インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

上品な外語を話したい

先日、とある仕事の現場で、とても中国語の流暢な日本の方にお目にかかりました。ただ、とても流暢なんですけど、ごめんなさい、とても「下卑た」中国語を話されていました。ビジネスの現場なのに、口語調が強すぎるというか、くだけすぎてるというか、「タメ口」的というか……以て自戒としたいです。

Twitterでこのような「つぶやき」をしたところ、思いがけず多くのリツイートやリプライが寄せられました。ありがとうございます。




















採録していたらなんだか「NAVERまとめ」みたいになっちゃいましたが、語学の達人のみなさんにとって、これはいわゆる「あるある」なことだったようです。

私にも「イタい」経験があります。中国語を学んである程度を経て、自分の中国語がとても進歩した実感があり、何でも話せる!というある種の「全能感」に浸っていた頃、とある教養ある中国人に「あなたは外国人なんだからそんな話し方をしないほうがいいですよ」と諭されました。当時は「?」とやや疑問でしたが、今ではその意味がよく分かります。

もちろん、語学を学んでいる段階では、時に背伸びや冒険をすることも必要ですし、臆して話さないよりは何でも口にした方が何倍もマシなのですが、この「外語は、まずは折り目正しく話そう」というの、案外ひろく共有されていないリテラシーではないでしょうか。

流行語やスラングなどを覚えるのも楽しいし、何だか別の自分になったような高揚感や、「オレはこんな言葉まで知ってるんだぜ」的な自己満足(いや、虚栄心ですか)も覚えるものなんですけど、これは個人的には大きな落とし穴かなと思っています。「語学ができると、なぜか人より偉くなったような錯覚をする」心性とも通底しているような気がします。もちろんこれは誰もが通る道ではなく、単にかつての私がおちゃらけていただけなのかもしれませんが。

qianchong.hatenablog.com

日本語を学んでいる留学生の中にも、ときおりこうした高揚感に浸っている方がいます。また「教室で教わる日本語と、日本人の友達との会話やバイト先で接する日本語が違ってる」と不満を漏らす方もいます。しかし、流行語やスラングや、ごく親しい者同士で使われる極めてくだけた物言いなどは、実は非常に高度で複雑な(あるいは高度に自由な、と言うべきでしょうか)、母語話者だからこそできるテクニックであって、非母語話者がうかつに真似ても「火傷」をするばかりでなく、外語学習のプロセスからいっても非効率的なのではないでしょうか。

先日読んだ、寺島隆吉氏の『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー―』には「母(国)語と外国語の習得過程は逆ベクトル」という一節(第二章、p.196)があり、ロシアの心理学者ヴィゴツキーの『思考と言語』がひかれていました。図書館で同書を見つけたのでその箇所を引用します。

子どもは学校で外国語を、母語とはまったくちがったしかたで習得する。外国語の習得は、母語の発達とは正反対の道をたどって進むということもできよう。子どもは、母語の習得を決してアルファベットの学習や読み書きから、文の意識的・意図的構成から、単語のコトバによる定義や文法の学習からはじめはしない。だが、外国語の学習は、たいていこれらのものからはじまるのである。子どもは母語を無自覚的・無意識的に習得するが、外国語の習得は自覚と意図からはじまる。それゆえ、母語の発達は下から上へと進むのにたいし、外国語の発達は上から下へと進むということができる。母語のばあいは、言語の初歩的な低次の特性がさきに発生し、その後に言語の音声的構造やその文法形式の自覚ならびに言語の随意的構成と結びついた複雑な形式が発達する。外国語のばあいは、さきに自覚や意図と結びついた言語の高次の複雑な特性が発達し、その後に自分のでない言語の自然発生的な、自由な利用と結びついたより初歩的な特性が発生する。
(第六章、太字は引用者)

翻訳が生硬でちょっと分かりにくいですけど、ここには例えば「子どもが日本語を覚えるように英語を学ぼう」とか「子どもが言葉を覚える時は文法なんか気にしない。だから文法や訳読なんかやっても無駄だ」みたいな俗耳に入りやすい語学指南に対する、痛烈な批判が込められていると思いました。そして、非母語話者がその言語を学ぶ時は、まずは標準的で一般的で上品な(あるいは抑制が効いた)「王道」を歩むべきであることも。

母語話者であり、しかも大人になってからこの言語を学び始めた私はとうていネイティブ・スピーカーにはなれません。もちろん向上心は必要ですけど、むしろネイティブにはなれないという諦念の後ろにこそ、語学上達の秘訣が隠されているのではと思えるのです。