インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

日本人が日本語と外語を行き来することについて

日本で学ぶ留学生が日本の暮らしで一番「心折れる」のは、不自然な日本語に対する日本人(日本語母語話者)の許容度があまりに低いことだそうです。例えばコンビニのバイトで、日本語の発音や統語法が少しでも不自然だと、あからさまに嫌な顔をされたり笑われたりすると。

またバイト先で仕事の説明を受けるときなども、日本人の先輩や店長などがダダダダーッと日本語で説明して、しかもその日本語が曖昧模糊としていている*1ので、何度も聞き直したりしていると、すごく嫌な顔をされ、かつ英語で「ドゥユーアンダスタン?(Do you understand?)」などと聞かれるのも「心折れる」と言っていました。

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https://www.irasutoya.com/

まあ外語の学習というものは「心折れる」ことの連続なので、留学生諸君を励まし続けるしかありません。私も、拙い中国語で電話していて相手に切られたとか、中国語の先生にとつとつと話していたら渋面(多分無意識に作ってる)で対応されたとか、いろいろと心折れ続けて今に到っていますから。

しかし、こういう話を聞くにつけ、私たち日本人の言語観、もう少し広いスタンスを取れば「異文化・他言語観」にはもう少し鍛錬が必要ではないかと思います。もう一段柔軟でしなやか、かつ寛容で広い視野があるべきではないかと。

明治からこのかた、日本人は涙ぐましいほどの努力で外語に取り組んできました。その努力は今も営々と続けられているどころか、早期英語教育の導入などによりますます強化されようとしているわけですが、その割には「異文化」や「他言語」に対するリテラシーのようなものがあまり涵養されていない、あるいは置き去りにされているように見えるのはどうしたことでしょうか。

このところ「通訳ボランティア」に関するツイートやブログへの投稿を続けてきましたが、この問題は畢竟「通訳などボランティアでよい」「ふたつの言語を話せれば訳せる」と世間の多くの方が思ってしまうことがその背景にあるように感じます。「異文化」や「他言語(外語)」とはどういうものなのか、それが自らの文化や母語と相対化されたリテラシーとして社会に根付いていないのです。

言い換えれば「外語」と「母語」の間を行き来することについて、その難しさも、深さも、怖さも、そして面白さも、まだ本当の意味で日本人の腑に落ちていないということになるでしょうか。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

通訳なんて簡単?

日本では、通訳を「二つの言語が話せさえすれば、口先でちゃちゃっとできる、簡単な作業」と思われている方が多いように思います。身体ひとつで、あるいは道具を使ってもせいぜいメモ帳とペンくらいで「楽な商売だよね」と(実際に言われたことがあります)。

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qianchong.hatenablog.com

このように思われているからか、通訳をする現場に行っても、通訳者用の机が用意されていないことがよくあります。椅子だけがちょこんと置かれていたりして。いえいえ、メモを取るためのノートを置き、資料を広げ、場合によっては辞書やパソコンも使うので、ぜひ机を用意してください……と改めてお願いすることも多いです。

また通訳は「身体ひとつ」で耳と口さえあればできると思われているからか、パワポを投影する段になって部屋を真っ暗にされることもあります。こうなるとメモも取れないし、資料も読めません。あらかじめスタンドライトを用意してくださるお客様もいますが、「え、そうなの?」という反応もままあります。

とある料亭での会社トップ同士の会談(とはいえ数字を交えた仕事の話も結構入る)にうかがった際、ざぶとんが一枚ぺらっと置かれてただけ、ということもありました。座敷なので文机みたいなのを所望しましたがかなわず、結局畳に資料を広げ、二時間半正座して通訳しました。

あまり列挙するのも恨み言めくのでこのくらいにしておきますが、こうした現場のお客様は、通訳者を呼ぶような業務を行っている会社や団体ですからそれなりに外国や外国人とのおつき合いがあるのです。そのような方々でさえ通訳者が行っている作業についてはほとんどご存じない。英語などの外語を学校で学んでも、他言語や異文化に関するこうしたリテラシーを涵養する機会は設けられていないことがわかります。

特に日本の方は、通訳者が行っている作業や、ふたつ以上の言語を行き来することについて、実感というか皮膚感覚のレベルでよく分かってらっしゃらない方が多いのではないかと思います。それはひとえに、日本語が世界でも十指に入る「巨大言語」で、ほぼ単一の言語で暮らせる環境にいるからでしょう。

「巨大言語」としての日本語

多くの方が言われて初めて「そういえばそうだ」と気づく事実ですが、世界で一億人以上話者がいる言語はそれこそ十指に入るほどしかありません。話者の数についてはいろいろな統計がありますから一概には言えないのですが、少なくとも現時点で1億3000万人もの話者を抱える日本語は、まちがいなく「巨大言語」です。ただしその話者がほぼこの日本列島だけにぎゅっと集中して住んでいる、というのが他の巨大言語との大きな違いですが。

植民地支配の結果、もとからある母語の他に外語(特に英語など)をかなりの割合で使わざるを得なかった、例えばインドやフィリピンといったような国々に比べ、日本は幼児教育から高等教育まで、また社会活動の隅々までを母語である日本語でまかなうことができる、ある意味とても「幸せ」な国です。

その豊かな日本語が、この国独特の社会と文化を作り育むことに貢献してきたわけですが、反面私たちは、外語に対する無理解といじましいまでのコンプレックスを育み、そして空気のような母語に対するありがたみの喪失を招いて今日に至っているのかもしれません。自らの文化や母語と相対化されたリテラシーとしての外語観が社会に根付いていない、あるいは希薄なのです。通訳という仕事への理解の薄さもここに起因すると思います。

留学生の言語生活から学ぶこと

私が日々仕事の現場で接している留学生のみなさんは、その多くが母国で土着の言葉と公用語(例えば中国なら“家鄉話”と“普通話”など)、加えて英語、さらには日本に留学して日本語と、めくるめくようなマルチリンガルの環境で生きてきています*2。そのメリットやデメリットはさておき、そんな彼らから私たちはいま自分に欠けているものを学べるのではないでしょうか。「日本語の発音が悪い」などとエラソーなことを言っている場合ではないのです。

外国人の不自然な日本語に対する日本人の許容度があまりに低いというのは、以前とある企業で採用担当をしていた時にも実感しました。応募者がAさんとBさんの二人いたとしましょう。

Aさん:日本語がとても流暢だが、採用試験の成績は悪い。SPIの結果もいまひとつ。
Bさん:採用試験の成績・SPIともに良好だが、日本語は少々拙い。

こんなとき、現場や採用担当の私はBさんを強く推しても、最終の社長面接ではAさんが採用されるのです。それはAさんの日本語が社長の耳に心地よかったから。その社長は日本語しか話さない方でした。

この経験は、冒頭で書いた留学生が「心折れる」シチュエーションと重なって見えます。単一の言語で社会がまわるのは素晴らしいことですが、その一方で表面的な言語の巧拙に隠れたその人の本質を見失うことにもつながるということを、私たちはもっと自覚すべきではないでしょうか。ちょうど昨日、ネットで見つけたこの記事にも通底する問題だと思います。

www.refugee.or.jp

私は、日本人は今まで以上に外語を学ぶべきだと思います。「就職に有利だから英語を」程度の低い志ではなく、自らの母語を豊かにし、ふたつ以上の言語を往還することがどれだけ大変で、深く、かつ楽しいものであるかを理解するために。

そして、学校教育では言語そのものの学習や訓練の他に、そもそも言語とは何か、言語の壁を越えるとはどういうことか、通訳や翻訳は社会でどのような役割を担っているか……等々のいわば「言語リテラシー」とでもいうべき内容を教えてほしい。

その先に、身の回りの外国人や留学生、「海外ルーツの子どもたち」、そして通訳者の仕事への理解も生まれてくるでしょう。

*1:日本語母語話者であっても、他人に自分の考えを伝える際の日本語の話し方は訓練する必要があります。テレビに登場する方でも時々、話しているのは日本語だけど、おっしゃっていることがよく分からない……という方はいますよね。

*2:タイ人だけどご先祖は福建省から移住してきた中国系で、そのため実家では福建語を使っているために聞き覚えがあり、同じ福建語系の台湾語を話す台湾の学生と意気投合とか、マレーシア人だけどルーツは広東にあって、香港の留学生と広東語で冗談を言いあうとか、数限りないパターンがあります。

フィンランド語 5 ……三桁の数字と値段

先回99までの数字が言えるようになりました。そして100は「sata」です。

100 sata
101 satayksi
102 satakaksi
103 satakolme

110 satakymmenen
111 satakymmenenyksi

200は「kaksi sataa」。最後に「a」がついて「サター」と伸びます。あとはこのパターンで999まで行けます。

200 kaksisataa
300 kolmesataa
400 neljäsataa

999 yhdeksänsataayhdeksänkymmentäyhdeksän(長い!)

値段の表現

Kuinka paljon tämä maksaa?
これはいくらですか?

Tämä maksaa kaksisataakuusikymmentäviisi euroa viisikyummentä senttiä.
これは265ユーロ50セントします。

EU加盟国で通貨もユーロを使っているフィンランド
euro ユーロ
sentti セント
……ですが、文章に入るとそれぞれ「euroa」「senttia」と最後に「a」が加わります。

教室では物の値段を聴き取るリスニング練習をしましたが、いや、最初はなかなか一度で聴き取れません。この感覚……中国語でも味わったことがあります。懐かしいです。フィンランドでも日本と同じくお買い得感を演出するために「198ユーロ」とか「889ユーロ」などの値段が多いそう。

889.50€ Kahdeksansataakahdeksankymmentäyhdeksän euroa viisikymmentä senttia(長い!)

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Tämä maksaa neljä euroa.

学校が後押しする「通訳ボランティア」について

先日、TwitterNHKのこの記事が「東京五輪・パラのボランティア」「やりがい搾取」というキーワードでトレンドに入っていました。

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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180521/k10011447361000.html

この件に関してはこれまでにも発信してきましたが、この期に及んでもまだ「やりがいをPR」と言っている組織委員会は問題のありかがあまりよくわかっていらっしゃらないご様子。今年七月に出すと言っている「具体的な募集要項」がどんなものになるのか、ちょっと興味があり、またちょっと怖くもあります。

qianchong.hatenablog.com

私が懸念しているのは、最終的な募集要項がやはり「やりがい搾取」に近い無償労働の域を出ないものであった場合、五輪が近づいた段階で「ボランティア要員」が足りなくなり、学校に「動員」がかかるような事態です。もちろん参加は個人の自由ですが、いまや巨大な営利目的イベントと化した五輪はいったいどういうものであるのか、その実態だけでも生徒に伝えておきたいと思っています。

でも、いま試みに「ボランティア 通訳 大学」で検索してみれば、多くの大学、なかでも外語系の大学や学部が、国際スポーツ大会、とりわけ2020年の東京五輪に向けて積極的に無償労働を推奨していることがわかります。

www.nikkei.com

こちらは上智大学が取り組むプログラム。早稲田大学など、他の大学からも参加があるようですが、右肩にある「TOKYO2020応援プログラム」のロゴで示されている通り、これは東京五輪組織委員会が後押ししている活動です。

www.tokyo2020sopp.com
www.waseda.jp
https://participation.tokyo2020.jp/jp/data/about_program-jp.pdf

こうした活動はすでに多くの大学と連携して進められており、こちらには様々な活動内容や、連携大学の一覧などを見ることができます。

tokyo2020.org

大学が国際的なスポーツ大会と連携してなにがしかの活動を行うこと自体は、その良し悪しは別にしてよくあることかもしれません。それでもこと語学に限って話を進めると、どうにも看過できない問題が散見されます。

例えば全国七つの外国語大学が数年前から推進している、これ

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https://www.u-presscenter.jp/item/12699.pdf

営利目的のスポーツ大会に、なぜ自らの学んだ技術を無償で提供しようとするのでしょうか。弱者支援や地域貢献のボランティア通訳とはわけが違うのです。しかも後援には「東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部」、協力には「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会」の名が。がっつり取り込まれているではありませんか。

2020年には、いやその前の2019年ラグビー・ワールドカップから、たぶんこの枠組を通じて多くの外大生がボランティア通訳として「動員」されることでしょう。ボランティアの通訳者が担当するフィールドはプロの通訳者とは必ずしも重ならないので「民業圧迫」などと言うつもりはありません。けれども、これでまた「話せれば訳せる」「通訳はボランティアで十分」という社会通念が強化されるでしょう。そのことが残念です。

学生さんご自身は外語の訓練になると考えるのかもしれません。また教師の立場から、語学や通訳技術を学ぶ学生さんに実地体験の場をというニーズも理解できないことはありません。通訳者としてエージェントに登録する際には「業務経験〇年以上」などというハードルが設けられてていることも多いのですが、その際にこうした「ボランティア通訳」の経験が活きるということもあるでしょう。

ですが、「話せれば訳せる」「通訳はボランティアで十分」と考え方を、雇う側のみならず雇われる自分さえも認めてしまったら、通訳者や翻訳者の技術に対して正当な報酬をという意識は育ちにくいですよね。本来であれば外語の学習や訓練に専門的に取り組み外語を極めた外語大学関係者こそ通訳や翻訳の面白さとともに難しさや怖さも理解しているべきだと思うのですが。でもこうして外語大学がこぞって無償労働を推奨しているのを見ると、教えていらっしゃる先生方もその知識や技術が社会で真っ当に遇されるべきことをあまり信じていないのかな、と思います。

……と嘆じていたら、偶然、こんなサイトを見つけてしまいました。

www.kobe-c.ac.jp
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これはすごいです。曲がりなりにも国際交流などの意義を掲げているスポーツイベントどころか、単なる私企業の営利目的にまで通訳や翻訳の「サービス」を(審査基準こそあれ)無償で提供するのです。同時通訳まで機材を手弁当で持ち込んで「サービス」するとあります。

同大学の説明(こちら)によると、このプログラムは「プロの通訳者・翻訳者を育てるための本格的トレーニング法を応用した独自のエクササイズを通して、日本語でも英語でも実社会において効果的にコミュニケーションできる力を伸ばす」ことが目的だそうです。学業や就職にとても役だったという学生さんの声が載せられている欄もあります。しかしこれも、繰り返しになりますが、通訳や翻訳に対して正当な対価を支払おうという社会通念を醸成するのとは真逆の流れに棹さすことにならないでしょうか。

以前にも書いたことですが、こういう風潮を助長しておいて「学生のうちは訓練として無償で通訳や翻訳をします、でも卒業してプロになったらきちんとした労働の対価を頂きます」と言っても、「はいそうですか」と予算を組み報酬をくれる官庁や企業は少ないでしょう。結局は「安かろう悪かろう」に陥り、ひいては自らの首をも絞める結果になるとなぜ想像が働かないのでしょうか。

神戸女学院大学といえば、思想家で武道家内田樹氏がかつて教鞭を執っておられた学校です(現在は退職されて名誉教授)。内田氏には「言語を学ぶことについて」という一文があり、私はこの文章を読んで、語学というものは、特に母語と外語を熟達したレベルで往還することは、非常に奥深く時に怖ろしいものであることを改めて感じました。

通訳や翻訳について、私が「話せれば訳せる」というものではないと繰り返し書き、また「通訳なんて二つの言語が話せれば、口先でちゃちゃっとできるでしょ」という社会の一部に根強くある信憑を繰り返し批判しているのは、この文章に勇気づけられてでもあります。

英語を最小の学習努力で習得しようとする費用対効果志向と、日本語はもう十分できているので、あとは量的増大だけが課題だと高をくくっているマインドセットは根のところでは同じ一つのものである。


どちらも言語というものを舐めている。


言語というのは「ちゃっちゃっと」手際よく習得すれば、労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種だと思っている。


そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれており、外国語の習得によってはじめて「母語の檻」から抜け出すことができるという言語の底深さに対する畏怖の念がない。言葉は恐ろしいものだという怯えがない。

言語を学ぶことについて - 内田樹の研究室

エラそうなものいいで大変恐縮ですけど、神戸女学院大学のご担当者さんにはぜひ「先輩」のこの文章を拳々服膺していただき、語学を単なる「労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種」だと思っていらっしゃらないか、それだけ「恐ろしい」語学の技術を提供する際には相応の責任と報酬も伴うべきではないか……などをもういちど考えてみてほしいと切に願います。

追記

先日この件に関してNHKさんからメールで取材を受けました。主題は豪華客船の寄港時におけるボランティア通訳と、それを学校が後押ししていることです。そこで「通訳」と「ボランティア」にしぼって、主に三つの論点を整理してお返事をしました。

①社会的弱者などへの人道支援ではない「商売」目的の活動に、「ボランティア」として募集が行われること、またそれを語学系の大学や高校などが積極的に後押しをしていることへの疑問。

②通訳者の仕事に対する無理解。

③私たち日本人の、外語(外国語)に対するあまりにもナイーブな(あるいは、うぶで素朴な)考え方への危機感。

以上を長文メールで熱く語ったんですけど、その熱さに「ドン引き」されてしまったのか、その後なんのお返事もご連絡も来ませんでした……しくしく。

しまじまの旅 たびたびの旅 48 ……潘安邦舊居と張雨生故事館

馬公の市街地まで戻って、「篤行十村」までやってきました。ここは日本統治時代に兵営と軍舎が建ち並んでいたところだそうで、かなりレトロな趣のある一帯が保存されています。すぐそばにはいまでも軍の施設があり、そちらはもちろん立入禁止ですが、この集落は自由に見学することができます。

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以前来た時には改修中で見学できなかった「潘安邦舊居」と「張雨生故事館」に行きました。お二人とも台湾の有名な歌手で、かつて二人がそれぞれ住んでいた家が「ご近所さん」で残っているのです。

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潘安邦は「外婆的澎湖灣」というヒット曲が有名。台湾のみならず、中国でもよく知られた歌です。

youtu.be

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潘安邦は数年前(2013年)に亡くなりました。52歳の若さでした。

張雨生も非常に有名なシンガーソングライター・プロデューサーですが、彼も自動車事故で31歳で早世しています。台湾映画『九降風(九月に降る風)』のエンディング曲として使われた『我期待』など、数々のヒット曲があります。

youtu.be

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お二人の家はどちらも、こぢんまりとした台所が印象的でした。このふたつの記念館については、こちらのサイトの写真がきれいです。

citystory1.blogspot.jp

フィンランド語 4 ……場所と「はい・いいえ」

olla動詞は、主語に合わせて変化し「A olla B」で「AはBだ」を表すほか、「A olla 場所」で「Aは、どこそこにいる/ある」も表せます。「〜に/で」を言う時の場所を表す言葉を学びました。

täällä ここに/で
tuolla むこうに/で
siellä そこに/で
kotona 家に/で
ulkona 外に/で

Minä olen kotona. 私は家にいます。
Minä en ole kotona. 私は家にいません。

それから、フィンランド語には明確な「はい・いいえ(yes・no)」にあたる言葉がなく、人称に合わせたolla動詞(またはその一部)を使って表すとのこと。へええ。

Anteeksi, mutta oletko sinä Lauri Lappalainen?
すみませんけど、あなたはラウリ・ラッパライネンですか?
Olen.(これが「はい」のかわり。一人称だから「olen」)Minä olen Lauri Lappalainen.
はい、私はラウリ・ラッパライネンです。


Anteeksi, mutta oletko sinä Seppo Savolainen?
すみませんけど、あなたはセッポ・サヴォライネンですか?
En.(これが「いいえ」のかわり。一人称だから「en」)Minä en ole Seppo Savolainen.
いいえ、私はセッポ・サヴォライネンではありません。


Onko Seppo Savolainen kotona?
セッポ・サヴォライネンは家にいますか?
Ei. (「いいえ」。三人称だから「ei」)Hän ei ole nyt kotona.
いいえ、彼はいま家にいません。


Onko Seppo Savolainen täällä?
セッポ・サヴォライネンはここにいますか?
Ei. (「いいえ」。三人称だから「ei」)Hän ei ole täällä nyt. Hän on kotona.
いいえ、彼はいまここにいません。彼は家にいます。

下の二つの会話の答えで「nyt(いま)」という単語が場所を表す「kotona」の前だったり「täällä」の後ろだったりしています。語順は重要ではなく、主語と動詞の選び方や変化が重要なんですね。

フィンランド語は「語順で話す言語ではない」というの、英語や中国語をさんざんやってきた人間からすると、とても新鮮です。とはいえ、日本語だってそうですけど。

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Minä olen kotona.

普通救命講習に参加してきました

先日申し込んでおいた、普通救命講習に参加してきました。

qianchong.hatenablog.com

四時間の講習は、教材費込みで1400円。テキストと、人工呼吸の際に用いる「蘇生用マウスピース」が配布されます。

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学んだことは、以下の四つです。

①心肺蘇生のやり方
自動体外式除細動器AED)の使い方
③気道異物除去のやり方
④止血のやり方

心肺蘇生

心肺蘇生は傷病者に反応と普段通りの呼吸がない場合に、呼吸と心臓の機能を補助するために行います。大きく分けて「胸骨圧迫」と「人工呼吸」に分かれています。

訓練では、傷病者を発見した際にどう行動するかから実技を含めて学びました。まず、すぐに傷病者に近寄るのではなく、周囲の安全を確認します。例えば道路の真ん中や踏み切りの中で倒れている場合は、自分の安全も確保できるかどうかを確かめるのが大切だからです。

次に、両肩を軽く叩きながら「大丈夫ですか」「わかりますか」などの声かけを行います。反応があれば必要な応急処置に移りますが、反応がない場合は、大声で周囲に助けを求め、119番への通報とAEDの搬送を依頼します。この時「そこの黒いスーツの男性の方、119番に電話して救急車を呼んでください」「そちらの女性、AEDを持ってきてください」などと具体的に人を指定して協力を求め、相手の反応も確認することが大切だそうです。

まずは119番、次にAEDの調達。周りに人がいれば手分けできますが、一人の場合は最低限119番に電話してから以下を始めます。いずれにせよ、救急隊に引き渡してできるだけ早く病院に搬送するのが最終目標だからです。あくまでもこれは「救急救命」ですもんね。

次に、呼吸の確認を行います。いきなり処置に入らない、と。傷病者の頭の方から胸を斜めに見るようにして、胸や腹が動いているかどうかを10秒以内で確認します。この時「1、2、3……」と数を声に出して数えます。成人の場合1分間にだいたい16〜19回は呼吸があるそうで、呼吸があれば10秒以内でも数回は胸や腹が動くことになります。

ここで注意すべきなのは、「死線期呼吸」と呼ばれるしゃくり上げるような途切れ途切れの呼吸、あるいは口をパクパクさせてあたかも呼吸しているように見える状態です。これは心臓が止まった直後に起こる現象で、これを普段通りの呼吸と勘違いして心肺蘇生が手遅れになることだけは避けてほしい、とのことでした。

呼吸がなければ「普段通りの呼吸なし、心肺蘇生開始」となります。まず胸骨圧迫ですが、首の下の鎖骨が合わさるところと、みぞおちのちょうど中間あたりを両手を組み合わせて手の根元を当て、1分間に100〜120回のペースで5cm圧迫。これを30回行います。ここまでの処置については、先般話題になった「British Heart Foundation(BHF)」のこの動画がとても分かりやすいです。


British Heart Foundation Vinnie Jones' hard and fast Hands only CPR

30回行ったら、人工呼吸に移ります。まず気道の確保。舌の根元(舌根)が気道を塞いでいる可能性があるので、片方の手を傷病者の額をおさえ、もう片方の手の二本の指であご先を軽く持ち上げるようにして頭を反らせるようにします。この時、首を絞めるような形にならないことが大切とのことでした。

このあと、鼻をつまみ、口全体を覆うように自分の口をつけ、横目で胸の上がり下がりを確認しながら「二回だけ」息を吹き込みます。直接口をつけるのがためらわれるような状態(嘔吐している、出血しているなど)の場合、配布されたマウスピースを使うこともできます。人工呼吸は胸の動きが確認できてもできなくても、とにかく「二回だけ」。すぐに胸骨圧迫に戻ります。

「普段通りの呼吸なし」と確認してから、胸骨圧迫×30回、人工呼吸×2回、胸骨圧迫×30回、人工呼吸2回……のサイクルで続けていきます。これ、かなり疲れるので、まわりに協力者がいる場合は交代してもらいます。交代するときもできるだけサイクルを途切れさせないため、胸骨圧迫を続けながら協力者に指示して「交代しますよ、1、2、3!」で瞬時に代わります。

心肺蘇生を中止するのは、①救急隊員が到着して引き継いだとき、②傷病者に反応が現れたとき、③普段通りの呼吸が始まったとき、だそうです。そこまではとにかく胸骨圧迫を続ける、人工呼吸はできなくても、胸骨圧迫だけはできる限り続けるのが大切と。心肺蘇生は呼吸を回復させるためのものですが、同時に、心臓を動かし続けて血液を脳に送り続けるというのも極めて重要な目的です。脳に酸素を届け続けるためで、これを怠ると蘇生しても重篤な後遺症が残る結果になってしまいます。

講習では、以上の流れを何度も、協力者役の人とペアになって実演しながら覚えました。

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AED

心肺蘇生を続けながら、AEDを使用します。協力者がAEDを持ってきてくれたら「AEDを使えますか?」と聞きます。使える場合はAEDの準備をその人に任せ、自分は心肺蘇生を継続します。使えない場合は上記の交代の要領で心肺蘇生を代わってもらい、自分がAEDを起動させます。

AEDはほとんどが自動で作動し、音声の指示に従って行動するだけです。ただし電源を入れるところだけは自分で行わなければなりません。電源ボタンを押すものや、カバーを開けただけで自動的に電源が入るものもあります。講習ではこの二種類をいずれも実習しました。

AEDが電極パッドを貼るように指示したら、服を脱がし、一枚を胸の右上、もう一枚を反対側のわき腹上あたりに貼ります。電極パッドは一度しか貼れない(貼り直しできない)ので注意が必要とのこと。また服を脱がすとき、電極パッドを貼るときだけ心肺蘇生を中断することになりますが、これも極力短い時間で行う、とのことでした。

このあとはAEDが自動で心電図を解析し、必要があれば電気ショックを与えます。傷病者に触れないよう指示が出たら、心肺蘇生を中断して傷病者から手を離します。電気ショックを与える指示が出たら、ショックボタンを押します。その後AEDから再度心肺蘇生を始めるよう指示が出たら、電極パッドを貼ったまま心肺蘇生+人工呼吸を継続します。この時、協力者は気道の確保を行います。電気ショックの指示は何度も繰り返し出るので、その度にAEDの指示に従います。

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今回の講習では、心肺蘇生とAEDの二つの処置をスムーズに行えるよう訓練しました。これは主として成人への処置で、子供や赤ちゃんに対しては多少違う配慮が必要なのですが、それは講義だけで実習は行いませんでした(上級講習に出ると学べるらしいです)。ただ、AEDは赤ちゃんに対しても使えるというのは初めて知りました。最近のAEDは成人用と子供用で電圧を変えるスイッチがついているそうです(その機種も実習で扱いました)。

最後に一連の流れの実技試験があり、〇×式の筆記試験があって、救急技能認定証をもらいました。

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これがあっても、実際に傷病者が発生した現場に居合わせたら、かなり動揺すると思います。協力者がいるかどうかも分かりませんし、服を脱がせるのも(特に相手が女性だったらなおさら)ためらうかもしれません。それでも「まずは119番! 次に呼吸と脳への血流を確保するためとにかく心肺蘇生!」という一連の流れは体得することができました。もらったマウスピースは今後常時携帯していようと思います。

今回訓練で使用したのはこんな人形でした(健康な人間に対して心肺蘇生を試しちゃいけません!)。

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http://www.aedshop.jp/

ちょっとコワいですけど、実際の現場はもっとコワいだろうな、と思いました。できれば自分も他の人も、そういう場面に出くわさないのが一番幸せですが、講師の先生がおっしゃっていた次の言葉が心に残りました。

一人でも多くの人に救命技能を知ってもらうことで、誰かの命を助けることができる。そしていつか自分が傷病者になったときには助けてもらえる。私たちはそういう社会を作って行かなければなりません。

そういう場面に出くわさないことを祈りつつ、でも出くわした場合はためらわずに行動したいと思います。講習は各地の消防署などで行われています。東京都の場合は、こちらです。

www.tokyo-bousai.or.jp

講習に参加したおかげで、昨日からずっと「ステイン・アライブ」が脳内ヘビロテしています。

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腰痛予防クッション

肩凝りと腰痛を改善し予防することを目指して、パーソナルトレーニングに通い出して約八ヶ月あまり。肩凝りは「完全」と言っていいほどに雲散霧消しました。以前は痛さを通り越してピリピリと痺れるくらいで、夜も痛さで目が覚めるくらいだった肩凝りがなくなったのは本当にありがたいです。

ジムで、肩凝り改善のためにトレーナーさんから集中的に指導を受けたのは、肩甲骨を自由自在に動かせるようになることです。最初は肩甲骨がどこにあるのかの自覚すらなく、動かしてといわれても動かず、動いても自分で「動いている」と自覚できませんでした。

そのうち、トレーナーさんが肩甲骨に手を当ててくれれば骨の位置と動きが意識できるようになり、やがてそのサポートがなくても意識的に肩甲骨を寄せたり離したり、上げたり下げたりできるようになりました。そして、気がついたら肩凝りが消えていました。

もちろん長時間パソコンに向かうなどしていると肩が凝ってくるのですが、ちょっと腕を上げ下げしながら肩甲骨を動かすと、かなり改善されます。自分の身体を、意識して使う・動かすことができるというの、とても大切だと思います。身体を意識して制御できないから、不意の不調に見舞われるわけですね。

こうして肩凝りは「退治」できましたが、しつこいのは腰痛のほうです。こちらはなかなか立ち去ってくれません。立っているとき、歩いているとき、運動しているときは腰痛を感じないのですが、椅子に座っているとき、それも長時間座り続けていると必ずと言っていいほど腰痛、あるいはその気配がしのびよってきます。

レーニングで教わった座り姿勢、すなわち骨盤を立て、背筋を伸ばして胸を軽く張るような姿勢を維持できればいいのですが、ややもすると臍がへこんで背骨が曲がるような座り方(よく電車で若い男性なんかが浅く腰掛け、足を前に投げ出してるような姿勢を見かけますよね。あんな感じ)になってしまいます。

それをトレーナーさんに相談したら「そうですね、いつも注意して気を張って座っているわけにもいかないですからね。背筋を伸ばして座れるクッションみたいなものを利用してみてはどうですか」とアドバイスされました。

というわけで、ネットでいろいろ調べて、こちらのクッションを購入してみました。


IKSTAR 第四世代座布団 低反発クッション

購入して一週間ほど。今のところなかなかいい調子です。骨盤の後ろあたりを低反発クッションで支えて持ち上げるような形になるので、腰が「くたっ」とならないですし、長時間座っていても疲れません。仕事場で使用していますが、自宅用にももう一つ購入しました。

フィンランド語 3 ……olla動詞と指示代名詞、時間

指示代名詞

tämä これ
tuo あれ
se それ

……を使って「mikä?(なんですか?)」、「millainen? / minkälainen?(どのようですか?)」を聞き、答えます。「これ・あれ・それ」はいずれも「私」でも「あなた」でもない三人称なので、olla動詞は「on」になります。

●肯定形
Tämä on … これは…です。
Tuo on … あれは…です。
Se on … それは…です。

●否定形
Tämä ei ole … これは…ではありません。
Tuo ei ole … あれは…ではありません。
Se ei ole … それは…ではありません。

●疑問形
Onko tämä …? これは…ですか?
Onko tuo …? あれは…ですか?
Onko se …? それは…ですか?

●否定疑問形
Eikö tämä …? これは…ではないのですか?
Eikö tuo …? あれは…ではないのですか?
Eikö se …? それは…ではないのですか?

Mikä tuo on?あれは(何ですか?)
Se on musta kissa.(それは黒い猫です。)


Tuo on iso kissa.(あれは大きな猫です。)
Onko se kissa? Eikö se ole tiikeri?(それは猫ですか? それは虎ではないのですか?)
Ei. Tiikeri ei ole musta.(いいえ。虎は黒くありません。)
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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_195.html

フィンランド語はあとから格変化や省略が山ほど出てくるので、この段階はとにかく単語を収集してできるだけ覚えてください、ということで、新しい単語が出てきたらQuizletに放り込んで、すきま時間に覚えることにしました。

quizlet.com

時間の表現

Kuinka paljon kello on?
Paljonko kello on?   ……いずれも「何時ですか?」
Mitä kello on?

答え方は、①正時、②01分から29分、③半、④31分から59分の四種類で言い分けるそうです。例えば……

①10:00 Kello on 10.
②10:15 Kello on 15 minuuttia yli 10.
③10:30 Kello on puoli 11.
④10:45 Kello on 15 minuuttia vaille 11.

「yli」は「過ぎ」、「vaille」は「足りない」だそうですが、③半以降は次の正時からの引き算というのが面白いですね。ちなみに時刻は24時間制で言えばよく、零時は「Kello on 0.」でも「Kello on 24.」でもよいとのこと。また午前1時を「Kello on 25.」ということもあるそうです。

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Kuinka paljon kello on?(何時ですか?)
ーー Kello on kaksikymmentäkahdeksan minuuttia yli kuusitoista.(16時28分です。)

暗く小さな声の生徒を前にして

通訳の訓練をしていると、生徒さんの中には、声が暗く、小さく、元気がない方がまま見受けられます。自分の訳出に自信がないので小声になるのだと思われますが、どうもそれだけではないみたい。訳出のたびに「もっと声を大きく、活き活きと、語りかけるようにしてください」と何百回(誇張ではありません)言っても改善されず、いささか倦んでます。

通訳者も一種のサービス業ですから、正確さの他に、笑顔とか明るさとかホスピタリティとか、それなりのポジティブな要素が求められると思うんですけど、いくら「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやっても、動か」ないのです……。向いてないというのは簡単ですけど、そうもいかず。

qianchong.hatenablog.com

ただこの点に関して、阿部公彦氏の『史上最悪の英語政策』には学校の語学教育における「楽しさ」や「明るさ」の強制に対する批判が展開されていました。昨今のスピーキング重視政策は「明るく積極的に人前で話そう」という考えとセットであり「明るさの強制」ではないかと。


史上最悪の英語政策—ウソだらけの「4技能」看板

もちろんこれは中高での英語教育に関するお話なので、通訳訓練と同列には論じられません。もとより通訳訓練は職業訓練でもあり、「お足」をいただく職業である以上、求められる態度というものがあるからです。ただ「感情のイデオロギー」を強要するのは一種のファシズムだと言われると、正直、心が揺れます。

実際、かつてとある学校で、暗い声のデリバリーを繰り返す生徒に対して「明るさ」を繰り返し求めたところ「個人の性格に対する不当な強制だ」という抗議を受けたことがあります。「私はそういう人間なのだ」と。それで食えるなら苦労しないので当時は意に介しませんでしたが、今にして反芻しています。

前述書には「必ずしも明朗でない生徒や、恥ずかしがり屋でおとなしい生徒に『積極性』や『前向きさ』を押しつけるほど暴力的なことはありません。そういう生徒が表層の価値では測れない能力を隠し持っていても、この『前向きイデオロギー』は彼らの潜在力を圧殺してしまうのです」と書かれています。

中高の語学教育と職業訓練は違う…とはいえ、通訳訓練をしている生徒全員がプロの通訳者になるわけではありませんし、なれません。となれば、生徒が通訳訓練を通して育てることができる自分の能力は必ずしも「前向きで明るい」ものではないかもしれない、そう考えてしまったのです。

私は同時通訳でもあまり“低調”にしていられず、つい興奮して声が大きくなってしまう人間です。中国語学校の発音訓練では先生から「みんなもっと声を大きく!あ、君はもう少し小さくていいから丁寧にね」と一人だけ注意されました。でも本当は引っ込み思案で人みしりな人間なんです(笑わないように)。

それでも語学を仕事にしようと思った時点で私は、積極的で前向きにならざるを得ないと覚悟しました。ただそれは私個人の事情であって、訓練全体に敷衍できるものではないのかもしれません。通訳訓練だというのに口と鼻を覆うマスクも取らず、目だけ出して俯いている生徒を前に、どうしたものかなあと思案することしきりなのです。いまはまだ目だった反応が見えなくても、長い時間が経つうちに何かが醸成されてくることを期待して。

フィンランド語 2 ……olla動詞と人称変化

olla動詞(オッラ動詞)はA=B、つまり「〜は〜だ」とつなぐときの基本的な動詞だそうです。英語で言えばbe動詞みたいなものですか。これが人称に合わせて変化します。

●肯定形
(Minä) olen … 私は…です。
(Sinä) olet … あなたは…です。
Hän on … 彼/彼女は…です。

MinäとSinäがカッコ書きなのは、実際にはolla動詞が変化した“olen”か“olet”を言えば「私」か「あなた」かは自明なので省略されることもあるからとか。主語が消えちゃうというの、日本語とも似ています。

上記三つは「肯定形」ですが、このほか「否定形」、「疑問形」それに「否定疑問形」があります。

●否定形
(Minä) en ole … 私は…ではありません。
(Sinä) et ole … あなたは…ではありません。
Hän ei ole … 彼/彼女は…ではありません。

●疑問形
Olenko (minä) …? 私は…ですか?
Oletko (sinä) …? あなたは…ですか?
Onko hän …? 彼/彼女は…ですか?

●否定疑問形
Enkö (minä) ole …? 私は…ではないのですか?
Etkö (sinä) ole …? あなたは…ではないのですか?
Eikö hän ole …? 彼/彼女は…ではないのですか?

まずは人称代名詞とそれによって変化したolla動詞の組み合わせを覚えるということですね。なるほど。

Kuka sinä olet ? あなたは誰ですか?
Minä olen Kei Tokuhisa. 私は徳久圭です。
Minkämaalainen sinä olet ? あなたはどこの国の人ですか?
Minä olen japanilainen. 私は日本人です。

「kuka」は「誰」という疑問詞、また「minkä」は「どの」、「maa」は「国」、「lainen」は「人」で、「minkämaalainen」という長い言葉が「どこの国の人?」になるそうです。まるで中国語の「哪国人?」ですね。

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しまじまの旅 たびたびの旅 47 ……ガジュマルとサボテンアイス

西嶼の島をぐるっと一周して、また澎湖跨海大橋まで戻ってきました。朝よりは観光客が増えているもよう。みなさん車が途切れるのを狙って、橋の中央でバンザイして写真を撮りたがるのね。チャイニーズの方々の、記念写真におけるポーズや構図へのこだわりは半端ではありません。

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大橋を渡り終えたらすぐに右折。ここには樹齢何百年といわれるガジュマルの樹(通樑古榕)があって、木陰で一休みすることができます。何とこれすべてがたった一本の樹だというのですが、ほんとかしら。

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木陰の一番奥にはお廟があります。

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ここの「名物」はサボテンアイス(仙人掌氷淇淋)。大橋を渡って右折したすぐの所にお店があって、観光客でごった返しているのですが、ガジュマルの樹のすぐ脇にももう一軒小さなお店があって、地元のネット情報ではこちらの方が人気なようなので、こちらにしてみました。

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木陰で食べていると、視界に入ってきたのは……なぜか放し飼いになっているニワトリ(チャボ?)でした。アイスを狙ってるわけではなさそうですが。

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フィンランド語 1 ……入門

フィンランド語を学び始めました。中国語も英語もまだまだなのに、なんでまた? とまわりからは聞かれます。フィンランド語って、基本的にフィンランドだけでしか通じないんでしょ? だったらもう少し「使いで」のある言語にすればいいのに、と。

それはまあそうなんですけど、今回は「外語学習とは、母語との往還を通して、母語では描ききれない世界を知り、自分の母語での思考に質的な変化を起こすこと」というのを自分でもういちど検証・実感してみたかったのです。つまり外語を学ぶのは、その外語が話せるようになるという「実利」以上に、自らの母語をより深めるためなのだというスタンスです。

それはそれとして、メジャーな言語、例えばフランス語やイタリア語やドイツ語を学んでもいいんですけど、どうせなら(?)もっとマイナーな言語、それもアジアのじゃない言語を……と考えて、フィンランド語にしてみました。いやほんと、単なる思いつきです。

教科書は、これです。

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Suomea suomeksi 1 - Olli Nuutinen - kirja(9789522225702) | Adlibris-verkkokirjakauppa

発音

フィンランド語の発音は、それほど難しくなさそうです。基本的には、いわゆる「ローマ字読み」でいいみたい。アルファベットにあたる“Aakkoset(アーッコセット)”は、jがeとiの中間みたいな音、rが巻き舌っぽくなること、yが中国語のウムラウトみたいな音、それにä(aとeの中間みたいな音)、ö(eとoの中間みたいな音)があるくらいで、あとはすぐに読めるようになりました。

数字

まず0から10までを覚えました。
0 nolla
1 yksi
2 kaksi
3 kolme
4 neljä
5 viisi
6 kuusi
7 seitsemän
8 kahdeksän
9 yhdeksän
10 kymmenen

11から19までは、1から9のあとにtoistaをつけるだけ。
20は、2+10で、kaksi+kymmenenですが、ちょっと変化してkaksikymmentä。つまり20以上の“10”はkymmentäを使えばいいということですね。これで99まで行けます。たとえば87なら、kahdeksankymmentäseitsemän(長い!)です。

簡単な挨拶

おはようございます Hyvää huomenta.
こんにちは Hyvää päivää.
こんばんは Hyvää iltaa.
おやすみなさい Hyvää yötä.
さようなら Näkemiin.
じゃあね Nähdään.
ありがとう Kiitos.
どういたしまして Ei kestä.
はじめまして(知り合えてうれしいです) Hauska tutustua.
こちらこそ Samoin.
すみません Anteeksi.
乾杯! Kippis!
Kiitos(キートス)は映画『かもめ食堂』でも何度か聞きいたような気がします。

フィンランド語は「膠着語」で、語順よりも、多様な格変化で話す言語だそう。その点では日本語に似ていますね。さあどうなることやら。まあ「就職に有利」とかいう理由ではまったくない語学なので、気長に楽しみながら学んでいこうと思います。さて、母語(日本語)に新たな質的変化は起こるでしょうか?

ボランティアに頼る「商売」はおかしいと思います

先日、Twitterのタイムラインにこんなツイートが流れてきました。


http://www.iibc-global.org/iibc/activity/volunteer/rugby.html

詳細はリンク先にあたっていただくとして、概略だけ記すと「2日間で、拘束時間は合計12時間。10名募集。イベントTシャツとイベントタオル、それに全日程合計で2000円の交通費を支給」とのこと。よくあるタイプのボランティア募集広告ですが、これは地域振興も兼ねてはいるけど「スーパーラグビー」というプロリーグのイベントですよね。それならきちんと予算を組んで、通訳者に報酬を出してほしいと思います。

しかももっと不思議なのは、このツイートをTOEICの公式アカウントが発信されていることです。ビジネスで英語を使うこと、つまり「英語で食べていく」ことを目標として検定試験を運営している団体が、なぜ「通訳という作業は無償でよい」という風潮を後押しするのかが分かりません。

スポーツの国際大会は「通訳ボランティア」の募集が盛んなようで、ネットで検索すると驚くほどたくさん見つかります。例えば、この「神戸マラソン」。

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http://kobe-marathon.net/2018/volunteer/group.html

募集要項を拝見すると、語学への軽視もさることながら、報酬・交通費・食事一切提供なし、雨天でも傘を差せず、更衣室もなく、貴重品等は自己管理だけどリュック等は禁止、ケガ等は保険の適用範囲(詳細不明)のみ、場所によってはトイレも行けず……と、なかなか過酷な条件です。

kobe-marathon.net

ウェブサイトを見ると、26ものスポンサー企業が名を連ねています。なぜそうした企業とも協力し合って、通訳者に報酬を出し、安全を確保してあげようとしないのでしょうか。言葉が通じないというのはとても大きなリスクです。そのリスクを回避するために通訳者の存在が必要になるわけですが、それを「ボランティア」の美名で募るという、善意のみに頼った大会運営は、失礼ながら破綻していると申し上げるほかありません。

地域のイベントを手弁当で盛り上げようというのは分かるんです。また社会的弱者のためのボランティアであれば語学の技術を無償で提供するのも「あり」だと思います。かくいう私だって、いろいろと参加したことはあります。でも多くのスポンサー企業がつくイベントでそれはないだろうと思うのです。地域振興でもあるけれど「商売」でもあるじゃないですか。商取引には相応の報酬が用意されなきゃおかしいですよ。

「商売」といえば、これも「通訳 ボランティア」でネットを検索して意外に多く見つかるのが外国の豪華客船、クルーズ船が日本に寄港した際の観光客対応です。募集要項には「日常会話程度で可」とか「専門知識は不要」といった記述が散見されます。こうした行政のスタンスを見るにつけ、通訳なんて「話せれば訳せる」簡単な作業だと思われていること分かります。

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広島のみなと
境港クルーズ客船観光案内ボランティア募集
www.kankou-nichinan.jp
www.city.abashiri.hokkaido.jp

以上に上げたリンクは、ほんの一部です。財政難のなか地域振興をというお気持ちは分かりますが、これももう完全に「商売」の世界ですね。通訳という技術を無償奉仕に頼るのは大いに疑問がありますし、そも「通訳」や「語学」に対するリスペクトの欠如があまりにも露骨に見えていて、内心穏やかならぬものがあります。

しかも不思議なのは、そうした活動の多くを、地元の大学や高校が「語学の練習ができる」と積極的に協力していることです。外語を学んで、それを社会で活かしながら仕事をしていこう(食べていく=報酬を得る)という生徒さんがいる学校が、みずから「自分の首を絞める」ような行為を後押ししているではありませんか。

これでは生徒さんに向かって「いまあなたが学んでいる技術では食べていけないですよ」と宣言するようなものです。語学系の学校であればなおさら語学についてのしっかりした矜恃、つまり技術の習得は容易ではなく、だからこそ、その技術の使用には責任がともない、相応の報酬も必要であるということを教えてほしいと思います。

外国人観光客と地域の人を繋ぐ、通訳ボランティア | 福井大学
www.kobe-cufs.ac.jp
this.kiji.is
www.youtube.com

外語を「話せなければ訳せない」のは当然ですが「話せれば訳せる」わけでもない、というのは外語教育に携わるものなら自明のことです。しかもその道のプロを社会に送り出そうとする教育機関が、通訳など外語を話せれば簡単だ、無償でいいのだという社会通念を広める活動になぜ加担するのかが判りません。

学生のうちは訓練として無償で通訳や翻訳をします、でも卒業してプロになったらきちんとした労働の対価を頂きますといって、「はいそうですか」と予算を組み、報酬を出す官庁や企業は少ないでしょう。大抵は安かろう悪かろうに陥り(実際一部ではそうなりつつあります)、ひいては粗雑なコミュニケーションが蔓延して国益を損なっていくのです。

国益」なんてナマな言葉はあまり使いたくありませんが、実際にこの国の、外語や異文化・異言語コミュニケーションに対するナイーブさや無邪気さを日々実感(例えば「言葉は拙くても誠意があればきっと伝わる」など。伝わりません)している者としては、声を大にして申し上げねばなりません。

東京では2020年にオリンピック・パラリンピックが開催されます。その際にも通訳者を含む様々な業種・作業のボランティアが募集される(確かこの七月から本格的に募集が始まるはず)と聞いています。私が勤務している学校にも語学を学んでいる留学生がたくさんおり、ひょっとして「動員」がかかったりするんじゃないかといまから心配しています。もちろん参加不参加は個人の自由ではありますが、ボランティアの美名に名を借りた過酷な労働ではないのか、無償で自分の技術を提供する(しかも営利目的に巨大スポーツ大会に)意義はあるのかだけでも検証し、伝えたいと思っています。

qianchong.hatenablog.com

それにしても……。語学(なかんずく英語)に全国民をあげて狂奔させる一方で、社会全体にはまだまだ、あちこちに語学に対するあまりにもひどいリスペクトの欠如が見られます。これは政府や企業だけでなく、私たち一人一人が胸に手を当てて考えるべき問題ですね。私たちは何のために語学を学ぶ・学ばせるのかと。

qianchong.hatenablog.com

追記

今朝、留学生のみなさんにも「やりがい搾取」への注意喚起を行おうと、あらためて神戸マラソンのウェブサイトに行ってみたところ、昨日まであった「ボランティア活動の留意事項」が消えていました。

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理由は不明ですが、Twitterで多くの方がリツイートしてくださった結果、担当者さんが対応されたのかもしれません。待遇が改善される方向に行くのか、それとも過酷な待遇のまま(それを表に出さないで?)募集が続けられるのかは分かりません。ぜひ改善の方向で進めていただけることを心から期待したいと思います。

能楽の「素人会」プログラムをご紹介します

能楽堂に行くと、ロビーなどに様々な能や狂言などの公演のチラシとともに、「〇〇会」などと書かれた薄い小冊子状のものが置かれていることがあります。これは能楽のお稽古をしている一般の方々が定期的に行う発表会・温習会、あるいは「素人会(しろうとかい)」と呼ばれる催しの番組(プログラム)です。

こうした会は玄人、つまりプロの能楽師の先生方についてお稽古をされているお弟子さんたちが、日頃の研鑽の成果を発表するというもの。お稽古をしている方々にとっては、本物の能楽堂の舞台に立てる貴重な機会です。

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http://kita-noh.com/schedule/5980/

私も年に一、二度参加していますが、まあ素人の発表会ですから、そこはそれ、正直に申し上げて「玉石混淆」。素人とはいえもう何十年も研鑽を積まれている大ベテランで「玉」の方もいれば、私のような腰痛防止のために身体動かさなきゃ……ってんでお稽古始めました的な「石」もおります。

それでも、素人会はなかなか面白いです。まず、ほとんどの会は、本格的に能楽堂能舞台を使用する公演なのに入場無料。しかも、メインで仕舞や舞囃子などを披露する方は素人でも、その後ろや脇を固めるお囃子や地謡の方々はプロの能楽師であることも多いのです。若手から中堅の能楽師はもちろん、時には人間国宝級の方々も出演しているので、非常に見ごたえ・聞きごたえがあり、能楽の世界にどっぷり浸ることができるお得な機会でもあることはあまり知られていません(メインの素人さん演者にはいささか失礼な物言いではありますが)。

というわけで、ここに、今年六月に行われる、私も参加する会の「番組」がありますので、宣伝を兼ねて番組の読み方や用語などの解説を試みてみたいと思います。

素人会、玄人会問わず、ほとんどの番組はこんな書式(?)です。番組とはプログラム、出し物、といったような意味。

連吟(れんぎん)

能の謡曲(謡:うたい)の一節を二人以上で謡うものです。ちなみに一人で謡う場合は「独吟(どくぎん)」となります。一番上にある大きな文字が曲名(猩々:しょうじょう、西王母:せいおうぼ、敦盛:あつもり、など)。その下にお一人の名前があり、この方が最初の謡い出しなど能の主人公である「シテ」の部分を謡います(シテ謡:してうたい、などといいます)。

そのまた下に二段にわたってずらっと並んでいる名前の人たちが、シテ謡の人と一緒に謡います。謡は斉唱(ユニゾン)でハモったりはしませんが、それでも大勢で謡われる謡には一種独特の迫力があります。

ちなみに今回「猩々」と「西王母」でシテ謡を担当するお二人は、いずれも年若いお子さんです。能には「子方(こかた)」と呼ばれる、小学校くらいまでの子供が専門に担当する役どころがあって、それが武将や天皇など高貴な人物であるという、一種の「倒錯(といっては語弊がありますが)」がよく行われます。これは子供だけが持っている一種の神聖性を表徴させるためらしいのですが、今回の連吟でもいわば子方にあたるような年齢のお二人にシテ謡という重役を担っていただくという、なかなか粋な趣向なのです。

仕舞(しまい)

そのあとに続くのが、仕舞です。これは能楽のお稽古では一番ポピュラーなもののひとつで、能の一節を黒紋服に袴姿、あるいは着物姿で、つまり装束(衣装)や面(おもて:仮面)をつけないで舞うものです(能楽では「踊る」と言わず「舞う」と言います)。

こちらは玄人の仕舞です。
youtu.be

仕舞の際には、通常四人ほどの「地謡(じうたい)」が舞台の後ろに座って謡います。この地謡は、玄人の先生方が担当することもあれば、お稽古仲間の素人が担当することも、また玄人と素人の混成であることもあります。素人会の番組では通常、仕舞を舞うシテの名前だけが書かれ、地謡の名前は省略されることが多いようです(演者が多いので煩雑になりますもんね)。

番組の上の方には時間が書かれています。これはおおよそこれくらいの時間にこの番組が上演されていますよ、ということを示すためのものです。こうした素人会は番組と番組の合間に出入り自由なので、発表会を見に来るご家族やご友人の便に供するという意味合いもあるのだろうと思います。

舞囃子(まいばやし)

10:30頃からは舞囃子が続いています。舞囃子は一般に仕舞よりも長い一段を舞います。しかも地謡の他に「囃子方(やはしかた)」が入って、より本格的な能に近い形になります。とはいえ、舞囃子も基本的には装束などを着けません。

youtu.be

曲名の下にシテを舞う方のお名前。その下に三人、あるいは四人書かれているのが囃子方で、基本的にはプロの能楽師です(お囃子の楽器を担当する方々も「能楽師」といいます)。三人の場合は笛(能管:のうかん)・小鼓(こつづみ)・大鼓(おおつづみ)。四人の場合はここに太鼓(たいこ)が加わります。

実際に舞囃子を舞ってみるとよく分かりますが、このお囃子、特に玄人のそれは、かなりの大音量・大迫力です。お囃子とはよく言ったもので、まさにその奏でる音楽に「囃され」、舞わされている感じがします。玄人の囃子方の演奏や、様々な気合いのこもった掛け声などは特に聞きごたえがあります。

また仕舞では基本的に、シテか地謡が常に謡っている状態で舞が進行しますが、舞囃子ではその他に、囃子方の音楽だけで舞う部分が含まれているのが普通です。その舞にも曲によって「舞働(まいばたらき)」「中之舞(ちゅうのまい)」「序之舞(じょのまい)」「男舞(おとこまい)」「神舞(かみまい)」「神楽(かぐら)」「楽(がく)」など様々なものがあり、お稽古の進捗に合わせて師匠の先生と相談しながら「じゃあ次はこれにチャレンジしてみましょう」という感じでお稽古に勤しんでいます*1

このページの一番最後の番組、「清経(きよつね)」の舞囃子を舞うシテは玄人の先生、つまりプロの能楽師です。この番組だけは、囃子方の中にお一人、素人でお稽古をされている方が入り、シテは玄人にお願いして舞っていただくという、なんともぜいたくな趣向になっています。ここ、見どころのひとつです。

番組の構成は様々ありますが、こうして仕舞と舞囃子が交互に、そのまた合間に謡などが入ってくるのがよくあるパターンです。

このページの仕舞には、曲名の下に小さな文字で「クセ」と書かれているものがあります。これはひとつの曲にいくつかの仕舞(仕舞ドコロ、などと謡本に書かれていることもあります)が含まれていることがあるためで、クセはそのうちのひとつです。

クセは「曲(クセ)」。一曲の中核になる重要な部分と物の本には書かれており、一般的に静かにじっくり聞かせ、舞うものが多いです。その一方で、あとから出てくる「キリ」は「切り」。一曲の最後の部分で、どちらかというと勇壮でドラマチック、あるいはスペクタクル性の強い謡と舞であることが多いです。

能(のう)

今回の素人会には、なんと能が丸々一曲かかります。それがこのページにある「杜若(かきつばた)」。素人さんで能を一曲舞うというのはなんともすごい努力と挑戦ですよね。

能の番組だけは独特の書き方があって、まず主人公のシテ(この方がお稽古をされている素人さんです)が曲名の右肩に。役名も書かれています。曲名の真下には、脇役として能の夢幻的な世界と観客の現実的な世界と取り持つ「ワキ方(わきかた)」のお名前。その下に囃子方四人のお名前。さらには曲全体の進行を司る「後見(こうけん)」のお二人と、地謡八人の名前がすべて記されています。

今回は、シテと地謡の二人以外はすべて玄人の能楽師が総出演。しかも本格的な能の上演ですから、装束や面から「作り物(つくりもの:道具類)」までプロの舞台とまったく同じものが使われます。しつこいようですけど、これも無料で見られちゃうんですから、素人会、かなりお得でございます。

ちなみに地謡の並び方にも、基本的な決まりがあります。前列四人、後列四人のうち、後列の方がベテラン格になり、なかでも真ん中のお二人がさらに格上です(前列も同様)。地謡をリードする方を「地頭(じがしら)」と言いますが、この曲の地頭は、能楽喜多流の著名な能楽師である塩津哲生(しおつ・あきお)師です。

そのあとも連吟や仕舞や舞囃子が続きまして……

トリを飾るのは舞囃子の「船弁慶(ふなべんけい)」や「高砂(たかさご)」など、勇壮かつダイナミックな舞が特徴の曲です。「船弁慶」は扇のほかに薙刀を使って舞いますし、「高砂」は途中に登場する舞が「神舞(かみまい)」という、まさに「神!」的なスピードで展開する舞になっています。しかも「五段」ですから、ふだんは「三段」になることも多い神舞がより長くたっぷりと入っています。

youtu.be

いやいや、なかなか盛りだくさんでしょう? 入場無料・入退場自由のいたって気楽な会ですので(とはいえ演じる素人の私たちは舞台裏で異様な緊張感に包まれていますが)、お時間があればぜひ能楽堂にお出ましくださいませ*2

能楽における素人とは

伝統芸能能楽は、もちろん能楽師の方々の弛まぬ努力によってその伝統を今に受け継いでいるわけですが、一方で観客として、あるいは愛好者として能楽を支える素人もまた現代と未来に能楽が続いていくための重要なファクターとして存在しています。

プロの能楽師の先生方も、その重要さをじゅうぶんに分かっていらっしゃるからこそ、ご自身のお稽古や公演など忙しいスケジュールの合間を縫って、ここまで素人の発表会につき合ってくださるのです。

www.wochikochi.jp

下世話な話ではありますが、能楽をお稽古して、定期的にこうした発表会に出るとなれば、それなりの出費も必要になります。謡や仕舞ならまだしも、舞囃子や、能一曲まるまるとなると、そこに参加するプロの能楽師の数からしてもその出費には予想がつこうというもの。それでも能を愛好する素人のみなさんと玄人の能楽師の熱意で、こうした「素人会」があちこちで開かれているのです。

今回ご紹介した「佳門会(けいもんかい)」は、能楽喜多流能楽師、塩津圭介(しおつけいすけ)師の社中(一門のみなさん)の方々の素人会です。

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ぜひぜひご高覧を賜りたく存じます。

*1:ちなみに「楽」は「中国物(ちゅうごくもの)」と呼ばれる、中国語題材にした能によく出てくる舞です。滔々と流れる大河のようなリズムと複雑な足拍子が特徴で、魅力的かつ難しい舞です。いつかこれが舞えるようになりたい、というのが私の今の目標です。

*2:私は今回、連吟で「猩々」、仕舞の地謡で「安宅(あたか)」「天鼓(てんこ)」「三輪(みわ)」、舞囃子地謡で「羽衣(はごろも)」「清経」「高砂」、能の地謡で「杜若」、それに自分の舞囃子「龍田(たつた)」に参加させていただく予定です。すべての謡を間違えずに謡えるかしら……というのもさることながら、舞囃子「龍田」に出てくる「神楽」の舞できちんと拍子を踏めるかしら、一時間以上もある能「杜若」でずっと能舞台に正座して、終演後に舞台から捌ける際、足がしびれずちゃんと立てるかしら、というのがいささか心配です。

しまじまの旅 たびたびの旅 46 ……西嶼西臺

翁島灯塔にほど近い西嶼の最南端にある「西嶼西臺」は清朝の時代に作られた要塞の遺構です。上から見ると歪んだ正方形のような構えになっていて、中にはトーチカや兵営だったと思しき部屋がいくつも連なっています。

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要塞の先端には巨大な四門のアームストロング砲が残されています。そばのトーチカには、レプリカでしょうけど砲弾もおかれていました。

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西嶼西臺

こちらのサイトによると、この場所はミュージシャンのMV撮影でよく使われるとのこと。確かに、ちょっと殺風景で、現実離れした独特の光景ですから、芸術家の感性が刺激されるのかもしれないですね。

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若き日の郭富城(アーロン・クオック)『別說』。確かに会談とかトーチカなど西嶼西臺らしき場所が出てくるけど、これでは「ロケ場所」とは言えないかなあ。

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蕭亞軒(エルバ・シャオ)の『愛上愛』。これもほんの少しだけ、西嶼西臺らしき場所が登場します。

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すっごく懐かしい伍思凱(スカイ・ウー)の『最愛是你』。こちらははっきりと西嶼西臺で撮影されたことが分かります。三曲とも、なんかこう、悲しく妖しく危ない雰囲気を醸し出す場所として使われているんですね。