『デイリー新潮』に、「NHK『ロシア語番組』終了の波紋」という記事が載っていました。Eテレのロシア語講座「ロシアゴスキー」が今月で終了するのはウクライナ侵攻の影響かとの憶測を打ち消す一方で、日本におけるロシア語教育の危機を訴える研究者の声を紹介しています。
大学のいわゆる第二外国語ではもうずいぶん前から、ロシア語に限らず、フランス語やドイツ語なども履修者が減り続けていると聞いています。取材に応じた研究者氏はこうおっしゃっています。
文科省は『グローバル人材育成』と謳いながら、文化多様性には無頓着で、ロシア語に限らず、第二外国語の履修を義務付ける大学が減り、英語だけ履修すれば卒業できるようになってしまっています。これでは日本人が世界の中で様々な広い視野でものを見ることができなくなってゆかないかと、危惧します。
なるほど、現在では第二外国語というカテゴリーすら消えつつあり、とにかく英語一辺倒になっているんですね。中国語もひところはとても人気があると聞いていましたが、いまはどうなんでしょう。第二外国語じたいが減っているとすれば、やはり英語一択に収斂しつつあるのかしら。中国という国のイメージも最近はあまり芳しくありませんし。
でも私は、こういうその時々の国際情勢で語学を選ぶという考え方にあまり共感できません。その国の政治とその国の人々は切り離して考えるべきであるのと同様に、その国の言語や文化は、そんな短いスパンの国際情勢とはまったく違うところで捉えられるべきものではないかと思います。
ましてや「就職に有利だから」とか「単位が取りやすそうだから」という理由を持ち出すのはあまりにも近視眼的ですし、「プーチンが嫌いだから学ばない」などという物言いは頭が悪すぎます(いずれも人に話すとかなり怪訝な顔をされます。そんなに奇矯な意見なのかなあ)。
上にコメントを引用した研究者氏は続けて「詩などの言葉は美しくても現実生活で使わないものが多く、実務ではあまり役に立ちませんね」とおっしゃっていて、これも多くの人が首肯されるのかもしれませんが、私は語学をあまりにも矮小化した捉え方だと思います。
もちろん語学には膨大な時間と努力の傾注が必要ですから、実利を求める気持ちは分かります。しかも私だって語学で食べている人間ですから、役に立たなくてもいいとまで言う気はありません。その言語を使って実務に就く方を養成するという側面も大切でしょう。ただ、語学はそういう実利・実務のためだけに学ばれる、そんな小さなものではないという点だけは何度でも強調しておきたいのです。研究者氏も「日本人が世界の中で様々な広い視野でものを見ること」とおっしゃっているではないですか。
こう書いておきながら、実は私は、内心密かに「これでいいのかも」という気持ちもあります。その時々の国際情勢やら、就職やら単位やら、実利やら実務やら、そういう「色目づかい」ではないところで語学をやる人たちが残っていけば、それはそれで語学界隈が静かになって、そのぶん心乱されることなく思う存分学んでいくことができるかもしれないと。
翻訳家の金原瑞人氏が雑誌『kotoba』の35号「日本人と英語」に「通訳マシンで会話する時代の英語教育」という文章を寄稿されているのですが、その最後にこんなことを書かれています。
通訳・翻訳マシンが、スマホくらい日常的に使われるようになれば、道具としての英語の運用能力なんて、釜でご飯を炊く腕前程度のものになってしまうかもしれない。そんな時代になると、英語はふたたび選択科目に格下げになり、必修でなくていいよという扱いになるのだろう。教員としては、それはそれでのんびりと、教えたいことを教えられてうれしいような気がする。
(中略)
外国語を学ぶ目的は、母語以外の言語を知ることによって、母語そのものを知る、母語についての理解を深める、また、異文化への興味を広げることにあるのだ、という時代を懐かしんでいるうちに、ふたたびそういう時代にもどってしまうのもそう遠い未来の話ではないような気がする。
ああ、心から共感いたします。
追記
上掲の『デイリー新潮』の記事、筆者のジャーナリスト氏はこんなことを書かれています。
「ロシアゴスキー」は、「テレビでロシア語」の後継番組として2017年10月にスタート。内容はモスクワとサンクトペテルブルクの紹介で美しい街並みや、おいしそうな料理、美女も登場し、筆者もすべて録画していた。
なんですか、「美女も登場し」ってのは。昭和のオヤジ感満載。本当に度し難いです。