小学生の頃、土曜日の午後に絵を習っていました。
今となってはちょっと信じられない感じがしますが、当時の小学校は土曜日も「半ドン」で授業がありました。給食は出ないので、授業が終わって家に帰り、お昼を食べてからバスに乗って、駅前の団地の公民館で開かれていた子供向けの絵画教室に通っていたのです。
先生は二人いて、とても物静かなおじさんと、おしゃべりで豪快なおばさん。お二人はご夫婦でした。お名前は代喜(しろき)香一郎先生と、代喜郷子先生。子供心にも、このご夫婦は日本人離れしていると思いました。だって、語るお話がイタリアやフランスなどヨーロッパの話題ばかりなのです。確かイタリアに長く住んで絵を描いていたとのことで、絵画教室のお茶の時間には神戸のフロインドリーブのクッキーやケーキが出されたりしていました。
※写真は「東京フロインドリーブ」のウェブサイトから。
後年、美大を受験して落ち、浪人生活をしていた時に偶然連絡がついて、当時美大受験予備校で描いていたデッサンなどを持って尼崎のご自宅にうかがったことがあります。
お二人の暮らしは、予想通りとても「ヨーロッパふう」でした。公団の古い「文化住宅」的二階建て団地の一室に住んでいらしたのですが、畳の部屋にも絨毯を敷き詰め、テーブルと椅子の暮らし。作ってくださった晩ご飯は豚ヒレとりんごのソテー。ドイツ風の真っ黒いポンパニッケルにバターをまるでチーズかジャムを盛るように載せて食べるのにも魅了されました。
持参したデッサンについては酷評されました。いわく「受験用の絵で、あなた自身の絵じゃない」。当時私は彫刻科を志望していましたが、受験予備校では「彫刻はマッス*1。彫刻は肉体作業。受験でのデッサンはとにかく量感重視のイケイケドンドンでガシガシ描くべし!」という指導を受けていました。だもんで、私のデッサンはとにかく黒々としたボリューミーなタッチに染まっていました。
代喜先生ご夫妻は「そんな描き方をしてはいけない」と言い、対象をよく観察すること、特に自分の視覚が捉える「物質とその周りの空間との境」がどんな構造をしているのかを丹念に観察して表現することを繰り返し説きました。……と書くといかにも難しそうですが、ようするに対象の輪郭をきちんと捉えることを重視していたのでした。輪郭がきちんと生きていれば、その内側の「マッス」は自ずから立ち上がる。なにもハッチング*2を重ねて黒々とそのマッスを強調しなくても。
そのため、私の人体デッサンは大きく変わりました。いや、極端に変わったと言ってもいいと思います。彫刻科志望なのに、とても繊細な、白っぽいデッサンを描くようになったのです。最初に受けた多摩美の課題は人体デッサンだったので、私はこの代喜先生夫妻に教わった描き方で臨みました。周りの受験生がイケイケドンドンの黒々ボリューミーデッサンを仕上げていく中で、まるでレース編みみたいに繊細なデッサンを描いていた私は異様に映ったと思います。
実際、その後武蔵美でクラスメートになった友人からは、「多摩美の入試で、ひとり線の細いデッサンを描いていたから、なんだこいつと思った」と言われました。ま、彼も私も多摩美は落ちて、武蔵美に受かったんですけど。その武蔵美のデッサン課題は自画像でした。私自身、いくばくかの不安があってそれが勝ったのでしょう、今度は代喜先生の教えに背いて、ガシガシと真っ黒に叩きつけたデッサンを提出し、受かりました。受験予備校が教える通りの「武蔵美の彫刻科向き」のデッサンを描いたのです。
そんなふうにして受かったのに、その後私は彫刻にも絵画にも興味を失い、いや、もっと正直に言えば己の才能のなさに気付いて呆然とし、その反動で演劇に没入して行きました。思えば、受験用絵画の軍門にくだった私は、その時点で自分の芸術を放棄したに等しいのではないかと思います。と言っても、それを自覚したのは卒業して*3何年も経ってからでした。受験時に教えを請うてからのち、代喜先生夫妻とは何度かハガキのやりとりをしたと思いますが、再度お目にかかることはついにありませんでした。
それから数十年が経って、美術とは全く関係のない仕事についていた私は、あるときふと代喜先生夫妻のことを思い出しました。試みにネットでお名前を検索してみると、あるアート作品通販のサイトで代喜香一郎先生の銅版画が売られていました。そして作品の下には「物故作家」との解説が。ああ……。郷子先生は検索しても見つかりませんでした。時の流れから考えれば、郷子先生もすでに鬼籍に入られていると思います。
その通販サイトで購入した銅版画がこれです。イタリアのアッシジの街角でしょうか。遠景に教会らしきドームがあって、手前の運河には石橋がかかっており、その橋のたもとに私の好きなフィアット500*4が停まっています。
イタリアの街並みは日本ほど変化が激しくないでしょうから、ひょっとするとこれと同じ風景がいまでも残っているかも知れません。代喜先生の墓所も知らない私のささやかな夢は、いつかアッシジに行ってこの風景を探し出し、そこで受験時の「背叛」をおわびして、同時に「ありがとうございました」と言うことです。