インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

教えようとしても教えられない

ずっと以前に古本屋さんで購入した、十四世喜多六平太氏の聞き書きをまとめた『六平太芸談』を読んでいたら、こんなひと言がありました。

教えようたって教えられない、習おうたって習えないところに値打ちがあるのさ。学者ぶりは芸には禁物だよ。

斯界の泰斗と呼ばれる方々は同じようなことをおっしゃっているものでして、以前このブログにも書きましたが、白洲正子氏の『梅若実聞書』にもこんなくだりがあります。

いくら説明しても、解らない人には解りはしません。(中略)始めのうちはともかくも、少し上達すると、実際教えようにも教えられない事ばかしです。

qianchong.hatenablog.com

これらはいずれも名人とうたわれた能楽師のお二人が、芸について語っていることではありますが、ひょっとして芸道に限らず、ありとあらゆる学びについて共通するのではないか。曲がりなりにも教師と呼ばれる仕事を続けてきて、最近そんな思いがますます強くなってきました。

ちょうどいまは春休みという期間に入っていて、普段のなかば自転車操業的な授業の持ちコマからいったん解放され、これまでの反省点をまとめ、次の学年や学期の構想を立てたり教材の準備をしたりしています。

ただこの時期、これはもう本当に自分の非力を痛感するのですが、何年繰り返しても自分が当初思い描いていたように生徒さんたちの力を伸ばしてあげられなかったという反省ばかりが残ります。私は自分に自信がないこともあって、教材や教案はかなり準備する方だと思いますが、そこまであれこれ考えて準備しても、ではその成果が出ているのかと問われれば非常に心もとない。

ちょうどMarichanさんが米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』を紹介されている記事で、ご自身の通訳業務体験を引きながらこんなことをおっしゃっていました。

通訳という技術は実際どれくらい体系だって学べるものなんだろう、という点も疑問に思った。米原さんの文章を読んでいても、通訳という技術は、教科書から学べるものというよりは、ある意味、個人のセンスだったり、人のやり方を見てなんとなく感覚的に覚えたりするような、職人技的技術の域をなかなか超えられていないような気がしてならない。世の中にある通訳スクール的な所ではどんなことが教えられているのかも、ちょっと興味を持ったのだった。

marichan.hatenablog.com

そうなのです。これは本当に鋭い指摘で、通訳の技術というものは確かにあるし、それをある程度のレベルにまで持っていくための通訳訓練法もいろいろとあるのですが、結局のところプロの通訳者として稼働できるまでになるかどうかについては、個人のセンスや「向き不向き」に負うところが非常に大きいというのが私個人の偽らざる実感です。

こんなことを書くのは学校の「営業」的にはタブーなのかもしれませんが、体系だって学べば誰でも通訳や翻訳ができるようになりますよ、というのはなかばフィクションで、実際のところできるようになる人はできるようになるし、できない人はどこまで行ってもできない(あるいは伸び悩む)。

もちろん学習や訓練のコツとかノウハウとかちょっとしたティップスみたいなものは無数にあって、それらを学校という場で得ることができるという側面はあります。またひとりぼっちで学んでいてもなかなか客観的な視点が育たないので、自分でも気づかないでいた弱点を人に指摘してもらえるという点では学校の教師やクラスメートの存在にも意味はあります。

でもそれもこれも本質的なところではないように思えるのです。ごくごく基本的なことは体系的に教えることもできますが、ある程度まで行くとその先はもうひとえに個々人のセンス、と言って悪ければその人の学ぶ姿勢や仕事に対する考え方、もっと言えば生き方全般の姿勢みたいなところに負う部分がきわめて大きいように感じています。まさに「始めのうちはともかくも、少し上達すると、実際教えようにも教えられない事ばかし」です。

それでもそれでも。自分が学んできた体験を振り返れば、学校での学びがまったく役に立たなかったかと言えば決してそうではありません。ただそれは、上手く言えないのですが、先生方が「教えよう」と思って教えてくださったのとはぜんぜん違うところにこちらの学びの実質的な何かがあったように思うのです。