「こんな日本語、使わない」とおっしゃる語学講師に対して「普通に使うのでは」とおっしゃるツイートを拝見しました。
全部ふつうに、時には日常会話でも使いますね…。日本語検定1級レベルの例文だそうです。その友達がそのレベルに達しているなら有用な例文でしょう。
— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) May 25, 2021
英語でもよく英検1級の単語や構文を見て、「こんなん使わねえよ!」と怒っている人がいますが、大人が英語で日常生活を送るなら相当使いますよね。 https://t.co/I4TuSuIhiY
引用されている元のツイートを最大限好意的に解釈すれば、「こんな日本語、日常では使わない」ということだと思うんですけど、こうした主張に接するたび、その志の低さにいたたまれなくなります。
私も日々外国人留学生と接している中で、時々学生さんから「教科書に出てくる日本語は使えない。もっと実用的な日本語を学びたい」という声を聞くことがあります。そんな学生さんに「どうしてそう思うのか」を聞いてみると、「だって、バイトの先輩なんかはこんな(教科書に出てくるような)日本語を使ってないから……」などとおっしゃる。う〜ん、それはそのバイトの先輩の日本語「レベル」が(日本語母語話者であるにもかかわらず)低いからかもしれないですよ。
日本語や英語に限らず、中国語でも母語話者の中に時折「そんな中国語はない」とか「そんなふうには言わない」などと勇ましくおっしゃる方がいますが、大抵はその方がご存知ないだけです。外語同様、母語にも「レベル」というものがあるというのは紛れもない事実なのですが、ここにもまたその例をひとつ見つけてしまいました。まことにご愁傷様でございます。
私は現在、仕事の関係で語学学校、それも日本語教育業界の方とおつきあいすることが多いです。で、えー、ここからはまたまた小さな声で申し上げねばならないところなんですが、日本語の教育を生業とされている方の中にも、特にそれほど難解でも難渋でもない言葉について、「そんな言葉、初めて聞きました」とか「使ったことがない、読んだことがない」とおっしゃる方はままいらっしゃいます。
もちろん私にだって初めて聞く言葉や、使ったことが・読んだことがない言葉は無数にあります。日々そういった言葉に接して「まだまだだなあ」と思う毎日なので、決してエラそうなことは言えません。しかし、少なくとも「そんな○○語はない」と言い切るのだけはとりあえずしないでおいて、辞書を引いてみる、用例に当たってみるという習慣だけは怠らないようにしたいものです。さらに日々可能な限り読書に時間を割いて、母語のレベルを少しでも高めておこうとする習慣も。
きわめて単純化されたものいいですが、母語でも言えないような難解なこと、複雑なこと、抽象的なことは、外語ではもっと言えません。少なくとも言える自信はありません。ですから、母語の「レベル」を可能な限り高めておこうとすることで、外語の「伸びしろ」ができると私は考えています。母語にも「レベル」があるという厳然たる事実を、初中等段階の学校教育からもっと意識し、強調してもいいのではないでしょうか。
そんな難解な言葉、日常生活のどこで使うんだ、というご批判もあろうかと思います。しかし、日常生活で使わなくても、一度でも学んだことがある言葉は、身体のどこかに残ってその人の思想や思考方法を形作る材料になっていると私は信じたいのです。一度でも学んだことがあるのと、一度も学んだことがないのとでは、のちのち大きな違いになって現れるのではないかと。
むかし寺子屋で行われていた漢籍の素読のようなものも、実はそういう「効用」が期待されていたんじゃないかなあ。言葉自体はよく分からず、日常生活でもほとんど使わないかもしれないけれど、じわっと身体にしみこんでいくような、教養の素地となるようなものがそこにはあったのではないか。
毎度ご紹介している、台湾の作家・張曼娟氏の言葉を今回も引用しておこうと思います。中国語圏の青少年にあてたメッセージ動画の、最後の部分(2:36あたりから)です。
就是當前世界有幾億人外國人,就是華人以外的人在學中文的時候,身為一個華人卻不學中文,是不是可惜? 每個人的價值觀不一樣。那有一些人可能覺得說,我就是覺得不可惜。那,但是如果我的話,我會覺得很可惜。所以如果我有孩子,我一定不會讓他放棄華文的學習。而且我會希望他的華文比跟他在同一個地區的人的華文都更好。因為我覺得現在會華文已經不是優勢。你的華文要比其他的人更好才是優勢。
いまや中国語圏以外の数億という外国人が中国語を学んでいるのに、華人として中国語を学ばないのは残念ではありませんか? 価値観は人それぞれですから「別に……」と言う人もいるでしょう。でも私は違います。私に子供がいれば、中国語の学習を怠らないようにさせるでしょう。しかもその中国語が、まわりの華人よりも優れたものであってほしい。この時代にあって、中国語を話せることは強みではありせん。自らの中国語が人より優れていることこそ強みなのです。