インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ポラリスが降り注ぐ夜

もうずいぶん前のことなので、誰と話したのか、どういう状況でそんな話になったのかも思い出せないのですが、中国語を話す時に“怎麼說呢……(なんと言ったらいいかなあ)”を使わないようにしようと語り合ったことがありました。

“怎麼說呢”というのは一種の間投詞というか冗語みたいなもので、適切な言葉や言い回しを考えている時に出てくるものですが、中国語の母語話者が言うのならともかく、学習者である私たちがそれに頼りすぎるのは単に語彙の少なさや言語化能力の拙さを露呈しているだけだから、意地でも使わないようにしようぜ……みたいな、そんな感じの流れだったと思います。

まあ、今から考えれば若気の至りというか、そこまで構えて話さなくてもいいんじゃないのと思いますが、その外語を話せるようになりたい! と意気込んでいるときにはそういうのめり込み方も必要なのかもしれません。

そんな昔の話を突然思い出したのは、李琴峰氏の小説『ポラリスが降り注ぐ夜』を読んだからでした。一読、引き込まれてそのまま一気に読み終えてしまったほどの魅力的な作品なのですが、さてその読後感を言語化しようとすると、その主題ゆえに、つい“怎麼說呢……”とつぶやいてしまうのです。

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ポラリスが降り注ぐ夜 (単行本)

七つの短編が有機的に絡み合う構成で、主題は新宿二丁目を背景にした性的マイノリティと呼ばれる人々の物語です。いま私は「性的マイノリティと呼ばれる女性たちの物語」と書こうとしてしまいました。実際、同書の帯にも「魂の、身体の、触れ合いを求めて二丁目を訪れる女たちの七つの物語」という惹句が印刷されています。

でも、この作品に、あるいはその他の様々な声に耳を傾けてみれば、「女」あるいは「女性」、「男」あるいは「男性」、さらには「LGBTQ」、そして「LGBTQIA+」……とカテゴライズすることそのものが揺らいでくる。そんな感覚が先に立って、ただ人あるいは人間としか書けないよなあと思えてくるのです。私は「彼」や「彼女」という言葉もなんだかしっくりこなくて、ブログなどの文章を書くときにはいつもあれこれ逡巡してしまいます。

作品中、二丁目のレズビアンバー「ポラリス」のオーナーである夏子が、パンセクシャルという言葉をきっかけに、「だって、性別って男女だけじゃないでしょ」と説明するアルバイトの暁と話しているシーンが出てきます。

「最近、色んな言葉があるね。私ってほんとに不勉強でついていけなくなりそう」暁が奢った日本酒を一口啜り、夏子は言った。「でも、ほんとに何でも名前をつけなくちゃならないのかな、って私最近、思い始めた」
「名前があった方が安心じゃないですか? 自分のことも知ってもらいやすいし」
「二丁目でバーを十何年もやっているとね、来た客が一人一人違うってのを段々分かってきたの。名前がいくつあっても足りないくらいみんな違うから、そんな簡単に説明されてしまうのって、いいのかなって」

私はこの夏子の戸惑いというか違和感に、深く共感するものです。そして夏子の二丁目における人生のきっかけとなった「KIDSWOMYN」のオーナー・ナラの「私達はずっとここにいるの。常に複数形で、いるのよ」という言葉を回想しながら「しかし、単数形としての生と歴史も、きちんと覚えられているべきではないか」と思った夏子にも。

この、まだ私たちがきちんと感覚として、あるいは知識や教養として身体の中に落とし込めていない、しかし人間の極めて根源的なあり方の鍵として決して揺るがせにはできない事実。その事実への理解があまりにも浅薄なゆえに私たちはつい“怎麼說呢……”とつぶやいてしまうのでしょう。作家ご本人はこんな評価のされかたをお望みではないでしょうけれど、この作品はいわゆる「性的マイノリティ」への予断と偏見に満ちた人々に対して、必須の教養を提供するものになっていると思います。

そしてまたこの作品は、いわゆる「性的マイノリティ」の人々の物語でありながら、新宿二丁目の歴史が絡み、元号とやらが変わった同時代の空気と、その前の元号が使われていた時代の空気が描写され、さらには作家のルーツである台湾の近現代史が交錯します。天安門事件や“太陽花學運(ひまわり学生運動)”までもが圧倒的なリアリティで迫ってくるのはひとえに李琴峰氏ならではなのですが、その一方でご自身が「想像力だけではなかなか書けないものだった」とおっしゃりながらもきめ細やかな筆致で描かれる日本の、なかんずく新宿の風景のリアリティときたら。

そしてもうひとつ、この作品には中国語がところどころに大切な要素として散りばめられており、そのニュアンスや効果も含めて味わうことができるのは役得というか、中国語学習者冥利(?)につきるというものです。グローバルな時代を反映して、こうした「越境」の要素を織り込む優れた文学作品は数多く世に問われており、私も色々と読んできましたが、そのなかでもこの『ポラリスが降り注ぐ夜』は圧倒的な文学的魅力を湛えている作品だと思いました。