先日、とある仕事の現場で、とても中国語の流暢な日本の方にお目にかかりました。ただ、とても流暢なんですけど、ごめんなさい、とても「下卑た」中国語を話されていました。ビジネスの現場なのに、口語調が強すぎるというか、くだけすぎてるというか、「タメ口」的というか……以て自戒としたいです。
Twitterでこのような「つぶやき」をしたところ、思いがけず多くのリツイートやリプライが寄せられました。ありがとうございます。
英語圏留学者にも多い現象ですね〜。高校や大学時代に学んだ英語のレベルで止まっていて「大人の英語」になっていない。流暢に聴こえますが、かなり荒い英語で、また本人にその自覚がないんです。だからそれ以上伸びない。通訳クラスにもそういう方がいるので、どう気付きを与えるか思案中です。
— 2begunyam (@2begunyam) 2018年4月15日
敬語、口語の区別があるのは日本語だけ!と昔むかし誰かから聞いたことがあったんですが、そんなはずはなかったですね…英会話でも広東語学習でも痛感しました。あと、男性の使う言葉と女性の使う言葉、ニューハーフさんの使いたがる女性言葉の違いも…
— HKmoviefan☂ (@HKmoviefan) 2018年4月15日
丁寧な言葉遣いができれば、やはり尊重されますよね。まあ下町の小食堂で「さようならば、こちらと白ご飯を少々いただけますでしょうか」なんてやってたらオバちゃんがキレそうですがw https://t.co/ZHWK7ukxAH
— HKmoviefan☂ (@HKmoviefan) 2018年4月15日
教養ある文人の言葉遣い、単語の用い方、聞いてるとうっとりするんですが、自分は真似できるレベルになく……文章を書くときもそうです。敷居があまりにも高すぎる。庶民の私には無理……辛い……
— たちはら とうや (@ttouya) 2018年4月15日
昔、中国に留学していたときに、手ずさみに韓国人の留学生と日韓両語の互相学習をしたことがありました。彼は漢学を学ぶ真面目な院生だったのですが、僕が韓国人の若い子が使う「チュケッタ(~すぎて死にそう)」を真似したら、「知識人はそんな言葉を使いません」と叱られました。
— Mickey (@DariNegaraUtara) 2018年4月15日
題名は忘れたが、松本清張の小説に、戦後間もないころパンパンをやってた女性が北陸の名流夫人になっていたのにバレそうになって殺人を…というのがございました。夫を殺された奥さんが、その英語があまりに下品なのでことの真相に気がつく契機に…とかだったですな。 https://t.co/RXvLPyCZrq
— 暇爺 :日中両文・何清漣氏「中国2017」「中国2016」「2015」Amazonで (@Minya_J) 2018年4月15日
韓国語でも、ちょくちょく見かける光景ですね。 https://t.co/xpOGM85APT
— 吉方べき(帰韓) (@tabisaki) 2018年4月15日
私は流行語や若者言葉やネットスラングなどに疎いのが弱点で軽い世間話が苦手だが、仕事の場で困ったことはあまりない。以前、著名人のインタビューを通訳したとき、十年あまり現地に住んでいる日本人が付き添っていたが「街で聞き覚えた雑な中国語だから通訳は怖くてできないんですよ」と言っていた。 https://t.co/qDbrVauNpb
— とらねこ285 (@toraneko285) 2018年4月15日
イタくなるほど中国語うまくないけれど、これはとてもよくわかる。ある言葉を自由自在に扱うことと、スラングを使うこととは別のはずなんだけれど、なんとなくネット語を見よう見まねで振り回してしまう、とか。 https://t.co/Kwvk1PW6Jy
— 濱田麻矢 (@hamatgwa) 2018年4月15日
わたしがその昔広東語の先生に「粗口」は知識と知っていていいが外国人が身につけてはいかん、と口を酸っぱくして言われたのはこれでもある。非ネイティヴ言語は品の良いほうを先に身につけておくほうがいい。 https://t.co/GYs8wIZMH4
— ManCheeFMW (@Manchee902) 2018年4月15日
これは外国語話者あるあるだと思う。「カタコトから中級」のうちは個性が見えにくいけど、流暢になるほど「お里が知れる」。つまり、どういう環境や過程を経てその話し方になったか分かるようになる。・・以て自戒としたいです。 https://t.co/c3BRY2Z5Sz
— Kazzy NZ (@Kaz34NZ) 2018年4月15日
韓国語ネイティブには「いつまでもよそよそしくて打ち解けてくれない日本人、冷静沈着どころかむしろ冷たい日本人」と思われるかもしれないけど、敢えて丁寧な言葉遣いを崩さず敬語で通すときもある。「立場上この一線は越えられないのです」と。 https://t.co/3H6XDRoFCN
— ヤクルト姐さんマイコ (@gogospeedworld) 2018年4月15日
私も中国の留学し終わった頃は、お恥ずかしながらタメ口中国語でした。その後中国での工場勤務(周り全て現地の人)、中国嫁との結婚と向こうの人とに付き合いの中から、中国語流の敬語みたいなのを肌で教わりました。 https://t.co/FVBG3BQ2Jl
— 明天会更美好 (@zhongwenfanyi) 2018年4月15日
これ英語にも多いのでおそらくどの言語でもあるのでしょうね。気をつけよう。 https://t.co/yn4SWZKC8e
— Hana Hashimoto (@HanaZiva) 2018年4月15日
実にやりがちで、私も時々はっと気づいて心の中で赤面します…。
— ヒロヲカ (@shirlywang) 2018年4月15日
很有意思!我是通过翻译大概看懂你的意思的。其实就是中国人也不能随便乱说,比如一个年长的人突然用在年轻人中流行的用语,说不定会被取笑呢!
— AsianPV (@AsianPV) 2018年4月15日
おっしゃる通りですね。聞き取れればいいと思ってます。が使わないですし、ましてや使いこなせません。
— つうつう (@tsutsu123456) 2018年4月15日
あー私も英語と中国語今まで学んだことを活かして精一杯仕事やプライベートで使っていますが、丁寧な言い回しというのがなかなか身に付かないです😭中国のお客様が来たとき、少し中国語を話しただけで、通訳をさせられたわけですが、なかなか丁寧な言い回しができていなかった自覚はあります。
— 小野寺美咲 (@ieh1JX872CCNpDh) 2018年4月15日
それはローラがしゃべる日本語のような雰囲気なのだろうか…
— a piece of cake (@yuko197503211) 2018年4月15日
本人は、なだらかに中国語を話せてなんとも感じていないのかも…
誰から外国語を習うかって重要だと思いました
以前、微信で日本在住の中国人に、中国語で質問した時に、上から目線みたいな言い方はするな!と叱られました。未だに、何が悪かったのか分からず、その後、その人とは疎遠になってしまいました。「请问」をつけなかったのが悪かったのか?
— 功夫man (@jumu1991) 2018年4月15日
採録していたらなんだか「NAVERまとめ」みたいになっちゃいましたが、語学の達人のみなさんにとって、これはいわゆる「あるある」なことだったようです。
私にも「イタい」経験があります。中国語を学んである程度を経て、自分の中国語がとても進歩した実感があり、何でも話せる!というある種の「全能感」に浸っていた頃、とある教養ある中国人に「あなたは外国人なんだからそんな話し方をしないほうがいいですよ」と諭されました。当時は「?」とやや疑問でしたが、今ではその意味がよく分かります。
もちろん、語学を学んでいる段階では、時に背伸びや冒険をすることも必要ですし、臆して話さないよりは何でも口にした方が何倍もマシなのですが、この「外語は、まずは折り目正しく話そう」というの、案外ひろく共有されていないリテラシーではないでしょうか。
流行語やスラングなどを覚えるのも楽しいし、何だか別の自分になったような高揚感や、「オレはこんな言葉まで知ってるんだぜ」的な自己満足(いや、虚栄心ですか)も覚えるものなんですけど、これは個人的には大きな落とし穴かなと思っています。「語学ができると、なぜか人より偉くなったような錯覚をする」心性とも通底しているような気がします。もちろんこれは誰もが通る道ではなく、単にかつての私がおちゃらけていただけなのかもしれませんが。
日本語を学んでいる留学生の中にも、ときおりこうした高揚感に浸っている方がいます。また「教室で教わる日本語と、日本人の友達との会話やバイト先で接する日本語が違ってる」と不満を漏らす方もいます。しかし、流行語やスラングや、ごく親しい者同士で使われる極めてくだけた物言いなどは、実は非常に高度で複雑な(あるいは高度に自由な、と言うべきでしょうか)、母語話者だからこそできるテクニックであって、非母語話者がうかつに真似ても「火傷」をするばかりでなく、外語学習のプロセスからいっても非効率的なのではないでしょうか。
先日読んだ、寺島隆吉氏の『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー―』には「母(国)語と外国語の習得過程は逆ベクトル」という一節(第二章、p.196)があり、ロシアの心理学者ヴィゴツキーの『思考と言語』がひかれていました。図書館で同書を見つけたのでその箇所を引用します。
子どもは学校で外国語を、母語とはまったくちがったしかたで習得する。外国語の習得は、母語の発達とは正反対の道をたどって進むということもできよう。子どもは、母語の習得を決してアルファベットの学習や読み書きから、文の意識的・意図的構成から、単語のコトバによる定義や文法の学習からはじめはしない。だが、外国語の学習は、たいていこれらのものからはじまるのである。子どもは母語を無自覚的・無意識的に習得するが、外国語の習得は自覚と意図からはじまる。それゆえ、母語の発達は下から上へと進むのにたいし、外国語の発達は上から下へと進むということができる。母語のばあいは、言語の初歩的な低次の特性がさきに発生し、その後に言語の音声的構造やその文法形式の自覚ならびに言語の随意的構成と結びついた複雑な形式が発達する。外国語のばあいは、さきに自覚や意図と結びついた言語の高次の複雑な特性が発達し、その後に自分のでない言語の自然発生的な、自由な利用と結びついたより初歩的な特性が発生する。
(第六章、太字は引用者)
翻訳が生硬でちょっと分かりにくいですけど、ここには例えば「子どもが日本語を覚えるように英語を学ぼう」とか「子どもが言葉を覚える時は文法なんか気にしない。だから文法や訳読なんかやっても無駄だ」みたいな俗耳に入りやすい語学指南に対する、痛烈な批判が込められていると思いました。そして、非母語話者がその言語を学ぶ時は、まずは標準的で一般的で上品な(あるいは抑制が効いた)「王道」を歩むべきであることも。
非母語話者であり、しかも大人になってからこの言語を学び始めた私はとうていネイティブ・スピーカーにはなれません。もちろん向上心は必要ですけど、むしろネイティブにはなれないという諦念の後ろにこそ、語学上達の秘訣が隠されているのではと思えるのです。