インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「♪You wanna 酔わないウメッシュ」

平日にほぼお酒を飲まなくなってから半年ほど。血圧はまだ「平常値」より若干高いですが、これでもかなり落ち着いてきました。いろいろ検証してみましたが、私の場合はやはり飲酒が血圧を押し上げる一番の原因のようです。

今でも夕飯時に何か飲みたくなる衝動が時々襲ってきますが、そんなときは強炭酸のミネラルウォーターを飲むことにしています。不思議なことに、いったんガス入りのミネラルウォーターで喉を潤してしまえば、もうあまりお酒を飲みたいと思わなくなるんですよね。つくづく、私の飲酒は惰性であったことが分かります。

お酒を控えるようになってから、電車内にはお酒の広告がやたらに多いことにも気づきました。特ににわかに暑くなりはじめたこの時期、夕刻にスカッと暑気払い的なビールやチューハイやハイボールなどの広告を見ると、これは確かに飲みたくなるよなあと思います。……などと客観視している自分も今では何だか新鮮ですけど。

ガス入りのミネラルウォーターの他に、チョーヤ「ウメッシュ」のノンアルコールも愛飲していました。缶に書かれている「完熟南高梅100%」で「酸味料・香料・人工甘味料を一切使用せず」ってとこに惹かれてなんですけど、氷を入れたグラスで飲み始めるときはその爽快感からあまり気づきませんが、しばらく経って口をつけてみるとやけに甘い。よくよく缶を見ると、人工甘味料は入っていないけど、砂糖は入ってるんですよね。梅酒だから当然ですね。梅酒を作るときは大量の氷砂糖を入れますから。

2020年の「アレ」に対する危機感

先日、ノンフィクション作家・安田峰俊氏のこの記事がTwitterのタイムラインに流れてきました。

bunshun.jp

わははは、同感です。でも日本代表が決勝リーグに進んだということで、新聞やテレビなどマスメディアではさらに大々的に報道が流れてきていますから、一見すると世の中「真っ青」に染まっているような気がするけれど、安田氏のように考えている方は今やけっこう多いんじゃないかと思います。

スポーツへの同調圧力という点では、私の子供時代はもっとひどかったように思います。特に男の子は野球かサッカーをやっていないとほとんど「仲間はずれ」「いじめ対象」の扱いでしたし、夏休みを返上で強制的にプールで泳がされましたし、就職した会社でさえ業界の野球大会に休日返上で有無を言わせず参加させられました。

今でもその傾向は依然根強いかもしれませんが、少なくともそれらを相対化する見方も市民権を得つつありますし、ハラスメントではないのかという批判もきちんと世の中で議論され始めています。上記の休日返上で野球大会なんて、大問題になりますよ(いまでもそういう文化は残っているのかな)。

現代はスポーツだけが至上の価値ではなく、オタクも腐女子もゲーマーも草食系もいて、それぞれがそれぞれの居場所とステイタスを持っていて、昔よりはよほどいい時代になりつつあるんじゃないかと思います。明るく「五輪反対〜!」とさえ言えますしね(今のところは、ですが)。

qianchong.hatenablog.com

私は職場でもプライベートでも「サッカーや野球にはこれっぽっちも興味ありません」というのを普段から公言していますので、まわりも気を使ってくださって、私にはそういう話題を一切ふってきません。ありがたい限りですが、それでもここんとこ、サッカーワールドカップで日本チームが快勝や辛勝を重ねて決勝トーナメント進出を決めたあたりから、さすがにちょいと同調圧力が増したような気がします。こういうとこ、スポーツ嫌いの人間は逆に敏感なんです。

例えば冗談めかして「徳久さんはこういう話題お好きじゃないでしょ」とわざわざ振ってくる方がいます。もちろん軽いギャグであり、悪気は全くないのです。私もそれは重々承知なのですが、サッカーワールドカップでなければそんな話題の振り方さえまずあり得ないですよね。昨日は確かフィギュアスケート羽生結弦選手が国民栄誉賞をもらったはずですが、「徳久さんはフィギュアなんてお好きじゃないでしょ」的に話題をふってくる方はいません。

これは端的に言ってフィギュアスケートが全国民的に応援すべき・されるべきスポーツ種目とは認識されていないからです。五輪などでメダルがからむときはさすがにニュースのトップになりますが、サッカーワールドカップの「大騒ぎ」と比べれば、やはりその規模がまったく違うでしょう。この点で、サッカーワールドカップは他とは少々異なる「危うい」側面を持ったイベントだと私は思います。ふだん充分に個人の自由を尊重してくれる知人でさえ,ちょいと諧謔で「こういう話題お好きじゃないでしょ」からかってみたくなるような何かを持っているという点で。

何を大袈裟なことをとおっしゃいますか。そうかも知れません。でも私は二年後に迫った、今次のサッカーワールドカップの比ではなさそうなあの巨大スポーツイベントのことを考えると、いくら杞憂といわれようとも憂鬱な予感を払拭することができません。よほどの心の準備をしておかなければ、熱狂的な同調圧力に心身共にやられてしまいそうな予感さえしています。私たちのこの国は、かつて大規模災害の際に流言飛語や集団的熱狂の末に犠牲者を出したことがあり、今また「非国民」という言葉が亡霊のように甦って最先端のヘイトと結びつきつつあることに敏感になっておかない理由はありません。

2020年の「アレ」はひょっとすると私たちに予想もしなかった影響や副作用をもたらすかもしれません。楽観的な夢や「レガシー」や経済効果やらばかりが先行する中、報道にもポツポツと現実の懸念材料があがりはじめています。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2018062702000174.htmlwww.tokyo-np.co.jp
www.yomiuri.co.jp

常識で考えればそんなバカな話はあり得ないはずなのに、そのバカな話が実際に起こり続けているのがここ数年のこの国のありようです。あり得ないほどバカな話が現実に起こる可能性は誰にも否定できません。「アレ」は、半世紀以上前の同じイベントとはまったく違う世界の中で開かれるのだということに、もう少し危機感を持った方がよいのではないか、自分自身に再度そう言い聞かせるつもりでここに書いておこうと思います。

f:id:QianChong:20180608072315j:plain

ちっともビジュアルでない料理本に惹かれる

料理本が好きで、書店に立ち寄るといつもあれこれ眺めてまわっています。実際に購入することは少ないのですが(すみません)、それでもさっき本棚にある料理本を数えてみたらおよそ五十冊ほどありました。これでもずいぶん断捨離して手放したのですが……。

料理本を眺める楽しみはもちろん、その美味しそうな料理のカラー写真や、あれこれ想像がふくらむ手順写真をひとつひとつ追っていくことなのですが、最近どこかでどなたかがお勧めしているのを読んで(ネットで見たのは確かですが、ついに思い出せず)買い求めた『長尾智子の料理1,2,3』は、それとは真逆の料理本ながら、とても深い印象を残す名著でした。


長尾智子の料理1, 2, 3

暮しの手帖社刊ですが、雑誌『暮しの手帖』に載ったものではなくて全て書き下ろしの料理エッセイ。料理にまつわる話題が中心でありながらも、レシピあり(若干のモノクロ写真も入っています)、食と暮らしへの提言あり、料理道具についての考えあり。総じてシンプル、かつ素材、特に野菜の持ち味重視が前面に出ていて、共感する項目がたくさんありました*1

私はここ数年「外食」というものからかなり遠ざかってしまいました。それは経済的な考慮や、騒々しさやタバコの煙など周囲の環境に疲れること、そして歳を取って外食の濃く複雑な味が苦手になってきたからでもあります。そんな自分の状況が、とりわけこの本に控えめな筆致ながら通奏低音として流れている「食を自分の手に取り戻す」というスタンスにぴったりとはまったような気がしました。

こう言っては大変大変失礼ながら、文章にそれほど工夫があるわけではないのです。唐突に始まり唐突に終わる印象の一文もあります。自分だったらもっと前提の状況を書き込んだり、読者にちょっとしたサプライズを与えようとか「意外な視点」を提供しようとかして文章をこねくり回すところです。でも長尾氏の文章にはそれがない。そのかわり、登場する食材や調理器具や暮らしの断片自体がとても饒舌で、読み手に「ああ、料理したい……」という気持ちを起こさせるのですね。それはもう、見開きのシズル感あふれるカラー写真よりもさらに強く。

暮らしの一部として料理をすることの意味とその大切さを、静かに、深く解き明かしてくれる料理本としては、土井善晴氏の『一汁一菜でよいという提案』も長く記憶に残るであろう名著だと思います。


一汁一菜でよいという提案

土井氏はマスメディアにもたびたび登場されている方です。そして日々の家庭料理は一汁一菜でよいというある意味大胆な「提案」、それにこの本の少ないながらもカラー写真で乗せられている料理のビジュアルが「衝撃的」であることも相まって、ネットの一部ではネガティブな感想も散見されました。でも私はこの本でとても救われたというか,肩の荷が少し下りたような気になりましたし、特に味噌汁に対する考え方が本当に大きく変わりました。

長尾氏のご本と比べると、より広範というか高みに立つスタンスから、日本人とは、和食の歴史とは、日本人の美意識とはといった視点が含まれていることも、一部の方には少々大仰に響くのかも知れません。それでも、土井氏のこの本は、日々の暮らしの中に無理なく組み込める家庭料理とはどんなものであるか、さらには「人間が食べること」とは何かについてひとつの結論を導き出しているように思えます。

ちっともビジュアルでない料理本としては、細川亜衣氏の『食記帖』なかなか大胆な一冊です。「まえがき」につづいて目次すらなく*2、いきなり日記風の、あるいは備忘録風の料理に関する文章が300有余ページにわたって延々と書き綴られているのです。


食記帖

細かいレシピのような文章もあれば、単に素材の名前や料理名、食品名を列記しただけのものもあります。写真は一枚もなく、野菜や果物などのイラストがほんの少し挿入されているだけ。いわば単にひとさまの家庭の食卓を垣間見せてもらっているだけのような本なのですが、これがなかなか味わい深いのです。各項目には日付が入っていますから、最初から読まずに気が向いたときにその日の日付に近い部分をぱらぱらと読んで、気になった料理やレシピを試してみる……という読み方・使い方が面白いかもしれません。

細川氏の料理本は他にも、すでに名著の呼び声高い『イタリア料理の本』や『野菜』などいくつか持っていますが、それらの本のビジュアル(写真)もかなり独創的です。氏はこう呼ばれることにきっと抵抗を示されると思いますが、私はほとんど美術書のカテゴリーとして眺めています。なのに『野菜』などは、日々の暮らしに難なく取り込める素晴らしいレシピがたくさん載っていて日々重宝しているのです。

ちっともビジュアルでない三冊の料理本、どれもお勧めです。

*1:個人的には、先般訪れたヘルシンキ郊外のアルヴァ・アアルト邸が登場するにいたって、人生の愛蔵版決定です。

*2:ただし巻末に詳細な索引がついており、この本があくまでも料理本であることを強烈に主張しています。

しまじまの旅 たびたびの旅 番外篇 ……ヘラヘラ・マガジン

美術を学んでいた学生時代、大きく影響を受けた本があります。岩田健三郎氏の『ヘラヘラ・マガジン』です。どこで買ったのかも覚えていませんが、偶然手にしたその本にはとても衝撃を受けました。なにせこの本、表紙から裏表紙まで、カバーやカバーの袖、見返しや扉、もちろん本文の隅々に到るまで(ノンブルや奥付けも)、すべて岩田氏がひとりによる、手描きの文章と絵で埋め尽くされているのです。

f:id:QianChong:20180701102436p:plain:w300

今はなつかしい製図用の「ロットリング」ペンで緻密に書き込まれたその文字は、岩田氏独特の味のあるくせ字ながら不思議な統一感があって、このままフォントにできそうなくらい。絵もそのデフォルメと大胆な構図の一方で、決して声高に主張する類のものではなく、ほんわか、じんわり、心に染みてくるような雰囲気です。

f:id:QianChong:20180701102704j:plain
f:id:QianChong:20180701102553j:plain

とくにこの、黒と灰色、二色の墨で表現されたイラストに私はとことん魅了されて、しばらく模倣してそんな絵ばかりを描いていました。黒は筆ペン、灰色はこれも香典用の薄墨筆ペンです。

f:id:QianChong:20180701104718j:plain

ご縁あって、川口祐二氏の『女たちの昭和 島に吹く風』や石牟礼道子氏の『食べごしらえ おままごと』(初版)に使って頂いた挿絵も、まんまその延長上です。

f:id:QianChong:20180701105303j:plain
f:id:QianChong:20180701105158j:plain

f:id:QianChong:20180701105852p:plain:w300
f:id:QianChong:20180701104930j:plain

岩田健三郎氏の『ヘラヘラ・マガジン』に戻って、この本の中でも特に魅了されたのは、「それぞれの旅 たびたびの旅」と題された、連作の紀行マンガです。紀行といっても岩田氏のそれは観光地のルポなどではなく、ご近所であったり、取材の旅先であったり、とにかく市井に生きる人々、あるいは生きた人々のかすかな息づかいが聞こえてくるような、なんとも内省的で思索に満ちた作品群なのです。

f:id:QianChong:20180701110846p:plain
f:id:QianChong:20180701110906p:plain

このブログで書いている「しまじまの旅 たびたびの旅」というエントリも、ここへのオマージュ、というかここから拝借したタイトルです。昔から離島にとても憧れていて、離島をてんてんと旅するのが好きだからですが、いつまでたっても岩田氏の模倣が抜けない私。それだけ大きな影響を受けましたし、いまもこの本は繰り返し繰り返し読んで楽しんでいます。

ところで、ふと、岩田健三郎氏はいま何をしてらっしゃるのかしら、と思いました。ネットで検索してみると……

himeji.mypl.net

おおお、今でも故郷の姫路にご健在で、精力的に絵を描いていらっしゃるらしいです。「ヘラヘラつうしん」というご自身のウェブサイトまでありました。あれだけ私淑しておきながら、今になって初めて知る私。「川のほとりの美術館」というギャラリーも運営されているよし。近いうちにぜひ訪ねてみたいと思います。

滔々と流れる大河のような「楽」

能のお稽古は「楽(がく)」の練習に入りました。いつもお世話になっている「the能ドットコム」の「能楽用語事典」によりますと、楽とは……

がく
舞の種類のひとつ。舞楽をまなんだ舞といわれ、「鶴亀」「邯鄲」「天鼓」「富士太鼓」など唐土にゆかりのある役柄や舞楽に関係する能で舞うことが多い。足拍子を数多く踏むのが特徴。
楽 (がく)とは:the能ドットコム:能楽用語事典

いわゆる「中国物」と言われる演目でよく登場する舞で、私はこの「楽」が入った舞囃子を来年の温習会までお稽古していこうかなと思っています。何度も書いていますけど、能楽は日本の伝統芸能で「純和風」の内容かと思いきや、中国(能楽が成立した当時は中国とは言っていませんが)に題材を取った演目も多いんですよね。以下に当時(およそ650年ほど前)の日本人が中国大陸の文化、就中古典に親しみ,リスペクトしていたかがうかがい知れます。

qianchong.hatenablog.com

「楽」は当時の日本人が、古典や文献や、わずかに伝わってきていたであろう中国大陸の芸能に関する情報から「彼の地の舞楽とはこういうものであろうか」と想像を膨らませて創り出したものなのでしょう。大きな流れとしては「中之舞」や「序之舞」、「神楽」(の五段)と同じような動きですが、上記の事典にもある通り、やたらたくさん足拍子がふまれます。

f:id:QianChong:20180630153127j:plain

もうひとつ特徴的なのが笛(能管)で奏でられるメロディで、お稽古の段階ではこのような「譜」に記された、笛の音を模した「唱歌(しょうが)」を覚えつつ、動きや足拍子のタイミングを覚えていきます。このメロディがなんとも「大陸的」で、私は特に魅了されています。

f:id:QianChong:20180630153119j:plain

「楽」は最初非常にゆっくりと始まり、だんだんテンポが上がって最後はかなりの速さになります。その最後の方は「ヒヒュールーイヒャーロルラー」と「ヲヒャーイトヒュヤーヲヒャーロルラー」が何度も繰り返される。私にはこれが、滔々と流れる大河の前に佇んでいるように感じられるのです。

f:id:QianChong:20180630153105j:plain

あるいは、初めて中国大陸を旅したときに圧倒された、大通りを次から次に横切っていく自転車の大群のようにも。今ではもう想像もできないですが、昔中国は「自転車大国」と呼ばれ、大通りはまるで自転車の大河のようでした。通りの向こうから大量の自転車に乗った人々が向かって来て、通りの向こうに消えていく、それが一日中続いている……というのが個人的な中国の「原風景」です。

f:id:QianChong:20110607230048j:plain
历史沧桑 上世纪70-90年代北京城市道路_汽车频道_凤凰网

能楽を創り出した当時の人々がどんなイメージを「楽」に託したのかは分かりませんが、何となく異国情緒ただようリズムと旋律が淡々と刻まれていく……それが「楽」のような気がします。

「楽」が入った舞囃子には「楊貴妃」や「邯鄲」、あるいは「白楽天」などがあるそう。中国語や中国の古典好きにはたまりません。いずれも難度が高くて今の私にはまだ手が届きませんが、まあこれは老後の楽しみにとっておいて、まずは「楽」を身体に染み込むまでこつこつとお稽古しようと思います。

退化を空想していたら現実はその先を行きつつあった

華人留学生の通訳クラスではいま、日本語の成語や慣用句やことわざを学んでいます。中国語もこうした言葉は豊富ですが(というか、中国から入ってきたものが実に多い)、それらを引き比べて覚えていくと、双方の文化の違いや言語表現の発想の違いが分かってとても面白いのです。「なるほど、あちらさんはこういう森羅万象の切り取り方をするのか〜」という「マクロな言語観」とでもいうものがじわ〜っと染みてくる。

例えば「重箱の隅をつつく」は中国語では“雞蛋裡挑骨頭(卵の中に骨を探す)”とか“吹毛求疵(毛を吹き分けてキズを探す)”などと言います。また「案ずるより産むが易し」とか「成せば成る」は“車到山前必有路(山の麓に行ってみれば必ず道は見つかる)”とか“船到橋頭自然直(船は橋のたもとにつけば河の流れに従って自ずから真っ直ぐになる)”。もちろん他にも表現の方法はいろいろとありますが、同じ暮らしの知恵、或いは人生の機微みたいなものを、それぞれこういうふうにとらえるのか〜と興味は尽きません。

また中国語の成語には汲めども尽きぬ魅力をたたえたものが少なくありません。私が好きなのは例えば“蜻蜓點水”。トンボが水面に産卵するとき、尾っぽだけをちょんちょんと水につけながらホバリングしますよね。そこから「物事の上っ面だけをなでるように学ぶ」とか「深く掘り下げない」ことを表します。

また“餘音繞樑”は、音楽や歌声が美しくて味わい深いことを指します。「余韻が梁をめぐる」という形容がなんとも詩的でヴィヴィッドではありませんか。“大智若愚”も好きな言葉です。日本語にも「大知は愚のごとし」と入っていますが、あまり人口に膾炙していませんね。本物の賢者はその賢さをひけらかしたりせず、逆に一見愚か者にみえるくらいだ、と。たった四文字だけでこの味わい。中国語を学んでよかったと思える瞬間です。

すべてが「ヤバイ」に収斂していく

ところで、成語や慣用句などの入った中国語の発言を日本語に訳してもらうとき、適切な、あるいは細かな日本語の表現が思い浮かばないと、いきおいざっくりとした訳出になることに気づきました。その成語や慣用句などが“褒義(ポジティブな語義)”であれば「すごい」、“貶義(ネガティブな語義)”であれば「ひどい」一択になってしまうのです。ある意味仕方がありませんし、だからこそ対にして「定訳」を覚えていく意味もあるのですが、ふとこれが昂進すると両方「ヤバイ」になるのかな、と思いました。

他樂於助人,真是名副其實的大善人。
彼は進んで人助けをして、ほんとにヤバイです。


他是個表裡不一、名不副實的人,你可別太相信他。
彼は表裏があってヤバイから、信じちゃいけないよ。

う〜ん、昨今は美しい風景を見ても、カッコいい服を見つけても、美味しい物を食べても、血圧が上がっても、雨が降りそうなときも、出席率が足りなくて単位を落としそうなときも、ぜんぶ「ヤバイ」で済ましちゃいそうな勢いです。であれば、こうした言葉がどんどんやせ細っていく流れに対抗して、成語や慣用句などを一対一で覚えるよりむしろ、千言万語を費やしてその意味を説明する方がいいのかもしれません。特に自分の母語にはない発想のもの、あるいは母語にしかない発想のものを別の言語で表現することそのものが知的訓練になるのではないかと。

たとえば“雪上加霜”を「泣きっ面に蜂」と訳すだけでこと足れりとせず、積雪の上に降霜することの大変さや「まいったなあ感」をいろいろな言葉を動員して説明するのです。そのほうがよほど日本語の訓練になるのではないかと思いました。千言万語を費やして語るのは楽しいはずです……よね?

言葉が退化する(かもしれない)未来

そんなことをつらつらと考えているうちに、「機械翻訳が高度に発達した未来で、各言語の母語話者がそれぞれの母語の内輪だけで思考するようになった結果、思考のブレイクスルーがなくなってどんどん言葉がやせ細っていき、何百年かの後にはコミュニケーションの手段が咆哮にまで退化しちゃう」というディストピア小説のプロットを思いつきました。

以前、今後機械翻訳が飛躍的に進歩して、異言語や異文化に対する興味も警戒も共感も反感も怖れも憧れも単に母語の内輪での振幅に押し込められてしまった世界が登場したら、知は深められて行かないのではないかという空想をしたことがあるのですが、深められないどころか退化しちゃうという妄想です。

qianchong.hatenablog.com

「神がバベルの塔を破壊し、人々の言語をバラバラにした」という神話の意味は本当に深いですよね。バラバラになった差異を乗り越えようとして、人類は知を豊かにしてきたわけですから。知は差異に宿るわけです。それが差異を全く感じさせないほどまでに成熟した機械翻訳に全て取って代わられたら、これはもう神のご意志に背くわけで、さしずめ逆バベルの塔、あるいはバベルの井戸とでもいったところかな。

f:id:QianChong:20180629113621p:plain

まあそんな単純な未来はきっと訪れないと思いますが、子供を幼児期から不用意に多言語環境に置き、結果いわゆる「ダブルリミテッド」になってしまったとおぼしき生徒に数多く接してきた(今も接している)私は、母語の十全な寛容を軽視して半ば無軌道に早期英語教育に奔走しようとしている現在の状況を憂いつつ、ひょっとしたら知の退化は起こりうるかもしれないと思っています。

f:id:QianChong:20180629113524j:plain

追記

ここまで「下書き」に書いておき、日が改まった今朝、Twitterのタイムラインにこんなツイートが流れてきました。

これはすごい。武田砂鉄氏は『日本の気配』で安倍首相や管官房長官の答弁について「この方々は日本語の限界に挑んでいるのであろうか」とおっしゃっていましたが、ここまでくるともう「限界に挑む」というよりハッキリ「退化」ですよね。言葉が、言語が、思考が溶解しています。ひと頃よく言われた「言語明瞭意味不明」でさえありません。

現実は、私の三文ディストピア小説のプロットなどよりはるかに先を行こうとしているのかもしれません。

フィンランド語 14 …所有文

「人(所有者)+llA on ●」で「だれそれが●を持っている」を表す「所有文」を学びました。先回学んだ日本語にはない概念「分格」が関わっています。

所有文になるとまたまた人称代名詞が変化します。今回は「llA」がくっつく。これ、以前学んだ「〜の上に/で」の格語尾ですね。フィンランド人の「所有する」は上に乗っかっているイメージなのかしら。

minulla on …
sinulla on …
hänellä on …
meillä on …
teillä,Teillä on …
heillä on …

もちろん、指示代名詞以外に具体的な名前でも「-llä/-llä on …」で持っていることを表せると。そしてうれしい(?)ことに、どの場合もolla動詞は「on」ひとつだけ。否定の場合も「ei ole」だけ。これは覚えやすいです(人称代名詞は新たに覚えなければなりませんが)。

しかし喜んだのもつかの間、所有文は以下の6パターンに分かれるそうです。

① Minulla on kissa. 私は猫を飼っている。【肯定】…名詞が単数主格。
② Minulla ei ole kissaa. 私は猫を飼っていない。【否定】…名詞が単数分格。
③ Minulla on rahaa. 私はお金を持っている。【肯定】…名詞が単数分格。
④ Minulla ei ole rahaa. 私はお金を持っていない。【否定】…名詞が単数分格。
⑤ Minulla on kiire. 私は忙しさを持っている(忙しい)。【肯定】…名詞が単数主格。
⑥ Minulla ei ole kiire. 私は忙しさを持っていない(忙しくない)。【否定】…名詞が単数主格。

①②は可算名詞のとき、③④は不可算名詞のとき、そして⑤⑥は身体的な特徴を表すときだそうです。それぞれの肯定と否定で、名詞が主格になるか分格になるかが決まっているんですね。そも日本語では可算・不可算をほとんど意識しませんからこれは私達にはなかなか手強そうです。

しかし先回も学んだように「分格」は不可算であったり2以上の複数であったりするときに出てくるもの。これはつまりフィンランド語では文意に明確な「ひとつ」が含まれていない場合はすべて「分格」を取るのかな、と思いました。

①は可算名詞で肯定文ですから、持っていると言った時点で「ひとつ持っている(飼っている)」ということが確定するのでしょう。つまり英語や中国語のように「a」や「一個(個)」さえいらないわけです。この辺は日本語に通じるものがありますね。

②も可算名詞ですけど否定文です。否定しているということは、そもそも何匹飼っているかも不明ですし「ゼロ匹飼っている」と考えることもできます。いずれにせよ「ひとつ」以外の数なわけで、それで「分格」を取るのかな。

③④は「お金」で、コインや紙幣などは「可算」ですが、お金の量(価値)そのものは「不可算」です。だから肯定・否定とも「分格」を取る。うん、これは何となく分かります。

⑤⑥は「身体的な特徴を表すとき」だけなので「例外」と考えることにしましょう。肯定・否定とも単に主格を取るだけなので簡単ですし。先生からはとりあえずよく使う「kiire(忙しい)」「nälkä(空腹だ)」「jano(喉が渇く)」「kuuma(暑い)」「kylmä(寒い)」を覚えてくださいと指示がありました。

Minulla on kylmä. 私は寒いです。

冷房が効きすぎた部屋なんかで使えそうですね。ちなみに所有文ではなく普通に「私・は・寒い」のつもりで「Minä olen kylmä」と言うと、これは私自身が寒い・冷たい存在であるということになって「私は冷たい人間です」という意味になるので注意が必要とのことでした。

所有文を使って「私は本を持っている」の諸相を見てみます。

Minulla on kirja. 私は本を持っています。
「kirja(本)」が単数主格(元の形)なので、一冊の本を持っていることが確定します。


Minulla on kaksi kirjaa. 私は二冊の本を持っています。
「kaksi(二)」が入っているので複数になり、「kirja」は単数分格の「kirjaa」になっています。


Minulla on kirjat. 私は全ての本を持っています。
「kirja」が複数主格の「kirjat(本たち)」になっています。そこにある本全てという意味になります。


Minulla on kirjoja. 私はいくつかの本を持っています。
「kirja」が複数分格の「kirjoja」になっています。

これら四つの文のうち、一番上の一つを除いては全て複数の本について述べています。フィンランド語では複数を細かく三つに分けて言うのですね。しかも助詞や副詞なども伴わず、単語(ここでは名詞)そのものの中にその細かな意味を入れてしまう、と。非常にユニークな(自分の母語から考えればということで、フィンランド母語話者からすれば当たり前なんでしょうけど)言葉のありかたですね。……しかし、実際にこれを会話で話すとなると、かなりの修練が必要になりそうです。

ちょっと練習してみます。

Minulla on sininen polkupyörä.
私は青い自転車を(一台)持っています。

自転車は可算名詞ですから、上記の①にあたるごく普通の文です。もし二台持っている場合は……

Minulla on kaksi sinistä polkupyörää.
私は二台の青い自転車を持っています。

「sininen(青い)」が「sinistä」と、とんでもない変化をしています。これは先回「分格」の作り方を学んだ際に出てきた以下のケースです。

⑤辞書形(元の形)の単語の最後が子音で終わる単語は、最後が -nen 、-uus、-yys の場合とそれ以外で作り方が分かれます。
まず -nen は se になり、-uus と -yys は最後の s が te になり、そのあとに tA がつきますが、この時 e が消えます。例えば「punainen(赤い)」は punaista、「uusi(新しい)」は uutta になります。う〜ん、ややこしい。
一方でそれ以外の場合は語幹をまったく操作することなく語尾に tA をつけます。例えば「kaunis(美しい)」は kaunista になります。

「sininen」は「-nen」で終わっていますから、「-nen」が「se」になって「sinise」、なおかつ「tA」がついて「sinisetA」、aouがないので「A」は「ä」、なおかつ「e」が消えて最終的に「sinistä」になりました。ふー。

f:id:QianChong:20180626114150j:plain
https://www.irasutoya.com/2015/01/blog-post_920.html

Minulla on kaksi punaista polkupyörää.

台湾の若者はあまりジーンズを履かないの?

昨日「中国語圏で中国語を話すと、みなさん自分の地元以外の人間だと決めつけてくる」という話を書きましたが、これは私が拙い中国語を口にしているからで、逆に何も話さないでいるとこれはもう間違いなく「日本人」だと認識されます。

qianchong.hatenablog.com

中国に留学しているときはいわゆる「日本人バレ」するのがちょっとだけ悔しくて、ムリヤリ現地に溶け込もうとしていました。現地の人たちと同じような服装をしたり、路上の激安散髪屋さんで髪を切ったりして。その結果、現地の方からもちょっと引かれてしまうほどの滑稽かつ出身地不明の怪しい風体になってしまったのは自分の「黒歴史」として永遠に封印しておきたいと思います。

ともあれ、その後はそうした歪んだ自意識は影を潜め、今ではごくごく普通の格好をするようになりました。旅行で中国語圏を訪れるときも、特に着飾りもしない、かといってことさら現地っぽくもない、普段の生活の延長(=ユニクロ率高め)でうろうろしていますが、それでもどこかのお店に入れば必ず日本人だと認識されて、英語か日本語で対応されることが多いです。あるいは黙って日本語のメニューを出してくださるとか。

まあユニクロだっておしゃれと言えばおしゃれで、それが日本人感を醸し出しているのかも知れません。しかし例えば台湾の田舎で、Tシャツに短パンにビーチサンダルであってもけっこうな確率で「日本人バレ」するんですよね。アレはどうしてなんでしょう。

顔の造作で判断しているのでしょうか。以前中国の友人に聞いた話では、日本人男性はもみあげの下のところが大概「青い(濃い髭を剃った後みたいな感じ)」のですぐに分かるといっていましたが、日本人男性のみんながみんな「青い」わけでもないですよね。他にも日本人男性は顔にホクロが多いとか、眉毛が整ってるとか、えり足が「無造作っぽい」とかいろいろな説を聞きましたが、どれも一般化するには少々無理があるような気がします。

例えばこちらに中国人・韓国人・日本人を写真だけで見分けるテストがあるのですが、やってみるとかなり外れてしまいます。

f:id:QianChong:20180626133151p:plain
TEST : Sais-tu différencier les asiatiques ? — Chine Informations

台湾の街角でなぜすぐに「日本人バレ」してしまうのかについて、台湾の友人は「都会感じゃない?」と言っていました。顔つきや髪型や服装や持っているものなど全体の佇まいが醸し出す「都会的」な雰囲気が「日本人っぽい」のではないかと。私自身は特に都会っぽい感じではないと思いますが、それでも確かに台湾の男性は、特に私と同年代の男性は、失礼ながらあまり服装にこだわってらっしゃらない様子はありますね。まあこれは私がつとに憧れているところでもあるのですが、あまり他人の視線を気にしていないというか、まわりに合わせようとか空気を読もうとかしていないというか。

そうしたら、先日読んだ『台湾の若者を知りたい』という本に興味深い記述がありました。この本は岩波ジュニア新書の一冊ということで、日本の同世代の若者向けなのですが、私のような世代が読んでも面白かったです。特に台湾の高校や大学の学校生活については、台湾の方と仕事をしていても知る機会は少ないので、いろいろと発見がありました。


台湾の若者を知りたい (岩波ジュニア新書)

この本の中でとある台湾の男子高校生お二人がインタビューに答えてこう言っています。

——私服では何を着ているんですか。


姜君「冬は長袖Tシャツ、下はジーンズ以外ならなんでもはきます。ジーンズはきついからはかない。私服でも制服でも靴はスニーカー」


呉君「Tシャツ、フードつきスウェット。暑いから、ジーンズははきません。あまりブランドは気にせず自分が気に入ったものを買っています。服は自分で選んで、服代は両親が支払います」

なるほど、ジーンズは履かないと。まあ台湾でも履いている若者はいるし、留学している台湾人留学生もけっこう「ジーンズ率」は高いですが、言われてみれば確かにジーンズは分厚くて南国向きじゃないですよね。そういえば私は真夏に台湾を旅するときもほとんどジーンズでした。「日本人バレ」する最大のアイテムはこれだったのかな? 台湾の若者の「ジーンズ率」については、今度旅したときに確認してみようと思います。

「ニセ華人」の怪しい中国語

中国語は巨大なために、地域によって実に多種多様な側面を持っている言語です。いわゆる「標準語」と呼ばれる北京語(普通話/國語/台灣華語)ひとつとっても、様々な語彙、発音、統語法の細部に地方ごとの特色があります。こういう差異って、地域ナショナリズムを発揮したがる方とか、学術的無謬性を追求したがる方に語らせると実にややこしい事態に突入するのですが、一介の中国語好きとしてはその辺りは「スルー」させていただき、その細々とした差異そのものを「全部取り」で楽しんでしまいたいと思っています。

私は最初東京で中国語を学び始め、中国の北方(北の地方)に留学しました。日本の中国語教育はほぼ北方一辺倒であるため、私が習い覚えた中国語も北方の特徴が色濃く出ていています。一番特徴的なのは「兒化音(儿化音)」と呼ばれる、音節の末尾で舌をそり上げたような音です。「少し」を表す「一點」や「有點」が「一點兒」「有點兒」、「子供」を表す「小孩」が「小孩兒」といった感じ。それでも生粋の北方出身者からは「あんたの中国語は南方人っぽい」と言われていました。

その後台湾で働くようになって、最初のうちこの「兒化音」を伴った中国語を話していると、同僚から「北京腔(北京訛り)」だと言われました。北京や天津では「南方人っぽい」と言われ、南方にあたる台湾では「北方人っぽい」と言われるわけです。もっとも、台湾で働く期間が長くなるにつれ、私の中国語からは次第に「兒化音」が消え、北方の中国語に特徴的な「捲舌音(そり舌音)」のコントラストも弱まり、今では大先輩の通訳者さんに「君の中国語は南方訛りだね」と言われるまでになりました。

ところでここ数年、台湾を旅行していると、現地の方から「あんた、香港人?」と言われることが多いことに気づきました。こやつの風体は日本人っぽいが、中国語を話しているところからみると日本人ではなさそうだけれども、中国大陸北方の中国人では絶対にないし、かといって台湾や中国の南方のネイティブでもなさそうだ、たぶん広東語が母語で北京語はそれほど得意でない香港人であろう……とまあそんな結論に落ち着くようです。

もっとも、香港に行ったときは「北方人っぽい」と言われましたし、同じ中国語圏のシンガポールに行ったときは「タイ人」だと言われました。わははは、みなさん「うちの地元民ではない」という一点だけで、けっこうテキトーなことをおっしゃってるんですね。これからも来歴不明の怪しい「ニセ華人」として、中国語圏を旅しようと思います。

冷房対策のはおりものがほしい

梅雨ももうすぐ明けようかというこの時期、仕事場ではもうエアコンがガンガンかかっています。私は冷房にそれほど弱くはないのですが、それでもちょっと身体にこたえることがあるので、何か「はおりもの」がほしいなと思いました。

レディス・ファッションはこういうとき、選択の幅が広くていいですよね。職場でも、女性のみなさんは薄いショールみたいなの、薄手のロングカーディガン、レースのサマーセーターなどいろいろなアイテムを用意されています。私は普通にビジネスシャツの長袖を着ていますが、本当はロングカーディガンとか、レースとかをはおってみたいのです。別に女装趣味とかじゃなくて(でもいいけど)、手軽なはおりものとして。

ちなみに昔から憧れているのはモヘアのセーターなんですが、いまだに着たことがありません。服くらい自由に着ればいいのですが、何だかまだ勇気が出ないのです。私はどっちかというと性差とか男女の役割とか服装のTPOとかどうでもいいじゃんと頭では思っている人間ですが、行動が伴っていません。社会的規範の何と心に深く根ざしていることよと思います。

しかしですね、男性用のロングカーティガンというのもあるんですね。先般話題になったドラマ『おっさんずラブ』、留学生がその話題で異様に盛り上がっているので私も視聴してみましたが、その中で主人公役の田中圭氏が同僚の彼氏と一緒に原宿で買ってたのが、これ。

www.instagram.com

いいですね。こういう帽子もかぶったことないけど、いいですね。もっとも田中圭氏だから似合ってるんであって、ほんとうの「おっさん」である私が真似をしたらかなりイタいことになるような気もしますけど。

でも改めて往来で観察してみると、この手のロングカーディガンを着こなしてらっしゃる男性は結構見かけます。往来では着なくても、冷房対策の「はおりもの」としていいかもしれない……ということでネットでいろいろ探してみましたが、いまひとつピンと来ません。というわけで結局ユニクロのネットショップで麻混紡のカーディガンを買いました。

www.uniqlo.com

昨日届きましたが、これはなかなかよいです。麻が85%なので、かなりサラッとした風合い。結局オーソドックスなスタイルから一歩も踏み出してませんが、一緒に買ったこのTシャツと組み合わせて、上記の田中圭氏のように着てみようと思います。このTシャツもかなりサラッとした風合い、というかたぶん太い糸を使っているからかざっくりとした手ざわりで、デザインもシンプルで素晴らしいです。

www.uniqlo.com

しまじまの旅 たびたびの旅 53 ……鹹豆漿と蚵仔煎

南の島でののんびりした旅を終えて、また台北に戻ってきました。あとは東京へ戻るまでの数日間、台湾ならではのB級グルメを食べ歩くことにします。といっても定番ばかりなんですけど、定番中の定番がやっぱり一番ほっとできて美味しいんですよね。

泊まったホテルには簡単な朝食がついていたんですけど、バックパッカー向けのトーストとコーヒーとジャム程度なので、近くのお店に「鹹豆漿」を食べに行きました。お酢と調味料、それに少量の「油條」などを入れたお椀に熱い豆乳を注ぐと、酢の作用で豆乳がおぼろ豆腐状になるというこれ、一番好きな朝ごはんです。

f:id:QianChong:20170813093506j:plain

このお店のオリジナルだという、オレンジピールが入ったパンを合わせました。なんでもNHKの番組で紹介されたことがあるそうで、日本人のお客さんもちらほらいました。

f:id:QianChong:20170813093610j:plain

トシを取ってあまり量を食べられなくなったので、朝食はこれだけで充分。しかし何ですね、食べ歩きが旅の醍醐味だというのに、食が細るのは本当につまらないです。若い方は「もっとお金を稼げるようになったら」とか「お金を貯めて悠々自適な老後に」などと言わず、いますぐ、親に借金してでも海外旅行に出かけるべきです。

お昼はこれ、定番中の定番「蚵仔剪」。カキが入ったオムレツとお好み焼きの中間みたいな食べ物。本当に美味しいですが、美味しい店で食べないとぜんぜん美味しくないので情報収集が欠かせません。こちらのお店は台湾在住の知人に教えてもらいました。日本人も多く訪れるみたいで、こちらが日本人だとみるや、日本語で話しかけられました。

f:id:QianChong:20170814120133j:plain

カキが大きくて、見た目からして美味しそう。かかっているソースもお店によって千差万別で、こちらはあまり強い味つけではなくとても美味しかったです。

f:id:QianChong:20170814120845j:plain

フィンランド語 13 …日本語にはない概念「分格」

単数分格(ぶんかく)というのを習いました。先生によると、これは日本語にない概念で、フィンランド語学習の中でも一番わかりにくい(かもしれない)部分だそうです。でも外語学習の醍醐味は実はそういうところだと思います。面白そうです。

まず、非常に単純化した説明として、可算名詞の時は普通の形ですが、不可算名詞になると「分格」が使われるということでした。

Tämä kissa on valkoinen.
この猫は白いです。
Maito on valkoista.
牛乳は白いです。

猫は可算名詞で、牛乳は不可算名詞。で、「valkoista」が分格になった形です。さらに、ひとつの時は普通の形ですが、ふたつ以上になると「分格」が使われるそうです。

yksi kirja
一冊の本
kaksi kirjaa
二冊の本

この格変化のさせ方ですが、これまで出てきた内格(ssA)、接格(llA)、複数(t)、属格(n)とはまったく違って、語尾が A / tA / ttA と三つもあります(大文字の A は、a か ä のどちらかになることを表します)。また kpt による変化はないとのこと。

①「kirkko(教会)」を分格にしてみる。
最後が短母音の場合、語尾は A になります。単語に aou が含まれていれば a 、含まれていなければ ä です。
kirkko + a = kirkkoa で、例えば「kaksi kirkkoa(二つの教会)」。

②「maa(国)」を分格にしてみる。
最後が二重母音の場合、語尾は tA になります。これは二重母音 + a だと三重母音になるのでそれを防止するために t を入れると考えます。単語に aou が含まれていれば ta 、含まれていなければ tä です。
maa + ta = maata で、例えば「kaksi maata(二つの国)」。

③「pieni(小さな)」を分格にしてみる。
i で終わるフィンランド語の場合は、語幹が変化して「piene」。この時最後が le、ne、re、se、te で終わる場合、語尾は tA になり、さらに e が消えます。単語に aou が含まれていれば ta 、含まれていなければ tä です。
piene + tä = pienetä ですが、e が消えて pientä 。

④「huone(部屋)」を分格にしてみる。
辞書形(元の形)の単語の最後が e で終わる場合、語幹をまったく操作することなく語尾に ttA をつけます。単語に aou が含まれていれば tta 、含まれていなければ ttä です。
huone + tta = huonetta で、例えば「kaksi huonetta(二つの部屋)」。

⑤辞書形(元の形)の単語の最後が子音で終わる単語は、最後が -nen 、-uus、-yys の場合とそれ以外で作り方が分かれます。
まず -nen は se になり、-uus と -yys は最後の s が te になり、そのあとに tA がつきますが、この時 e が消えます。例えば「punainen(赤い)」は punaista、「uusi(新しい)」は uutta になります。う〜ん、ややこしい。
一方でそれ以外の場合は語幹をまったく操作することなく語尾に tA をつけます。例えば「kaunis(美しい)」は kaunista になります。

以上の5パターンが分格の作り方の基本だそうです。複雑すぎて簡単には飲み込めそうにありませんが、これまでに習った言葉にも実は「分格」が使われていることが分かりました。

例えば「おやすみなさい」を表す「Hyvää yötä」は、もともと「Hyvä(よい)」と「yö(夜)」の組み合わせです。これがそれぞれ分格になるとき、「hyvä」は①のパターンで「hyvää」に、「yö」は y がフィンランド語では母音の扱いなので二重母音のため②のパターンで「yötä」になるというわけです。

先生からは、分格はかなり重要かつ複雑なので、自習で分格を作ることは当面やらなくてよい、そのかわり基本の単語をしっかり覚えてくださいと指示がありました。単語を覚えないと、その変化形や省略形も全く理解できなくなるからだそうです。はい、Quizletでせっせと覚えることにいたします。

f:id:QianChong:20180323113507j:plain
Kaksi tätä pientä kirkkoa. (二つのこの小さな教会)…… kaksi 以下がみんな分格になっています。

ほんとうに「受動喫煙対策を強化されると客が減る」のかな

昨日の衆議院厚生労働委員会で、受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案の審議中、参考人として発言していた日本肺がん患者連絡会代表の長谷川一男氏に自民党穴見陽一衆院議員が「いいかげんにしろ」とやじを飛ばした問題。動画サイトで当該委員会の映像を見ても「やじ」が聞こえなかったので、これはどういうことかなと静観していたら、当のご本人が「謝罪」して本当であったことが明らかになりました。

youtu.be
2:28:48ごろから。

穴見議員ご本人が喫煙されるのかどうかは知りませんが、まあことタバコに関する議論になるとどんな賢人や明哲も驚くほどの知的退廃を披露されるのは今に始まったことではありません。げに喫煙の害は恐ろしいと改めて思います。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

ところがその後、穴見議員がファミリーレストラン「ジョイフル」の創業者一族(長男)で、現在も同社の相談役・代表取締役であるという報道に接して、なるほど「受動喫煙対策を強化されると客が減る」といったような飲食店経営者の視点からの「やじ」でもあったのかと認識を新たにし、さらにあきれかえってしまった次第です。

報道によれば「ジョイフル」傘下の店舗ではいまだに全面禁煙は行われておらず、分煙も単にエリアを分けるだけの不完全なものであるよし。さもありなんとは思いますが、同時になぜ禁煙を進めると客が減ると考えるのか、その点が不思議でなりません。

今朝の東京新聞にも小さなコラム「傍聴記」で記者子が書かれていましたが、飲食店で全面禁煙にしても売り上げは落ちないというデータが次々に上がっています。

f:id:QianChong:20180622063929j:plain:w400

それにしても……JT日本たばこ産業株式会社)の2017年の調査でも、喫煙率は男女計で18.2%しかない現在。最も喫煙率の高い40代男性でも36.7%、つまり約6割の方は非喫煙者だというこの時代に、単純に考えて飲食店は全面禁煙にした方が客足が伸びると思うんですけど、経営者の方々はこんなかんたんな「算数」もできないんでしょうかね。

最新たばこ情報|統計情報|成人喫煙率(JT全国喫煙者率調査)

小さなお子さんを連れたファミリー層や、私みたいに飲食店での受動喫煙がいやで(だって食事がおいしくなくなるんだもの)外食を極力避けている人たちは結構いると思うんですけど、そういう新たな客層を取り込もうという経営努力をせず、頑なに根拠の乏しい「受動喫煙対策を強化されると客が減る」にしがみつくのはどういうことなのか、本当に理解ができません。

f:id:QianChong:20180622085147p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_14.html

「違うんだよ、バーとか居酒屋とか、酒とタバコが切っても切れない関係にある飲食店、特に小規模のそれは死活問題なんだよ」という声も耳にします。「常連さんが来なくなっちゃう」とかもね。まあそういうタバコ吞みの方々のための専用飲食店があってもいいと思います。

私はこの世からタバコをなくしてしまえと思っているわけではなく(理想論としては語れるけど今のところ非現実的です)、少なくともタバコの煙を吸わされたくない人には吸わせないでほしいと思っているだけです。だからタバコ吞みのみなさんだけが集まって吸い吸わされ、無聊を託つのもいいでしょう。

本当は二次喫煙・三次喫煙の害もあるので、その煙が染み込んだ服のまま電車やバスに乗ってほしくないんですけど(私はしょっちゅう逃げてます)、それもまあ「お互い様」「持ちつ持たれつ」の人間社会でありますからして、私はガマンいたします。

ただ「常連さんが来なくなっちゃう」系の飲食店経営者さんには、次の記事を贈ります。飲食店経営のコンサルティングをされている方のブログ記事です。

inshokukasseika.com

非喫煙者という潜在的な顧客数の優位性はいまや誰の目にも明らかです。穴見議員はじめ飲食店経営者のみなさんはぜひ賢明な判断をなさいますようにとお祈り申し上げます。

黒歴史はあまり聞いたことがないって

華人留学生の通訳クラスで、無国籍の問題に取り組まれている陳天璽氏の講演を教材に使いました。


【一席】陳天璽:無國籍生存

とても分かりやすい中国語ですし、無国籍者としてのご自身の体験も語られており、国民国家とは、国籍とは、難民とは……と、考えさせられる内容です。留学生のみなさんは中国や台湾が対峙している現状から見れば「第三国」である日本に留学しているわけで、この貴重な機会に様々な角度から自らの国や地域や国籍や国際問題などを考えてもらう小さなきっかけになればいいなと思ってこの映像を選んでみました。

この映像の中に、タイの国境地帯で暮らすベトナム難民の話が出てきます。そこで陳天璽氏が出会ったあるお年寄りの息子は日本で不法滞在状態になっているのですが、そのくだりで “他到日本就黑下來了(彼は日本で不法滞在状態になってしまった)” と言っています。この “黑下來了” 、一般的には “天黑下來了(日が暮れた/空が暗くなってきた)” のように使うのですが、ここでは “黑” が「ブラックな」とか「闇の」といった比喩的な用法で使われています。

この “黑下來了” について華人留学生のみなさんが何となくピンときていなかった様子だったので、私が「だって “黑戶” とか “黑孩子” という言葉もあるじゃないですか」と言うと、ますます狐につままれたような表情。特に “黑孩子” については多くの華人留学生がご存じないようでした。

“黑孩子” とは、一人っ子政策の中国で、二人目を産んでしまった場合、正式に出生届を出せないために戸籍上存在しない状態になってしまった子供を指します。

黒孩子 - Wikipedia

そこで試みに「 “黑五類” は?」と聞いてみたところ、全員が「初耳」といっていました。対概念の “紅五類” も知らないそうです。なるほど、“80後(パーリンホウ・1980年代以降に生まれた若者)” や “90後” 、あるいは “95後” と先行世代とのジェネレーションギャップが報じられて久しい中国ですが、ついにこういう時代になりましたか……と、ある意味感慨深いものがありました。

“黑五類” とは、中国の文化大革命期に人民・労働者階級の敵として分類された五つの出身階層である「地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派」を指します。現在では使われなくなった「死語」に等しい言葉ではありますが、中国の近現代史においてはとても重要かつ象徴的な意味合いを持つ言葉です*1

黒五類 (文化大革命) - Wikipedia

とはいえ、まあ仕方がないですよね。当の中国政府が反右派闘争や文化大革命など自らの「黒歴史」を封印して、あまり若い世代に伝えないよう、知らしめないようにしているのですから。「六四」、つまり1989年の天安門事件(第二次)すら知らない華人留学生もすでに登場しています*2。まあ近現代の歴史教育については、日本だってあまり人様のことを言えた義理じゃないんですけど。

www.nikkei.com

それでも、冒頭にも書きましたが、せっかく日本という「第三国」にいて、自国にいたときとはまた異なる情報にアクセスできるのですから、歴史を客観的に見据えるためにもぜひ色々と知り、これまで教わってきたことと引き合わせながら考えてもらえたらうれしいなと思います。「寝た子を起こすな」と言われるかもしれませんけど。

また留学生のみなさんの親御さんの世代は現在40歳代から60歳代くらいで、このあたりの体験は深く身体に刻み込まれているはずですし、現在中国語圏の政財官界で中心的な役割を担っている方々もこの世代が中心。ということは、背景知識としてこうした歴史をきちんと理解していることが仕事の現場でもきっと活きてくると思うのです。

普段華人留学生、なかんずく中国人留学生に接していると、中国の近現代史、特に中華人民共和国における改革開放以前の「微妙」な時期の歴史については、若い方々の知識からは急速に抜け落ちて行っている(抜け落とさせられて行っている)印象を持ちます。“文革” 自体はまだしも “插隊” も “批鬥” も “老三屆” も “樣板戲” も “忠字舞” も、ほとんどの方が「あまりよく知りません」という感じ。今日は “老三篇” について聞いてみましたが、これも「初耳」だそうです。もちろん “為人民服務*3も “紀念白求恩” も “愚公移山” も。

老三篇” は毛沢東の短い演説の中でも一番有名なもので、文革当時はほとんど「神格化」されていました。そして今ではちょっと信じられないようなハナシですが、日本でも当時の中国にシンパシーを感じていた人々や一部の中国語学習者の間では、全文を暗記するなんてことも行われていました。

私が中国語を学び始めたのはそういう頃からはるかに時代が下ってからですが、それでも先生方の中には暗誦できる方がいたように記憶しています。何だかすごい時代ですが、でも改めて読んでみるとこれ、なかなか読ませる文章なんですよね。さすが一世を風靡しただけのことはあります。また中国語の文法的には(当然ですけど)完璧ですし、教材として用いられたのもうなずけます。

f:id:QianChong:20140907220001j:plain
老三篇 - 维基百科,自由的百科全书

ともあれ、こうした近現代史の記憶が、現代中国の若者から急速に忘れられているというのはなかなか興味深いです。私が担当しているクラスの留学生は比較的裕福な家庭の子弟が多いようですから、もちろんこれだけで中国の若者全体が……などとは決して言えませんが。そのうち“毛澤東”や“周恩來”も「誰ですか?」という方が出現するのかな。いや、もっと若い世代にはすでに出現しているかも知れませんね。“毛澤東? 這是什麼東東?*4”……って。

ちなみに冒頭でご紹介した陳天璽氏の取り組みについては、こちらの動画とご自身の著書も大変に見応え・読み応えがあります。合わせておすすめです。

youtu.be


無国籍 (新潮文庫)

*1:胡麻や黒米などを原料にした健康食品の商品名にも一種の諧謔的に用いられています。

*2:同僚の中国人講師にそう言ったら「そりゃそうですよ。文革はまだ概略程度は教えますけど、六四に関してはタブーだから絶対教えないですもん」と言われました。

*3:このスローガン自身はもちろん知ってるって。

*4:毛沢東? それってナニ?」という感じ。中国語の“東西”は「もの(グッズ)」という意味なのですが、それをもじって“東東”というと、ちょっと冗談めかした感じになります。それが“毛澤東”と脚韻を踏むと、さらにファニーな感じになるんですね。

フィンランド語 12 …強調のキン・カーン

単語の最後にくっついて強調を表す接尾辞「kin」が出てきました。

Kenen tuo punainen kynä on ?
Se on minun.
Entä tuo sininen kynä, kenen se on ?
Sekin on minun.
あの赤いペンは誰のですか?
それは私のです。
ではあの青いペン、それは誰のですか?
それも(それだって)私のです。

「Se(それ)」に「kin」がついて、それも、それだって、と強調しているわけです。肯定文のときは「kin」ですが、否定文のときは「kaan」か「kään」を使うそうです(単語にaouがあるときは「kaan」で、ないときは「kään」)。

Onko tuo punainen kynä sinun ?
Ei.
Entä tuo sininen ?
Ei sekään.
あの赤いペンはあなたのですか?
違います。
ではあの青いのは?
それも(それだって)違います。

この強調の接尾辞は、格変化の語尾とは違って単に単語の最後にくっつくだけだそうです。例えば「Suomiフィンランド)」が「Suomessa(フィンランドの中に/で)」と変化した後にさらに「kin」がついて「Suomessakin(フィンランドの中に/で、だって)」のようになることもあるわけですね。

f:id:QianChong:20180321163221j:plain

Savonlinna on kiva kaupunki.
Niin Helsinkikin !