイルスをばら撒く中国人はお断り」というような発言や欧米でのアジア人差別を減少させることができただろう。あるいは、政治家たちがこのような差別意識から自由な人間だったら、きっと危機の時代でも、人間としての最低限の品性を失うことはなかっただろう。そしてこの品性の喪失は、パンデミック鎮静化のための国際的な協力を邪魔する。

まさにいま起きているのは、そういう国際的な協力を邪魔しようとする動きですよね。うちの国の政府にしても、近隣に韓国や台湾など感染症の抑え込みに効果を上げた先例がありながら、ほとんどそれに学ぼうとした形跡がありません。ここにはそうした国々に対する夜郎自大的な態度が為政者の目を曇らせている可能性を見て取ることができます。

そして、繰り返しになりますが、近い将来(希望的観測)この感染症が収束に至ったあかつきには、より露骨な形で中国(それも中国政府と中国人と、その他「中国的なもの」をごっちゃにした雑駁な概念で)に対する差別意識が台頭するのではないかと思うのです。

それでなくても中国語に関連した仕事をしていると、ときに予想もしない方向から予想もしない反応が来て戸惑うことがあります。以前にも書いたことがありますが、ここ数年、初対面の方(中国とはまったく関係のない業界の方)にお目にかかるたび、私が中国語関係者だと知って皆さん一様にうかべる困惑というか同情というか時に嫌悪というか、そういった複雑かつ微妙な表情に気づくことが多くなりました。

ここ十年、二十年の大きなスパンで振り返ってみると、その期間は中国が様々な分野において圧倒的なスピードで日本を凌駕してきた時代でした。そして「コロナ後」の世界では、中国のプレゼンスがより高まるだろうと言われています。強大な権力をもって感染症の抑え込みにかかり、いち早く収束に向けて動き出し、その余勢をかって各国に援助を行い、自国の体制の優位性をアピールしている中国。

そうなった中国の後塵を拝しながら、それでも私たちは自らの足元を冷静に見つめて自分たちなりの道を見つけていけるでしょうか。なんとなくまるっとしたイメージだけの「中国的なもの」しか知らないのに、それに対する対抗心やら猜疑心やら差別意識だけは抜きん出て明確に持っている(どこからその自信がわいてくるのか謎です)人々が少なくないうちの国で。

藤原氏の論考は「果たして日本はパンデミック後も生き残るに値する国家なのかどうか」を歴史の女神によって試されていると締めくくられています。中国の作家・方方氏の言葉を引いて、弱者に接する差別をどれだけ抑えられるかがその指標だとされていますが、私はそこに、存在感を増す「中国的なもの」に対する謙虚でフラットで自律的な大人の姿勢を保てるかどうかという指標も加えたいと思います。