インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オンライン授業にはない「冗長性」が必要なのかもしれない

斎藤環氏と與那覇潤氏の『心を病んだらいけないの?』を読んでいたら、最終章に「オープンダイアローグ」の話が出てきました。統合失調症鬱病などの患者に対して、投薬ではなく、患者に関わる家族や友人、医師や看護師など、患者に関わる全ての人が参加した「対話」によって治療の効果を上げるというフィンランド発祥の精神療法です。

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心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―(新潮選書)

非常に興味深かったのは、この療法があらかじめ設定した計画や予定調和に沿って行われない、という点です。斎藤氏によれば……

オープンダイアローグでは治療者の側が一方的に「分析」や「評価」をしたり、治るためにはこれをやれといった「計画」を立てたりはしません。不確実に見えても、患者や家族と同じ目線で、相互の対話につきあっていく。(246ページ)

これに応えて與那覇氏はこう言っています。

「計画抜き」という点は、ぼくにはとても興味深い。つまり目下の企業社会で流布しているPCDAサイクル的な発想ではなく、むしろそれへのアンチということですね。(同)

なるほど、オープンダイアローグは一見、効率とは無縁のまどろっこしい手法のように思えるかもしれません。しかしそこには、心を病むこととその心を持つひとりひとりを前例や効率などといったものさしで画一的にとらえないという人間観があるわけですね。

この人間観については後段で、ベーシックインカム(これもフィンランドで先行的な実験が行われています)について述べた部分にもつながっていきます。斎藤氏は、ベーシックインカムが個々人のより望ましい社会参加のあり方をうながす可能性はあるとしながらも、「きわめて画一化された人間観に基づく発想で、じつは多様性を軽視している」のではないかと言うのです。個々人が必要とするお金や社会資源は均一ではなく、全員に平等なシステムを作れば全員がハッピーになるというわけではないのではないかと。

たとえば、ベーシックインカムが導入されて社会保障が廃止された場合、例えば行政が生活困窮者の相談にのったり支援したりということも必要がなくなるのか。それでいいのだろうかという疑問が呈されています。

(斎藤氏)人と人とが対面しての接触をうながすような制度の「冗長性」があることで、初めてケアされている感覚を当事者が得られ、社会的な孤立やセルフネグレクトが防がれている点を、見落とすべきではないと思うんですね。
(中略)
(與那覇氏)冗長性と聞くと、普通は「ムダ」の同義語だと解釈されて、だったらなくせよと思われてしまう。しかし実際には人が生きていく、あるいは社会を維持する上で「冗長であることが必要」な場面が、多々あるのではないでしょうか。(267ページ)

私はこの対談を読みながら、コロナ禍以後導入せざるをえなくなったオンライン授業のことを考えていました。オンライン授業に取り組み始めてからもう二年近くになりますが、さまざまな実践を通して発見したこと、学んだことも多い一方で、正直に申し上げて私は、少なくとも自分が受け持っているような「実習系」の科目でネットを介したオンライン授業を続けるのは無理があるのではないかと感じるようになりました。

それはまさに、オンライン授業には「冗長性」が欠けているからではないかと。参加している全員がフラットな画面に遠近感なく斉一に表示され、また教員から学生へのアプローチも、学生同士のやりとりもすべてフラットなネット空間で行われる。それはとても平等で効率的な場ではあります。通勤や通学といった時間の「ムダ」が省けるのはもちろん、感染防止という点でも現時点では最良の選択なのかもしれません。

ただ私は、オンライン授業に取り組めば取り組むほど、そういった「しつらえ」の後ろでこぼれ落ちているものがたくさんあるのではないかと思うようになりました。実際の教室においては、教員と学生とのやり取りのほかに、学生同士の横のやりとりも行われます。ときには授業に集中しない私語のようなやりとりもありますし、その時その場所におけるリアルな雰囲気や天候、気温、ノイズ……そういったさまざまな要素をみんなで共有していることが意外に大切なんじゃないかと思うのです。

もちろん一方的に講義をするような授業であれば、オンライン授業でじゅうぶんに代替できるかもしれません。また動画を撮ってそれを視聴するという形のオンライン授業もずいぶん普及しています(私も何本も撮影しました)。でも例えば動画視聴の場合、自分もよくやるのですが、まさに「冗長性」にうんざりしてつい早送りで視聴したりする。それは効率的かもしれないけれど、そのぶん何かを失っているような気もするのです。

対面授業でナチュラルスピードの話を聞いているときには、話を聞きながら自分の中でもあれこれ思考することができていたのが(単に「かったるいな」と思うだけであっても)、1.25倍速や1.5倍速では起動しにくい、そんなこともあるのではないか。みんなが各地から一か所に集ってきて、早送りもスロー再生もできないリアルな時間の流れを共有するというその「冗長性」にも、なにか大切なものがあるのではないか。

この本を読みながらそんなことを考えました。まだうまくまとまらないので、今後も考え続けて行こうと思っています。