インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

テレワークの「身体の組成が変わる」感

新型コロナウイルス感染症の影響で、連日テレワークをしながら同僚とネットで会議を開きつつ、オンライン授業の段取りをしています。いや、オンライン授業というより遠隔授業ですか。オンラインというと、ネットにリアルタイムで接続しているイメージですから、メールやLMS(学習管理システム:Learning Management System)、あるいは学生用のポータルサイトなどをりようした「非同期型」のやり方は遠隔授業と言ったほうがよいか……。

そう、こうした新たな事態に直面して、まずはこうした言葉の定義からしてあやふやなことが分かってきました。そして同僚と、あるいは非常勤講師の方々と話し合う上で、こうした言葉の定義があやふや、あるいはまちまちなことが混乱を招く一つの要因であることも。なにせ、みんな手探り状態なのです。ここはひとつ、自分の職場内だけでも言葉の定義やその概念についてきちんと共有を図っておくべきではないかと思いました。

これはZoomやMeetsなどの、いわゆるテレビ会議システム(これもなんとなく曖昧な言葉ですね)で色々なやり取りをしてきた中で感じたことです。テレビ会議システムは、当初の予想よりは格段に便利でした。リアルタイムでお互いの音声と映像をやり取りできるし、誰かのデスクトップを共有して書類(各種ファイル)を提示しながらその場で修正などが行えるし、ホワイトボードも使えるし、音声や映像などもやり取りできる。

使ってみれば「ああなるほど」と腑に落ちる点も多くて、これはまさに「習うより慣れよ」なんですけど、同時に遠隔であるがゆえに、つまり生身の人間がそこにいないがゆえに当然生じる「隔靴掻痒感」も分かってきました。そのひとつが上述した言葉の定義です。いや、もちろんリアルな対面でのやり取りでも言葉の定義や解釈や個々人の認識がずれていれば話が噛み合わないんですけど、遠隔のテレビ会議システムではそれがより亢進するような気がしています。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_591.html

また、ちょっとした行動の節々で、誰が、誰に対して、どういう意図をもって発話するのかを、リアルな対面でのやり取り以上に意識しなければならない(したほうがよい)ということも分かってきました。例えば画面を共有するときに「じゃあこちらの画面を見せますね」といった、ちょっとした注意喚起の前置き。あるいは単にカーソルで「これ」と言わずに「画面右上のこれ」ということでよりスムーズな理解を促そうとする気遣い。はたまた多くの人が関わっているチャットでタイムラグが生じて会話が噛み合わないのを防ぐために、発言の最初に「○○さん」と相手を特定して分かりやすくする配慮。そして画面に写っている自分のジェスチャーや表情でも伝えようとする努力(とそのセルフモニタリング)……。

こうした遠隔の、いわばバーチャルな環境でのやりとりは、すでにメールやショートメッセージやSNSなどで十分に馴染んでいるはずなのですが、それでも内容が単なるおしゃべりや気軽なつぶやき程度ではなく、かなりの精度と時間間隔(期限や締め切りなど)を伴って行われる業務に関する内容ということになると、もう少し踏み込んだ神経の働かせ方や身体の使い方が必要になるんだな、と感じたのです。これがちょっと普通とは違う疲れ方を生む要因なのかもしれないですね。

ともあれ、現時点では同僚の数名とやり取りしているだけですが、これが今後非常勤講師の方々も含めた十数名とのやり取りになり、さらに数十名の学生さんとのやり取りが加わる……。多少の行き違いや誤解やそれに対するフォローが発生して少々混乱もするでしょうけど、みんながそれに慣れていかなければならないでしょうね。デジタルネイティブの方々ならこんなちまちまとした感慨など抱かないのかもしれませんけど、デジタルイミグラン*1にはそれなりの試練であるなあと感じています。まあ逆に新しい環境にあわせて身体の組成が変わっていくようなワクワク感もありますけど。

それにしてもこの新しい環境、いまのところは連休を越えて五月いっぱいまでと学校側では算段していますが、大学などの中には六月、七月と続けて、夏前まではこれで行くとか前期の授業はすべて遠隔に切り替えると発表するところも増えてきました。そうなったあかつきのカリキュラムや教案についてはまだほとんど白紙状態です。今年の夏が終わる頃には、デジタルイミグラントの身体を構成する細胞はすっかり別のものになっているかもしれません。

*1:最初はアナログ環境で育ち、その後学習を通じて後天的にデジタル環境に合わせてきた私のような世代を指す言葉です。