インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「自己啓発本」は身につかない

今年の年末年始はコロナ禍で帰省できず、もちろん旅行にも行けず、かといって近場ですら人混みの中にはあまり行く気がしないので、自宅にこもって積ん読してある本を片っ端から読もうと思っています。それから古本屋さんに買い取ってもらう本の選別と箱詰めと発送。今年はこういう本を読んだなあとか、この本は「あたり」だったなあ(もしくは「はずれ」だったなあ)などと思いながら本棚を整理するのはこの時期のお楽しみです。

もうこれまでに数限りなくこうした作業を繰り返してきましたけど、その中で何年も何十年も書棚にあり続け、時々引っ張り出してはパラパラと読み返すような本がいくつかあります。そうした、いわば「生涯の愛読書」みたいなのは、私の場合やはり文学やルポルタージュ、語学に関する本、歴史に関する本、一般向けの科学読み物、あと料理本が多いです。逆にほとんど手元に残っていないのは、ビジネス書や自己啓発本のたぐい。

ビジネス書はその時々の経済や社会を反映しているものが多いので、一部の歴史的名著以外はすぐに古びてしまいます。これは仕方がないですよね。自己啓発本は、昔はけっこう読んでいたのですが、これも気がついたら書棚に一冊も残っていません。谷本真由美氏の「キャリアポルノ」という呼び名があるとおり、読んでいるときは何だか気持ちよくて一種の高揚感があるものの、読み終わったらなぜか醒めてしまう、あるいは結局行動に結びつかない……というのが自己啓発本の特徴なんですよね。

自己啓発本を読んでいるときのあの高揚感は、「こんなすごいことを人に先んじて知ってしまった」とか「これを実行すれば自分は変わることができる」という、人生のショートカットを見つけたようなワクワク感なのでしょう。でも現実はそんなに甘くないし、世界はそう単純でもないわけで、結局はそれほど変わらぬ自分が残されているのに気づくだけ。だいたい、自分だけ得したいという根性がそもそも「ごうつくばり」なんです。

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https://www.irasutoya.com/2017/05/blog-post_574.html

私は、これはもう断言していいと思っているんですが、世に量産されている自己啓発本を読むくらいなら、優れた文学書や歴史書学術書、あるいは古典にできるだけ触れるほうがよほど人生の糧になるんじゃないかと思います。あと、優れた芸術に触れ、身体を動かし、よく食べて、よく寝ること。それから、これは好みによりますけど、インプットだけじゃなくてアウトプットも(書いたり話したり)。

文学書や歴史書学術書は、そこに自分にとって何か具体的な示唆になるようなことは、それも、それこそ自己啓発本のように今日から実行できそうなノウハウや tips が「今日からこれをしよう」というような形では書かれていません。けれども、そうしたものを読んで、自分の頭で自分なりに何か考えて、そこから形作られていく日々の暮らしや仕事への向き合い方こそが、自分にとっての(そして自分オリジナルの、自分にピッタリ合った)自己啓発になるのではないか。

例えば(あまり例えが適切じゃないかもしれないけれど)夏目漱石の小説を、『こころ』でも『吾輩は猫である』でも何でもいいけど、とにかく読みますよね。それを読んでいる最中や、読み終わった後に、そこに出てくる人物の行動や発言や考え方などを、自分ならどう思うか(共感するか、反感を覚えるか)とか、行間から立ち上る光景をイメージするとか、わかりにくい言葉を調べるとか、あるいはつまらないから他の本に移るとか、その後に感想をブログに書くとか、誰かに話すとか、さらに誰かの書いた研究本や解説本を読むとか……要はそういう読書全体の営みの堆積そのものが結局その人にとっての自己啓発なんですよね。

なんだかものすごく迂遠なようですけど、人格の陶冶ってもともとものすごく時間がかかる迂遠なものですからねえ。自己啓発本でお手軽に人生のショートカットをつまみ食いするのは、結局自分の頭で自分の人生への向き合い方を考えないということだと思います。大量に良い本を読むに如くは無し、です。