インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

AI監獄ウイグル

もう20年以上前のことですが、中国の新疆ウイグル自治区を旅行したことがあります。陝西省西安から長距離列車で甘粛省敦煌、そのあとウルムチに入り、さらにバスでカシュガルまで向かいました(当時まだウルムチカシュガル間に鉄道は開通していませんでした)。カシュガルで数泊したのち、パミール高原カラコルム・ハイウェイ沿いにクンジュラブ峠をバスで超えてパキスタンフンザに入り、ずっと南下してイスラマバードペシャワールに滞在したあと、もう一度飛行機でウルムチに戻ってトルファンにも行きました。

再度ウルムチに入ったとき、街の市場でなにかの拍子に足首をぶつけて、そのときになにかの感染症にかかったのか、高熱を出して寝込む羽目になりました。当時は留学生生活をしていたのですが、その治療費がかさんで持ち金が底をつき、留学生活を切り上げて日本に戻らざるを得なくなりました。

それはさておき、新疆ウイグル自治区は、それまで見てきた中国とはまったく異なる文化の土地でした。ウルムチはすでに都市化が進んでいましたが、それでも街の市場には明らかに違う空気が流れていました。カシュガルはさらに異文化の香りが高く、パキスタンに入る手前の国境の町・タシュクルガンに至っては荒涼とした岩山ばかりの風景に圧倒されました。砂漠や土漠が果てしなく続く光景はほとんど月面を眺めているように感じられました。

スマートフォンも何もなかったあの時代に、よくまあいきあたりばったりでそこまで旅行ができたものです。スマホはもちろんカメラも持っていなかったので、旅行の写真は一枚も残っていません。いまの時代からすると自分でも信じられないくらいですが、仮にいままたあの土地に行けたとして、スマホで気軽に写真をとれるだろうか、と思ってしまいました。ジェフリー・ケイン氏の『AI監獄ウイグル』を読んだからです。

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AI監獄ウイグル

つとに伝えられる新疆ウイグル自治区における人権侵害や民族浄化について、ここには実に恐ろしくおぞましい実情が報告されています。こうしたルポルタージュは、どこまで本当の話なのかとやや身構えて読まざるを得ないものです。ただケイン氏は、合計168名に及ぶ、さまざまな立場のウイグル人へのインタビュー取材をもとに、それぞれの証言を引き合わせることで、あるいは同一人物の間隔を置いた証言を比較することで、そこに矛盾や変更や省略などがないかを慎重に確かめたそうです。

証言の中で最も大きな比重を占めているのは、強制収容所に収監されたことがあり、現在はトルコのアンカラに在住している仮名「メイセム」氏の経験と、ケイン氏ご自身の体験です。冷戦時のソ連や東欧、あるいはナチス・ドイツによるこうした抑圧と非人道的なふるまいについては、これまでにもいろいろな書物で接してきましたが、現在新疆ウイグル自治区で起こっているのは、それとはかなり容貌の異なる事態です。それはネットとIT技術、さらにはAIを「活用」したきわめて「効率的」な人権侵害が展開されているからです。

しかもそれらの技術は、もともとは自由と民主主義を標榜し、中国による人権侵害を批判し続けているアメリカで誕生し発展し、それが中国によってさらに「改良」されたものです。この本ではその背景についても紙幅が割かれていますが、実際の現地における運用状況についてはあまり詳細が明らかにされていません。それだけ実情を把握するのが難しいのだと思われます。

かつてGoogleが中国からの撤退を決めたとき、当時人気作家だった韓寒氏が「中国のネットが世界最大の『地域ネット』になってしまうのは残念だ」というようなことを言っていました。それから十年以上が経ち、かの国のネットは現在では「社会信用スコア」をはじめとするさまざまな技術をもとに、その閉じられた世界の中でとてつもない異形の存在になり果ててしまったようです。


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いや、これは閉じた世界における異形のディストピア譚として「対岸の火事」を決め込むことはできないですね。同じような技術が私たちの周りにも普及しつつある現在(犯罪捜査における監視カメラ活用は日本でもほぼ定番化しています)、私たちはこの件について重大な関心をいま以上に持ち続けなければならないと思いました。

とはいえ、日常的にネットで検索を行い、買い物をし、オンラインのミーティングに参加しまくっている私たち(しかも個人情報と紐づくアカウントを使って)が、どこまでその危険性から自分を遠ざけておけるのか、とても心もとない思いがします。私は仕事柄また「かの国」に行く機会があるかもしれませんが、この本を読んだあとでは非常に心が萎えるのを感じてしまいます。

そうだ、私はこの本をAmazonなどのネット書店ではなく、通勤途中に立ち寄った街の書店で買ったんだった、だからネットにはこの本と私が紐づけされる危険はないかしら……と一瞬思ったのですが、私はクレジットカードでこの本を買い、さらにはいまここでブログにこの本を読んだ旨明かしているのです。天網恢々疎にして漏らさずじゃないですけど、「かの国」の当局がその気になればどんな悪意も発揮できるでしょう。

そこの本でも紹介されていますが、新疆ウイグル自治区のみならず、中国全土で運用されているAIとカメラを駆使した監視ネットワークは“天網(スカイネット)”と名づけられています。“天網恢恢疏而不失(老子)”から取ったわけですが、もともとこの言葉は「お天道様は公平であり、どんな悪事も必ず露見する」という意味でしょう。それを史上最凶最悪のツールに冠するなんて、本当に趣味が悪すぎます*1

*1:しかも映画『ターミネーター』に登場する、人類の殲滅を目的とするAIと同じ名前。