インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

何もしない

英語の原題が“How to do nothing”、日本語版は『何もしない』。表紙も裏表紙も真っ白な装幀で、ミニマリズムの極地のような印象の本です。最初、書店で気になって手にとったときは、そのあまりの取っ掛かりのなさにいったん買わずにその場を離れたくらいでした。

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何もしない

とりあえず目次に目を通しても、「逃げ切り可能」「拒絶の構造」「注意を向ける練習」「ストレンジャー生態学」……といまひとつよくわかりません(読み終えたいまではその意味がよくわかりますが)。再びこの本を購入しようと思ったのは、後日朝日新聞の文芸欄で、翻訳者の鴻巣友季子氏が取り上げておられるのを読んだからです。

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ふつう、本のタイトルや副題はその本の中身や主張をギュッと圧縮してつけられているものですが、この本に限ってはまったく「名は体を表」していません。また鴻巣氏がおっしゃっているように、英語には“Resisting the Attention Economy(注意経済に抵抗して)”という的確な副題がついているのですが、これが日本語版ではなぜか割愛されています。

私はここのところ、この注意経済(アテンション・エコノミー)について大いなる興味と警戒感をもって過ごしています。ですからこの本は「そのものずばり」の内容であったのに、最初に書店でパラパラっとめくったときにはそれに気づかなかったのでした。この日本語版の装幀はちょっと“nothing”に引きずられすぎたのかもしれませんね。

それはともかく、最初に書店の店頭でこの本に吸い寄せられた自分の嗅覚には、まだわずかながらに健全なものが残っていたのだと考えることにしましょう。そしてまたネット書店でばかり本を買わないで、定期的に書店の店頭をぶらつくことの必要性も改めて認識したところです。一読、この本には実に豊穣な世界が広がっていました。久しぶりにすてきな思索の書に出会えたことがうれしくてたまりません。

思索の書であるだけに、読み進むのはそれほど容易ではありません。文章はけっして難解ではなく、むしろ大いに知的好奇心を刺激される面白い内容なのですが、著者のジェニー・オデル氏の思索と行動につきあって読むうちに、たびたび自分の来し方行く末を反芻し直す必要に迫られ、そのたびに考えさせられるからかもしれません。

しかもこの本は自己啓発書よろしく、注意経済から逃れるための分かりやすいノウハウやライフハックのたぐいが列挙されているわけでもありません。注意経済に関する入門編がカル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する』やアンデシュ・ハンセン氏の『スマホ脳』だとすれば、この本はその応用編・発展編みたいなものだと思います。

ノウハウやライフハックではないだけに(また私自身の言語化技術の拙さゆえに)この本のエッセンスをわかりやすくまとめるのは難しいのですが、特に私が腑に落ちたのは、注意経済の横溢するソーシャルメディアで私たちが惹きつけられる情報は「空間的にも時間的にもコンテクストに欠けている」という点です。確かに、TwitterFacebookなどのソーシャルメディアのタイムラインに流れてくる、そして私たちが注意を引きつけられる情報は極めて断片的でありコンテクストが欠けています。

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「いいね」の数に一喜一憂している私たち。スマホやパソコンのOSやアプリでよく使われている、新着通知や通知数を表す小さな丸いアイコンーーそれがあるだけで注意を引きつけられ、消費してしまわないと気がすまないように仕向けられている私たち。でもその「指標」は自分のリアルな生活のリズムとはまったく異なるところから飛び込んできます。こちらの生活の空気を読むことなく、四六時中注意を喚起し続けるのです。その先には往々にして、広告収入であったり、新しい商品の刷り込みであったり、いずれにせよ「ゼニカネ」の話がくっついています。あるいは心をざわつかせる刺激的な言動であったりすることも。

そのようにコンテクストに欠けた注意経済に抗うには、私たちひとりひとりが自分自身の存在と自分の周囲にこれまで以上に繊細な注意を払う必要があると筆者は言います。そうしたノイズたっぷりの世界から一歩引いて、私たちのリアルな実生活における「身の回りの変化」に敏感になること、時間と空間を持った身の回りの変化にきちんと対峙する自分という姿勢全体が、ジェニー・オデル氏言うところの「コンテクスト」なのだろうな、そしてそんなコンテクストにはまったくお構いなしにこちらの注意をかき乱すのが注意経済なのだなと思ったのでした。そのうえで、単純なストーリーや因果関係にすぐ飛びつかないこと、謙虚さとオープンさを保ち、物事の推移には時間がかかることを受け入れること、そうした姿勢を通じて、自分の主体的なコンテクストを取り戻すことが求められているのだと。

もうひとつ、ネット上では「公然と心変わりできない」というアデル氏の指摘にも唸りました。匿名で、単に言葉を投げ込むだけの無責任がまかり通る空間と思われがちなソーシャルメディアが、実は首尾一貫性を現実社会以上に自分に強いるものであったとは、考えてみればとても皮肉なことです。結局そこでは自分を演出し続け、偽り続けることになるのかもしれません。それもオーディエンスが(例えばTwitterであればフォロワー数が)多ければ多いほど、その傾向は強まるのではないか。

ちょうど宇野常寛氏が創刊した雑誌『モノノメ』の第一号を取り寄せて、そこに付された解説集を読んでいたら、この本と同じような警句がありました。「どこに住んでいるかもわからない誰かの『いいね』には敏感になるくせに、身の回りの変化にはまったく気づかないのはちょっと違うんじゃないかと思うわけです」。

slowinternet.jp

ネットショップにしろソーシャルメディアにしろ、個々人の好みに合わせて個人的にカスタマイズされた情報が届くような仕組みになっているという信奉が一方でありますが、その一方で同じような考え方ばかりに心地よく馴染んでいる間に偏見やバイアスが増加していく「エコーチェンバー」の危険性もよく指摘されています。私たちはそのリズムに乗って踊ってはいけない。自分のリズムを、それもいきいきとしたコンテクストのあるリズムを取り戻さなければならないのです。