インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ネットカルマ

二日ほど前の東京新聞朝刊に載っていた佐々木閑氏のこちらのコラム、とても共感を持って読みました。

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ネット社会の到来によって、仏教で言うところの「業(カルマ)」が「実際の物理作用として実体化」したというの、スゴくよくわかります。いわゆる「炎上」というのはその実体化の一つですよね。前日も某大手回転寿司チェーン店のアルバイト従業員が「悪ふざけ動画」をネットに投稿、炎上を引き起こして同社の株価が急落、会社側はこのアルバイト従業員を解雇するとともに法的措置を検討……というニュースに接したところです。

佐々木閑氏は「まずはとにかく、言葉の制御である」とおっしゃいます。ネットやSNSでの発言、さらには日常会話まで「心に浮かび上がる悪意を抑える努力、穏やかに理をもって語る努力」が必要だと。「言葉を凶器として振り回」してはいけないと。これも大いに同感です。

私は常日頃から「実生活で人に面と向かって言わないようなことはネット上でも言わない・書かない」というのを肝に銘じているのですが、それでもネットにはなにがしかの魔力みたいなものがあって、ともすれば気が大きくなったり緩んだり、あるいは知らず知らずのうちに「自分を盛る」衝動に駆られていることもしばしばです。本当に危うい。いま書いているこのブログの文章だって、その自戒を完全に守れているのかどうか、心許ないものがあります。

ともあれ、こういう記事に出会えるから紙の新聞もやめられません。というわけで、佐々木閑氏のご著書である『ネットカルマ』もさっそく買って読んでみました。


ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出 (角川新書)

……いや、これは恐ろしい。ネット社会が、ある意味「信用履歴」の蓄積という側面を持っていて、ネット上での行動すべてが記録され蓄積され、それが将来個々人の「信用度」と紐付けされて利益不利益につながってくるというのは十分に分かっているつもりでした(中国などでは「芝麻信用」などを始めとした仕組みが既に実用のステージに入っています)。だからこそ実生活とネットで自分を使い分けないことを自戒としているのです。

ところが佐々木閑氏によれば、いまとこれからのネット社会は IoT や AI などの技術革命とも相まって、私たちが予想もしなかったような「因果応報」の世界に入っていくのであり、その苦しみからの「解脱」は必ずしも容易ではなく、よほど心の腰を据えて望まなければならない課題になるだろう、いや既になりつつある……とのこと。

ううむ、恐ろしい。私自身はそうしたネットの「業(カルマ)」が我が身に降りかかってきたという深刻な経験はまだありません。Twitterで時折、自分のツイートが元になって他人からいわゆる「クソリプ」を投げつけられ、どんよりした気分になることはありますが、これはまあスルーでもミュートでもブロックでもすればよいのですから、まだ対処のしようがあります。降りかかった火の粉は払えばいい。

むしろ問題なのは、自我が強くなりすぎるという点でしょう。ネットは実社会では考えられないほど他者との「界面(インターフェース)」を拡大してくれる仕組みですから、ともすれば根拠のない全能感や多幸感、あるいは逆に被虐感や劣等感、嫉妬心などを育みやすいと思います。フォロワー数や、コメント・ブクマの多寡に一喜一憂し、ネット上の見えない相手(見えないがゆえに巨大視する)に向かってあれこれの説明や弁解をし、自分を「盛る」という心性を肥大化させてしまうのではないかと。ネットにおける苦しみは他人が問題なのではなく、まさに自らが招く「業」というわけです。

佐々木閑氏は仏教哲学や仏教史がご専門の研究者で、現代のネット社会におけるさまざまな負の側面が、古代インドに生まれたブッダの智恵によって鮮やかに照射される、その明快さに心動かされました。またネット社会が複雑かつ巧緻になるがゆえのひとつの帰結として「非寛容」が世の中を覆いつつある現状にも触れ、そこからの脱却にも一筋の希望を見いだしている点に打たれました。ネットユーザー必読の一冊かと思います。