インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「HINOMARU」の文語調について

先日来、RADWIMPSの新曲「HINOMARU」を巡って、ネット上には様々な情報が飛び交っています。

私はその歌詞を一読して「なんだこれ?」と思った以上の感情は湧かなかったのですが、右や左の旦那様、じゃなかった皆々様の中にはことさらに神経を刺激された方もいたようで、Twitter上では過激な抗議行動への呼びかけやら、それに対する反発やらが拡散しあい、さらにはご本人たちが謝罪したその後のライブで「自分の生まれた国を好きで何が悪い」と叫んだらしいというニュースまで舞い込んで来るに到って、バカにしたニュアンスで使っていた「なんだこれ?」が興味を持つ意味合いの「なんだこれ?」に変わって行きました。

この件をめぐって、表現の自由や言論の弾圧といった側面と、歌詞そのものが持つ陳腐さについて書かれていた小田嶋隆氏のコラムが「なんだこれ?」を埋め合わせてくれる内容で、とても面白く読みました(と書くと何となく不遜ですね)。

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とくに「HINOMARU」の擬古文的な歌詞の、その「恥ずかしさ」については我が身を振り返ってちょっと見につまされるような感覚にもなりました。私は擬古文や、ましてや正式な古文や文語文をきちんと使いこなす自信は全くないにもかかわらず、そういうものに憧れる「知的虚栄心」は人一倍持ち合わせているからです。このブログにしたって、時々、いや頻繁にかな、古文ではないもののかなり背伸びをした小難しい表現を使いたがる自分の癖は充分に理解しているつもりです(これでも)。

私は昔から人に「ペダンチック」とか「衒学的」と言われることが多いので、そういう癖はなるべく抑えようと努力しています(これでも)。ブログを書くのは文章の練習というか頭の体操というかボケ防止というか、まあそんな程度の理由なんですけど、なるべく自分の「衒学性」を飼い慣らしてより……、より……あれ?「衒学的」の対義語はなんでしたっけ? ともかく「衒学的ではない」思索に自分を持っていきたいと願っています。

歌詞に使われる文語調

思えば、私が最初に「中途半端に使われる文語調や古語風の言い回しの恥ずかしさ」について意識したのは、NHKの朝ドラで主題歌に使われた松任谷由実氏の「春よ、来い」でした(歌詞はこちら)。

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「今でも返事を待っています」という現代文にところどころまぶされる「愛をくれし君の懐かしき声がする」といった古語風の言い回しがなんだか鼻につくなあと感じたのです。それでもその一方で歌詞全体はさすがにイメージ豊かですし、曲はこれはもう松任谷由実氏の面目躍如で趣きにあふれるメロディだと思いました。

その一方でRADWIMPSの「HINOMARU」はやはり何度聴いても(歌詞はこちら、曲はこちら)、その歌詞もメロディも「ちょっと恥ずかしい」の域を出るものではありません。まあ曲の好みは人それぞれですから、一度聴いて見ることをお勧めいたします。というか、SNSなどで「炎上」していた時に思ったんですけど、曲を聴かずに歌詞の字面だけで「脊髄反射」していた方が散見されましたが、それではRADWIMPSのみなさんがちょっと可哀想だと思います。

ちなみに、今回の「騒動」の中で「同じくくり」として椎名林檎氏の「NIPPON」や、ゆずの「ガイコクジンノトモダチ」を再び取り上げる意見もネット上には見られましたが、「NIPPON」はまだ文語調をまぶしていないだけ聴きやすいと思います(歌詞や楽曲そのものは好きじゃないですけど)。

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「ガイコクジンノトモダチ」のほうは……こちらも文語調はまぶさっていないけれど、これは恥ずかしい。大変失礼な言い方になりますが、なぜこんなに薄っぺらい歌詞を書いてしまうんでしょう。この歌詞を読むと「HINOMARU」のほうがまだ深みがあると思えるほどです。

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外国人の存在や行動や言動に触れることで、自分自身や自らの国を見つめ直したり新たな発見をしたり危機感を覚えたりすることはとても有意義だと思います。私も日々外国の方々と接する仕事をしているので、その大切さや面白さや難しさはじゅうぶんに分かります。だからこそですが、それをこんな薄っぺらい言葉で語ってほしくないなあ。

「言葉足らずの歌」について

ゆずの歌詞については、政治学者の岡田憲治氏がその著書で、その容赦のなさに少々こちらがたじろいじゃうほどの、でもとても的確な批判をされています。

(ゆずの「逢いたい」の歌詞を読むと)「『逢いたい』で済むなら、歌にするなよ」と思ってしまうのです。あるいは「伝えきれない想い」と「伝えきれない想い」という歌詞で歌うのは、創作以前の反則だろとつぶやきたくなるのです。「好き」と「嫌い」以外の判断基準を持つ人間(少しはものを考える大人という意味)にとって、寂しいときには「寂しい」という言葉を使わないで歌を創る、シナリオを書く、そして小説を産み出すというのが人前で何かを見せる者たちの最低限のお約束だったはずです。


岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』210ページ(強調は原著のまま)


言葉が足りないとサルになる

いや、これは手厳しい。でも本当にその通りだと思います。この圧倒的な「言葉の足りなさ」というのは、日々日本語母語話者や中国語母語話者の生徒さんたちを相手に語学や通訳翻訳の訓練を行っていてひしひしと感じ、また自戒にもしているところです。語学や通訳翻訳を論じ始めるとキリがないのでまたそれは他の機会に譲って歌詞にしぼりますが、優れた歌詞というものは、メロディに乗せるという前提条件からして比較的字数制限の強い枠組の中で、しかし読み手や聞き手に深い余韻や洞察を与えてくれる懐の深さを持っている、あるいは絶大なイメージ喚起力を持っているものだと思います。

そのために表現者は様々な工夫を凝らすものですし、上記の文語調もその工夫の一環なのかも知れません。でも「HINOMARU」はその点ではかなり不完全燃焼だと思います。映画『君の名は。』の主題歌として大ヒットした「前前前世」と同じ表現者とはとても思えません。

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