インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

写真を撮ると記憶に残らない

脳はどうやらとてつもないリアリスト(現実主義者)のようです。先日読んだアンデシュ・ハンセン氏の『スマホ脳』には「脳は情報そのものよりも、その情報がどこにあるのかを優先して記憶する」という話が載っていました。

 ある実験では、被験者のグループに美術館を訪問させ、何点かだけ作品を写真撮影し、それ以外は観るだけにするよう指示した。翌日、何枚もの絵画の写真を見せたが、その中には美術館にはなかった絵画も混ざっていた。課題は、写真が美術館で観た絵画と同じかどうかを思い出すことだ。
 判明したのは、写真を撮っていない作品はよく覚えていたが、写真を撮った作品はそれほど記憶に残っていなかったことだ。パソコンに保存される文章を覚えようとしないのと同じで、写真に撮ったものは記憶に残そうとしないのだ。脳は近道を選ぶ。「写真で見られるんだから、記憶には残さなくてもいいじゃないか」(104ページ)

これは「単語なんてスマホで引けばネットから簡単に調べられるんだから、覚えなくたっていいじゃないか」とか「そのうち機械通訳(翻訳)が実現するんだから、外語(特に英語)なんて勉強しなくていいじゃないか」といった思考を連想させます。自分の感覚や知識を自分の中に養うことを放棄して、外部に委託してしまおう(そのほうが合理的)というスタンスですね。

私は実際に「単語なんて……」「外語なんて……」という人に身近で接したことがあるので、この部分は「さもありなん」という気持ちで読んでいました。もちろん自分はそんなふうに自分の感覚や知識をネットに託そうとは思っていないつもりだったのですが、あとから反芻して考えるに、この写真のエピソードは自分のことも言っているのだと気づいたのです。

私は旅行が好きで、これまでにもいろいろな場所に行ってきましたが、そこではスマホのカメラで写真を撮ってばかりいました。特に海外の場合、自分が想像もしなかった風景が目の前に広がっており、それが次々に変化していくので、それはもう追い立てられるような気持ちで次々にシャッターを押していたのです。これも撮らなきゃ、あれも撮らなきゃ……と。

もちろんそれらは、旅行から帰ってきてもう一度眺め直すことで、旅の記憶を再生することができます。SNSやブログにもよく利用しています。でもそれで本当に旅の風景を楽しんだことになるのだろうか。言うまでもなく旅の風景は、その瞬間瞬間に全身で感じているものです。視覚だけでなく、気温や、肌に感じる風、足元から伝わってくる感覚、匂い、環境音……。それらはその瞬間にそこでしか味わえないものであるのに、もしかしたら私は写真を撮ることにばかり集中して(というか追い立てられて)いたのではないか。あまつさえ「これはブログのネタに使える」などというようなことばかり考えていたのではないか。

二年前の夏にフィンランドの田舎をレンタカーで旅行した時、偶然知り合った民泊の女将さんに紹介してもらって、ご近所さんのお家にお招きいただいたことがありました。またこれも偶然見つけた湖でのカヤックツアーに参加して、フィンランド人のガイドさんと湖の無人島でお茶の時間を持ったことも。でも思い返してみれば、その時も私はスマホで写真を撮りまくっていたのです。もちろん話をするときや、個人宅の中では撮りませんでしたが……でも周りの風景は撮りまくっていた。

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日本のスマホは基本的にシャッター音がしますから、その間中「パシャパシャ」という音がしていたのです。あれはよく考えたら、とてもはしたないというか、恥ずかしい行為でした。目の前に風景があって、人がいて、その人と一緒の時間を過ごしているのに、私はスマホで写真を取りまくっていたのですから。「これも撮らなきゃ、あれも撮らなきゃ」と追い立てられるようにして。きっと民泊の女将さんも、ご近所さんも、そしてガイドさんも「なんだろう、この日本人は」と思ったことでしょうね。

ああ、はずかしい。今年もコロナ禍で旅行は難しいかもしれませんが、この状況がおさまって、またどこかへ旅をすることができるようになったら、今度はできるだけ「スマホで写真」は封印して、自分の身体の記憶を大切にしたいと思います。