インタプリタかなくぎ流

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解らない人には解りはしません

白洲正子氏の『お能・老木の花』を読みました。能を紹介する本は色々と読みましたが、ここまで繊細で、かつ一種の気魄というか情念のようなものを帯びつつ迫ってくる文章は初めてでした。間に挟まれた芸談梅若実聞書』も実に読み応えがありました。

梅若実聞書』に、芸事の稽古では師匠(梅若実氏の場合は父上)が単に「そこが悪い、ここがいけない」と言うだけ、ちっとも教えてはくれないという話が出てきます。しかし氏は老境に至ってこう言うのです。

いくら説明しても、解らない人には解りはしません。昔の教え方はいかにも意地が悪いようですが、始めのうちはともかくも、少し上達すると、実際教えようにも教えられない事ばかしです。自分にはよく解っているのですが、さて口に出していう段になりますと、どうも間違った意味にとられるおそれがありまして、ついだまって止してしまうという事になりますが、……能というものは、出来るだけしか出来ないんですからやはりふだんの稽古だけが大切なようでございます。辛抱強く数をかけることですね。

う〜ん、何でもかんでも自分に引き寄せて解釈しちゃいますが、これって語学でも通訳でも翻訳でも同じですよね、いや本当に。

ふだん通訳学校や語学学校では通訳や翻訳の授業を担当しています。自分もかつてそういう学校に通っていたことがあり、なおかつその時の小さな不満は「訳出する時間が少なすぎる」というものでした。例えば通訳だと、ひとクラスに十数名の生徒がいるので、三時間ほどの授業で自分に訳出が回ってくるチャンスは数回しかありませんでした。

そこはそれ、他の人があたっている時でも自分の頭の中で、あるいはごくごく小さな声で訳出の練習をすればいいのですし、もとより週一回三時間程度の授業だけで訓練の成果が出るはずもなく、訓練の大半は自宅での「自主トレ」であることは承知していました。とはいえ、やはり「本番」でドキドキしながら訳出をして、それに対する講師やクラスメートの意見、なかんずく、自分では気づかないでいたポイントを指摘してもらえるのは非常にありがたいことでありまして。というか、通訳学校に通うメリットはひとえに、そこにこそあると言っても過言ではないわけでして。

そこで、自分が講師の立場になったときには、できるだけ訳出の時間を増やそう、それに対するフィードバックもたくさん行おうと思ったのです。

ただし、数時間しかない授業時間で大勢の生徒さんに訳出をしてもらおうと思ったら、いきおいLL(やCALL)で一斉に録音し、それを後で聞いてひとりひとりにコメントを返すしかありません。それは授業以外にも自宅などで延々録音を聴き、レビューを書くという大量の「時間外労働」の発生を意味するのですが、それでも生徒さんのためになるのならば、とそのスタイルを堅持してきたわけです。

ところが。

梅若実氏の顰みに倣って言うならば「いくら説明しても、解らない人には解りはしません、意地悪なようだけど」なんですよね。通訳でも翻訳でも、訳出内容の適否以前に、大きな声でイキイキと話すとか、ホスピタリティを感じさせるとか、「です・ます」で話すとか、「えー」や「あー」などの冗語をなるべく差し挟まないとか、「○○のぉ⤴、○○がぁ⤴」のように助詞や語尾を不必要に上げ調子で強調しないとか、基本中の基本、鉄則があるわけです。翻訳なら「段落の最初は必ず一文字あける」とか「句読点や記号の使い方に留意する」とか。

そうした指摘をうけて、どんどん自分を改善していく方もいます。でも一方で、何度指摘しても同じパフォーマンスを繰り返す方もいる。レビューには毎回同じような指摘が並ぶことになります(実際には「芸がないかな」と思って表現をあれこれ変えますが)。……これは学校の営業的にはタブーの物言いですけど、そういう方はこの仕事に「向いてない」のです。もちろん向いてなくても学ぶ自由はあります。私だって後から考えれば全く向いていなかった分野を、大学では専攻していましたしね(それでもなにがしかの人生の糧になってる)。

以前ならそういう生徒さんに強い口調で迫ったりもしましたが、もうそういうことはやらないようにしました。梅若実氏の仰るように、言ったからといって、解ってもらえるわけでもないんですよね。それよりも「辛抱強く数をかけ」、生徒さん自身の中から何かが醸成されるのを待つべきなのでしょう。いや、むしろ教師の役割はそれを信じて(よい意味での)プレッシャーをかけ続け、励まし続けることだけなのかもしれません。もとより語学は「辛抱強く数をかけ」ることでしか習得できないものですし。

ところで、通勤電車の中で梅若実氏のこのくだりを読んでいたく共感したので、付箋を貼ろうと思うも手元に付箋がありませんでした。仕方がないのでページの端を折ろうとしたら、なんと先に誰かが折った跡がついていました。この本はAmazonマーケットプレイスで買ったのですが、前に読んだ方も、ここで同じようにご自分の仕事に通じる何かを感じられたのかしら。