インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

スポーツにも語学にも「向き不向き」がある

先日、Twitterのタイムラインで拝見したこちらのツイート(リツイートのリンクをたどっていくと元となったツイートまで辿れます)。

同じように感じてらっしゃる方は多いんだなあと思いました。私も体育の授業が大嫌いな子供でしたが、いまではジムに通うのが大好きになりました。ジムが楽しいのは、そこに他人と競う要素がなく、ただ自分と向き合うだけだからです。

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私はスポーツがからっきし苦手なので、プールでの競泳とか、短距離・長距離走(持久走大会などという行事もありました)とか、またサッカーやバスケなど球技のトーナメント戦とかクラス対抗とか、あと柔道や剣道などの武道とか、とにかく学校の体育で優劣や勝敗や順位をつけたがる空気がとても苦手でした。

体育の授業から「競う」要素を取り除くだけで救われる子供はたくさんいると思います。強制的に全員にやらせるのではなく、競いたい人や競うのが向いている人と分けてほしかったです。とくに男性は、子供の頃から「スポーツ好きで当然」という圧力を受けますからねえ。

いまはもうそんなことはないんじゃないかと想像しますが、私が小学生の頃は、男の子のほぼ全員が野球帽をかぶっていた記憶があります。私もかぶってました。野球なんか全然好きじゃないのに。そして子供ながらに野球の「うまい・へた」で見事なヒエラルキーが作られるんですよね。それはいじめにもつながる。子供の頃の私は、みごとに「いじめられっ子」でした。

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これを言うと、日本ではすぐ「不平等だ」などと言われてたぶん実現は難しいでしょうが、健康を維持・増進する意味での「体育」は全体でやるにしても、競う内容の「スポーツ」はやりたい人だけにしたらいいんじゃないかなと思うのです。もとよりスポーツには生まれ持った体格や感性など、はっきりと向き不向きがありますし。
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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_914.html

あとこれは語学学校の「経営」的にはタブーの言い方ですが、実は語学(母語ではなく外語・第二言語)も向き不向きがあります。語学もスポーツ同様に身体の様々な器官を動員して行う一種の「身体能力」だからですけれど、「誰もがプロのアスリートになれない」というのはみなさん同意してくださっても、語学(というかほとんど英語)は「誰もがプロの語学の遣い手にならなければ」と最近は特に前のめりです。全員参加圧力がきわめて強い。

でもこれは、向いていない人、あるいは必ずしも必要としない人にまで強要するという意味で、かなりかわいそうなことではないかと思っています。体育やスポーツが苦手な子供にムリヤリやらせて体育嫌い・スポーツ嫌いが昂進する(かつての私です)のと同様に、現在の学校教育における早期からの語学への傾倒は、大量の語学嫌い(とりわけ英語嫌い)を生みだしてしまうのではないかと。

このブログでも何度も書いていますが、語学は必要になった人が必要になったときから始めればよいのです。ただし必要になったからには、それこそ寝食を忘れて、死にもの狂いで、集中して叩き込む必要があります。

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母語である日本語の涵養もそこそこに、幼少時から週に数時間で「グローバル化した世界に対応できる人材育成」などというのは、語学を教えている立場から申し上げれば、とても非効率なやり方なんです*1。「セサミストリート」みたいな番組を観て、英語の音や文化に親しみましょう程度ならいいと思いますし、異なる言語や文化の人たちとどうつきあうかという「異文化・多言語リテラシー」みたいなものの一環としての語学だったらまだ意味がある(というか、むしろぜひやるべき)だと思いますけど。

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*1:もちろん非効率でも、向いていなくても大人が趣味で語学をやるのは、多角的な視点を身につけるという意味でも有用だと思いますが、それはまた別の話です。