こんなことを言っちゃうと身も蓋もないのですが、ここ十年ほど在日華人や華人留学生と一緒に通訳訓練や日本語学習を行ってきて感じるのは、やはり語学の習得には「向き不向き」があるのだな、ということです。
学校教育では、語学の科目、例えば「英語」が「数学」や「国語」や「社会」などと並んでいるために見逃しがちですが、語学は他の教科とは少々異なる性質を持っていると思います。それは語学が一種の「身体能力」だからです。その意味では、語学はむしろ「体育」や「音楽」に近いのではないでしょうか。
体育や音楽だったら「向き不向き」があるというのは割合多くの人に同意してもらえそうですが、語学についてはなかなかそうはいきません。それはたぶん「母語は誰もが話せるじゃないか」という素朴な信憑によるのでしょう。
でも、家族環境や地域社会や国家などのあり方自体がマルチリンガルであるという場合はさておき、日本のようにほぼ単一言語で社会が営まれている場合、母語の習得過程と外語(あるいは第二言語)の習得過程は大きく異なります。ヴィゴツキーが「子どもは母語を無自覚的・無意識的に習得するが、外国語の習得は自覚と意図からはじまる」と指摘する通りです。
語学は、特に「身体一つで音声を聞き、音声を発する」という部分の語学(学習者の多くがここに憧れて語学を始めます)については、それが母語とは異なる思考方法と、唇や舌や喉や呼吸などの使い方を駆使して行われる以上、まんま「身体能力」なのです。
ですから語学の達人になるというのは、アスリートやミュージシャンとしてそれなりの達成を示すことに近いです。でも、誰もがプロのアスリートやミュージシャンになれるわけではないのと同様、誰もが語学のプロになれるわけではありません。
もちろん、向き不向きがあっても、語学を学ぶこと自体は全くの自由です。当たり前ですけど、向いていなくたって学んでもいい。スポーツや音楽だって向いていなくても楽しむことはできるし、全員がプロになるわけでもありませんし。私だって後から考えれば全く向いていなかった美術を大学で学んで、それは全くモノにはならなかったけれども、後の人生でなにがしかの糧になっています。
ただ、語学はスポーツや音楽と同じように「向き不向きがある」というある意味冷酷な事実は、もう少し知られてもいいのではないでしょうか。そうなれば全国民が幼少時からかなりの時間を英語に割くなどという、ちょっと言葉は悪いですが「非効率な倒錯」から抜け出すことができるのではないかと思うからです。
“語言天才”の留学生
ところで、在日華人や華人留学生と一緒に学ぶなかで時々、「この人は語学にとことん向いていたんだなあ」と思えるような方がいます。中国語にいう“語言天才”、つまり「語学の天才」とでも呼ぶべき方々で、そういった方は日本語の習得が他の方々と比べて際立って早く、音感が優れていて、語学にある程度不可欠な「芝居っ気」を兼ね備えており、失敗を恐れずリトライを続ける気概と勇気を持っています。
こういう方はとても日本語が流暢で、聞き手にストレスを与えないため、時にご本人の実力以上に好評価を得ることがあります。上述したように日本はほぼ単一言語で運営できてしまっている社会であるため、日本の人々の、外国人が操る日本語に対する要求が異様なほど高いことがその背景にあります。
留学生からよく「日本で一番心折れること」としてこんな体験談を聞きます。
留学生が日本の暮らしで一番「心折れる」のは、不自然な日本語に対する日本人(日本語母語話者)の許容度があまりに低いことだそうです。例えばコンビニのバイトで、日本語の発音や統語法が少しでも不自然だと、あからさまに嫌な顔をされたり笑われたりすると。
— 徳久圭 (@QianChong) 2017年2月9日
留学生がバイト先で仕事の説明を受けるとき、日本人の先輩や店長などがダダダダーッと日本語で説明して、しかもその日本語が曖昧模糊としていているので、何度も聞き直したりしていると、すごく嫌な顔をされ、かつ英語で「ドゥユーアンダスタン?」などと聞かれるのも「心折れる」と言っていました。
— 徳久圭 (@QianChong) 2017年2月9日
というわけで、逆に聞き手にストレスを与えない喋り方ができてしまうと、日本社会ではそれだけで相手にどこか親しみやすく聡明な印象を与えることができます。まあ、当然と言えば当然なんですけど。
入社試験の面接などでも、仕事のスキルの優劣よりも日本語の流暢さで合否が決まってしまう(特に外語が話せない重役との面接で)というのは、私自身も何度か目の当たりにしてきました。
ただし、こうした“語言天才”の方々は、その先が二つのパターンに分かれていきます。
一つは元々「向いていた」語学のスキルを、それに甘んじることなくさらにブラッシュアップし続け、実力をどんどん上げ続けて真の「バイリンガル」に近づいていく方です。
そしてもう一つは周りから褒めそやされる日本語の流暢さに「甘んじて」それ以上の努力を怠り、気がつけば周囲の「そこまでは語学に向いていなかったけれども、ひたむきな努力を重ねた人たち」に抜かれてしまっていた……という「兎と亀」のウサギのような方です。
大変失礼ながら、私はそういう方をひそかに「財産使い果たし系」と呼んでいます。せっかく生まれ持った語学の才能があり、それを活かしていち早く語学の財産を築き上げたのに、その後かりそめの裕福さに慢心して財産が目減りをし続け、成長が頭打ちになってしまうのです。よしながふみ氏の『フラワー・オブ・ライフ』に出てくる真島海くんのように。
「財産使い果たし系」の方は、表面的にはとても流暢で、その日本語を聞いていてもストレスがなさそうですが、少々込み入った内容の通訳や翻訳の訓練をしてみると、財産を使い果たしてしまった(あるいは使い果たしつつある)ことが露呈します。自分のことを自分の興味の赴くままにしゃべることはたやすくても、他人の発言を自分なりに咀嚼して代弁する通訳や翻訳の段階になると、普段の流暢さがどこかに吹き飛んでしまうのです。
私はそういう生徒に出会うと、老婆心ながらなるべくプライドを傷つけないよう気を使いつつ「このままではいけないよ」と伝えるのですが、なかなか分かってもらえません。中野好夫氏がいみじくも指摘したように「語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい」ですね。
かくいう私自身の「語学の財産」ですが、正直に言って残高は常に少なめだと思います。日々せっせと貯蓄なり運用なりをせねばと自らを戒めているところです。