先日拝見したこちらのツイート、日ごろ授業で接している留学生のみなさんを思い出して、色々と考えてしまいました。
ここ7~8年,調べ物をするときにググれなくて学生が苦労している(というかできているようでできていない)ので『検索できない若者たち』という新書を企画しました。アイデア料は印税の3%でけっこうです https://t.co/uGdthkLj5k
— 国立研究開発法人原田知世研究機構 (@norinori1968) 2019年2月22日
このツイートをされた方によると、検索できないのは、あるいは検索できているようでできていないのは、文章をあまり読んでいないので基礎となる知識が少なく、検索するためのキーワードを豊富に思いつくことができないからではないか、ということです。
確かに、華人留学生の翻訳を添削していると、ちょっと検索すれば簡単に分かることなのにどうして? ……というような訳語を当てていたり、中国語そのままの単語を日本語の文章にちりばめていたりするんですけど、そうか、あれは「ググれば分かる」その「ググること」そのものができていないからなのかもしれません。
デジタルネイティブである現代の留学生のみなさんは、片時もスマホを手放しません。比喩ではなく、本当に片時も。そして何か分からない単語や概念にぶつかると、ほとんど脊髄反射的にスマホで検索をかけています。その素早さはさすがに「ネイティブ」なんですけど、検索結果の採用の仕方が往々にして「しょうもない」のです。しょうもない情報を、堂々と「ネットに載ってたから」と採用しちゃう。
どうも留学生のみなさんは、検索して得られたネット上の情報、なかんずく日本語の情報は、最初に出てきたものからどれも疑うことなく採用しちゃっているようです。本来であれば、それが本当なのか裏を取ったり、別のサイトでも確認してダブルチェックをかけたり、逆に自分の母語でも調べてその妥当性を確認したりすべき(特に翻訳の場合は)なんですけど、そういうことを一切しない。
翻訳をするときに行う検索というものは、「オッケーGoogle、○○の意味は?」みたいに単純なQ&Aで成立するものではないんですよね。検索の仕方によっては、得られる結果には天と地ほどの差が生まれます。検索をかけて、もし結果が芳しくなかったら検索のキーワードをあれこれ変えたり工夫したりする、その作業の積み重ねが検索なんです。
そしてその際には、類語ならぬ「類概念」とでも言うべきものを自分の頭で考えて、それを使って「攻めてみる」、そういう戦略的な側面がとても大切だと思います。でも書籍や文章をたくさん読んだ蓄積がなければ、そういう「あの手この手」が自分の内側から出てこないのではないか。あるいは検索結果の妥当性を判断することができないのではないか。上記のツイート主さんが指摘してらっしゃるのは、そういうことではないかと思います。
https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_36.html
「日本語→中国語」の通訳や翻訳の授業を担当している、同僚の中国人講師によれば、華人留学生のなかには母語での表現すら怪しい方もまま見られるそうです。その原因はやはり「子供の時からほとんど読書に親しんでこなかったから」ではないかと。
文字を読んで、そこに書かれた文字だけの情報から、音や映像、人物の表情や感情、周囲の環境のありようなどを想像する。こうしたことが読書中に同時に行われる脳内作業だと思いますが、こうした作業習慣はスマホ画面の動画やゲームなどばかり見ているとなかなか起動しないのかもしれません。過不足なく豊富な情報が(色とりどりの描写で、刺激的な効果音で、表情豊かな俳優や声優さんなどの声で)外部から与えられるから、自分なりの受け取り方を想像し、構築する必要が少なくなるんじゃないかと。
華人留学生のみなさんにとって日本語は外語だから、検索して出てきた情報の妥当性に自信が持てないという側面はあるのかもしれません。でも母語である中国語の表現ですら怪しいとなると、これはもう言語能力の発達そのものに不安を持ってしまうレベルです。私は日本語母語話者の学生さんとはあまり接点がありませんが、本邦の学生さんも似たような状況なのでしょうか。