インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

料理の四面体

初めて料理というものをしたのはいつの頃だったでしょうか。私の場合は、確か小学校の3年生だか4年生だかの時に、お湯に片栗粉を溶くと粘性のある液体ができるということを知って試したのが最初だったように思います。料理と呼べるかどうかははなはだ疑問ですが、そこに砂糖を混ぜて、自分としてはおやつのようなものを作ったつもりでした。

もう少し料理らしい料理を始めたのは、高校3年生の時でした。親が転勤で関西に引っ越すことになったのですが、私は大学受験を控えていたので今から転校するのはいろいろと面倒だということで、初めての一人暮らしを始めたのでした。それに伴って自炊というものも始めました。

一人暮らしを始めるに当たって私は両親に、調理器具を一式揃えてほしい旨頼みました。が、父親は「どうせ続きはしない」と取り合ってくれませんでした。それにいたく憤慨した私は「絶対に自炊してやる」と、料理のイロハも分からないまま自炊生活に突入したのでした。

最初の頃は何をどうやりくりするのかもまったく理解していない中での自炊でしたから、一週間分まとめて作ったポトフ(のつもりだが、実際のところ単なる野菜を煮込んだだけのもの)を小分けして冷凍し毎日そればかり食べるとか、月のなかばで食費が底をついたため、高校近くのサンドイッチ屋さんでパンの耳をただでもらって食いつなぐとか、いま思い出すとよくまあ身体を壊さなかったなというような食生活をしていました。

それでも徐々に料理がおもしろくなるとともに手際も食費のやりくりもまともになり、その後大学生になってからも、社会人になってからもずっと自炊を続けてきました。大勢で共同生活をしていた頃は何十人分もの食事を一度に作ることもしましたし、パンやケーキを焼くのにもハマりましたし、米や野菜や卵などを自給することにも挑戦しました。所帯をもったいまでも、家事のうち炊事全般は私の担当になっています。

料理をするとともにたくさんの料理本も読んできました。料理本にはふたつの種類があると考えます。ひとつはいわゆるレシピ本と言われるもの、もうひとつは料理や食文化を語るものです。ただし後者のうち、ご自身では料理をしない方が美食の蘊蓄を傾けるような本は読んでいてもあまり心に響きません。言うは易く行うは難しじゃないですけど、手ずから食事を調えることにこそ、食への深い洞察も宿るのではないかと思うのです。

その食への洞察という点で、とても奥深い味わいの一冊を読みました。いまから40年以上も前に書かれた、エッセイストの玉村豊男氏による『料理の四面体』です。煮るということ、焼くということ、揚げるということ、それに生のまま食べるということ。火(熱)をどう加えるか加えないかを中心の柱として、ありとあらゆる料理を「四面体」で説明しようという発想に驚きます。

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料理の四面体

玉村氏ご自身が文庫版のまえがきで「救いようのない料理オタクか、気味の悪いナルシスト」と形容されているように、若い料理研究家の才気走ったところもたくさんありますけど、全体を通して読めば料理の本質にせまる氏の卓越した視点が光っています。エッセイの体裁をとりながらも、文中にいくつものレシピが埋め込まれており、それらはいずれもシンプルで、何よりとてもおいしそう。

氏が近年上梓された『毎日が最後の晩餐』も読みましたが、そこにもシンプル極まりない、それでいてとてもおいしそうな料理(とそのレシピ)がたくさん載せられていました。それらの料理は基本的に、シンプルながらも丁寧な手順とそれなりの時間を要します。複雑で凝っているわけではないけれど、ゆったりとした時間、というよりゆったりとした料理への構え方が必要なのです。

私はその構え方に、何より惹かれました。いまの仕事に追いまくられている自分にはちょっと無理だけれども、はやくそういう炊事の境地に達したいものだなと思います。