インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「何かをしなくてはいけない」から離れて

Twitterで燃え殻氏が紹介されていたこちらの張り紙、これは本当にそうだなあと思いました。


思えば、社会に出てからずっと「何かをしなくてはいけない」に追いまくられて来たように思います。いまなお仕事にしろ家事にしろ、常に「次はこれをやらなきゃ」とか「いついつまでにこれをやらなきゃ」などと思い続けて生きてる。それが働いて暮らし続けることだと言えばそれまでですが、たまにはここに書かれているような「湯治」にあたる時間を持たなければならないですよね。

コロナ禍でちょっとした旅行や休日のお出かけでさえ何となく縁遠くなってしまい、はやくも2年目の夏を迎えてしまいました。フィンランド語の講座で生徒が持ち寄る作文の添削などを見ても、「いつになったら気軽にお出かけできるようになるのか」とか「コロナ禍が収束したらフィンランドへまた行ってみたい」みたいな文章が何度も登場します。みなさん「湯治」ないしは「心の洗濯」を求めてる。

ところで、コロナ禍がなんとか収束して、またどこかへ出かける機会がめぐってきたら、今度はスマホのカメラをできる限り封印しようかなと思っています。これまでどこかへ旅行するとなると、きまってカメラを片時も手放さず、写真を取りまくっていたものです。あれも、これも、記念に残さなきゃ。この写真を使ってSNSに投稿しなきゃ。ブログの記事を書かなきゃ……と。でもこれも「何かをしなくてはいけない」に追いまくられているようなものですよね。

2年前にフィンランドの田舎を旅したとき、Airbnbで泊まった農家の人に誘われて、ご近所でお茶をご一緒したことがありました。さすがに家の中では写真を取りませんでしたが、外の森を案内してもらったときには、珍しい草花やベリー類や、美しい森の風景を片っ端から写真に撮っていました。日本のスマホはシャッター音がするので、その音が絶えず森に響いていたわけです。

ご近所さんはニコニコして何もおっしゃらなかったけど、内心では「なんだろう、この日本人は」と思っていたかもしれません。目の前にある風景を身体全体で感じることなく、ただひたすらにスマホのデジタルデータとして吸収し続けているだけだったのですから。ああ、恥ずかしい。こんどまた同じような機会があったら、今度はできるだけ写真を封印して、自分の記憶の中に収めるようにしてみたいと思います。

スマホやデジカメが登場する以前、写真を撮るのがそれほど気楽な行為ではなかった時代には、みんなそうやって旅行していたのです。当時の写真はほとんど残っていないので、今となっては「あのときのあの風景が写真に残っていたらなあ」と思うことはあります。でも、その分(ビジュアルは曖昧だけれども)なにか濃厚な体験として心の栄養となって残っているものがあるようにも思います。写真に撮ってしまうと、脳は積極的に記憶しなくなる……という話も聞いたことがありますし。

旅行に行って、あえて写真を撮らないというの、やってみる価値はあるかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_59.html