インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

Dr.Capital氏が解説するスピッツ

いつも楽しみに視聴している Dr.Capital(ドクター・キャピタル)氏の YouTube動画。久しぶりに更新を確認しに行ったら、なんと私の大好きなスピッツの曲が氏のアレンジで披露されていました。


スピッツ (Spitz) の チェリー (Cherry) - Dr. Capital

この動画でも語られていますが、Dr.Capital氏が初めて日本に留学してきた1996年に発表されたスピッツのシングル曲がこの『チェリー』だったのだそうです。私もその時代時代でスピッツの曲を聞いてきましてたが、1996年当時は中国へ留学したい一心で安アパートに住み、お金をため、公費留学試験のための勉強をしていた時期で感慨深いです。歌詞に出てくる「きっと想像した以上に/騒がしい未来が/僕を待ってる」というのを、そのまま自分の心情に重ねていたのです。

スピッツの楽曲の歌詞は、日本語としてはなんだか煙に巻かれたような奇妙な展開が多いのですが、それだけに聴き手がそれぞれの心情や状況に合わせて自由に想像をふくらませることができる懐の深い詩になっています。それは作り手の作詞意図とは、もしかしたら全く関係ないかもしれない。大きな的外れなのかもしれない。それでもそうしたひとりひとりの「誤読」や「自分勝手な解釈」をも包摂し、旋律とともに深い味わいをもたらしてくれる。それがスピッツの楽曲の、とても大きな魅力だと思うのです。

またこれはとても不思議なのですが、人生の折々にスピッツの楽曲の歌詞がふと心のなかに立ち上がって来ることがあるんですね。例えば『楓』は、細君がくも膜下出血で入院した時自然に脳内でリフレインされていました。歌詞は「さよなら/君の声を抱いて歩いていく/ああ僕のままで/どこまで届くだろう」とか「風が吹いて飛ばされそうな/軽いタマシイで/人と同じような幸せを/信じていたのに」ですから、その時のシチュエーションとしては「縁起でもない」のですが、なぜかやけに励まされる思いがしました。

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J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲(81年デジタル録音)

Dr.Capital氏の解説は、氏のご専門である音楽理論をベースにわかりやすく面白いものばかりなのですが、今回も驚きました。『チェリー』の歌い出し(Aメロ)が『パッヘルベルのカノン』と全く同じ「カノン進行」になっているというのです。なのに言われるまで全く気づかない理由は、スピッツならではの楽曲作りにある……おっと、これ以上はぜひ動画をごらんいただきたいと思います。

この動画を見た日の夜、偶然NHK Eテレで『らららクラシック』を観たら、バッハの特集でカノンの説明をやっていました。何というシンクロ。しかも『ゴールドベルク変奏曲』における驚異的なカノンの配置、つまり3の倍数にあたる変奏で必ず現れるカノンが、徐々に度数を広げていく……という仕掛けについても説明されていました。

私は「無人島に一曲だけ持っていくとしたら」という問いには、グレン・グールド氏が弾くこの『ゴールドベルク変奏曲』を選びます。あ、そこはスピッツのアルバムじゃないんですね。ごめんなさい。ちなみに細君に聞いてみたら「あたしは『六本木心中』」だそうです。

あまり教師に向いてない

うちの学校で、二年間の専門課程を学んでいる留学生のうち、約半数は華人(チャイニーズ)、つまり中国語が母語の留学生です(一部に広東語が母語の留学生も)。ほとんどの学生は、自分の日本語を仕事で使えるレベルにまで持っていって、将来は日本で働くか、日本と関係のある企業や業界で働くことを目指しています。

中国語に“語言環境”という言葉があって、文字通り自分の周囲の言語環境のことなのですが、華人留学生のみなさんはいま、その“語言環境”がとても良い状態にありますよね。なにせ日本社会に暮らしているのですから、学校内はともかく一歩校外に出れば、そこは日本語の大海原。語学学習者にとっては理想的な環境です。

そこで日々、様々な日本語の大波小波に洗われているうちに、日本語のスキルも右肩上がりで上昇……と行きたいところなのですが、実際にはそう理想通りには運びません。日本人(日本語母語話者)だって、海外に留学などで何年も住んでいるのに、英語を始めとするその土地の言葉はからっきし苦手、という方がままいらっしゃいますよね。

私は主にこうした華人留学生の授業を担当しているのですが、同じ時期に入学してきた「非・中国語圏」の留学生と比べて、日本語の上達ぐあいに明らかな差があるように感じます。もちろん個人差はあるものの、おしなべて華人留学生のほうはなかなか日本語が上達しません。教師の教え方が悪いのだというご批判は甘んじて受けますが、それ以上にうちの学校で、華人のみなさんの日本語が上達しにくいのは、ふだんから中国語で喋り倒しているからです。こんなに“語言環境”のよい日本に暮らしているというのに。

そこで教師はあの手この手で教案を考え、工夫し、「日本語を話しましょう」と呼びかけ、励ましています。私も例えば「要約(サマライズ)」の訓練などで、ペアになってお互いに批評し合うときなど、華人留学生を必ず「非・中国語圏」の留学生と組ませて、お互いの共通言語は日本語しかないという状態を作り出し、否が応でも日本語を話さなければならないような状態に追い込みます。

……だがしかし。

私は時折「自分は何をやっているんだろう」と思ってしまいます。そんなに日本語を話したくないなら好きにさせればいいんじゃないかと。なぜ我々が、彼らに日本語を話させようと躍起にならなければならないのか。もちろんそれが教師の役割ではあるのですが、義務教育でもない学校の課程で、すでに成人に達している留学生に、常に「日本語を話しましょう」と言い続けるのは虚しいです。語学なんて、やりたい人が、やりたいだけ、やればいい。大人の学びは、誰に強制されるものでもなく、まずは自分から取り組んでいくものです。

私が中国に留学していたときは、すでに三十路も半ばになってからの遅すぎる留学で「背水の陣」だったということもあるけれど、とにかく中国語を話したかった。中国語を話すことこそがカッコよく、クールであり、日本語は話すのも聞くのもとにかくイヤでした。もちろん全く日本語を話さなかったわけではないけれど、せっかく理想的な“語言環境”である中国社会に住むことができているのだから、日本語など話したら損、くらいに思っていました。

それでなくても私たち日本人と、華人は「漢字」という強力な伝達ツールを共有しているので、話さなくたってかなりの部分まで読めてしまう、分かってしまう。かててくわえて最近はインターネットがあり、パソコンやスマホがあり、言葉の壁を乗り越えようと四苦八苦するような状況は劇的に少なくなってきています。ことここまで至ってしまうと、これはもうよほどの決心をして「外語を話そう!」と思わなければ、水はずーっと低きに流れたままでしょう。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_742.html

それでなくても最近の留学生は、私がこの業界に入った数十年前と比べて明らかに様変わりしています。若干の例外を除けば、きょうび日本に留学してくる華人留学生は、その多くが比較的裕福な、あるいは経済的にそれほど心配が必要ない状況の方たちです。「アルバイトはしていません」という方もいます。なかにはこう言ってはなんですが「ご遊学」的なお坊ちゃん・お嬢ちゃんもまま見受けられます。

もともとそれほど「ハングリー」でないところに持ってきて、クラスの半数が同じ中国語という母語を共有しており、なおかつ街には自分の文化圏がルーツである漢字があふれており、ネットのゲームやSNSなどの便利で誘惑たっぷりなツールもふんだんに揃っている……こんな状態で「みなさーん、日本語を話しましょーう!」と声を嗄らしている私はバカなんじゃないの? ……と虚しくなるのです。やっぱ私、あまり教師に向いていないかなと思います。

『台湾、街かどの人形劇』

昨日の東京新聞朝刊に、台湾のドキュメンタリー映画『紅盒子(邦題:台湾、街かどの人形劇)』に関する記事が載っていました。映画のオフィシャルサイトは、こちら

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記事には台湾の伝統的な人形劇である「布袋戲(ポテヒ・ほていぎ)」が「娯楽の多様化を背景に衰退傾向が続く」とあり、オフィシャルサイトにある予告動画でも「これでは伝統が途絶えてしまう」という陳錫煌氏の声が収録されています。

なるほど、むかしむかし台湾に住んでいた頃は、それこそ街かどで何度か「布袋戲」を見かけましたけど、現在では第一人者がそこまでの危機感を露わにするほど、伝統の継承が危ぶまれているのですね。テレビでやってる「霹靂布袋戲」などは盛況ですが、あれはもはや別のジャンルといってもいいほどの「発展ぶり」ですもんね。

確かに、CGなどを駆使して極限までリアルさを追求する映像や、音と光に満ち溢れた様々なパフォーマンスが溢れる現代、人形劇のようにある意味で観客側にも想像の翼を働かせることが求められるジャンルの芸能は「分」が悪いのかもしれません。

いや、これはどの国や地域の伝統芸能にも共通した悩みなのでしょう。本邦でも能楽文楽などは、ある程度の「能動性」が観客に求められることになりますよね。能楽は多少の背景知識があったほうが鑑賞しやすいし、文楽人形遣いの存在を自分の中で捨象する必要がある。そうした敷居を低くする試みは色々と行われていますが、一方で伝統を守る必要から例えば「スーパー歌舞伎」みたいな大胆な方向にはなかなか行けません。

私自身、能楽文楽は大好きですけど、それほど頻繁に鑑賞しているわけではないし(チケットの取りにくさと経済的な理由も……)、「布袋戲」だって台湾で遭遇したときは興味深く見ていましたけど、侯孝賢監督の映画『戯夢人生』(陳錫煌氏のお父様である李天祿氏の半生を追っています)は、ごめんなさい、うっかり熟睡してしまいました。記事は「映画を通じて多くの人に関心を持ってもらい、ファンになってもらいたい」と締めくくられています。この映画、ぜひ見に行ってみようと思います。

追記

ところで、この記事の横に「横浜中華街では孫弟子活躍」という見出しがあって、一読「あっ」と驚きました。陳錫煌氏の孫弟子にあたる日本人が「布袋戲」に取り組んでいるというのですが、この金川量氏を私が中国語を学んでいた学校でお見かけしたことがあったからです。

たしか基礎クラスの学期末に朗読大会みたいなのがあって、そこで「先輩が特別に余興を披露してくれます」ということで登場したのが金川氏ではなかったかと記憶しています。記事にもある通り、氏は京劇を学んでいらして(というか、当時はまだ北京に行かれる前だったと思いますが)、私たちの拙い朗読など吹き飛ばすような、テンションが高くて「日本人離れした」中国語を披露されていました。確か京劇の一節を歌ったか語ったかされたのだと思いますが、記憶が曖昧です。

そうか、その後北京で本格的に京劇を学び、その後は台湾の「布袋戲」を学ばれていたのですね。当時から強烈な「伝統芸能オタク」的雰囲気のあった氏でしたが、ずっと変わらずに好きなものを追い求めていらしたわけです。う〜ん、素晴らしいと思います。

スマホ依存症だった私

先日「朝活」のジムで筋トレをしたあとにサウナに入っていたら、サウナ内に設置されているテレビで朝のワイドショー番組が放送されており、こんな話題を取り上げていました。映画館での映画上映中にスマホをいじる客が迷惑だという話題です。すでに「まとめ」もできていました。

togetter.com

なるほど、二時間前後になる映画の上映時間中も、スマホをチェックしたい気持ちが我慢できないと。でも暗い館内でスマホを立ち上げると、けっこう明るくて鑑賞の邪魔になり、確かにこれは迷惑です。

ワイドショーでは、せっかくお金を払って映画を見ているのに、またどうして……といった意見がある一方で、それほど気にならないという声や、緊急時にスマホが使えないと困るから電波を遮断することもできないといった視点も紹介されていました。私は、これはもう「依存症」として何らかの対策や治療が必要な段階になっていると思います。

私の職場でも、留学生が授業中にスマホをいじるのはごくありふれた日常風景になっていて、たった50分の授業一コマでさえ我慢できずについ……という方はかなり多いです。教師によっては授業の最初に「禁スマホ」を宣言して学生のスマホをひとところに集めて保管しておき、授業後に返すということをやってらっしゃる方もいますが、私はノータッチです。

なぜかというと、まずきょうびの学生さんは辞書というものを持っていない(語学学校なのに、ほぼ100%持っていません)のでスマホが辞書がわりです。特に通訳や翻訳の授業ではそのスマホ辞書も使わざるを得ません。それに、そもそも義務教育でもないので、学びたい方が学べばいい、授業そっちのけでスマホに興じるのも完全にその方の自由(ただし真面目に学びたい他の学生の邪魔をすることは許しません)だと思っているからです。

授業中どうしてもスマホに手が伸びてしまう留学生をそっと観察してみると、大概はSNSやメッセージアプリの確認に費やしているようです。中には授業中にも関わらずゲームに興じるという剛の者もいますが。上述のワイドショー番組でも紹介されていましたが、「なにか起きていないか気になる」とか「大事な連絡をスルーするのがこわい」などでSNSやメッセージをチェックする、それも頻繁に……という方は多いようです。

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https://www.irasutoya.com/2014/07/blog-post_3699.html

いま私は「という方は多いようです」などと、まるで他人事のように書きましたが、実はこうした「依存症」とも言えるような状態、つい最近までの私にもありました。SNSを一番頻繁に利用していた頃は、まさに一時間に何回も、いえ、もう数分に一度という割合で、スマホやパソコンからチェックをかけてしまうのです。さっき見たばっかりなんだから、さしたる変化などないはずなのに、チェックしたくてたまらなくなる。

しかも、あるSNSをチェックしたら(もちろん変化なし)、別のSNSに行ってチェックし(こちらも変化なし)、新着メールが届いていないかどうか確認し、お気に入りに入っているブログが更新されていないかどうか見に行き、そのブログのリンクから別のサイトへ飛んでニュース(それも、どーでもいいような)を読み、そこからまた面白そうな話題に飛んで……いるうちに、最初にチェックしたSNSに変化がないかどうか気になってまた確認しに……という無限ループです。これを「依存症」と呼ばずしてなんと呼びましょうぞ。

あまつさえ、朝起きた瞬間にスマホを手にとってSNSのタイムラインを確認し、ついには夜中に目が覚めたときにさえ確認するに至って、さすがに「これはまずい」と怖くなりました。それで利用していたSNSのほとんどを退会し、スマホやパソコン以外に興味を向けるよう自分で自分を叱咤しつつ、徐々に「依存症」から抜け出せるようになりました。

そして最近、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する』を読んで、そうした「依存症」を引き起こす原因のひとつが、ネットや、ことにSNSに仕掛けられた「注意経済(アテンション・エコノミー)」の為せる技だとハッキリ悟って、ほぼ「依存症」を克服した次第です。ほぼ、というのは、まだこのブログやTwitterを利用しているからですが、いまではスマホによる「ながら」はほとんどなくなり、自律的に使える時間が増えたという強い実感を持てるまでになりました。

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折しも昨日、「ゲーム依存」に関する初の全国調査が行われたというニュースに接しました。一日のうち、ゲームに費やす時間が長いほど仕事や健康に悪影響を及ぼしている実態が明らかになり、こうした生活にまで影響を及ぼすゲームへの依存は、すでにWHO(世界保健機関)が「ゲーム障害」という病気として認定し、対策を求めているとのこと。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191127/k10012192941000.htmlwww3.nhk.or.jp

いまやゲームのみならずSNSなども含めたスマホへの依存をきちんと「依存症」であると位置づけ、救援策を考えておくべき段階に至ったのではないでしょうか。上述の映画館でのスマホいじりを我慢できない方々や、自分の周辺にいる留学生を見ている限り、これは後々ものすごく大きな問題になっていくのではないかという予感がします。

ロシア語だけの青春・その2

黒田龍之介氏の『ロシア語だけの青春』を読んで。昨日からの続きです。

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語学教師としての視点から

昨日書いたのは学習者としての視点ですが、教師としての視点にも首肯することしきりでした。

●生徒の発音を笑わない。

これはとても大切で、私も常に気をつけています。日本人もそうですけど、華人留学生もああ見えて(失礼)けっこうシャイで、日本人に発音を笑われるとそれだけで意気消沈しちゃって積極的に話さなくなる危険性があるように思います。

●カードを元に、授業中はこれをシャッフルしながら、アトランダムに生徒を指名する。

いつなんどき自分に当たるかわからないという緊張感を生徒に与えるための方法ですが、私もこれを授業で使っています。黒田氏は「言語学とスラブ語学で有名な大学の先生が採用していたやり方」で「先生ご自身がプラハに留学されていた際に、セルビア語の授業で採用されていた方式」だと紹介されています。私は長谷川良一氏の中国語の授業と同氏の『中国語入門教授法』で知って取り入れました。

●外国語を専攻する大学生は、授業で覚える単語が実用的でないと、不満を漏らす。こんな使えそうもない単語じゃなくて、もっと役に立つ単語を教えてほしいという。その一方で、スラングや流行語は喜んで覚えたがる。だが、なにが使える単語で、なにが使えない単語かは、学習者には判断できない。

私が教えているのは大学ではなく、生徒もその大半は留学生ですが、こうした「不満」はよく聞かれます。いわく、教室で教わる日本語と、バイト先の人や日本人の友達が話している日本語とがかなり違う……などなど。ですが、外語はまずフォーマルできちんとした単語や構文を覚えないと、その先には進めないんですよね。きちんとした正式な言い方ができるからこそ、その先に進んでネイティブのように崩すこともできるのです。外語はあくまでも「フォーマル→カジュアル」と学ぶのが大切だと思います。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_93.html

●大学は見返りを求める場所である(中略)知的好奇心などを綺麗事をいってはいけない。大学で教える者は、現状をしっかりと把握する必要がある。
●人はなんらかの見返りを求めて、外国語を学ぶ。でも。ミールには見返りなんてなかった。

確かに、現在の日本は語学に(ことに英語に)対して過度に「見返り」を求めているような気がします(いや、昔からかしら)。でも見返りを求め始めたら、それは畢竟ギブ・アンド・テイクの世界であり、さらには投資とそのリターンという発想に陥ります。そうなれば、やれ効率だの、手っ取り早くだの、「○週間でペラペラ」だのまではひと続きです。

でも語学って、本来はものすごく「泥臭い」営みだと思うんです。もちろんそれを使って外語が理解できたり、自分の話すことが通じたりする瞬間は「ぱあっ」と世界がひらけたような感じがしますし、通訳や翻訳も華やかなイメージがあるみたいですけど、実際にはとても「泥臭い」、あるいは「辛気臭い」営みなのです。その語学を習得するには膨大な時間と労力が必要です。世上、それは無駄が多いからだ、古いメソッドから抜け出ていないからだなどの甘言は多いですが、一部の天才を除いて、手っ取り早くちゃちゃっと語学を習得することは不可能だと思っています。

それでなくても機械翻訳(通訳)技術の発展で、「語学なんて学ばなくてもいい時代がくる」などと喧伝され始めているこの時代。ますますそうした「泥臭い」営みには否定的な意見ばかりが寄せられることになるのでしょう。でも私は「語学に王道なし」はこれからも揺るがないと思いますし、いっそ AI などの技術がが発達して実用的な機械翻訳が普及したあかつきには、その時こそ「見返り」を求めない本来の泥臭くも楽しい語学を、静かにかつ思う存分楽しめる時代が来るんじゃないかと、へんな期待を抱いています。

●わたしは、オフィスのようにきれいな大学に身を置くと、居場所がなくて落ち着かなくなってしまう。なんだか嘘っぽい。わたしには、ミールのちょっと怪しい空間こそが、非常にリアルだった。きれいで整った空間で外国語を学ぶのって、どのくらいリアルなんだろ。

「ミール・ロシア語研究所」は代々木の雑居ビルの一フロアにあったそうですが、それよりは規模は大きいものの、私の通った日中学院も似たような「怪しさ」に満ちた空間でした。

初めて見学に行った時の印象も強烈で、窓には直射日光避けなのか投石避けなのかわからない桟が嵌っていて中の様子は伺えないし(実際、隣が日中友好会館なので、黒塗りの街宣車がよく出没するのです)、教室に入ってみれば黒板の上に墨痕淋漓と簡体字でスローガンのようなものが書かれているし、先生も生徒もみんなお互いのことを「ぴんそん」だの「りんむー」だのと呼び合っているし、昨日も書いたようにみんな大声で発音練習しているし……と怪しさ満点でした。

まあ建物の怪しさという点では、これものちに私も講座をいくつか担当させていただいた、神田の東方学会ビルに入っている日中友好協会東京都連合会の中国語教室とか、今はもう閉校してしまった新橋駅前のニュー新橋ビルに入っていた朝日中国文化学院のほうが数倍怪しかったですが。ともあれ、私は日中学院に何年間か通ううち中国語熱が嵩じて、サラリーマンを辞めて中国に留学することになり、帰国後はここで事務局や教師の職を得たものの、いろいろと問題を起こして結局は退職することになってしまいました。

たぶんもう一生日中学院に行くことはない(というか、行けない)と思いますが、黒田氏が書かれている「ミール」の雰囲気と、日中学院のそれはとても似通っているように思われるのです。実際には私は「ミール」に行ったことがないんですから、本当のところはわからないんですけどね。ひょっとしたら今でも、日中学院にはそんな雰囲気の一部が残っているかもしれません。

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▲日中学院の教師だった頃。帰国する留学生が「一緒に写真を撮ってください」と肩を組んで来ました。こういうフレンドリーさが華人(チャイニーズ)のすてきなところです。

ロシア語だけの青春

黒田龍之助氏の『ロシア語だけの青春』を読みました。一読、次々に付箋を貼りたくなるくだりが続出、でもページの先を早くめくりたくて、小さな付箋紙を貼り付けるのももどかしく思いながら、一気に読み終えてしまいました。いや〜、これは語学好きにはたまらない一冊です。とくに一時期ある語学に「ハマって」しまい、なおかつそれを仕事でも使うようになり、さらには教える立場にまでなってしまったような人間にとっては。

文字通りそうした道を歩まれてきた黒田氏は、東京は代々木にあったロシア語の学校「ミール」(2013年に閉校)に通い、学校を通して仕事をするようになり、その後そこで教鞭まで取るようになります。この本は、その学校「ミール」での教学方法や、先生とクラスメートたちの思い出を中心に綴った作品で、氏と引き比べるのも僭越ながら私も中国語で同じような道をたどってきたので、なおさら読後感もひとしおだったのです。

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ロシア語だけの青春: ミールに通った日々

語学学習者の視点から

付箋を貼った箇所から、語学学習者として心に残った点をいくつか。私にはこれらの記述が、まるで語学に関するアフォリズム箴言)のように読めます。

●ただひとつ、生徒が不自然なまでに大声で発音することが、印象的だった。

大声は、語学の初級段階においてはとりわけ大切だと思います。私は最初に通った中国語学校の先生が毎回授業に遅刻してくるのに腹を立ててそこをやめ、飯田橋にある日中学院の授業を見学に行ったのですが、その時の光景は今でも忘れられません。もう故人となられたP老師のもと、生徒さんたちがものすごい大声で“課文(教科書のテキスト)”を音読していたのです。

●発音はネイティブに習うより、日本人の専門家から指導されたほうがいい。

これは中国語も同じだと思います。もちろんネイティブでも外国人に中国語を教えるメソッドをきちんと学ばれた方は別ですが、日本語母語話者の特質に留意しながら中国語の発音を教えることができる方は存外少ないのです。

●一定以上の時間を継続して確保できなければ、外国語学習はできない。
●昔の芸事というものは、ほとんど毎日だったらしい。(中略)毎日同じお師匠さんの所へ通って、同じことを習うのである。「身につける」というのは、そういう訓練を通してのみ実現できる。

私が日中学院で通ったのは、夜間の週三回クラスでした。会社に勤めながら週に三日も学校へ通うのはかなり大変でしたが、他の日に残業や早出をして時間を稼ぎ、ほとんど休まずに通っていました。その意味では、現在学んでいるフィンランド語は週に一回なので、少々物足りなさを感じています。でも東京近辺で、週に二回、三回と開講している講座がないんですよね。

●国内で充分な外国語運用能力を身につけないまま、現地に留学した人の外国語は、一見すると流暢だが、実は自信がなくて弱々しい。

これも語学関係者にはよく知られている話です。さらに言えば、きちんとした母語の基礎がないまま留学するのも危うい。この意味で幼少時から海外へ移住して英語を学ばせるという親御さんの「もくろみ」はかなりリスキーだと思います。もちろん、日本語なんてすっ飛ばして「英語の人」になっちゃっていい、というならいいんですけど。
qianchong.hatenablog.com

●外国語学習についていえば、暗唱は欠かせない。というか、暗唱してこなかった学習者の外国語は、底が浅いのだ。
●話せるようにならないのは、訳読が悪いのではない。その後に暗唱しないからである。

これは耳の痛いお話。中国語では私、暗唱を死ぬほど行ってきましたけど(それでも楽しかった)、フィンランド語は語形変化が激しいために例文を暗唱しても役に立たないことが多いと聞かされていて、決まり文句以外はあまり熱心に暗唱を行ってきませんでした。でも型に嵌った例文だって、アウトプットできれば上等ですよね。はい、教科書の暗唱、今日から始めます。

●数詞がきちんと使いこなせるかどうかは、学習者のレベルを判断する時に有効。

これはもっと耳の痛いお話。そう、確かに数字は語学の意外な盲点なんですよね。中国語はそれほど複雑ではないけれど、英語は位取りが日本語と違うからけっこうまごつきますし、フィンランド語に至っては数詞もどんどん格変化するのでかなり難しいです。黒田氏は「ミール」で最初に生まれ年を聞かれてまごついたというエピソードを書かれていますが、氏と同じ年の生まれの私もフィンランド語で誕生日を“Minä olen syntynyt syyskuun kahdentenakymmenentenäneljäntenä päivänä vuonna tuhatyhdeksänsataakuusikymmentäneljä”とすぐに言える自信がありません。

この項は、明日に続きます。

Windowsが世界標準になったことは人類の不幸だった

先日読んだこちらの記事。「PCよりMacの方が社員の生産性や満足度が高い」という内容で、思わず「その通り!」と叫んでしまいました。gigazine.net

私はパソコンの黎明期から(というか、その前のワープロ専用機から)PC、つまりWindows(一番最初はMS-DOS)を搭載したもの仕事で使い、やや遅れてMacも使いはじめ今に至っています。ほとんどの期間、PCとMacを同時並行で使い続けてきたのですが、その中で強く感じて来たのは「Windowsが世界標準になったことは、人類の不幸だった」という点です。

いや、Macだって最初の頃はずいぶん神経をすり減らされました。特に私が必要としていたマルチリンガル環境の構築においては、入力・出力ともに今から考えればとんでもないほどの労力が必要とされたものです。それでもMacはどんどん改良を重ね、使いやすい機械に成長していきました。現在ではほとんど自分の身体の一部と言っていいほどの使い勝手の良さに、ちょっとした幸福感を覚えるほどです。

それに引き換えWindowsのダメっぷりはどうでしょう。歴史に名を残す(悪い意味で)Vistaの教訓を活かしたのかどうかもあやしく、現在のWindows10に至ってもその使い勝手の悪さと、デザインの不在と、余計なおせっかいの多さに、あまり変化はないように思えます(カスタマイズできるとはいえ)。

パソコンはOSとハードで成り立っており、ハードが多数の企業によって提供されているという点がWindowsMacでは根本的に違うので、同列に論じるのは不公平かもしれませんが、誕生から三十年有余年を経てまだこのダメっぷりには驚かされます。どんな製品でも三十年経てばそれなりに洗練されるものではないですか。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_962.html

現在の職場では一律にWindows機が支給されており、音声や画像や動画を頻繁に使う私はほとんど仕事にならないので、個人のMacBookを持ち込んで使っています。本来なら個人の持ち出しなどありえないのですが、目の前に学生がいるので、悠長に改善を待っている暇はないのです。

仕事なんだから与えられた環境の範囲内でやればよいのだと、一時は支給されたWindows機だけで授業やその他の事務作業をやろうと試みたこともありました。でも、あまりの非効率さと生産性の悪さに、すぐ自分のMacBookに戻ってしまいました。

様々な国籍の非常勤の先生方からも「なぜこの学校はWindowsにこだわってるんですか?」とご自分のMacBookを開きながら聞かれる始末。いや、ホントになぜなんでしょうね。かつては「MacではマイクロソフトのOfficeなどが使えないから取引先との連携で支障が出る」などと言われたものですが、それから何十年も経っていまやそんな化石じみた懸念を呈する人は一人もいなくなったというのに、なぜ?

それでも私は学校に訴え続け、ついに来春からMacを支給してもらえることになりました。組織というのは、特に大きな組織になるほど変わりにくいものですが、ここまでくるのに約三年かかりました。ようやく仕事上の無駄なイライラから少しは開放されそうです。コスト的にはMacのほうがお高いですが、生産性や満足度の向上はそのコストを回収してあまりあるのではないかと思います。

英語でおもてなしってホントに必要?

通勤途中の地下街に「みずほ銀行」のATMコーナーがありまして、そこにはTVモニターも設置されており、同銀行のCMがエンドレスで放映されています。先日通りかかった時に流れていたCMは、こちら。

来年の東京オリパラを見据えて、お寿司屋さんの大将が英会話の勉強に取り組んでいるという設定です。「(海外に)興味なくたって、来年向こうから来ちまうんだから、仕方ねえじゃねえか。そうなったからには、これぞ江戸前っつうのを見せてやんねぇと。見とけよ〜、本番はペラッペラだかんな〜」。わははは、本当にこういう大将がいそうですが、お寿司屋さんに限らず、急増する外国人観光客を「英語でおもてなし」しようと考える方はきっと多いんでしょうね。

しかし、自分がその外国人観光客の立場だったら嬉しいかなと考えてみるに、これは少々「微妙」です。せっかく異国情緒あふれる日本まで旅してきたのに、しかもその国の伝統的な食べ物を出すお店に入ったのに、英語で「ペラッペラ」と色々説明されちゃったら旅情など吹っ飛んでしまいません? え? そんなことない?

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https://www.irasutoya.com/2014/05/blog-post_8123.html

いまや「リンガ・フランカ」たる英語と、自分の母語である日本語を同列には論じられませんが、私は外国へ旅行してその土地のレストランに入って、日本語で応対されたら著しくがっかりしますねえ。観光地などでも片言の日本語で「ヤスイヨ、ヤスイヨ」などと話しかけられることがありますけど、あれほど憤ろしいものはありません。なんでお金を費やしてわざわざ日本から遠く離れた場所までやってきて、奇妙な日本語を聞かされなきゃならんのかと。ま、観光地ってのはそういう場所ですから行かなきゃいいんですけど(実際、私は観光名所にはできるだけ行かないようにしています)。

以前にも書いたことがありますが、こういった「おもてなし」の発想は、いまから半世紀以上前の1964年、前回の東京オリンピックが開催された時に展開され、その後も続けられてきた「グッドウィル・ガイド(善意通訳普及運動)」と同根のものです。そのボランティア精神やよし。もちろん参加されている方の誠意や熱意を疑うものでもありません。でも私は、なぜここで逆に海外の方に日本語を話してもらおう、学んでもらおうという発想にならないのかな、と思うのです。

これは言語学者鈴木孝夫氏らが主張されてきたことですけど、日本に行ったら簡単な日本語くらい話せないとね、とか、日本のお寿司屋さんで日本語で注文してみたいな、とか、そういうふうに思ってもらえる方向にヒト・モノ・カネのリソースを割けないものでしょうか。あと「ガイジンさん=英語」という思い込みも、よく考えてみれば少々雑駁にすぎるのではないかと。

私だって、例えばヨーロッパに行けば結局英語でのコミュニケーションに頼らざるを得ないんですから、あまり御大層なことは言えません。それでも、英語がほぼ通じない田舎の食堂などで、現地の言葉を急ごしらえで覚えて注文して、それが通じた時の感動は深く胸に刻まれています。全国民こぞってオリパラのために英語を学ぼう! もいいですけど、どうせならそこからもう一歩進んで、日本語を覚えてもらおう!そのために英語を媒介として使う……というような、日本語愛に満ちた運動こそ広がってほしいなと「みずほ銀行」のCMを見て思いました。

なにせ日本語は、話者の数が世界でも十本の指に入る「巨大言語」なんですから、もっと自信を持っていいんじゃないかと。もっともその話者のほとんどがこの島国にギュッと凝縮されているというのがまた面白くも悩ましいところではあるのですが。

「我が国の伝統」ってなに?

天皇と皇后のお二人が、即位に関する一連の儀式が終了したことを伊勢神宮に報告する「親謁の儀」が行われたという報道に接しました。

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https://iseshima.keizai.biz/headline/3350/

天皇陛下は「黄櫨染御袍」に「立纓御冠」「御挿鞋」を身に着け、儀装馬車にお乗りになり親謁の儀に臨まれた。

約三十年前に行われた同様の儀式の際にも思ったんですけど、こうした伝統装束を身にまとって儀装馬車に乗るというの、どなたも違和感を覚えないのかな。だってこれは明らかに西洋風の馬車ですから、とんでもなくちぐはぐな印象を受けるんです。後ろに乗っている従者(?)のようなお二人の服装もかなりクラシックな西洋風ですし、こう言っては大変失礼ですが、珍妙極まりない画に見えます。

まあだからといって例えば「牛車(ぎっしゃ)」に乗るというわけにも行かないんでしょうし、そもそも皇室行事のかなりの部分が「伝統伝統」と言いながらも西洋風の伝統を折衷して取り込んでいるので(通常の公務は大概洋服ですよね)、いまさら「それがどうした」ってことになるんでしょう。でも、ふだん声高に日本の伝統を守れと叫んでいる方々など、この写真を見て憤慨することしきりなんじゃないかと心中お察し申し上げる次第です。

もっともそれを言うなら「袍」や「冠」だって、もともとは中国大陸由来なんですけどね。こういうふうに何でも取り込んで自家薬籠中の物にしちゃうのが日本の無節操かつとても良いところで、例えば「餅入りチーズキムチもんじゃ」とか「和風フォアグラ丼」みたいな素晴らしいクロスオーバーっぷりを発揮しているんですけど、だったらその分、ふだんからあんまり「我が国の長きにわたる伝統」とか「美しい固有の文化」とか強調するのはよしましょうよ、もう少し慎みというものを持ちませんか、と思います。

他人の目など気にしない

東京新聞朝刊の生活欄で連載されている、作家・広小路尚祈氏のコラム「炊事 洗濯 家事 おやじ」をいつも楽しみに読んでいます。

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タイトルからも分かる通り、以前このコラムは確か、作家兼「主夫」である氏の兼業主夫っぷりが毎回活写されていたように思うのですが、最近は大学受験の浪人中だという息子さんのことばかり書かれています。「どんだけ息子さんが好きなんだ」とツッコみたくなるほどですが、子供がどんなに大きくなってもこうやって愛情を示し続ける、しかもそれを公言してはばからないというの、とってもいいですよね。

今朝のコラムは、息子さんが「ハマって」らっしゃるという筋トレについて書かれていました。「あんまり鍛えると、おしゃれな洋服が似合わなくなる」「筋肉を鍛えるには、それなりにコストがかかる」「地道なトレーニングと自己管理が必要」……何でもないような記述ですけど、たぶん筋トレをやってらっしゃる方には、いちいちうなずける文章だと思います。

世間的には「筋トレをやっている」というと、おおむね身体の審美的造形を競う「ボディビル」のイメージからか、「ちょっと引く」方が多いんですけど(考えてみればボディビルダーに失礼ですが)、一般のサラリーマンにとってはもう少しストイックというか抑制の効いた趣味、ないしは自己肯定感を持てる愉しみ(動かせる「重さ」の数字が上がっていくから)なんですよね。さらに言えば、他人の目を気にせず一人になれる時間が持てるというか。

筋トレで「重さ」に向き合うときは、雑念をめぐらす余裕がありません。仕事でイヤなことがあっても、ストレスで疲れ切っていても、それを鎮めてくれる、ないしはリセットしてくれるような爽快感があるのです。昨今のジムはどこでも、比較的大きな音量の音楽がかかっていて騒がしいですし、ワイヤレスイヤホンで何かを聴きながらトレーニングされている方も多いですけど、私はそういう環境で、できるだけ自分の精神の底に潜り込んでいくようにするのが好きです。

何かの本で読んだ「ダンベルは友達。人間は裏切るけど、ダンベルは裏切らない」という至言(ただしこれを人に言うと、それこそ引かれます)の通り、重力という絶対的な物理法則に支配された筋トレの世界には、その「重さ」に向き合う世界に没頭することで、周りの世界をシャットアウトしてくれるような働きがあるような気がします。だから「ハマる」人も多いのかと。まあこれは、マラソンでも登山でも水泳でも、何でもいいっちゃいいんですけどね。

今朝のコラムに登場した広小路氏の息子さんや、そのご友人は、いずれも「他人の目など気にせず、我が道を行く。同調圧力の強い日本社会にあって(中略)まことにあっぱれな若者」であるそうです。そうそう、他人の目など気にせず自分のタスクに没頭できるのが筋トレのいいところです。ジムには色んな人がいて、中にはマナーの悪いおじさんなんかも出没するのですが、そういう存在をシャットアウトする心のありようとか、見事な筋肉の若い人を見てついつい自分のポッコリお腹と比較しちゃうみたいな詮無い雑念を振り払う心のありようとか、そういう修養の場にもなる。

パーソナルトレーニングに通っているジムのトレーナーさんによると、欧米では幼い頃から筋トレをするある種の文化があるのだそうです。だからホテルなんかにも必ずと行っていいほどジムが併設されているんですね。そういう身体を鍛える文化というのは、同時に心も鍛える効果があるのかもしれません。心を鍛えるという点は、日本で言えば座禅を組むようなものかなあ。座禅もまた、他人の目など気にしていては集中できないですよね。

他人を気にしたり、他人と比較したりしても、筋肉はトレーニングしただけしかつかない。これは語学でも同じですよね。「一週間でマッチョに」という筋トレが存在しないように「一週間でペラペラに」も存在しません。語学もストイックに「他人の目など気にせず、我が道を行く」のが吉だと思います。

語呂合わせでフィンランド語を覚える

フィンランド語は格変化が激しい言語ですが、変化をさせるためには元の形、つまり辞書形(原形)を知らなければ始まらないので、教室では先生が毎回授業の最後に「みなさん、とにかく単語を覚えてくださいね」とおっしゃいます。それでExcelで整理した単語をQuizletのアプリに入れて、スマホで通勤途中にせっせと覚えているのですが、名詞は比較的スムーズに覚えられるのに、動詞や形容詞、副詞などはなかなか定着してくれません。抽象的な言葉になるほど、なおさら。まあ、当たり前といえば当たり前なのですが。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_88.html

こういうときは、邪道ではありますが「語呂合わせ」に頼るのもひとつの方法です。むかしむかし、ワインの資格試験のために勉強していたときも、例えばフランスのワイン産地(AOC)とその特徴を覚えるために、たとえば「赤・ロゼ・白・黄、何でもアルボワ」(AOCアルボワは、すべての種類のワイン生産が認められている)みたいな文章にして覚えていました。そういう語呂合わせを集めた受験用の必勝本も出版されているんですよ。

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ワイン受験ゴロ合わせ暗記法 2019

というわけで、フィンランド語で覚えにくい単語は、できる限り語呂合わせというか、何かのイメージに結びつけて頭に刻みつけています。例えば動詞なら、こんなぐあい。

antaa(アンター/あげる):アンタにあげる。
asua(アスア/住む):アスア(明日は)ここに住む。
avata(アバタ/開ける):墓をアバこうと開ける。
häiritä(ハイリタ/〜を邪魔する・〜に迷惑をかける):中にハイリタ(入りた)いとゴネて迷惑をかける。
heiketä(へイケタ/弱まる):壇ノ浦の合戦でヘイケ(平家)の力も弱まる。
istua(イストゥア/座る):イスに座る。
jäädä(ヤーダ/〜に留まる):帰るのはヤーダとここに留まる。
jaksaa(ヤクサー/〜する気力がある):ヤクザと対峙する気力がある。
kantaa(カンター/持つ・運ぶ):重い荷物を“扛(káng…中国語の「肩で担ぐ」)”する。
keskustella(ケスクステッラ/会話する):クスクスと笑いながら会話する。
koettaa(コエッター/〜するのを試みる):課題をコエよう(越えよう)と試みる。
korjata(コルヤタ/修理する):自転車の修理にコル(凝る)。
kulkea(クルケア/歩く・走行する・川が流れる):あっちから歩いてクルケア。
maata(マータ/横たわる):まーたアンタはここに横たわってるわね!
maistua(マイストゥア/味がする):これは甘くてウマイ(美味い)味がする。
nukkua(ヌックア/眠る):ヌクヌクと眠る。
onnistua(オンニストゥア/成功する):成功したのはあの人のおかげとオンニ(恩に)着る。
ottaa(オッター/取る):ここにオッタ(あった)と取る。
pestä(ペスタ/水で洗う・洗濯する・歯を磨く):歯磨きペースト(ペスタ)で歯を磨く。
puuttua(プーットゥア/足りない・欠けている):おやつが足りないと言ってプーッとふくれる。
sulaa(スラー/溶ける):雪や氷がスラーっと溶ける。(苦しい……)
sulkea(スルケア/閉める):スルスルと閉める。
tarjota(タルヨタ/おごる・提供する):これでタル(足る)かな? とごちそうする(おごる)。
tarttua(タルットゥア/〜にくっつく・染み付く):タルタルソースが服に染み付く。
tavata(タバタ/会う):タバタ(田端)で人に会う。
tottua(トットゥア/〜することに慣れている・いつもする):この作業には慣れ「とっと」(博多弁)。
uskoa(ウスコア/信じる):ウス(嘘)を信じる。
vaatia(ヴァーティア/要求する):ヴァーター(バーター)取引を要求する。
valita(ヴァリタ/選ぶ):様々なヴァリエーションの中から選ぶ。
välittää(ヴァリッター/〜気にする):このプラスチックはヴァリ(バリ)が多いと気にする。

……う〜ん、ハッキリ言って「語呂合わせ」と称するのも恥ずかしい限りですが、まあ自分の記憶に残ればよいのです。幸いフィンランド語は、発音については比較的易しい( ä や o や r を除けば、ほとんどローマ字読みで近似の音が出せます)ので、こういう語呂合わせもそれなりに役に立つかなと思います。

もっとも、ワインの資格はこうやって必死で覚えてなんとか合格したのですが、その後はすっかりさっぱり頭の中から消え去ってしまいました。やはり試験突破の方策としては有効でも、本当の知識にはなっていないんですね。フィンランド語の語呂合わせもほどほどにしておいて、もっとフレーズや文章全体で、そして格変化なども意識しながら覚えていきたいです。

能楽を盛り上げる「熱」について

勤務先の学校では、世界各地から集まった約80名ほどの外国人留学生が、日本語と通訳・翻訳などを学んでいます。せっかく日本で学んでいるのだからということで、日本文化に関するカリキュラムもいくつか組まれているのですが、そのうちのひとつに伝統芸能鑑賞があります。能楽や歌舞伎、文楽などの公演を観に行くのです。

ただ観に行くだけではもったいないので、事前にそうした伝統芸能の基礎知識を勉強したり、もし日本の伝統芸能を諸外語で発信するとしたらどんなふうに伝えるか、訳すか……を考えたりといった課題を作って授業を行っています。

今年は、東京にある国立能楽堂の「能楽鑑賞教室」に留学生全員で参加しまして、私はその際に能楽堂に置かれていた「能楽入門」というパンフレットをもらってきました。日本語版の他に英語版や中国語版もあります。ほかにも以前、個人的に国立能楽堂の公演を観に行った際、「学んでみよう能・狂言」というパンフレットをもらったこともあり、こちらも日本語版や英語版、中国語版を手元に持っています。

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しかも毎年卒業前に同時通訳による講演会通訳実習があって、今年は能楽に関する講演を専門家の方にお願いしました。ちょうど今年は「能楽鑑賞教室」で能楽に触れ、少なからぬ留学生が「すばらしかった!」と言っていたことでもありますし、もう少し基礎知識や専門知識を勉強して通訳実習に望めば、それなりの成果が望めるのではないかと期待しています。

というわけで、国立能楽堂に連絡して、こうしたパンフレットを留学生用にもう少しいただくことはできませんかと相談してみました。無断でコピーするのは、やはりまずいですもんね。それで、まず「学んでみよう能・狂言」について聞いてみたのですが、「それはなんですか?」と言われました。あれ? このパンフレットは国立能楽堂でもらったのですが……。

でも色々と聞いてみると、このパンフは国立能楽堂ではなく、公益社団法人能楽協会が発行しているものなのでした。そう言われてみると表紙には「能楽協会」と書かれています。私は国立能楽堂能楽協会を漠然と一緒くたにして考えていたわけですね。「能楽協会の配布物については能楽協会に聞いてください」と言われたので、じゃあ国立能楽堂が配布している「能楽入門」を分けていだだけませんかとお願いしてみました。

そうしたら、担当の方が「ちょっとお待ち下さい」と電話を保留にすることしばし(たぶん上司の方と相談されていたのだと思います)、「基本的には能楽堂に来られた方のための配布物なので、ご希望には添いかねます」とのお返事。もちろん複写もだめとのこと。でももう一度留学生全員で国立能楽堂まで出かけてもらってくることもできないので、「能楽入門」を教材に能楽を学ぶという教案はあきらめました。

一方、「学んでみよう能・狂言」を作っている能楽協会にも連絡して、同様の趣旨を説明したのですが、こちらも非常に事務的な対応で「けんもほろろ」でした。もちろん複写も不可で、使いたいなら英語版と中国語版を一冊220円で販売しているのでそれを人数分購入してくださいとのこと。う〜ん、まあ220円×80名=17600円ですから、それくらいは上司と交渉して出してもらいましょう。

うちは私学ですし、もちろんこういった教材はキチンと予算を組んで購入し、教育に使うべきです。その点で国立能楽堂さんも能楽協会さんも当然の対応ですし、それを批判するつもりはまったくないのですが、ただあの事務的な冷たい対応が何となく心にひっかかりました。留学生が能楽を学びたいと伝えても、何というのかな、「それは嬉しいですね!」といった「熱」を電話口から感じなかったのです。

パンフをタダでくれなどと図々しいことを言うつもりはありません。それは予算を組みますからいいのですが、電話口で「わー、それはぜひ予算を組んでいただいて、留学生の方に学んでいただきたいですね!」みたいに盛り上がる「ノリ」がぜんぜんないのです。事務的な声で、ダメです、できません、ありません、他をあたってください……と否定一辺倒で。能楽の伝統を保持し、普及・発信していくのがお仕事のはずなのに、どうしてあんなに「熱」がなく、消極的なのかなと。

でもそこではっと気づいたのです。そうか、国立能楽堂能楽協会にお勤めの方が、必ずしも能楽関係者とは限りませんよね。だから他の団体の発行物については知らないし、外国人への能楽の普及にもあまり熱い気持ちを持っておられないわけです。そして国立能楽堂文部科学省文化庁)所管の独立行政法人日本芸術文化振興会ですから、いわゆる「お役所的」な対応も不思議ではないのかもしれません。能楽協会能楽師の方々の団体ですからお役所ではありませんが、事務局の方が能楽関係者とは限らないですもんね。

諸外国の、伝統芸能に対する、特に教育における普及に対する「熱」の入れようはどうなんでしょう。芸術や文化の大切さについて理解の深い国や政府なら、こういったところに大きな予算を割くのではないかと思いますが、今回感じた「熱」の低さを見る限り、本邦ではあまり予算が回っていないような印象を持ちました。国立能楽堂さんも能楽協会さんも大変ですよね。

胸が揺れている

先日、午前中の仕事を終えて、次の用事に間に合うよう地下鉄の駅まで走っていた時、身体にこれまでに体験したことのない感覚を覚えました。なんだろうこれは……と思ったら、なんと「胸が揺れている」のでした。

男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴の解消を目指し、ジム通いを始めて二年あまり。特に筋トレだけを中心にやっているわけではないので、マッチョな体型になったというわけでもないのですが、多少は胸筋がついてきたのでしょう、鎖骨から下になにか重いものがあって、それが上下に揺れているという感覚は、なかなかに新鮮です。

以前、ジョギングやマラソン愛好者の女性から、胸が揺れるのでウェアの選択にこだわっているとか、いわゆる「ニップレス」パッドを使っているなどの「お悩み」を聞いたことがあるのですが、なるほど、こうやって揺れるものが身体についていると、走るときは気になるだろうなあと実感を伴って理解できたのでした。

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https://www.irasutoya.com/2017/03/blog-post_813.html

フィンランド語 50 …格変化の練習・その4(複数分格)

複数分格を学びました。先生によると、この複数分格はとてもよく使われるということで大事な格だそうです。その前に、どんな時に複数分格が使われるのか、これまでに学んだ文型を復習しながら確認しました。

●「A olla B(AはBである)」の文(第一文型)

① Kirja on kallis.(本は高い)
数えられる名詞の場合、述語は単数主格(辞書形)でした。
② Maito on kallista.(牛乳は高い)
数えられない名詞の場合、述語は単数分格になりました。
③ Kirjat ovat kalliita.(本たちは高い)
主語が複数ならolla動詞も複数、そして述語も複数分格になります。「本たち」という日本語は不自然ですけど、日本語ではこういう単数・複数や加算・不加算をあまり意識しないんですよね。

代名詞を使っても同じです。

① Tämä on kirja.(これは本です):単数主格
② Tämä on maitoa.(これは牛乳です):単数分格
③ Nämä ovat kirjoja.(これらは本たちです):複数分格
これらの本たちということで複数主格の「kirjat」を使ってしまいがちですが、ここは複数分格になるんですね。

●存在文・所有文(第二文型)

「〜ssA on 〜」や「〜llA on 〜」のような「〜に〜がある」を表す存在文、「人称代名詞 + llA on 〜」のような「だれそれは〜を持っている」を表す所有文の場合です。

① Pöydällä on kirja.(机の上に一冊の本があります):単数主格
② Pöydällä on kaksi kirjaa.(机の上に二冊の本があります) :単数分格
③ Pöydällä on kirjat. (机の上に全ての本があります):複数主格
④ Pöydällä on kirjoja. (机の上に何冊かの本があります):複数分格
複数には「ひとつ以外の複数(②)」か「全部(③)」か「不定量数(④)」かの三種類がありえるということでした。さらに、数えられない名詞については単数分格をとるのでした。
⑤ Lasissa on vettä.(グラスの中には水があります):単数分格
それと、否定文の目的語は常に分格というのもありました。
⑥ Pöydällä ei ole kirjaa.(机の上に本はありません):単数分格

●「〜を〜する(動詞+目的語)」の文(第三文型)

① Minä luen kirjan.(私は一冊の本を読みます):単数対格(ひとつ)※単数属格と同じ形
② Minä luen kaksi kirjaa.(私は二冊の本を読みます):単数分格(ふたつ=ひとつ以外)
③ Minä luen kirjat.(私は全ての本を読みます):複数対格(ぜんぶ)※複数主格と同じ形
④ Minä luen kirjoja.(私は何冊かの本を読みます):複数分格(いくつか=不定量数)
これも、否定文の目的語は常に(加算・不可算に関わらず)分格でした。
⑤ Minä en lue kirjaa.(私は本を読みません):単数分格
⑥ Minä en juo kahvia.(私はコーヒーを飲みません):単数分格
⑦ Minä en lue tätä kirjaa.(私はこの一冊の本を読みません):単数分格(代名詞 tämä も単数分格)
⑧ Minä en lue näitä kirjoja.(私はこれらの本を読みません):複数分格(代名詞 tämä も複数分格)

複数分格

こうしてみると、日常生活で複数分格を使う機会は多そうです。ひとつだけ、とか、ぜんぶ、などと極端なシチュエーションより、いくつかという不定数量を言うことは多いでしょうから。複数分格は単数分格からではなく単数主格(原形・辞書形)から作ります。まず語幹を求め、語幹の最後が母音1つなら、i を足して母音交替をしたのち A を足します。

kukka(花)
① 語幹はそのまま「kukka」。
② 分格なので「kpt交替」はなし(一部逆転の場合はあり)。
③ i を足して母音交替。この場合は i の前が a でかつ最初の母音が o,u なので a が消えて「kukki」。
④ 語幹の最初の母音は1つだったので a を足して「kukkia」。

語幹の最後が母音2つなら、i を足して母音交替をしたのち tA を足します。

maa(国)
① 語幹はそのまま「maa」。
②「kpt交替」はなし。
③ i を足して母音交替。この場合は i の前が aa なので前の a が消えて「mai」。
④ 語幹の最初の母音は1つだったので ta を足して「maita」。

最後が三重母音になってしまう場合は i を j にします。

kirkko(教会)
① 語幹はそのまま「kirkko」。
②「kpt交替」はなし。
③ i を足して母音交替。この場合は i の前が a でかつ最初の母音が o,u 以外なので a が o になり「kirkkoi」。
④ 語幹の最初の母音は1つだったので a を足して「kirkkoia」。
⑤ 最後が三重母音になってしまうので i を j にして「kirkkoja」。

ただし例外があって、ri で終わる、人をあらわす単語(全て外来語だそうです)は ri をそのまま reitA にして複数分格を作るそうです。

naapuri(隣人):ri を reita にして「naapureita」。
kaveri(友達):ri を reita にして「kavereita」。

これで「複数属格」以外がすべて埋まりました。先生から予告がありましたが、残る複数属格は、複数分格から作るのだそうです。あともう一息です。

単数主格(辞書形) kirkko 複数主格 kirkot
単数属格(〜の) kirkon 複数属格
単数対格(〜を) kirkon 複数対格 kirkot
単数分格(〜を) kirkkoa 複数分格 kirkkoja
単数内格(〜の中で) kirkossa 複数内格 kirkoissa
単数出格(〜の中から) kirkosta 複数出格 kirkoista
単数入格(〜の中へ) kirkkoon 複数入格 kirkkoihin
単数所格(〜の表面で) kirkolla 複数所格 kirkoilla
単数離格(〜の表面から) kirkolta 複数離格 kirkoilta
単数向格(〜の表面へ) kirkolle 複数向格 kirkoille
単数変格(〜になる) kirkoksi 複数変格 kirkoiksi
単数様格(〜として) kirkkona 複数様格 kirkkoina

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Suomessa on lukemattomia erikoisia saunoja.

フィンランド語 49 …格変化の練習・その3(複数形の格変化)

複数形は、語幹と語尾の間に i を足すのですが、この時に i の前にある母音との間で「母音交替」という現象が起きます。母音交替については、過去形や複数形を学んだ時に出てきました。

qianchong.hatenablog.com

この母音交替については、先生から交替のパターンを暗記するように指示がありました。自分なりにまとめてみると、こうなります。まずは単語の語幹を求め、その上で……

語幹の最後の母音 i を足した後の母音交替の結果
o,u,y,ö 不変化
e 消える
i eに変わる
長母音(aa,ooなど)と二重母音(uo,yöなど) 前の母音が消える
後ろが i の二重母音(oi,uiなど) 後ろの i が消える
二音節の単語で ä 消える
二音節の単語で a で最初の母音が o,u 消える
二音節の単語で a で最初の母音が o,u 以外 o に変わる
三音節以上の単語で a,ä ※特殊な変化

この中では、i が e に変わるというのが過去形と異なっています。過去形のときは、たとえば「oppia(学ぶ)」の語幹が「oppi」で、そこに i をつけると i が消えて結局「opin(私は学んだ)」のようになったのですが、複数形ではたとえば「hissi(エレベーター)」の語幹がそのまま「hissi」で、そこに i をつけると i が e に変わって語幹が「hissie」になり、そのあと格変化の語尾をつけてたとえば「hissiessä(複数のエレベーターの中で)」などとなる、と。

また三音節以上の単語でかつ a,ä で終わる場合には ※ をつけた特殊な変化があって、これも覚えるように指示がありました。

語幹の最後 母音交替後の形
vA vi
mA mi
eA ei
lA loi
iA ioi
AjA Aji
lijA lijoi
nA(名詞) noi
nA(形容詞) ni
rA(名詞) roi
rA(形容詞) ri
kkA koi

う〜ん、大変です。でもこれらはネイティブスピーカーであれば発音しやすいように無意識のうちに調整して自然にできることなんですよね。何度も練習して、最初は知識として変化させられるように、そして最終的にはそういうネイティブと同じような感覚を身体に覚えさせるしかありません。

これでたとえば「kirkko(教会)」の複数内格なら……
①語幹はそのまま「kirkko」。
kpt の変化としては kk → k なので「kirko」。
③そこに複数の i を足して「kirkoi」。
④母音交替のパターンでは i の前が o なので不変化。
⑤よって「kirkoissa(複数の教会の中で)」……となります。

ちなみに「複数様格」は kpt の変化がありません(kirkkoina)。また「複数入格」はすでに学びました。

qianchong.hatenablog.com

これで「複数属格」と「複数分格」以外がすべて埋まりました。

単数主格(辞書形) kirkko 複数主格 kirkot
単数属格(〜の) kirkon 複数属格
単数対格(〜を) kirkon 複数対格 kirkot
単数分格(〜を) kirkkoa 複数分格
単数内格(〜の中で) kirkossa 複数内格 kirkoissa
単数出格(〜の中から) kirkosta 複数出格 kirkoista
単数入格(〜の中へ) kirkkoon 複数入格 kirkkoihin
単数所格(〜の表面で) kirkolla 複数所格 kirkoilla
単数離格(〜の表面から) kirkolta 複数離格 kirkoilta
単数向格(〜の表面へ) kirkolle 複数向格 kirkoille
単数変格(〜になる) kirkoksi 複数変格 kirkoiksi
単数様格(〜として) kirkkona 複数様格 kirkkoina

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Minä menin monta kirkkoihin viime kesänä.