インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

煙のゆくえ

ぶらりと立ち寄った書店で平積みになっていたこの本、面白そうなので買ってみました。わら半紙のような風合いの紙にコーティングした感じの表紙で、カバーも帯もなく角がカーブの裁ち切りになっている素敵な装幀です。

K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。 (コーヒーと一冊)

K氏の遠吠え 誰も言わへんから言うときます。 (コーヒーと一冊)

著者の江弘毅氏はTwitterのタイムラインでお見かけしたことが何度もあるけれど、ご著書を読んだのは初めてでした。関西弁の、ちょっと無頼派風な語り口で「これ、ちょっとおかしいんちゃう?」と世の中のあれこれを論じる本ですが、極私的なお話があちこちに飛ぶので、正直に申し上げて論旨はあまり頭に入ってきませんでした。

まあそれも文体というか芸風であると理解して、この本を含むシリーズのコンセプト「コーヒーと一冊」に従って、気楽に読み飛ばせばよいのかもしれません。しかしながら、喫煙に関する一文だけは気楽に読み飛ばすことができない引っかかりを感じたので、それを書いてみようと思います。

詳しくは同書を読んでいただくしかないのですが、江氏は「『タイトル、まだ決まってません。』的な禁煙の話。」という一文で、喫煙についてこのようなお考えを披露されています。

煙草は酒に比べて害がない。
やめたくてもやめられないのがニコチン中毒の怖さだ。
煙草を吸う理由は、うまいからだ*1
煙草は仕事をしながら吸える。酒はそうは行かない。
煙草を吸いながら車の運転もできる。酒はそうは行かない。
禁煙を真剣に考えているが、ニコチンパッチやニコレットを使うのは「ヘタレのやること」だ。
煙草が原因で喧嘩はしないが、酒は暴力や人格破綻や精神障害や自殺の引き金になる。

以上は本文中の文章そのままではなく、私が抽出したものですから、江氏ご本人のお考えが十全に反映されているとは言えないかもしれません。ぜひ同書を買い求めてお確かめいただきたいと思います。ですが、ここにはひとつだけ、喫煙者特有の思考法が如実に表れているのを見て取ることができます。

それは「他者への視線がほとんど含まれていない」という点です。

これまで喫煙を容認・擁護・賛美・正当化……するあまたの論者の文章を読んできましたが、そこに共通するのはこの「他者への視線の欠如」です。個人の嗜好品なのだから、他者への視線も何も、と思われるでしょうか。いえ、その行為の結果が個人の範囲にとどまらず、周囲の他者をも強引に引き込んでしまう喫煙においては、決して欠かしてはならないポイントだと私は思います。

回りくどい書き方はやめましょう。喫煙最大の問題は煙です。その煙のゆくえが、周囲の人間にとって前触れなくかつ不可避的であるとともに、喫煙行為を行っているご本人さえ制御不能だという点です(やはり回りくどいですね)。他の話題では素晴らしい論旨を展開している賢人や明哲が、こと喫煙の問題、なかんずく煙のゆくえの問題になるとそれこそ人を煙に巻いたような論を繰り返すのはなぜなのでしょうか。養老孟司氏しかり、内田樹氏しかり、池田清彦氏しかり……。

江氏のように、煙草を酒と比較して擁護するのは古典的な論法ですが、そもそも同一に論じること自体がおかしいのではないかと思います。それぞれにメリットとデメリットがある、それは当然のことです。何も煙草や酒だけに限ったものではありません。しかし、煙草の「他者」へもたらす迷惑については、これは他の嗜好品と一列に論じるわけにはいきません。それは煙草が発する煙が広範囲に拡散するからです。

いったん自分の口や鼻や、手にした煙草の先から放たれた煙は、ご本人の意志とは全く無関係に様々な方向へ拡散するのです。拡散した瞬間、個人の責任範囲に押し込めておける問題ではなくなります。「俺は俺の自由と責任において吸っているんだ」と言っても、それは空語に等しいのです。放たれた煙を物理的に制御することができない以上は。

こう言うと、じゃあ車の排気ガスはどうなんだと反論してくる方が必ずいらっしゃいます。これも古典的な問題のすり替えです。車と煙草では、社会における必要性と貢献度が全く違います。もちろん人間社会に完全無欠な理想の状態などありえない。それでもできうる限り公益を増す方向で様々な試みや努力が重ねられています。車の排気ガス抑制のために、ハイブリッド車電気自動車燃料電池車、さらにはカーシェアやカーボンフリーの取り組みなど。

一方で煙草は? 分煙・禁煙・自治体単位での歩行喫煙の制限など様々な取り組みがなされてはいますが、一嗜好品であるにも関わらず、いまだに喫煙者「個人」の思惑と私欲が半ば放置されたままではありませんか。

こう言うと、喫煙擁護派の方々からは、人権無視だ、管理社会だ、余裕のない社会だ、人間としての振り幅や曖昧さを全てカットしようとする現代人の病だ……みたいな反論が寄せられます。そんな難しいことを言ってるんじゃありません。あなたが煙草を吸うのは全く自由、100%自由です。ただし、その煙を私が、時と場所を問わず不意に、一方的に、制限なく吸わされるのは勘弁してくださいということです。それだけ。

それだけを実現するために何をすればいいか? それこそ、その自由を享受しようとする喫煙者自身がまず率先して考えるべきだと思いますが、なぜかそこに触れた喫煙者による喫煙論は見かけません。もし私が喫煙者であれば、いろいろと考えた上で「まず自分個人の部屋の中でしか吸えない、もしくはお互いに吐いた煙を吸い合ってもよいという合意が成立していると考えられる喫煙所のような密閉空間でしか吸えない」という合理的な判断に行きつかざるを得ないと思いますが。

もちろん、様々な人間が一緒に生きている社会の中で、現実的に折り合いをつけていくことは大切でしょう。私だって喫煙という一種の長い歴史を持つ「文化」が、今すぐこの世の中からなくなる、あるいはなくなってしまえ、と思っているわけではありません。少しずつ少しずつみんなが気持ちよく生きていける方向へ持って行くしかないでしょう。ですが、江氏のように、それを単なる個人の芸風に落とし込んで斜に構えるだけで、ちっとも他者に、そして「煙のゆくえ」に想像を向けないのはとても不誠実な態度だと思います。

無頼を気取るのもけっこう、「オレとこは家系がガン体質ちゃう、どっちゅうことあるかい」と強がるのもけっこう、昨今のせちがらい風潮を嘆いてみせるのもけっこうです。でも、拡散する煙という物理的特性を持った煙草という問題に関して、単に「俺はバカだから自分の身体に悪いと思っててもやめられへんねん」とだけ言われてもね……。

総じて江氏のこの喫煙に関する文章は、オレがオレがだけで他者への視線が感じられません。私は江氏とは一面識もありませんから「大きなお世話」と言われればそれまでですが、もうすこし、喫煙という行為の特徴を自覚していただきたいものです。そしてご自分の吐いた煙のゆくえを追い、想像を働かせてみてください。人間は感情の動物ですから、ああこの方は悩みつつも他者のことも考えて吸っているんだな感が行間から伝わってくれば、私だって多少の煙を吸わされても目くじら立てませんよ(というか街で日常的に吸わされてるけど)。

こういうこと、誰も言わへんから言うときます。

*1:「鮨屋でネギトロで締めてアガリを飲みながら吸うピース・スーパーライトの味は、これ以上のものがないと思っている」そうです。