インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「腰掛け」で仕事してると“緣分”が寄ってこない

先日、通訳学校の生徒さんから「キャリア相談」にのってくれませんかと話を持ちかけられました。教師という仕事をしていると、時々生徒さんからこうした就職や転職や進路などについての相談をされます。その際に一番よく聞かれるのは「センセは学校を卒業したあと、どうやって今の仕事にたどり着かれたんですか」というご質問です。

う〜ん、私の職歴はかなり特殊、というかまったくもって順風満帆な歩みではなかったので、あまり人様のご参考になるような気がしません。とはいえ、別に隠すような悪いこともしていないので、聞かれるまま答えることにしています。

みなさんが私の職歴を聞きたい理由は、そのほとんどが「いま勤めている職場を辞めたい」であり、その先に「通訳や翻訳関係の仕事に転職するにはどうしたらよいか」あるいは「脱サラしてフリーランスで通訳や翻訳の仕事をしていくことは可能か」というご質問が続きます。

しかし、フリーランスにしろ転職にしろ、通訳や翻訳という仕事で食べていくのはそう簡単ではありません。特に、語学のスキルにあまり敬意を払わないこの日本という「国度」にあっては(それはほぼ単一言語で社会を営むことができ、高等教育まで行うことができるという、世界の中でも極めて恵まれた言語環境のゆえでもあります)なおさらです。

私見では通訳や翻訳は極端な「二極化」が進みつつあります。一握りのハイエンドの方々だけはそれなりに稼働できるものの、中間層がごっそりと退場していき、底辺は価格破壊が進むと同時に機械化、AI化が絶賛進行中です。

英語の業界はあまり詳しくありませんが、中国語の業界に限っていえばハイエンドの方々であっても、大学の先生などいくつかのお仕事を掛け持ちされています。いわんや私のような第二線・第三線の人間においてをや。しかも業界では以前にもご紹介した「仮案件&リリース」の嵐が吹き荒れています。通訳学校のような場所で教え、なかば「こんなに輝く未来が!」的な惹句に乗っかっていながらこんなことを言うのはかなり心が痛みますが、正直に申し上げてなかなかに厳しい業界です。もちろん通訳や翻訳の重要性や、業務の意義についてはいささかも薄れていないとは今も思っていますが。

qianchong.hatenablog.com

また「いま勤めている職場を辞めたい」についても、私が私の過去の経験を元に軽々に「イヤなら辞めちゃえば」とも「石の上にも三年でしょ」とも言えません。時代が違いますし、ブラック企業の問題が頻繁に取り上げられる昨今でもありますし。それで結局、相談者にしてみればどうにも煮え切らないであろうお答えをするしかないのですが、一つだけ、これは時代にあまり関係なく心に留めておいてもいいんじゃないかなと思えることをアドバイスしています。

それは「職場の人間関係はバカにできない」ということです。

当たり前のことなんですけど、仕事は一人でやっているわけではありません。それはフリーランスの一匹狼だって同じです。だから、一つの職場で働いているときに、いろいろな人と繋がって協同していることを意識するのはとても大切だと思います。同じ会社の人間だけでなく、取引先の人、出入りの業者さん、メールや電話でしか話したことのない関係各所の人……。

働くということは、ある意味そうした人間関係を構築し、広げていくことです。ときどき「こんな会社、いつでも転職してやる」ってんで、「腰掛け」的に仕事をしている方がいますが、そういう方は往々にして人間関係の構築が手薄に、あるいは功利的に(独りよがりに)なりがちです。「オレの居場所はここじゃない」「今はまだ本気出してないだけ」的な雰囲気は、驚くほど周囲に伝わる。そういう人は職場を通じた人間関係があまり広がっていかないように思います。

いっぽうで、本音では「オレの居場所はここじゃない」と思い「いつか転職してやる」と思っていたとしても、在職している間はとりえあず一所懸命に仕事に身を投じていると、会社内外に健全な(?)人間関係が広がっていきます。そしてその人間関係がいざ転職するときに思いもかけぬ効果をもたらすことがあるのです。「あの会社辞めるんだって? じゃあウチへ来なよ」みたいな分かりやすいものでなくても、何かしら手を差し伸べてくれる人が現れる。華人が好んでよく使う“緣分(緣份:ご縁)”というのは、こういうことなんじゃないかと思います。

やっぱりなんだか「新橋の居酒屋でくだまいてるオヤジ」みたいになってきちゃいました。それに“緣分”を期待するのだって功利的じゃん、と言われれば返す言葉はないんですけど。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_18.html

でも、さっきちょっと数えてみたら、私はこれまで掛け持ちも含めて十回の転職をしてきたのですが、そのうち自分で求職して(求人情報を見るとか、履歴書や職務経歴書を送るとか)得た仕事は二つだけで、あとはすべて“緣分”でお声がけいただいたものでした。その“緣分”に感謝していますし、それは少々口幅ったい言い方になりますけど、曲がりなりにも「腰掛けで仕事はしてこなかった」からかなと思うのです。

「立つ鳥跡を濁しまくり」で、喧嘩同然で辞めた職場も多いのですが、それでも仕事の姿勢をどこかで見ていてくださった方がいたから、今につながっているのかなと。「石の上にも三年」を無条件に信奉しなくてもちろんいいけれど、少なくとも「腰掛け」で職場の人間関係を疎んじた働き方だけはしないほうがいいんじゃないかなと思います(やっぱり新橋のオヤジみたいですね)。

郵便局の「変わらなさ」について

メールや宅配便、あるいはバイク便でほとんどのやりとりを行うようになってからというもの、街の郵便局に行くことはほとんどなくなりました。それでもたまにお仕事の請求書を郵便で送ってくださいというクライアントがいるので、年に何回かは職場近くの郵便局に出向くことになります。

郵便局ってすごく不思議な空間です。特に私が、これはもう数十年前から興味を持っているのは、局内がどうしてあんなに「ゆるカオス」とでもいうべき状態になっているのかという点です。窓口や制服などのデザインは統一されているのですが、カウンターから壁から天井から、あちこちに手書きのポスターやらPOPやら立体工作物やらが充満していて、特にその小学校の図画工作や夏休みの宿題を思い出させる工作物関係に、いつもしみじみと見入ってしまうのです。

それら工作物は、おおむね郵便局が取り扱う商品の宣伝・販促用であることがほとんどです。暑中見舞い用はがき「かもめ〜る」の季節なら段ボールや発泡スチロールで作られたカモメさんが、お歳暮の季節なら各地の特産物を紹介した様々なポスターに折り紙で作られた雪だるまや羽子板やおせち料理が……ってな感じで、何というのかなあ、中学校の文化祭を彷彿とさせる雰囲気に満ちているのです。

最近はあまり郵便局に行かないのでそれほど詳しくないのですが、以前フリーランスで働いていたときは各種書類の発送や、あと副業的にやっていたAmazonマーケットプレイスの出荷などであちこちの郵便局に行きました。局によっていろいろ差はあるのですが、おおむねどこもこうした手作り感満載の「作品」があふれていたように思います。これはアレですかね、日本郵便の本社営業部から、そうした手仕事で顧客をつかめ! というような指示が全国の郵便局に出されているのかしら。

今日も今日とて郵便局に行きましたら、相変わらずの「ゆるカオス」ぶりな上に、カウンターの上にはこんなものがありました。

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この「期間限定」の「触診キット」が、かなり異彩を放っています。黒いケースと、隣のアヒル(?)のぬいぐるみもカオス感たっぷり。

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あまりしげしげと眺めるのも気が引けたので確認しませんでしたが、これはたぶん「かんぽ生命」の特約を宣伝するための販促ツールなんでしょうね。乳癌のリスクを理解して、もしもの時に備えましょうといった感じの。……って、この写真をわざわざ撮っている時点でじゅうぶんに怪しい人物かもしれません。「かんぽ生命」は今次の不正販売問題で保険商品の営業自粛を始めたそうですが、訪問や勧誘などの積極的な営業はしないものの、こうやって顧客が自ら「参加体験」する形なら大丈夫なのかもしれません。もっとも私はゴム製の乳房がカウンターに置かれていただけでけっこうたまげましたが。

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https://www.irasutoya.com/2015/04/25282.html

郵便局では請求書を普通郵便で送って切手代82円を支払いました。ふだん現金をほとんど使わない生活なので「Suicaとかカードで支払いできないですよね」と聞いてみたんですけど、「そういうのにはまだ対応してないんです」と局員さんからすまなそうに言われました。なんかこう……いろいろと変わらないなあ、と思ったのでした。

「つるっつる」をめぐって

先日、学校の教員室に中国人留学生の男性(二十歳くらい)が課題のレポートを提出に来たんですけど、その彼が帰ったあとに同僚の教員がこんな声をあげていました。「脚がつるっつる〜!」

なるほど、蒸し暑くなってきたこの時期、留学生のみなさんはより快適なショートパンツ姿に移行しつつあるのですが、その彼に「臑毛(すねげ)」がほとんどないので、思わずそう叫んでしまったよし。日本の男子には臑毛の濃い人が多いですから、くだんの中国人留学生の脚が際だって見えたわけですね。それで私が「確かに中国の、それも北方の男性は臑毛の薄い人が多いように思います」と言ったら、「えええ、そうなの?」「どうして?」と矢継ぎ早に聞かれて、こちらも返答に困りました。

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https://www.pakutaso.com/20180746193post-16780.html「ぱくたそフリー素材」さんから。

別に統計などの根拠があるわけじゃなく個人的な感想ですが、中国の北方、つまり北京とか、それより北の「東北三省」などの男性は臑毛など体毛の薄い方が多いみたいです。かつて中国の天津(個々も北方に属します)に留学していたときも、その後会社で中国人の同僚と一緒に仕事をしていたときも、確かに北方出身の中国人男子は「つるっつる」な方が多かった記憶があります。

これはたぶん人種的な体質の特徴ということになるのでしょう。試みにネットを検索してみたら、Wikipediaの「モンゴロイド」の項にこんな記述がありました。

モンゴロイドは、寒冷地域に適合した体質として、比較的体格が大きく、凹凸の少ない顔立ち、蒙古襞(もうこひだ、目頭の襞)、体毛が少ないこと(特に男性のひげの少なさ)などの特徴を持っている。

へええ、「新モンゴロイド」の特徴なんですね。寒冷地方に適合するなら体毛が濃い方がよさそうな気もしますが*1、確かにこの項に載っている区分地図を見ると、中国大陸に多い人種と日本列島に多い人種は異なっているようです。というか、日本列島では様々な特徴を持つ人種が入り交じっているらしい。ただこの地図では中国大陸のほとんどが「新モンゴロイド」に区分されているので、臑毛の薄い人が中国北方に特徴的に多いという説明にはならないのですが。

臑毛もヒゲも濃い私は、だから北方系じゃなくて絶対に南方系ですね。ええ、見てくれからして自分でも南方系だと思いますもの。中国や台湾に行って中国語をしゃべっていると、たいてい「東南アジア系の華人」と認識されます。日本人的な面立ちでもないということですかね。沖縄の方に「沖縄にはアンタみたいな顔の人がいっぱいいるさ〜」と言われたこともあります。

ちなみに華人のみなさんに「日本人男性の見分け方」を教わったことが何度かあります。みなさんによれば「日本人男性かどうかは『もみあげ』を見れば分かる」というのです。もみあげの下あたりが青々としていたら日本人だと。なるほど、これも新モンゴロイドと違ってヒゲなどの体毛が濃いから、もみあげも濃いし、もみあげの下の剃っている部分も青々としていがち……ということなのかな。

それともうひとつ「日本人男性は、顔などに小さなほくろが多いからすぐに分かる」と言っていた人もいました。えええ、そうかなあ。日本人にだって新モンゴロイド系の方はいるでしょうから、一概には言えないような。でも確かに、新モンゴロイド系の中国北方の男子にはあまりほくろがないような気もしてきました。今度じっくり観察してみよう……って、留学生のみなさんから怪訝な眼で見られるかもしれませんが。

*1:Wikipediaの「新モンゴロイド」の項には「氷着を防ぐため体毛は少なく頭髪が直毛である」との記述がありました。

スマホがあってもお困りの外国人観光客はいるみたい

日ごろ東京都心のターミナル駅新宿駅や渋谷駅の周辺を移動していることが多いのですが、駅の改札や地下通路の周辺地図などの前で、スマホやガイドブックを片手に困っているご様子の外国人観光客をしばしば見かけます。

私もこれでなかなかの小心者なので時と場合によりますが、そういう方々に声をかけることがあります。「めいあいへるぷゆう?(May I help you?)」とか「しゅぃやおばんぢゅーま?(需要幫助嗎?)」とか。たいていは地下街で迷っちゃったとか、どの地下鉄に乗ればいいのかわからないとか、あるいはこの店に行きたいんだけど……といった「お困り」のようです。

私も海外を旅行する時は同じようにスマホを片手にあれこれ検索しながら歩き回っているので、お困りの気持ちがよく分かります。方向音痴ではないけれど、やはり土地勘のない場所では自分がどこにいるのかさえわからなくなってしまうことがあるんですよね。あるいは向かっている方向が正しいのかどうか判断できないことが。

ただ少々解せないのは、みなさんスマホを持っていて、例えばGoogleMapみたいなアプリも使っているのに、それでも迷っちゃうという点です。GoogleMapの、とりわけルート案内機能はかなりの優れもので、単に道順だけでなく公共交通機関の時刻なども教えてくれます。私はこれで台湾や北欧などの初めて降り立った街でもほとんど問題なく歩き回れているのですが、なぜみなさんお困り状態に陥ってしまうのかと。

先日は新宿の地下街で「バスタ新宿新宿駅南口にあるバスターミナル)」に行きたいんだけど……という欧米系のご夫婦に遭遇しました。あれこれ迷って京王新線新宿駅のはずれの方まで来てしまっていて、ちょうど私は新宿駅南口に行く途中だったので「バスタ新宿」までご案内しました。歩きながら「地下街が複雑でしょ?」と聞いたら「そうそう、本当に!」とおっしゃっていました。地下街にいたからGoogleMapが使えなかったのかな? あるいは多くの外国人観光客から指摘されている日本の貧弱なフリーWi-Fi環境ゆえに検索できなかったのかな?

また別の日には、表参道で中国人(北京からとおっしゃっていました)観光客のご一家に遭遇しました。駅の改札に切符を入れても出られないので困っていたのですが、どうやら30円ほど料金が足りず、精算機での清算が必要なご様子。それで私が精算機のそばで説明して差し上げた(たまたま改札には駅員さんが不在でした)のですが、精算機の操作もまた複雑で、どこに切符を入れればいいのかひとしきり混乱しました……。

まあ確かに、あの精算機は分かりやすいとは言えないですね。東京の地下鉄の、東京メトロ都営地下鉄の区別も外国人観光客には分かりにくい。それでも精算機は一応多言語対応になっているし、落ち着いて対処すればそれほど混乱しないんじゃないかな? と思うのですが、やはりこれも初めての場所ではいつも以上に混乱して、お困り状態に陥ってしまうのかもしれません。

さらにこの中国人のご家族は、南青山の某ブランドショップに行きたいとのことで、ご自分のスマホのGoogleMapでその場所を示されました。これもたまたま私が向かう方向と同じだったので、その店の近くまで一緒に歩いて「あそこですよ」とお教えして別れたのですが、あとから私は「GoogleMapで場所が分かっているのに、どうしてお困り状態に陥るのかな?」と思ってしまいました。このご家族はさらに「ここから銀座は近いの?」とか「浅草まで歩いて行ける?」とか色々と質問をしてこられたのですが、う〜ん、正直スマホがあってGoogleMapがあれば一目瞭然なのにな……とやや不可解な思いをしました。

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https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_216.html

その時にふと考えたのですが、ひょっとするといくら便利なスマホがあっても、やはり使いこなせないとか、方向感覚がわからないとか、距離感がつかめないとか、そういう方は多いのかもしれません。私自身は、方向感覚というか空間認識というか、そういうのは比較的強い方なのでよく分からないのですが、人によりそういう方面にめっきり弱いということはあり得るのだなと。

だからって、じゃあこれ以上どうすればいいのかという妙案はちょっと思いつきません。特に東京の公共交通機関の複雑怪奇さは日本の方にだって手強いと思いますし。ただ日本がもう少しキャッシュレスのインフラ整備に力を入れるべきだとは思います。例えばフィンランドなど公共交通機関共通の切符をスマホアプリから買えるサービスが普及しています。一回限りのチケットも、一日券も、お好みの日数だけ乗り放題のチケットも、その場でスマホからカード決済で買えて、スマホ画面のQRコードがチケットになるのです。

日本はプリペイド接触式カード(Suicaなど)が普及していてこれはこれで私は大変便利なシステムだと思いますし、外国人観光客にもお勧めしたいですけど、その購入の仕方はまだちょっと面倒です。訪日外国人向けのSuicaも発売されていますが、販売場所が限られているのがちょっと痛い。かなり広範な場所で買えるようにしないと、あまり便利ではないように思います。

https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190221.pdf

www.watch.impress.co.jp

それと、GoogleMapがあっても目的地へたどり着けないタイプの方については……これはもう仕方がないですね。人には色々と向き不向きがあります。私も自分が不向きなことは人様に色々と助けてもらっていますから、これからもお困り状態とお見受けした外国人観光客にはできるだけ声をかけてみようと思います。

「話し方の訓練」をしているのかな

昨日は台湾の某テレビドラマに関連した「ファンミーティング」のお仕事でした。ドラマに出演している俳優さんたちが来日して、ファンとの“互動*1”をしたり、フォトセッションをしたり、握手会をしたり……。これまでにも何度もこうしたお仕事をしてきましたが、なにせ華やかなエンタテインメントの世界のこと、いつも「私みたいなおじさんが舞台に出ていっていいのかしら」という不安が抑えきれません。

でもそこはそれ、ファンのみなさんの眼は舞台上の俳優さんやエンタテイナー性抜群の司会者さんにくぎづけなので、通訳者などまったく気になさらないはず(文楽や歌舞伎の黒子のようなものです)……と心に念じて舞台に出ます。それにまあ、ファンミーティング自体はとてもポップな雰囲気で、みんなで一緒に盛り上がろうという感じなので、こういうお仕事を初めて頂いた十年ほど前はともかく、今ではあまり緊張しなくなりました。

それよりもっと緊張するのは、イベントに先立って行われるメディア取材です。こちらは囲み取材や一対一のインタビューなどがあって、かなり細かい質問も出されるので、予習が欠かせません(まあどんなお仕事でも予習が八割・九割ですけど)。今回も全部で三十時間ほどあるドラマ全編を見て、ネットであれこれの情報を集めて本番に臨みました。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_648.html

こうしたインタビュー通訳、先程パソコンのハードディスクを検索してみたら、最初に担当したのはもう十四〜五年ほども前のことでした。時が経つのは本当に早いです。またご本人を目の前にしてのインタビューの他に、芸能ニュースやバラエティ番組などでの発言を字幕にする仕事もずいぶんやりましたが、そのたびに感じるのは、台湾の俳優さんたち、それも年若いアイドルのみなさんが、いずれもかなりきちんとした話し方をされることです。

イベントの舞台上やバラエティ番組でのトークなどでは結構くだけたカジュアルな物言いをしていても、いざメディア取材とかインタビューの席になると、みなさんかなりきちんとした……というか、真面目なというか、ある意味「優等生的」というか、でもだからといって上っ面だけの薄っぺらい感じも少なく、あまり言いよどむこともごまかすこともなく、真正面から堂々と話されるのです。

もちろん、日本という「アウェイ」の外国に来ての発言だから多分に「よそ行き」のテイストは加わっているのかもしれません。通訳を介した会話だから、ふだんのノリが幾分かは抑制されるということもあるでしょう。例えば台湾の芸能ニュースで、台湾メディアの取材を受けている時の話し方を観察すると、「ホーム」での安心感もあるのか、多少はカジュアルな話し方に針が振れているような印象を持ちます。それでも基本、アイドルであろうと硬派の俳優であろうと、みなさんかなりロジカルにハッキリと自分の考えを述べるのです。

翻って日本のアイドルや俳優はどうかというと、このあたりの「訓練」、つまり話し方の訓練をあまりされていないような感じがします。もちろん個人差はありますが、なにかこうフィーリングというかその場のノリで感覚的なことを話し、あまりロジカルではない印象を持つのです。これはエンタテインメントの世界だけでなく、例えば野球やサッカーなどの選手に対するインタビューでも感じることです。

ただ、これも上述の状況とは逆に日本という「ホーム」での取材だから、多分にカジュアルになっているのかもしれません。日本のみなさんとて、海外で海外メディアの取材を受けるときにはそれなりに「よそ行き」になるのかもしれません。またここには主語が曖昧で、かつはっきりと言い切ることをどちらかというと避けたがる日本語の特徴が現れているのかもしれません。そこが英語同様に主語と動詞を先に出して「旗幟鮮明」にしたがる中国語との違いなのかもしれません。

さらに言えば、私にとって中国語は畢竟外語なので、そのぶんバイアスがかかっていることも考えられます。私は日本の映画やドラマに出てくる俳優さんの演技がとにかくリアリティがないので常々「毒を吐いている」のですが、これもまた自分が日本語の母語話者であるがゆえに、評価が厳しくなっている可能性がありますよね。

だから日本人はこう、華人はこう、と雑駁に決めつけることはできないのですが、かなり軽いノリのアイドルでも、正式なインタビューとなると「キリッ」とした面持ちで堂々とロジカルなことを述べる、述べることができるのはなぜなのかなといつも感じているのです。これはまた、常日頃華人留学生と接していても感じることです。小中学校や高校などで、こうした話し方の練習、あるいは意見表明の訓練を重ねているのかな? こんど留学生のみなさんにじっくり「インタビュー」してみたいと思います。

*1:interaction を意味する中国語です。ファンとの交流くらいのニュアンスです。

あの「薄いビニール袋」を何とか避けたい

通訳クラスで、フランスの留学生と話していたら、「どうして日本のお店は包装が過剰なのか」という話題になりました。そのフランス人留学生は「日本のパンも大好き」なんだそうですが、日本のパン屋さんでの、パンを一個一個袋に入れて、それをまたビニール袋に入れて……みたいなサービスが異様に映るみたいです。「フランスでも包装はするけど、薄い紙にくるくるっと巻くだけとか、中にはバゲット一本買ってそのまま持って帰る人もいます」とのことでした。

へええ。そういえば、子どもの頃に絵を習っていた先生はイタリアやフランスでの生活が長かったのですが、「長いフランスパンを買って、それをステッキがわりにして家まで返る」というジョークとも実話ともつかないような話をしてくれたことを思い出しました。「家に帰ったら、地面についていた部分をちょこっとナイフで切って捨てて、あとはそのまま食べちゃう」って。

それはさておき、留学生の観察通り日本のお店の包装は確かにちと過剰ですね。「おもてなし」といえば聞こえはいいですが、単に資源の無駄遣いのような気もします。雨の日には紙袋にビニールまでかぶせてくれるデパートなど高級店だけでなく、普通のお店でも黙っているとどんどんパッケージングが昂進していきます。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_781.html

行きつけのスーパーでも、肉や魚のトレーをはじめ、バラ売りの野菜や、冷蔵物の加工食品類(パック詰めされている豆腐とか練り物とか)など、ひとつひとつあの薄い半透明のビニール袋に入れてくれます。たぶん水分が漏れるとか湿り気があるとかの食品すべてにそういう対応をするというコンセプトなんでしょうけど、あれは実に「もったいない」と思います。

というわけで、レジでそういうサービスは不要である旨を伝えるんですけど、これがまた難しい。「その薄いビニール袋はいりませ……」と告げる間もなく、レジの店員さんはとにかく目にもとまらぬ速さの超絶技巧で薄いビニール袋を取り出し、次から次へとばんばか放り込んでいくのですから。

「レジ袋」なら言葉が短いですし、エコバックを掲げて見せたり、レジにある「レジ袋不要カード」を買い物かごに入れておけば事足りるんですけど、言葉としても長い「薄いビニール袋」が意外に難しい。行きつけのスーパーでは「レジ袋不要カード」を提示してもあの「薄いビニール袋サービス」はしてくれちゃいますし、しかもレジの店員さんは、その忙しい作業の中でも次々に薄いビニール袋を細長い棒状にたくし上げる加工をしており、より短い時間で食品を放り込めるよう虎視眈々と待ち構えているので、こちらも気が抜けません。

かといって「とにかく一切のビニール類は要りません!」と最初に宣言しちゃうのも、なんかこう「イデオロギッシュ」な感じがしてヤなんですよね。「じゃあ」ってんで一個一個「テープ貼りますね」攻撃されちゃうのも面倒だし。あああ、なんかこう、過剰な包装を一発で避ける妙案はないかしら。だって毎日のことですからね。

そういう意味では、最近増えてきた「セルフレジ」に期待をしています。自分の好きなように持って帰れますし。早く技術が進化して、買い物かごに入れたまま一括で値段を読み取れるようになったらいいな。そうすれば買い物かごにあらかじめエコバッグをかぶせておいて、そこに品物を入れていき、最後に一括清算(しかもキャッシュレスで)! とっても気持ちいいと思うんですけど。でもそうなると、それを実現するためのタグやなんかが大量に必要で、これはこれで資源の無駄遣いになるかな?

日本語はメチャクチャだけれど英語はバッチリ

ネットで調べ物をしていたら、おもしろいCM映像に出くわしました。外語学習教材「ロゼッタストーン」の宣伝です。


www.youtube.com

昔懐かしい「ガングロ」あるいは「ヤマンバ」の「ギャル」がお二人登場してこんなことをしゃべります。

それメンディーじゃねぇ?
卍メンブレ。もうケツカッチンだからソクサリするわ。
(電話がかかってくる)
Sorry, I’m in the middle of something. Call me back later.

このあと、「日本語はメチャクチャ 英語はバッチリ」というナレーションが入って、要するにこの「ギャル」お二人は、ロゼッタストーン・ラーニングセンターで学んでいて英語が堪能だったという設定です。

「メンディー」はたぶん「面倒」のことだろうなと想像しました。「卍(まんじ)」は一時期流行りましたね。「ケツカッチン」はもうかなり昔の言葉ですし、「ソクサリ」は「即立ち去る」なんでしょう。「メンブレ」だけ分からなかったのでネットで調べたら「メンタルがブレイクする」ってことで「精神的につらい」なんだそう。

www.weblio.jp

あ、いやいや、そういう若者言葉(?)がおもしろかったんじゃなくて、日本語は滅茶苦茶だけれども英語は流暢という設定が興味深いと思ったのです。

外語は母語以上に伸びることはない、つまり母語でも言えないような複雑で高度なことは外語ではもっと言えない、というのが一般的な認識だと思いますが、最初母語だった言葉を外語が上回って、外語が母語(に近い状態)になるというケースはあり得ます。例えば幼少時に言語環境が変わって、母語をすっかり忘れてしまうとか。

ただこのCMのお二人のようにティーンエージャー、あるいは成人してから「逆転」するというのはなかなか難しいと思います。が、それでも絶対に不可能だとは言い切れないかもしれませんね。昨今は英語の早期教育をという声が朝野をあげてかまびすしいですし、そのために一家揃って海外移住という方もいらっしゃるようですから。

ただそうやって「逆転」ないしは「転換」に成功するのは非常にレアなケースで、むしろ多くの場合は母語も外語も中途半端で虻蜂取らずの「セミリンガル(ダブルリミテッド)」と呼ばれる状態に陥る危険があります。またそもそも、そういった言語の逆転や転換がはたしてご本人にとって、あるいは家族にとって幸せなことなのかどうかという点も一考に値すると思います(大きなお世話かもしれませんが)。

上掲のCMは「日本語はメチャクチャ」だけれど「英語はバッチリ」という状態にプラスの評価を与えているわけですけど(でなければ宣伝になりませんね)、この設定自体に、日本語母語話者の外語(とりわけ英語)コンプレックスと、背後に見え隠れする「セミリンガル」の危険とが感じられて、実に怖いCMだなあと思いました。

そして母語より外語が洗練されているという状態を肯定的に捉える視点、つまり侵略や植民地支配やグローバリゼーションなどの中で元々使われてきたその民族の母語よりも英語のほうが優勢になってしまった国々のことも思い出しました。日本もそうなってほしい、そうなっても構わないという発想がこのCMにも感じられて、その点でも怖いなあと思ったのです。

早期英語教育で幼少時から英語をたたき込めば「グローバル社会で活躍する人材になれる」……そう親御さんもご本人も考えるのかもしれません。でもそれは最悪「虻蜂取らず」になるし、ならなくても単に「英語の人」を作り出す可能性が大きいんじゃないかなと思います。まあ日本語を捨てて「英語の人」になっちゃっても勿論いいんですけど、私が親だったらそれはちょっと寂しく感じますねえ。

qianchong.hatenablog.com

おいしすぎて、おいしくない。

毎日毎日炊事をしていると、ときに「ああ、今日は仕事でひどく疲れたから、手抜きしようかな」という気分になることがあります。そういう時は「もう鍋にしちゃえ」ってんで、しゃぶしゃぶ用豚肉と白菜と葱と豆腐あたりを水炊きにしてポン酢だけで食べたりします。お湯だけの水炊きだと何となく寂しいので昆布を敷いたりはしますけど……。

炊事が好きな人にとっては、食事を作って食べて片付ける過程そのものがある種ストレス発散の方法でもあるので(たぶん。少なくとも私はそうです)、どんなに疲れていても忙しくても何か手を動かして作りたくなるんですよね。よしながふみ氏のマンガ『愛がなくても喰ってゆけます。』冒頭に出てくる「締切間際なのに料理に一手間かけちゃう」というこのシーンには、だからとっても共感できるのです。

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愛がなくても喰ってゆけます。

だけど、それでもたまに、しんどくなって何も作る気力が出ないことがあります(年に数回もありませんが)。炊事に倦んだのなら、外食するとか惣菜を買って帰るという選択肢もあるんですけど、まず外食は、特に東京のそれは、もう私にとっては味が濃すぎて食べるのがつらくなってしまいました。ほんの少し前まではおいしいラーメン屋さんの食べ歩きなどしていたというのに、最近はほとんど行っていません。

qianchong.hatenablog.com

お惣菜は、デパ地下なんかで売られているお惣菜などとてもおいしそうだし、実際確かに珍しい食材なんかもあっておいしいんです。けど、これはなかなか言語化が難しいのですが「おいしすぎて、おいしくない」のです。外食同様に味が濃すぎるというのもありますが、それ以上に味が複雑すぎるというか、いろいろな味がしすぎるというか、食べてて疲れちゃう感じ……。

う〜ん、やっぱりうまく言語化できないなと常日頃から思っていたのですが、先日Twitterでこんなツイートを拝見しました。

なるほど、「うんざりするような味」と。別に添加物がたくさん入っているとか、どこかケミカルな味がするとかではないのに「食べてて疲れちゃう」感じにぴったりなような気がしました。いえ、だからって素材そのまま食べときゃいいなどと野性的なことを言うつもりはありません。

私だって例えばカレーを作るときなど、手持ちのスパイスや調味料なんかを「フリーダム」な感じでいろいろ加えて複雑な味に持って行きます。だけど、市販のレトルト食品や冷凍食品などには「うんざり」しちゃうのです。昨今のレトルト食品や冷凍食品はとっても「進化」していておいしいぞ、バカにできないぞって友人には勧められるんですけど……。

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https://www.irasutoya.com/2013/11/blog-post_2986.html

日本統治時代の台湾におけるハンセン病患者隔離政策

昨日、元ハンセン病患者家族への賠償を命じた熊本地裁判決について、政府が控訴しない方針を決め、安倍首相が「異例のことではありますが、控訴をしないことといたしました」と表明しました。「異例のこと」に引っかかりますし(当然のことだと思うので)、参院選におけるポイント稼ぎじゃないのかという意見もありますが、私はひとまずはよかったと思います。

この件に関して、今朝の東京新聞には小さなこんな記事が載っていました。台湾における日本統治時代にもハンセン病患者への隔離政策は行われており、日本政府は日本の患者家族へ正式に謝罪するとともに台湾の患者家族にも謝罪すべきだとする支援団体の訴えを報じたものです。

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この記事を見て、昨年訪れた台湾の離島・澎湖諸島の、そのまた離島の望安嶼の、そのまたまた離島の馬鞍山嶼を思い出しました。

qianchong.hatenablog.com

この小さな島は、日本統治時代に政府が痲瘋病(ハンセン病)の患者を隔離した場所です。患者を棄民したまま、あとは本人の自活に任せたという、かなり非人道的な政策だったと友人が説明してくれました。ネットであれこれ検索するとその通りの記述が見つかりますが、一方でこちらの「Penghu.info」というウェブサイトの説明によると、患者の隔離ではなく「患者に死者が出た場合に、この島に遺棄して何の処理も行われなかった」ということです。いずれにしても非人道的な政策ですが……。

馬鞍嶼為八罩島附近面積最大的無人島,日治時期,水垵及中社兩村若有罹痲瘋病身亡者,便即時入殮,使用小船載運其棺木至該嶼北岩塊西南方的「山坑壁」(即「港仔」),再由多人扛至附近的「哈潭墓」邊,棄置後並未將其埋入地下,人船便即刻駛回。此後全村須斷炊十日,其意乃防範病菌藉由炊煙散播。至台灣光復後已不再採此方式處置,且因治療得當,痲瘋病已近絕跡。

penghu.info

こうした隔離政策は世界のあちこちで行われていました。クレタ島の沖にある「スピナロンガ」もそうですが、こうした離島のそのまた離島といったような場所が使われたんですね。

先日、教材を作成している過程で偶然、こちらの動画がYouTubeにあるのを見つけました。日本による台湾統治は1895年に始まりましたが、それから45年ほどを経て作られた「国策記録映画」です。その間の統治で台湾が(日本によって)いかに発展したかを強調し、日本における台湾の重要性を宣伝するための映画。1940年といえば日本を巡る国際情勢はかなり緊迫して来ていた時期ですが、この映画は(当然ながら)全体にとても明るい前向きなトーンで作られています。

youtu.be

でもこの映画には決して描かれないその影で、タパニー事件や霧社事件があり、また上述のようなハンセン病患者への隔離政策も行われていたわけです。こうした日本統治時代のことを私たち日本人はもっと詳しく知らなければならないと改めて思いました。

対等な言葉遣いについて

BLOGOSに載っていた岩田健太郎氏のこちらの記事に共感を覚えました。いわゆる「言葉狩り」や教条主義的な語源重視(と、そこからの批判・批難)に対して、それは短見かつ「つまらぬこと」であり、言葉の差別性は言葉の表現のされ方よりもその言葉を使う人間の心性にこそ宿っているのだという点。そして、そんな言葉狩りよりも着目すべきは、リアルな場面での差別的な言葉の使い方だという点。特に後者は、私も常々違和感を抱いていたので思わず「その通り!」と快哉を叫びました。

blogos.com

岩田氏は「特権的な立場がある、と信じ込んでそれを態度に示すのが差別である」とおっしゃっています。その実例として挙げられていたのは「初老の男性が若い女性の空港職員をつまらぬ問題で怒鳴りつけていた」というもの。確かに時折私もこうした激昂おじさん(たいがいは初老のおじさんです)を目撃することがあります。

が、私はこのような激しいものだけでなく、普段の生活の中で客側がお店側に対して「です・ます」を使わず、いわゆる「タメ口」で対応している場面に接するときも、そこに同根の心性を見出して、いささか心が曇るのです。先日も行きつけのスーパーのレジで、私の前にいたおじさんが飲料のペットボトル一本だけをレジ台に置き、「袋はご利用ですか」と聞いた店員に対して「いらねえよ! テープ貼れ!」と怒鳴っていました。

なぜ「けっこうです」とか「テープでいいです」などと言えないんでしょうね。まあこれは極端な例ですが、他にも例えば飲食店などで「水持ってきて」とか「会計してくれる?」みたいな店員への命令口調、あれも私は苦手です。カネを払っている立場だから、「タメ口」や「上から目線」でも構わないと決め込むその感性がなんとも粗雑だと思うんです。だから普段から尊敬している人や好意を持っている人にそういう一面があることが分かった途端、一気に幻滅し、百年の恋もさめちゃいます。

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https://www.irasutoya.com/2015/02/blog-post_670.html

岩田氏は「『お願いします』『ありがとうございます』『すみません』というコトバを使えない中高年男性は非常に多い(中高年の女性にも少なからずいる)」と書かれています。そんなに多い? と思うでしょうか。いやこれが存外多いんです。ふだんはいたって丁寧な話し方をしている人でも、レストランとかホテルとか、空港のロビーとか、比較的高額な出費をもたらす場所にいくほど、なぜか高圧的な方向に振れる人はけっこういます。

そしてまたこれは、年を取って、年齢の離れた若い方々につい「タメ口」や「上から目線」で接しそうになる自分を再発見して常々自戒としていることでもあります。特に教師などという職業をやっている人間は、常に「センセ」などと持ち上げられているから一番危ない。私は例えば知り合いの子供に対しても、基本的には大人に対するのと同じ口調で接したいと思っています。「〇〇ちゃん、〜だね」みたいな馴れ馴れしい口調が苦手なのです。

qianchong.hatenablog.com

もちろんこうした口調には一面「親密さ」も含まれてはいることはわかります。いつまでも「です・ます」では却ってよそよそしいとか水くさいなどと受け取る人もいるでしょう。でも少なくとも、お店の店員など初対面の人には基本的に丁寧な、というか対等な口調でありたいと思っています。

商品やサービスを受け取り、その対価を支払うという取引は、そもそもが対等な関係の上で行われるべきものだと思います。お金を払う側が偉いわけでもなければ、商品やサービスを提供する側が平身低頭しなければならないわけでもありません。これはフリーランスで働いていた時に強く感じていたことであり、いくつかの職場に勤めるようになった現在でも肝に銘じていることです。

僕が夫に出会うまで

七崎良輔氏の『僕が夫に出会うまで』を読みました。築地本願寺で初という同性婚の結婚式を挙げた氏の半生を綴るエッセイ。語り口は笑いあり涙ありとライトですが、ご自身の苦悩や葛藤や失敗までも赤裸々に公開する姿勢からは、世の中が本腰を入れてこの件に向き合ってほしいという強い思いを感じました。

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僕が夫に出会うまで

性的指向に関する知識やリテラシー、いや、もっと根源的に他者のありようについての寛容と共感は、現代に生きる人間にとって必須の資質だと思います。が、この本に登場する一部の学校の先生や警察官の対応の不見識、さらには日本社会の不寛容さには、読みながら少々我を失いそうになるほどの怒りを覚えました。しかもそれが年長者から若い人たちや子供たちに向けての攻撃であればなおさらです。NHKの某番組ではありませんが「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」と一喝したくなります。

いえ、日本だけではありませんね。先日はTwitterのタイムラインで「男の子用」「女の子用」というおもちゃの区別にこだわる親と、それをたしなめる他の大人たちの動画を見て、精神に染みついた固定観念の強さと恐さにあらためて深く考えさせられたところでした。そして自分はそうした不見識や不寛容、固定観念から本当に脱し切れているだろうかと、この本を読みながらあらためて自問したのでした。

七崎氏はこう言います。「気丈に振る舞おうとする子供たちの笑顔の裏にある悲しみや苦しみを、理解できないような大人ならば、そんな人間のアドバイスなどいらない」。この言葉も、現在教師という職業に就いている自分にはとても重い響きを持っています。それでも、この本にはそんな無理解な人を大幅に上回る数の、人の気持ちがわかる人、人の気持ちに寄り添おうとする意志を持っている人がたくさん登場します。苦悩や葛藤や失敗を綴りながらも、この本が一種の爽やかな読後感を与えてくれるのは、そうした人々の存在によるところが大きいのだと思いました。

折しもこの本を読んでいる時に、参院選の公示に合わせたテレビの党首討論公明党の山口代表がLGBTの権利に関する質問で賛意を示さなかったというニュースと、それに対する弁明のツイートに接しました。

ツイートに添えられた弁明の文章を読むと、その場で手を挙げなかった(挙げられなかった)のも無理はないかなと一瞬思いますが、よく考えてみればLGBTの人々であろうと誰であろうと、基本的人権が尊重されるべきという一点だけで「LGBTの法的な権利を認める(かどうか)」という問いにイエスと答えても何の問題もないように思われます。弁明では「『婚姻とは何か』といった、いまだ根本的に解決できていない重い課題が残っている」と述べられているにもかかわらず、このLGBTに関する質問の前にあった「選択的夫婦別姓を認める(かどうか)」という質問には挙手してイエスと答えているのですから。

選択的夫婦別姓は、それを認めることで誰も困らないという点で積極的に肯定されるべきだと思いますが、LGBTの法的権利についても全く同じだと思います。ニュージーランドの国会で同性婚に関する法案が審議された時のモーリス・ウィリアムソン氏の演説でも述べられているように、それを認めても「明日からも太陽が昇る」のです。

youtu.be

「法的な権利」という言葉があったために山口氏は躊躇したのかもしれませんが、諸外国でのLGBTに関する法制化の流れ、とりわけ最近の台湾での事例などからしても、大変失礼ながら勉強不足と言うほかありません。この本もぜひお読みになっていただきたいと思います。

体罰が日常的に行われた時代があった

台湾のネット書店で購入したアニメーション映画『幸福路上』のDVDを観ました。台湾の近現代史を背景にしたストーリーもさることながら、画面の隅々にちりばめられた様々な細かい描写のリアリティに「ああ、この雰囲気!」と身もだえするような懐かしさを感じました。

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幸福路上 - 電影DVD - | 誠品網路書店

その一方で、当然のことながら私がまったく知らない世界も描かれており、それはそれでとても興味深かったです。例えば小学校の授業風景。先生が長い棒を持って黒板を叩き「静かにしなさい!」などと怒鳴っています。職場で会う台湾留学生のみなさんに聞いてみると、子供の頃は当たり前に見られた風景だそうです。中国の留学生も「同じです」と言っていました。

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この長い棒は、時に体罰にも用いられたそうです。児童に、掌を上にして差し出させ、その掌を棒でピシャッと叩くのだそうです。なるほど、そういう光景を他の台湾映画でも見たような気がします。掌は皮が厚いので、多少強く叩いてもそれほどダメージはないという配慮もあるんだそうですが、それでも暴力は暴力ですよね。もちろん現在では行われていないそうです。社会通念的にもこうしたハラスメントは許されない時代になりましたし、親御さんたちだって黙っていないですよね。

留学生のみなさんからは「日本でも同じでしたか」と聞かれたんですけど、私の記憶している限り、長い棒を持ってパシパシ……というのはなかったですね。でも中学校の時は女性の先生が「ビンタ」をしてましたと言ったら、驚いていました。棒という道具すら介さない直接的な暴力ですもんね。確かにアレは異様でした。しかもその先生は、生徒を一列に並べて、端から順番にパンパンパンパン……とビンタを喰らわせていたのです。もう40年も前の話ですが、現在なら大問題になっていますよね。時の流れを感じます。そういう意味では、はるかにいい時代になりました。

『幸福路上』には、罰として廊下に立たせるというシーンも出てきます。これも現在では行われていないんじゃないかと思って留学生に聞いてみたら、「ひょっとしたら今でもやってるかも」と言っていました。

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そういえば最近観た台湾ドラマで、こちらは高校での描写でしたが、罰としてカバンを頭上に高く掲げ、膝を曲げた苦しい姿勢で長時間立たせる……というシーンが出てきました。あれがコメディドラマならではの誇張した表現なのか、それとも実際に行われていることなのかは判別がつきませんでしたが、ひょっとするとまだ「健在」なのかもしれません。

フィンランド語 42 …語幹の求め方の「棚卸し」

「語幹の求め方」を総復習しました。フィンランド語は動詞や名詞や形容詞などが様々な格(単数複数合わせて30種類!)に変化して細かい表現を成り立たせています。これはごくごく大雑把に言うと日本語の「助詞」の働きと同じなのですが、日本語が例えば「花・は」「花・の」「花・に」……など助詞を付け加えるのに対して、フィンランド語ではその言葉そのものが格変化を起こします。“kukka(辞書形:花は)”、“kukan(属格:花の)”、“kukalle(向格:花へ)”……のように。

名詞が格変化を起こすのですから、例えば人名だってどんどん変わります。“Pekka(ペッカ)”さんも“Pekan(ペッカの)”、“Pekalle(ペッカへ)”などと変わっていくのです。これら変化した言葉の最後についている“ーn”や“ーlle”などが格語尾で、その格語尾がつくのが「語幹」と呼ばれる「幹(みき)」の部分です。これまであれこれの格について、単語の辞書形から語幹を求め、そこに格語尾をつけて様々な表現をすることを学んできたのですが、ここいらで一度「語幹の求め方」を総復習してみましょう、ということになったのでした。

語幹が変化するのは、単語の最後が「ie子」の時だけです。「ie子」は「いえこ」と読んじゃっていますが、要するに単語の最後が「i」と「e」と「いくつかの子音」で終わる場合に語幹が変化し、それ以外はそのまま格語尾をつけて構わないということです。上述の“kukka(花)”や“Pekka(ペッカ)”は単語の最後が「a」ですから、語幹はそのまま“kukka”、“Pekka”です。ただし、格語尾がつくときに「kptの変化」が起こることはありますが(“kukka”、“Pekka”はいずれも「kk→k」という変化が起きます)。

qianchong.hatenablog.com

先生からは、この「ie子」が語尾にある単語の語幹の求め方と、「kptの変化」パターンは覚えちゃってくださいと指示がありました。覚えたらその部分は黒塗りにして、いちいち参照しなくてもすぐに作れるようにと。ううむ、なかなか厳しいです。それにしても母語話者はこうした変化をほとんど無意識のうちにできてしまうんですね。

まあ日本語でも私たちは「一本(ippon)、二本(nihon)、三本(sanbon)」のような変化を無意識にできてしまいますが、これは非日本語母語話者からすると驚愕の変化です。もっとも、こうした変化は「より苦労せず言いやすい形に」という一種の言葉の経済性に則っているわけで、そこがとても人間らしいなと思います。

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Ilma muuttuu lämpimäksi.

なぜリベラルは敗け続けるのか

岡田憲治氏の『なぜリベラルは敗け続けるのか』を読みました。政治学に関する岡田氏の著書はこれまでにもほとんど読んできましたが、この本では「安倍一強」を許した野党の誤りと、そしてかつてご自身も政治活動にさまざまな形で参加しながら野党同様に現在の状況を許した自分についての「悔恨と反省」から論が書き起こされています。そしてそれらはそのまま読んでいる私自身にも深く突き刺さってきました。

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なぜリベラルは敗け続けるのか

岡田氏は、政治は、特に選挙の結果というものは、極めてリアリスティックな判断と選択の末に当然の帰結として現れてくるものだとして、特に現状を憂う「リベラル」的立ち位置をよしとする人々はもっと「オトナになれ」、「友だちを増やせ」と語りかけます。本書の帯には目次が載せられていて、そこには「善悪二分法からは『政治』は生まれない」とか「『お説教』からは何も生まれない」などの章が並んでいますが、そのどれもが私には深く首肯できるものでした。

そう、端的に言って日本の政治がここまで劣化(あえて劣化と言いましょう)してきたのは、野党が離合集散を繰り返し、互いに反目し合って「小異を捨てて大同につく」ことをしてこなかったからです。今朝も新聞で参院選関係の記事を読んでいましたが、議席の現状や改選議席数などの数字を図解で示されるとあらためて驚きます。今回は一人区での野党共闘などが進められているようですが、ホント、民主主義がここまで破壊されている現状を前にまずは何をさておき、もっともっと「オトナにな」り、「友だちを増や」さなければなりません。

政治においてはつねに何かを決断し、限られた選択肢の中から何かを選ばなければいけないわけですから、その選択が自分と違うからといって、その人と自分との間に大きな違いがあるとは限りません。言ってみれば、政治的価値観、政治的選択というのは、心という大きな氷山の一角に過ぎないと思うのです。


つまり、海上に浮かぶ氷の姿だけに惑わされていたら、もっと本質的なところで共通点を見いだして友情を育むことなどはできないと思うのです。それでは政治においても、「多くの仲間を作る」ことはできないでしょう。


言い換えるならば「政治的スタンスとは、ある場面における、個別の判断と決断の表現であり、それゆえ人間の政治的な“展望”や“理想”とイコールではない」ということになるでしょう。(p.197)

これは政治の世界だけでなく、私たちの暮らしや仕事にも共通する思考と哲理ではないでしょうか。政治は(国政や地方政治のみならず、社内政治もマネジメントも、ひいては個々の人間関係だって)「友だちを増や」すことであり、いわゆる「左翼小児病」的な文字通りの「お子ちゃま」から粘り腰の「オトナ」へと成熟しなければならず、「友だちを増やさない政治は誤り」だと。なんと、デール・カーネギー氏が80年以上も前に『人を動かす』で言っちゃってたことじゃないですか。

先日終了した衆議院本会議で内閣不信任決議案が提出された際、反対に回った日本維新の会の某議員はこんな演説をしていました。

念のため申し上げますが、私たち日本維新の会内閣不信任決議案に反対と申し上げたのは、別に自民党公明党と行動を共にしたいからではなく、共産党と同じ行動を取るのが、死んでもいやだからであります!
https://www.j-cast.com/2019/06/25360943.html?p=all

引用するのも恥ずかしくなるほどの「お子ちゃま」な論ですが、このような議員にこそ、この本を熟読玩味し拳拳服膺していただきたいと思います。あと、私たちがこうした幼稚な議員を選挙で選ばないということもまた大切ですね。

この本には他にも政党の「綱領」と「公約(マニフェスト)」をきちんと分けて考えることや、一度身につけた信念を現実に照らして「学びほぐす」ことの大切さなど、多くの気づきに満ちています。折しも参議院選挙が公示されたこの時期、広く読まれるべき一冊かと思います。

遠い親戚の発言で体調をくずす

何年かに一度、何かの折に親戚が集まることがあります。それは結婚に際してであったり、あるいは葬儀に際してであったりするのですが、そうした集い——遠い親戚筋の人と会うような——に出席すると、そのあと数日は体調がすぐれません。もとより極度の人見知りであるため、そういう遠い親戚と他愛ない話をしたり、一緒に食事をしたりするのがとても苦手なのです。そんなに苦手な場に長時間いることで心身共に疲れ果ててしまうんですね。

人見知りと言ったって、赤の他人ではなく親戚の人々です。まったくの見知らぬ人たちではないのになぜ疲れるのかというと、時にまったく価値観の異なる人がいて、その言動に心揺さぶられる(悪い意味で)からです。全くの他人なら逆にその場で批判することもできますし、金輪際会うまいと決めればよいのですが、親戚筋だとそうもいきません。いや、親戚だろうが何だろうが批判すべきことは批判すべきですが、そこはそれ、その後のあれこれの影響を考えると、いくら短気で「イラチ」な私でもそう簡単に場をぶち壊すこともできません。

特に面倒なのが、私が中国語関係の仕事をしていると知って「いや君には悪いんだけどさ、俺はあの中国って国が大嫌いなんだよね」みたいなヘイト・トークかましてくる御仁です。悪いと思うなら黙っていて欲しいんですけど、日頃せっせと培養してきた黒い情念を吐き出す窓口が見つかったとばかりに、私に話しかけてくるのです。でも具体的に何が嫌いなのかを聞いてみれば、単なる予断と偏見だったりして、なかには中国に一度も行ったことがない人さえいます。逆に仕事や旅行などで中国をよく知った上での発言もありますが、たいがいは二十年も三十年も前の体験を元に話しています。

私は単に中国語を使って仕事をしているだけで、華人でもなければ中華人民共和国の代弁者でもありませんが、たまたま「当事者(?)」が目の前に現れたのでこれ幸いと「ひとこと言ってやろう」的な欲求が発動するのでしょうか。だいたい当事者が目の前にいたら普通は逆に遠慮してそうした言動をはばかるんじゃないかとも思いますが、ヘイト・トークをする人はそのヘイトの矛先にある存在に対しては「何を言っても構わない」と安全装置を解除しちゃう謎の行動パターンを持っていますから、こちらも気が抜けません。

そしてまた私も、そうしたヘイト・トークに毅然と反論することもなく「はは、そうですか……」と苦笑いをしてみたり、あまつさえ「確かに他はさておき、かの国の政治はちょっとどうかと思うこともあって、私もキライです」などと阿諛追従してしまうこともあったりして、あとから激しく後悔の念に苛まされるのです。そりゃその後数日は体調も崩れようというものです。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_116.html

私は人見知りではありますが、中国に住んでいたときには友人や知人が何人かいました。みなさんいい人でした。もちろん友人以外から手ひどい仕打ちを受けたこともありますし、だまされたことも多々ありますが、それは日本にいても同じこと。中国の知己からは、日本で生まれ日本の環境だけで育つ中で広がりを欠いていた自分のものの見方を大きく広げてもらいましたし、いろいろな人生の糧になることを教えてもらいました。仮に政治の世界がどんなに荒れようとも、私がいわゆる「嫌中」にならないのは、その人たちの顔が脳裏に浮かぶからです。

うん、決めました。遠い親戚筋の心ない言動で数日体調を崩したのちにこうやってブログに愚痴るのはやめて、今度そういうことがあったら空気を一切読まずに「そんなことを言うもんじゃありません」とか「一体いつの話をしてるんですか」などと言うことにします。なに、それで親戚との関係が悪化しても、そもそも数年に一回会うか会わないかの仲ですし、構いやしませんよね。