最近ジムでトレーニングしている時によく聞いている『ゆる言語学ラジオ』、先日は「母語の違いで人の認識はどれくらい違うのか」というお話をされていて、ついつい聞き入ってしまいました。トレーニングに身が入らなくて困ります。
個人的かつ卑近な例を挙げると、「外語を話している時に性格が変わる」説ってのがありますよね。私も、ふだん母語である日本語を話しているときはとっても控えめで人見知りなのに(異論は受けつけません!)、中国語で話しているときはとってもアグレッシブで前向きになっているような気がします。まあこれ、畢竟母語ではないので言葉遣いに母語並みの配慮ができず、その結果大胆な物言いに傾いているだけという可能性もありますが。
この動画についているコメントにも興味を覚えました。とある香港の方(日本語を学ばれているそうです)が、日本語は「敬語があるからヒエラルキーに注意を向ける量がすごいと感じています」と書かれていました。そのコメントに別の香港の方も「日本語(に)慣れると逆に母語の方が距離感取りにくくて落ち着かないなあとも思いました」とコメントされています。
なるほど、ご自身の中国語(というか広東語ですね、たぶん)には日本語のような敬語表現がない、あるいは少ないので、割合誰とでもフランクに話せる。そこへ行くと日本語はヒエラルキー、つまり上下関係を常に意識して敬語表現を駆使しなければならないので、日本語学習者としてはちょっとたいへん、というようなご主旨なのでしょう。
私が日々接している華人留学生にも「中国語には敬語がないので、日本語の敬語が一番難しい」とおっしゃる方はけっこういるのですが、私は「いやいや、中国語にも敬語はあるどころか、日本語より難しいと思いますよ」といつも言っています。もちろんこれは私が外語として中国語を学んでいるからであって、どんな言語でも外語として敬語表現を学ぶのは難しい範疇に属するということなのかもしれませんけど。
日本語の場合、敬語表現はそれなりに形がはっきり表れていて、つまり単語や語形などから明らかですけど、中国語はもう少し奥の方にかくれていて、それを使いこなすのはなかなかの難度ではないかと感じています。もちろん“你”に対する“您”のように、外見から明らかな場合も多いですけど、むしろ語彙の選択や文の組み立て方で「敬語的」な表現にもっていくことが多くて、それが難しい。
こんな言い方はちょっと語弊がありますが、中国語話者の中でも教養のある話し方をされる方には、豊かな語彙と表現方法を駆使して細やかな敬語的表現を駆使される方が多く、本当に聞き惚れてしまいます。ああ、この方の中国語は上品だなあ、洗練されているなあ、教養が感じられるなあという話し方が明らかにあって、そうした話し方でもって相手に対する敬意を漂わせている、みたいな感じ。
私は教養に欠けるので的確な例を挙げにくいですが、ひとつだけ。以前にもこのブログに書いたことがありますが、中国に留学しているときに中国人の友人から指摘された表現方法の違いというのがあって、それが私にとっては中国語の豊かな敬語表現を知った最初の経験でした。自分が書いた絵を友人に見せて、私が“請把您的意見告訴我好嗎?”と言ったら、友人は「私だったら“我很想聽聽你的意見”と言うかな」と指摘してくれたのです。
私としては“請(please にあたる)”も使っているし、ていねいな呼称である“您(あなたさま)”も使っているし、最後に“好嗎(いいですか?)”まで加えているのだから十分に敬語的な表現になっているつもりだったのですが、友人に言わせると「結局は『あなたの意見を私に言え』という一種の要求になっている」と。それに比べて“我很想聽聽你的意見”は、単に私があなたの意見を聞いてみたいな〜と思っているだけで、相手に対する押しつけがましさがない。意見を言いたくなければ言わなくてもいいんだよという配慮が背後にこもっている、と。
考えてみれば当たり前かもしれませんけど、どんな社会にも「ヒエラルキーに向ける注意」というものはありますよね。私の感覚では、中国語もその「ヒエラルキーに向ける注意」の量はけっこうなものだと思います。むしろ明示的な敬語で表れてこない分、もっと繊細に注意を張り巡らしているような気さえするのです。