インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

シャドーイングにご用心

外出しているときは、たいていイヤホンを耳に装着して音を聞いています。音楽を聴いたり、能の謡を覚えるために聴いたりすることもありますが、たいていの場合は語学教材の「シャドーイング」をしています。中国語を使う仕事に向かうときは、速めの中国語教材をずっとシャドーイング。なんだかんだ言って“土生土長的日本人(生まれも育ちも日本の人間)”なので、朝一番で「どんっ!」と中国語が出てきにくいため、口慣らしというか「暖機運転」をしているのです。

最近はフィンランド語の教科書の音声を繰り返し聴きながらシャドーイングしていることが多いです。フィンランド語は語形変化が激しいので、教科書の文章を丸暗記してもあまり応用が利きにくそうなのですが、とにもかくにもフィンランド語の音に慣れるために、そしてフィンランド語の語感を身体に染みこませるためにシャドーイングしているのです。

ただし往来でシャドーイングするときは、あまり大きな声は出せません。出してもいいけど(雑踏では結構な声量でやっています)「変なおじさん」になっちゃうので、特に電車の中などでは口中で「もごもご」と、あるいはごくごく声量を絞った小声でシャドーイングしています。が、時折夢中になって興が乗ってくると声が大きめになっているらしく、電車内などで「何、この人?」的に振り向かれることがよくあります。

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https://www.irasutoya.com/2013/06/blog-post_5366.html

先日はスーパーで夕飯の食材を物色しながらシャドーイングしていたら、見知らぬおじさんがこちらを睨んでいるのに気づきました。それでも気にせず小声でシャドーイングしながら買い回っていたら、なんとそのおじさんが声をかけてきました。いわく「なんかオレに文句でもあるのか」。どうやらシャドーイングしていたフィンランド語が、そのおじさんへの悪口に聞こえたみたいなんですね。

私は最初おじさんから声をかけられたことにも気づかず(だってイヤホンで音を聞いてるんですから)、何度か声をかけられてようやくイヤホンを外して「はい? 何か?」と応じたのですが、その様子を見ておじさんも「なんだ、ひとり言を言ってるのか」と言い捨てて向こうへ去って行きました。勘違いしたことが気恥ずかしそうなご様子でした。私は思わずその背中に「すみません、語学のシャドーイングをしてたんです」と返しましたが、全然説明になっていなかったですね。だって「一般の方」にとって、外語をシャドーイングするという行為そのものが理解の範疇を超えてますもの。

いやはや、見知らぬおじさん、ごめんなさいね。それにしても、今後はシャドーイングの「声漏れ」にもう少し気をつけようと思いました。あらぬ誤解を招いて、後ろから刺されたりしたらシャレになんないもの。

中国語圏の学生における発音とリスニングの弱点について

私が担当している留学生の通訳クラスは、中国語圏の学生と「それ以外」の学生がほぼ半々で在籍しており、中国語圏の学生は日中・中日通訳を訓練し、「それ以外」の学生は日英・英日通訳を訓練します。「それ以外」の学生には英語の母語話者もいますが、多くは英語を使うそのほかの国々の学生です。

「そのほかの国々」の学生は、本当は自分の母語と日本語の間の通訳を学びたいのですが、こちらにそのメソッドがないことと、教員がいないこと、それにそうした通訳の市場が日本では極めて小さいこと、就職先も限られることなどから、仕方なく(?)日英・英日通訳を訓練しているのです。欧州やインド、あるいはアジアのシンガポールやマレーシア、インドネシア、タイ、ベトナムミャンマーなどの学生が多く、南米のブラジルやアルゼンチンの学生も在籍しています。

ただし、そうした「そのほかの国々」の留学生は、みなさん英語がとても達者です。もちろん英語が達者だから入学試験をパスしてきたわけですが、母語以外に英語を学び、さらに日本語も学んで、英語と日本語間のいわば「第二言語同士」の通訳を学んでいるというのは、考えてみれば我々日本語母語話者にはなかなか想像ができないくらいのものすごいことをしていますよね。

さらに、英語を半ば準母語として、あるいは国の公用語に近い形で使わざるを得ない国が世界にはたくさんあるのだということ、それに比べて日本はとても恵まれているのだということ、日本語はそれほど「巨大な言語」なのだということも、私たち日本語母語話者はあまり実感として分かっていないのかもしれないと常々思います。

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https://www.irasutoya.com/2019/01/blog-post_891.html

閑話休題

私は中国語圏の学生と「そのほかの国々」の学生の両方を受け持っているのですが、通訳訓練をしていると、この二つの「群」には明らかな違いがあると感じます。中国語圏の学生は明らかに日本語の発音や発声、とくに非日常的な(普段のおしゃべりには使わないような)言葉――複雑な外来語(カタカナ語)やテクニカルターム、専門用語、マイナーな人名・地名などなど――の発音や発声が「そのほかの国々」の学生に比べて劣っているのです(もちろん例外はありますが)。

「劣っている」という言い方はちょっと失礼ですね。中国語圏の学生は、そうした語彙へのこだわりが薄いと言った方がいいかもしれません。日本語には(中国語もですけど)同音異義語が多く、同音でなくても発音の似通った単語がごまんとあります。そんな言葉の数々をきちんとクライアントに伝わる形で言い分けるには、長音や撥音、促音、拗音などなどをきっちりと踏まえる必要がありますが、その辺のこだわりがとても薄いように感じるのです。

これはもう明らかに「漢字」の存在が大きくものを言っていると思います。ありとあらゆることを漢字で表現する国々の人たちであるだけに、物事の理解の中心には「漢字」がどっかと腰を据えているようなのです。そして漢字で森羅万象を切り取った瞬間に、中国語の漢字の発音が脳内に響いてしまう。それが発音や発声に大きく干渉しているようです。ご自分ではきちんと日本語の語彙を言っているつもりなのに、全然言えていない……そうした齟齬に悩まされるのですね。

ちなみに日本語母語話者が中国語を学ぶときにも似たような現象が起きます。中国語圏の人ほど漢字に依存してはいないものの、やはり漢字に頼って言葉を操ろうとするがゆえに、発音や発声が手薄になるんですね。留学している時も、漢字を知っている日本人留学生よりも、漢字をまったく介さないで中国語の音を学んでいる欧米人留学生の方が発音が達者だ……などという話をよく聞きました(もちろん個人差や、向き不向きもありますが)。

また漢字の存在が大きい中国語圏の学生と日本語母語話者の学生に共通していることですが、映像を使って聴解訓練をすると、映像や画面のフリップ・字幕などに助けられて何となく聴けた気になっているものの、映像を消して純粋に音声だけにしたとたんに聴けなくなるというのもよく指摘されることです。

うちの学校の華人留学生にも同様の傾向があるので、例えばプリントなど刷り物を配って説明するときにも、まずはプリントを配らず、こちらが先に話して理解を確かめてからプリントを配るようにしています。逆に声の説明だけで済ませると、みなさん「ふんふん、はいはい」と聴いて分かっているような顔をしているものの実は全然聴き取れてなかったということがたびたび起こるので、あとから刷り物を配って再度確認してもらうようにしています。

ことほどさように、文字、特に漢字の力は大きいんですね。なにせ一目見ただけでかなり深い意味まで了解できてしまうのですから。それがまた漢字の素晴らしい点でもあるのですが、同文同種ではなく同文異種である中国語と日本語の間の学習においては、この点をきちんと踏まえていなければ……と常に意識に上らせるようにしています。自分が教えるときも、そして学ぶときにも。

こちらはかなり以前の動画ですが、上海にある日本語学校の先生が、どうやったら日本語のリスニング力が上がるかと問われてこんなことをおっしゃっています(2:26あたりから)。

youtu.be

中高级同学呢,经常会跟我说:“杨老师啊,我考试呢,总是听力分数不高,但是其实我日剧动漫我好像看懂。”那其实我要非常一针见血地告诉你,其实你没有看懂。你的问题是借助着画面,借助着字幕,借助着前后文,好像这里的意思你能取下来了,对吧?


中上級の学生がよくこんなことを言います。「先生、僕はリスニングテストの点数がいつも悪いんですけど、日本のドラマやアニメは聴き取れるんですよね」。でもハッキリと申し上げましょう。実は理解できていないんです。つまり画面や字幕に、あるいは前後のつながりに助けられて分かったような気になっているんですね。

中国語を学ぶ我々にとっても傾聴に値するご指摘だと思います。

定期健診とPMCT

歯医医院へ定期健診に行って来ました。十年以上前に歯列矯正をした歯科医院です。年に一回の定期健診で毎回思うのですが、ついこのないだ検診をしたばかりのような気がします。一年が経つのがはやい、はや過ぎる。先生も「こんにちは、あれ? もう一年経った? はやいなあ」と驚いていました。先生はたぶん私と同年代だと思いますが、どんどん人生の時計の進み方がはやく感じられるようになるんですかね。

健診では「ちゃんとリテーナー(保定器)を使い続けている人はほとんど崩れないね」と言われました。そう、歯列矯正は矯正が終了した時点から身体の成長、あるいは加齢に伴って徐々に形が崩れていくものとされています(矯正開始時にちゃんと説明があります)。それを少しでも防ぐためにリテーナーをつけるのですが、たいていの人は数年でやめちゃうらしい。でも私はせっかくお金をかけて矯正したんだからもったいないと、十年以上経ったいまでも就寝時には必ずリテーナーを装着しているのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_25.html

一年ごとの定期健診では、合わせてPMCTも受けます。PMCTというのは「Professional Mechanical Tooth Cleaning」、専門的機械歯面清掃(せんもんてききかいしめんせいそう)という聞き慣れない名称ですが、30~40分ほどかけて歯石や汚れの除去、洗浄、弗素コーティング、虫歯の検査など、歯の全面的なクリーニングを行ってもらうものです。

クリーニングのあとには歯磨きの指導もあります。今回は前歯の裏側に歯石が比較的多かったので、歯磨きの時は歯ブラシを縦にしてここから磨き始めるように言われました。また奥歯周辺の歯ぐきが加齢によって下がってきているので、歯を磨く時はなるべく歯ぐきに圧力をかけないよう優しく磨くように、そのために歯ブラシを握るのではなく、ペンを持つようにして、歯ぐきにかかる力を減らすことなどを指導されました。

こうした定期検診のおかげで虫歯とは無縁になりましたが、若い頃の不摂生でほとんど全ての奥歯には詰め物が入っています。もっと早くから歯のケアを考えておけばよかったと思います。でも少なくともこれからは、今の状態をできるだけ長く維持できたらと思っています。自分の歯で何でも食べられるというのは、健康に関する条件の中でも筆頭にあげるべき大切なポイントだと思うのです。「歯磨きのあとに口を漱がない」という驚異の「イエテボリ・テクニック」も絶賛継続中です。

qianchong.hatenablog.com

フィンランドのサーモンスープ

サーモンのスープを作りました。サーモン以外にも野菜をたくさん入れた、飲むスープというより食べるスープです。初めてフィンランドに行った時に食べたこのタイプのスープがおいしかったので、それ以来何度も作っています。

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後にフィンランド語を学び始めて知ったのですが、フィンランド語でこのサーモンのスープは「lohikeitto」。「lohi(ロヒ)」がサーモンで「keitto(ケイット)」がスープです。ちなみにフィンランド語で台所(キッチン)は「keittiö(ケイッティオ)」、料理する(煮る・沸かす)という動詞は「keittää(ケイッター)」。というわけで「keitto」は単にスープというより、日本語でいえば「ごはん」くらいのニュアンスなのかもしれません。具だくさんのこうしたスープが、ミートボールよりもトナカイ肉の煮込みよりもよりフィンランドらしい庶民的料理の代表格なのかなと勝手に想像しています。

こちらはヘルシンキの庶民的なレストラン「コルメ・クルーヌア」で食べた「lohikeitto」です。

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このスープにはディルが欠かせません。何度も作ってみて分かったのは、このスープの決め手は、仕上げに散らす多めのディルにあることでした。魚の臭みを消してさらに爽やかな香りを足すためなので、お飾り程度ではなくどさっと入れるのです。本場のレシピはまったく知らずに作っているのですが、細かく切った野菜を三〜四種類くらい入れると味に深みが出るようです。あと、生クリームも(まあバターや生クリームを入れればたいていのスープやシチューはおいしくできちゃうのですが)。

同じような作り方をするミネストローネだと、生クリームは使いませんがニンニクをみじん切りにして入れたいところ。ですが、私はこのスープには入れないほうがいいような気がします。なんとなく、ニンニクを入れると南の地方の料理っぽくなるような気がするのです。北欧のスープはもう少しシンプルな方が「らしい」かなと思います(たんなる個人的な妄想です)。

本当の翻訳の話をしよう

村上春樹氏と柴田元幸氏の『本当の翻訳の話をしよう』を読みました。雑誌『MONKEY』に掲載された、小説(なかでもアメリカ近現代の)や翻訳に関する対談を収めた一冊です。本のタイトルはティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう 』へのオマージュですね。

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本当の翻訳の話をしよう

いくつかの対談はすでに雑誌で拝見していたのですが、こうやってあらためて読んでみると、お二人ともアメリカ文学が本当にお好きなんだなあ、そして翻訳という作業が何よりお好きなんだなあと、その思いが伝わってきます。だからアメリカ文学とその翻訳に関して対談している部分は、ほとんどオタクというかマニアというか、あまりに細かくかつディープな話題で盛り上がっていて*1、それほど詳しくない人間からするとちょいと「おいてけぼり」をくわされている感じもします。それでも話がアメリカの社会や近現代の歴史にも及ぶので興味深いことこの上ないのですが。

私は海外文学の忠実なファンとはとても言えない、つまりそれほど多くを読んでいないので、こうしたアメリカ文学の作品論や作家論的なところにはあまり入り込めませんでした。でもそのかわりに「日本翻訳史 明治編」と題された、日本における文芸翻訳の黎明期、今とはかなり異なる翻訳のあり方を縷々紹介している部分は身を乗り出すようにして読みました。

鴻巣友季子氏の『明治大正 翻訳ワンダーランド』でも紹介されていた森田思軒や黒岩涙香、さらには坪内逍遙二葉亭四迷森鷗外らの訳業についても、原文も引きながら解説されています。鴻巣氏の本では、かの『フランダースの犬』の初訳(日高善一訳)でパトラッシュは「斑(ぶち)」でネルロは「清(きよし)」と訳されていたなど、現代とはずいぶん異なる翻訳のありようが面白かったのですが、この柴田元幸氏の論考でも明治期の翻訳には「いろんな選択肢があった」として黎明期ならではの試行錯誤があれこれ参照できて楽しいです。

浄瑠璃調シェークスピア

中でも面白かったのが、坪内逍遙の手になるシェークスピアジュリアス・シーザー』の翻訳です。小見出しには「江戸を引きずっていた翻訳」とあるのですが、その前書きで坪内逍遙自身が「今此国の人の為めにわざと院本体に訳せしかば(日本の読者のことを考えて、浄瑠璃っぽく訳しました)」とことわっているように、文体の雰囲気がまるで浄瑠璃、あるいは歌舞伎か文楽の世界なのです。個人的には能楽の謡本を読んでいるような気分になりました。例えば、こんな感じです(舞婁多須・軻志亜須は、それぞれブルータス・カシアス)。

公園前の大街頭、群る府民、蜂のごとく、舞婁多須、軻志亜須の前後を囲み、騒ぎ立ちて声々に、(府民)名聞聞かん。主意を聞かん。殿下を殺せし所以をば、承らんと罵る声、さながら広き羅馬府の、百万の家一時に、崩るゝ許りに騒がしき。舞婁多須は声はりあげ、(舞)然らば人々某が、所以逐一公演台に、只今演説致すべければ、いざとく我に随ひこられよ。イヤナニ軻志亜須氏、足下は彼方の街頭にて、処をかへて演説あれ。……

声に出して読んでみると、まんま能楽の謡本です。しかも戯曲だから(府民)とか(舞=ブルータス)などと誰の台詞であるのかの指定がありますが、これも謡曲にある「同音(地謡)」や「シテ(主人公)」といった指定にそっくり。幕末から明治初年は能楽が衰退して大変な時期にあったわけですが、元は武家の式楽であった能楽謡曲が広く庶民にも親しまれていたという江戸時代のバックグラウンドがあったからこそ、明治に入って西洋の文物がどっと翻訳され始めた時にもそれが地続きで引き継がれていったのかなあなどと想像しました。もっとも翻訳の文体はこのあとほどなく「言文一致」によって大きく変化していくことになるのですが。

翻訳の「心得」

「翻訳王」とも称された森田思軒は翻訳の「心得」を四つの原則にまとめており、それもこの章で紹介されています。これも中国近代翻訳論の祖ともいえる厳復の「信・達・雅」を彷彿とさせ、興味深い。森田思軒は漢文の素養もあった人だそうで(この時代の文学者はおおむねそうでしょうけど)、西洋の文物を翻訳する際に中国、あるいは漢語の存在が大きかったという点も指摘されています。特に面白いと思ったのは森田思軒が坪内逍遙にあてた手紙で、『マクベス』の坪内逍遙訳を賞賛したくだりについて、こんなことが書かれています。

訳の難きは、其の一辞一句に就て之を邦語に翻へすの難きにあらず、唯だ同じ意味ながら、斯辞斯句が、斯の場合に於る気勢と声調とには将た孰づれの邦語か最も之に称なふべきやを判断するの難きなり。其の一辞一句を善修するの難きに非ず、其の一辞一句が如何にせば一章と諧和し、一篇と好合し、承上起下、撇開推拓、転折過渡、皆な渾然自然にして……

この部分、柴田元幸氏は「漢語が難しいですね」とおっしゃっており、特にこの「承上起下、撇開推拓、転折過渡」の部分など「サッパリわかりません」として、この文章が収められた加藤周一丸山眞男篇の『翻訳の思想』でも「不詳」との註があることが紹介されているのですが、これ、中国語を学んだ方なら比較的容易に理解できそうじゃありませんか? 要するに「文章の前後のつながりに留意しながら、時に大胆に意味を押し広げ、あるいは別の意味へと発展させる」という感じでしょうか。そのいずれの方法もみんな「渾然自然」でなければならないと。

単なる素人の感慨ですけど、こういう文章に接するたびに、中国語と日本語の長きにわたる深い関わりと、漢籍の素養があったがゆえに西洋の言葉を日本語に移植できた明治の先人のすごさ、そして中近世と近現代の日本語には断絶があるようで実は連綿と受け継がれているものが確かにあることを感じて、うれしくなります。さらには言語的にはまったく異なるにもかかわらず、ここまで深い関係を切り結んできた中国語と日本語の奇跡的なありようについてもある種の感動を覚えるのです。こういう感動を味わえるのもまた、中国語を学ぶ小さな「余禄」なのかもしれません。

*1:特に冒頭に収められた、古典の新訳・復刊に関する「帰れ、あの翻訳」では、紙面の下半分が膨大な註で占められていて、わははは、読みにくいったらありゃしません。

能舞台と東西南北

先日の温習会も終わり、今度は秋の会に向けてまた新しい曲をお稽古することになりました。今度は仕舞の「野守」です。鬼神が手にする鏡(仕舞ではこれを扇で表します)に、東西南北の神仏、さらには天上界や地獄界が映し出されるさまを表現していて、とても力強い舞です。

というわけで、詞章にはよく「方角」が登場します。「野守」にはこんな詞章があります。

東方降三世明王も此の鏡に映り
又は南西北方を写せば
八面玲瓏*1と明らかに
天を写せば
非想非々想天まで隈無く
さて又大地をかがみ見れば
まづ地獄道
まづは地獄の有様を現す
一面八丈の浄玻璃の鏡となって……

この「東方降三世」の部分、謡本の「型付け(舞の型を指示する言葉)」には「橋掛ノ方向シカケヒラキ」と書かれており、「南西北方」の部分では「笛座ノ方へ一足出……正面向サマ右へ引付」と書かれています。

私は以前に別の方が舞われた仕舞「野守」で地謡に入ったことがありますが、その時は詞章を覚えて謡うだけで精一杯で、舞の型や動きと詞章がリンクしていませんでした。でもこうやって自分が舞う段になって始めてお師匠に教わって分かったのですが、実は能舞台にはきちんと方角が定められており、詞章の言葉に出てくる方角と舞の型もおおむね一致しているということなんですね。

能舞台における方角は流儀(能楽の流派)によって異なるそうですが、私がお稽古をしている喜多流では演者が登場する「揚幕(あげまく)」のある方向を「太陽は東から昇る(そこが始まり)」として東に定められているそうです。いつもお世話になっている「the 能楽ドットコム」さんのthe能ドットコム:入門・能の世界:能舞台図解に東西南北の方角を重ねてみると、こんな感じになります。

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ABCDは能舞台の四隅に立っている柱ですが、その柱の方角とは若干ずれるかたちで東西南北が設定されているんですね。先の「野守」で言えば、「東方降三世」の部分は「橋掛ノ方向」で東ですし、「南西」の部分では「笛座」がAの柱の脇あたりですから南や西の方向にだいたい合っています。なるほど、こういう世界観が能舞台に込められているとは、これまで迂闊にも気づいていませんでした。

そういえばこれも以前お稽古した仕舞「天鼓」でも、詞章の「人間の水は南/星は北にたんだくの」という部分で、確かに「南」の時は笛座の方に進んで、そこから身を翻して「北」の正面に戻ってくるような動きでした。う〜ん、そんなことも知らずに舞っていたとは。

上述したように能舞台における方角は流儀によって違うので、同じ舞でも全然違う方角に進んだり向いたりするものなのだそうです。なるほど、だから流儀によってかなり違う印象があるんですね。これもここに来てようやく知った次第です。

*1:「八面玲瓏(はちめんれいろう)」は中国語にもあって(というか元々中国の言葉で)、誰に対しても人当たりがよいというプラスの意味と、誰に対してもいい顔をするというマイナスの意味とがあります。日本語ではこれを「八方美人」と訳すことが多いのですが、これはマイナスの意味だけですよね。実は日本語にも「八面玲瓏」はあって、中国語同様に「どこから見ても透き通っていて、曇りのないさま。また、心中にわだかまりがなく、清らかに澄みきっているさま。また、だれとでも円満、巧妙に付き合うことができるさま(三省堂新明解四字熟語辞典)だそうですけど、現代ではほとんど使われない言葉になっています。

「もうなくなった」金融審議会の報告書を読んで

6月3日に発表され、その後「老後資金は公的年金だけでは2000万円不足する」という部分だけがセンセーショナルに取り上げられた結果、諮問したその大臣が受け取りを拒否したり、与党幹部が「もうなくなった」と宣ったりした金融審議会市場ワーキング・グループの報告書「高齢社会における資産形成・管理」。

この報告書は「なくなった」どころか、いまでも金融庁のウェブサイトで読めます。国が正式に諮問して、多くの専門家が何度も議論を重ねた上にまとめた報告書ですから、単純に税金の無駄遣いという観点からもそうかんたんに「なくなった」ことにされちゃたまりません。それで全文読んでみたのですが(当の諮問した大臣は冒頭しか読んでなかったそうですが)いろいろなことを考えさせられてとても興味深かったです。

金融審議会市場ワーキング・グループ報告書「高齢社会における資産形成・管理」
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603/01.pdf

「はじめに」には、こう書かれています。

今後とも、金融サービス提供者や高齢化に対応する企業、行政機関等の幅広い主体が、今回の一連の作業を出発点として国民に本報告書の問題意識を訴え続け、国民間での議論を喚起することにより、中長期的に本テーマにかかる国民の認識がさらに深まっていくことを期待する。

ほんと、その通りですよ。国民一人一人が「我がこと」としてこの問題を一緒に考えましょう、行政をはじめとした団体はそれを提起し続けましょうと言っているわけで、要は議論を先送りすることなく、世界でも「最先端」の少子高齢化社会に突入した(それだけに前例のない)この国として主体的な思考が必要ですと訴えているわけです。極めて真っ当な意見提起だと思います。これ、報告書の1ページ目に書かれているんですけど、この部分さえ諮問した大臣は読まなかったのかしら。

そして、今回一番センセーショナルに取り上げられた部分、「2000万円不足」に関する箇所はここです。

しかし、収入も年金給付に移行するなどで減少しているため、高齢夫婦 無職世帯の平均的な姿で見ると、毎月の赤字額は約5万円となっている。 この毎月の赤字額は自身が保有する金融資産より補填することとなる。

この部分が、「100年安心」と言っていた公的年金だけでは到底足りず、後は自助努力で何とかせよと放り出すのか、と批判を浴びたわけですけど、批判した野党だってもう何年も前からその「不都合な真実」は知っていたはずです。だって、私がもう四半世紀も前に社会保険関係の出版社に勤めて公的年金のパンフレットを作成していた頃から年金は「世代間扶養」という考え方に基づいていて、単なる貯蓄とそのリターンではないということを繰り返し言っていたのですから。

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https://www.irasutoya.com/2017/01/blog-post_774.html

この報告書では他にも「健康寿命と平均寿命の差を縮めていくことが重要である」とか、「金融リテラシーの向上に向けた取組みも重要である」とか至極真っ当な指摘が並んでいます。もちろんそうした取り組みを考える余力もない層が増えているなど格差が広がっているという現状から批判をしている方もいるのは分かっていますが、それでも、いやだからこそ、ここで目を逸らすことなく、将来に向けた方策を議論していくべきではないですか。

この報告書の終わり近くにも、こう書かれています。

今後のライフプラン・マネープランを、遠い未来の話ではなく今現在において必要なこと、「自分ごと」として捉え、 考えられるかが重要であり、これは早ければ早いほど望ましい。

今朝のテレビ番組『サンデーモーニング』でも、「老後の資金不足」についての数字は平均であり、試算であるので、2000万円だけが一人歩きするのは不毛だという意見が出されていました。同感です。政府や政党が、選挙対策や党利党略で簡単に報告書をなかったことにして議論停止になるのは不毛ですが、私たち国民もここだけに「脊髄反射」で怒りを爆発させるのもこれまた不毛です。

専門家が「よってたかって」まとめ上げた報告書、ぜひ一読をお勧めします。

だからWindowsだけはよせと言ったじゃない

勤めている学校の一つで、職員一人一人に新しい業務用パソコンが支給されました。Windows10を搭載したノートパソコンです。これまで長い間Windows7のパソコンで業務を続けてきたのですが、Microsoftのサポートが終了し、さすがにセキュリティ上も問題があるということで、ようやく環境を一新させたというわけです。

早速セットアップをして、まずはインプットメソッドを設定しました。私は仕事で日本語と英語、それに中国語の「簡体字」と「繁体字」を打つ必要があります。そこでWindows10標準の、Microsoftから提供されている言語パックをダウンロードしたのですが……。

とりあえず手書き入力などは外して「基本の入力」だけ簡体字繁体字をダウンロードしたのですが、簡体字は設定できたものの、繁体字の方がいくら待っても設定が完了しません。というか、設定を継続中なのか、止まってしまったのかさえ画面からは分かりません。

仕方がないので他のアプリケーションなどをインストールし、メールチェックなど別の仕事をこなしながら待っていましたが、まったく変化なしです。あまりにおかしいので一度再起動してみようと思ってやってみたら……延々延々「Windowsの準備をしています コンピューターの電源を切らないでください」の表示。結局その日は三時間待ってもこの状態が変わりませんでした。

次の日に出勤してみるとログイン画面に戻っていましたが、インプットメソッドは変化なしで依然中国語が十全に使えません。ネットで解決策を検索してみると、あちこちにWindows10の外語環境における不具合が報告されており、さまざまな対応策が紹介されていました。

それらもいろいろと試してみましたが、結局らちがあかず、たまたま他のアプリケーションをインストールした際にうっかり再起動をかけてしまったがために、また数時間「Windowsの準備をしています コンピューターの電源を切らないでください」状態が続きました。普段は極めて温厚な私(うそです)もこれにはキレました。だからWindowsはダメなんですよ。

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https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_14.html

私がプライベートで使っているMacBookは、これまでに何台も買い換えてきましたがセットアップの時にこんな意味不明なドタバタは一度もありません。思い返せば四半世紀ほど前、DTPの黎明期にMacで中国語の組版を始めた頃はわけの分からないエラーが多発したものでした。一枚プリントするのに数時間などという、今では笑い話のようなエピソードも毎日のように起こっていました。それでもMacはその後どんどん進化し、いまでは自分の体の一部とも言えるくらいの快適性を実現してくれています。

それに引き換えWindowsの、それも最新OSのこの体たらくはどうでしょう。私はつねづね「Windowsが世界のパソコンの標準になってしまったのは人類の一大不幸だ」と言っているのですが、今回もさらにその思いを強くしました。これだけ「ぐろーばる」の声かまびすしい時代になったというのに、マルチリンガル環境、それも日本語と中国語だけの環境でさえまともに構築できていないというのは、どういうことなんでしょう。結局中国の「搜狗」というインプットメソッドを入れました。これで一応使えますけど、Microsoft純正のプログラムがきちんと動かないというのはホントに度しがたいです。

今回の新しいパソコン導入に際しては、私は教学で音声も映像も多用するしそれらの編集も日常茶飯で行うのでMacにしてくれと学校当局に申し入れました。でも、規模の大きい学校なので、たぶん調達部門とパソコン会社の間の「大人の事情」もあるのか、結局その意見は通りませんでした。それでも今回は最新のWindows OSだから少々期待もしていたのです。なのに……天を仰いで溜息をつくしかありません。

フィンランド語 40 …動詞の「棚卸し」

動詞をめぐって過去完了形まで学んだので、ここいらで「棚卸し」をしようということになりました。まず時制としてはこれまでに「現在形」「過去形」「現在完了形」「過去完了形」を学びました。

① Minä menen Kuopioon.
 私はクオピオへ行きます(現在形)。
② Minä menin Kuopioon viime vuonna.
 私は去年クオピオへ行きました(過去形)。
③ Minä olen mennyt Kuopioon.
 私はクオピオへ行ったことがあります(現在完了形)。
④ Minä olin mennyt Kuopioon.
 私はクオピオへ行ったことがありました(過去完了形)。

日本語母語話者的には②の過去形「行きました」と③の現在完了形「行ったことがあります(経験)」の違いが難しいですね。日本語的にはどちらも過去じゃないの? と考えてしまいそうで。

よく分からなくなったので『フィンランド語文法ハンドブック』をひもといてみました。

いわく、日本語母語話者的には、現在完了形に三つの意味があると。それは「完了」「経験」「継続」です。

■完了(もう〜してしまった/〜してしまっている)
(Minä) olen syönyt jo tarpeeksi.
私はもう十分に食べました。
Oletteko te jo nousseet ?
あなたたちはもう起きていますか?
(Minä) en ole juonut vielä tarpeeksi.
私はまだ十分に飲んでいません。
He eivät ole vielä saapuneet.
彼らはまだ到着していません。


■経験(〜したことがある)
(Minä) olen ennen Käynyt Suomessa.
私は以前フィンランドに行ったことがあります。※ kaydä は内格を取ります。
Oletko (sinä) ennen matkustanut Kiinaan ?
あなたは以前中国に旅行したことがありますか?
(Minä) en ole koskaan käynyt Kiinassa.
私は一度も中国へ行ったことがありません。
(Me) emme ole ennen tavanneet häntä.
私たちは以前彼女に会ったことはありません。


■継続(ずっと〜している)
(Minä) olen lukenut kirjaa aamusta asti.
私は朝からずっと本を読んでいます。
Kuinka kauan (sinä) olet opiskellut suomea ?
あなたはどのくらいフィンランド語を勉強していますか?

さらに過去完了形は、これら現在完了形の「完了・経験・継続」が過去の話題になるということです。つまり「もう〜してしまっていた」「〜したことがあった」「ずっと〜していた」という感じですかね。何となく分かるような気がします。

■完了(もう〜してしまっていた)
Kun minä soitin kotiin, isä oli jo lähtenyt.
私が家に電話したとき、父はもう出かけてしまっていました。


■経験(〜したことがあった)
Sitä ennen (me) olimme käyneet Suomessa monta kertaa.
それ以前に、私たちはフィンランドへ何度も行ったことがありました。


■継続(ずっと〜していた)
Hän oli ollut Japanissa viikon, kun (me) tapasimme.
私たちが出会ったとき、彼女は日本に1週間滞在していました。

さて、一つの動詞をめぐって、現在形・過去形・現在完了形・過去完了形にそれぞれ一人称・二人称・三人称の単数・複数そして肯定・否定があります。つまり一つの動詞が時制と人称と単数複数と肯定否定によって48のパターンに分かれるということですね。「lukea(読む・学ぶ)」を例に取れば……

現在形

単数肯定 複数肯定 単数否定 複数否定
一人称 luen luemme en lue emme lue
二人称 luet luette et lue ette lue
三人称 lukee lukevat ei lue eivät lue

過去形

単数肯定 複数肯定 単数否定 複数否定
一人称 luin luimme en lukenut emme lukeneet
二人称 luit luitte et lukenut ette lukeneet
三人称 luki lukivat ei lukenut eivät lukeneet

現在完了形

単数肯定 複数肯定 単数否定 複数否定
一人称 olen lukenut olemme lukeneet en ole lukenut emme ole lukeneet
二人称 olet lukenut olette lukeneet et ole lukenut ette ole lukeneet
三人称 on lukenut ovat lukeneet ei ole lukenut eivät ole lukeneet

過去完了形

単数肯定 複数肯定 単数否定 複数否定
一人称 olin lukenut olimme lukeneet en ollut lukenut emme olleet lukeneet
二人称 olit lukenut olitte lukeneet et ollut lukenut ette olleet lukeneet
三人称 oli lukenut olivat lukeneet ei ollut lukenut eivät olleet lukeneet

動詞をめぐっては、さらに命令形・第三不定詞・動名詞も学んだのでした。

命令形

肯定 否定
単数 Lue ! Älä lue !
複数 Lukekaa ! Älkää lukeko !

第三不定

内格 〜している途中で lukemassa
出格 〜してから lukemasta
入格 〜しに lukemaan
接格 〜することによって lukemalla
欠格 〜せずに lukematta

動名詞

〜すること lukeminen

動名詞はたったひとつ「-minen」がつくだけですが、これは名詞なので都合30通りの格変化をします。

Lukeminen on hauskaa.
読むことは楽しいです。
(Minä) vihaan lukemista.
私は読むことが嫌いです。
(Minä) pidän lukemisesta.
私は読むことが好きです。
(Minä) käytän rahaa lukemiseen.
私は読むことにお金を使います。
……

う〜ん、棚卸しをしてまた目眩がしてきました。先生からは「動詞の原形を知らないと変化も活用もできないので、とにかくはやく覚えてしまってください」と言われました。基本的な動詞をまとめたプリントが配られているので、引き続き覚えることにします。あと個人的には、動詞の過去形が一番「ヤバい」(とくに語尾が si になるやつ)と思いました。

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Matkustaminen on hauskaa, syöminen on myös hauskaa.

誰にでも起こりうることとして

池上正樹氏の『大人のひきこもり』を読みました。川崎市登戸駅近くで起きた大量殺傷事件と、その直後に練馬区の元農水事務次官が息子を刺殺した事件。いずれも中高年の「ひきこもり」がクローズアップされましたが、自分もこれまでの来し方行く末を考えると他人事ではないなと思い、手に取ったのです。

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大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探している人たち (講談社現代新書)

この本は五年ほど前に出版されたものですが、格差と貧困が広がり、非正規雇用(特に中高年の)の増加と固定化が問題となり、今また金融庁の審議会が「老後の30年間で2000万円が不足する」という「不都合な真実」を明らかにした報告書を発表したのち「なかったことにする」ドタバタなどに接していると、現在でもこの本で鳴らされている警鐘は有効だし、むしろさらに悲惨な形で露見しつつあるのではないかという思いが募ってきます。

この本では「ひきこもり」という状態が、例えば「働いたら負け」という言葉に代表される、働けるのに働こうとしない「ニート」などとはことなり、また「やる気の問題」や「甘え」や「自己責任」などで単純に括ってしまえるものでもない一種の深刻な病態、あるいは地域社会における個人や家族の内外に起因する複雑な問題であることを説明しています(ニートニートで現代の就労環境がもたらしている側面もあるので、じゃあ「甘え」や「自己責任」と括ってよいかといえば、決してそんなことはありませんが)。

詳しくは本書にあたっていただくとして、私がこの本を読んで強く感じたのは「自分だってこれに近い状態はあったし、これからもこういう状態に陥らない保証は全くない」という点でした。私はこれまでに何度も転職をしています。企業に勤めたこともありますし、NPO法人のような団体にもいたことがあります。派遣で仕事をしていたこともありますし、フリーランスになったことも、そして何度か無職の状態になったこともあります。

それでも若い頃は特に不安も感じず、仕事もそれなりに入り、仮に貯蓄がまったくなくても、生きて行くことそのものに困難を覚えることはさほどありませんでした。ところが四十代も終わり近くになって失職したときにはさすがに辛いものがありました。それまでにも何度か転職をしてきたので、今度もまたすぐに仕事は見つかるとなぜか楽観的に思い込んでいたものの、現実には既に極めて再就職が困難な年齢に差しかかっていたからです。今から思えばなぜあんなに楽観的、というか脳天気でいられたのか不思議で仕方がありませんが、要するに日本社会における中高年のありようについて、私はほとんど理解していなかったのです。

五十歳を前に失職して、ハローワークに通い始め、同時に支出を抑えるために細君の実家で認知症の気配が見え始めていた義父と同居を始めたのですが、今になって思えばあの時期は、昨今世間で言われるところの「中高年のひきこもり」と選ぶところがなかったように思います。そう、労働環境や企業のあり方がかつてないほどの大きな変化をしてしまっている(でも多くの人はそれを認めたがらない)現在にあって、何からの理由で働けなくなって一時的に実家に身を寄せ再起を図る、あるいはモラトリアム状態に身を置くなどということは、誰にでも起こりうるのではないでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_274.html

現在問題になっている「中高年のひきこもり」は若い頃からの長期間にわたるものも多いようですが、そういったパターンだけではなく、今は普通に外へ出て働いているような人でも、何かのきっかけで、それも自分自身の理由だけではなく外部からの理由でも傍目には「ひきこもり」と同じような環境になってしまうことはあり得るのです。

うちの細君も、突然くも膜下出血に襲われ、幸いにも通常の暮らしに戻ってくることはできましたが、安定した正式な仕事にはいまだに就くことができずにいます。上記の本に記されるような「ひきこもり」ではないけれども、社会と繋がりたいと思いつつも身体的、年齢的、社会における位置的にそれが十全に果たされない状態。こうした大病とその予後という観点からも、誰にでも起こりうることですし、「ひきこもり」は決して特殊な家庭や個人の問題ではないと思うのです。

この本の、裏表紙側のカバー袖には、第一章のこんな言葉が引かれています。

「ひきこもり」という状態に陥る多様な背景の本質をあえて一つ言い表すとすれば、「沈黙の言語」ということが言えるかもしれない。つまり、ひきこもる人が自らの真情を心に留めて言語化しないことによって、当事者の存在そのものが地域の中に埋もれていくのである。

この「沈黙の言語」という形容には深く頷けるものがあります。「中高年のひきこもり」と大差ないような状態に陥っていた私にとって救いだったのは、ブログやSNSなどにおける発信や非常勤講師として間欠泉的に出て行った学校などでの、自らの思考の言語化だったと思うからです。

その意味では、五年前よりはるかに豊富になっているネットでの発信という選択肢は、この問題に関する処方箋の一つになり得るかもしれないと思いますが、その一方でSNSの空間も最近はかなり荒れてきているようにも思えます(すでに私はTwitterなどから距離を置きつつあります)。また練馬の事件では、父親の手で殺害されてしまった息子がSNSでかなり頻繁に発信をしていたという報道にも接しました。

この本では「ひきこもり」に対するさまざまな支援の試みも多数紹介されています。私自身、この問題に対してどんなアプローチができるのか、それも自分が今身を置いている教育現場に関連して何ができるのかを考えている最中ですが、少なくともこれは特殊な人たちの特殊な問題ではなく、誰の身にも降りかかる問題なのだという視点だけは忘れないようにしたいと思ったのでした。そしてまた、今後さらに歳を取って働けなくなった、あるいは働きにくくなったときに自ら直面せざるを得ない問題ともリンクしているのではないか、そう思っているのです。

カネ目当てに留学生を集めているんだろうと言われて

今朝の東京新聞に、千人以上の留学生が所在不明で問題になっている東京福祉大学の記事が乗っていました。

www.tokyo-np.co.jp

元教員は「研究生を無制限に集めた上、教室や教員を整備しなかった。大学は学費目当てで、金もうけしか考えていなかった」と証言し、就労目的で在留資格を得ようとする外国人と、少子化で経営難に陥りつつある学校法人の思惑が一致した結果のようです。この学校は「残った学生に対し、名古屋にある系列の専門学校への進学を勧める」そうで、その理由をこの元教員は「また二年間、学費を吸い取れるから……」としています。しかもこの系列の専門学校は東京新聞の取材に対して定員超過が常態化していたことを認め「各地の日本語学校からの受け入れ要請を断り切れなかった」と釈明しているとのこと。

私は現在、多数の外国人留学生が学ぶ専門学校や日本語学校に奉職しています。もちろん私が勤めている学校はいずれもきちんと入学試験や入学に際しての選考を行い、カリキュラムもきちんとしていますし、留学生自身もみな真面目な方ばかりです(なかには少々「ご遊学」的な方も散見されますが)。それでも、この記事を読んで少なからず胸が痛み、いろいろと考えるところがありました。

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https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_52.html

先日、私の勤めている専門学校の授業の一環で長野県に行ってきました。学校の研修施設が山の中腹にあって、そこでお互いに親睦を深めるとともに、観光通訳などに関する学習を行うのです。周囲は森あり湖ありでとても風光明媚な場所ですが、ここには私、苦い思い出があります。それは二年前にここで、留学生のひとりが夜に深酒をして急性アルコール中毒に陥り、救急車で搬送されたことです。私が救急車を呼んで病院まで付き添い、徹夜で対応しましたが、お医者さんからは「引率の先生がついていて何をしていたんだ」と厳しく叱責されました。

誠にその通りで、返す言葉もありません。その後私は、万が一の時のためにと消防署の救命講習を受けて、人工呼吸やAEDの使用方法などを学びましたが、これとて急性アルコール中毒に対応できるものではありません。留学生はもうみなさん一人一人が大人ですから、本来なら自分で自分を律してほしいところです。でもそこはそれ、留学生のみなさんはまだ若いですし、学校としても全て自己責任で済ますわけにもいきません。

qianchong.hatenablog.com

二年前に救急搬送された際、お医者さんから上述の叱責の他にもうひとつ言われたことがあります。

あんたらどうせ、留学生をだまして大勢集めてカネを吸い上げてるだけなんだろ。留学生の命なんて何とも思っていないんだろ。

あまりの暴言ですが、私は「そんな学校ではありません」と返すのが精一杯でした。ひとつにはこんな夜中(午前二時ごろでした)に、本来は地元の人のためにスタンバイしている救急車と救急隊に出動して頂いたことや、当直とはいえ夜中にたたき起こされたお医者さんに対して本当に申し訳なかったから。そして昨今、上述のような悪質な日本語学校や大学などが、留学生を集めるだけ集めてろくな授業をしていなかったなどの事例がマスコミで報道されており、たぶんこのお医者さんもそうした報道に接していらしての言だろうと想像したからです。

というわけで私は、それ以降の合宿に際してはちょっとしつこいかなと思うくらい留学生のみなさんに対して注意喚起をしてきました。かつて私が中国で留学していた大学では、私たちの何年か後に留学してきた日本人が厳冬期にキャンパス内の池に張った氷の上で遊んでいて氷が割れ、そのまま亡くなるという痛ましい事故がありました(私はテレビニュースで知りました)。あえてその例も引いて「日本で客死するなんてことがあれば、みなさんのご家族の悲しみも計り知れません」と毎回「重い話」をしてきたのです。その甲斐あってか、ここ二年間はみなさん深酒もせず、とても「健康的」に合宿を過ごして下さっています。

もちろんうちの学校は、不法残留などの問題についても非常に厳しく対処していて、出席率などの管理も厳格です。ですから上述の東京福祉大学の問題と同列に語るつもりは全くないのですが、それでも日々留学生と接している一教員として、学校経営と教学内容のバランスについてはなお一層自覚と内省が必要だなと思ったのでした。

フィンランド語 39 …過去完了形

現在完了形に引き続いて、「過去完了形」を学びました。現在完了形は「olla動詞+過去分詞」でしたが、過去完了形は「olla動詞の過去形+過去分詞」です。

■過去完了形の肯定

Minä olin
Sinä olit   +過去分詞(単数)
Hän oli

Me olimme
Te olitte   +過去分詞(複数)
He olivat

■過去完了形の否定

Minä en ollut
Sinä et ollut   +過去分詞(単数)
Hän ei ollut

Me emme olleet
Te ette olleet   +過去分詞(複数)
He eivät olleet

肯定は現在完了形のolla動詞が過去形になっただけで分かりやすいですが、否定は「否定辞+olla動詞の過去分詞」なんですね。

Minä olin opiskellut kaksi vuotta suomea.
私は二年フィンランド語を勉強したことがあった。

なるほど、過去完了形で言うと、過去の一時期に二年間勉強したことがある(今はしていない)というニュアンスになるのかな。これが現在完了形だと二年間勉強したところだ(これからもする)というニュアンスになると。

中国語ではこのあたりをこう言い分けます。

我學過兩年芬蘭語。/我學芬蘭語學了兩年。
私はフィンランド語を二年学びました(今も学んでいるかどうかは不明。“曾經(かつて)”などを入れるとほぼ過去完了になる)。
我學芬蘭語學了兩年了。
私はフィンランド語を二年学びました(おそらくこれからも学び続ける)。

過去完了か現在完了かは、たったひとつの助詞“了”の有無によって決まっています。中国語の母語話者でもこの辺りを正確に解説できる方は少ないみたいです。いずれにしても、フィンランド語も中国語も、というかあらゆる外語を学ぶときには、いったん母語(私の場合は日本語)の言い回しや考え方から離れてその言語の世界観に身を委ねる必要がありますね。それがまたアイデンティティを揺さぶられるような感覚でとても面白いのですが。

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Minä olin käynyt Suomessa.

井上陽水英訳詞集

ロバート・キャンベル氏の『井上陽水英訳詞集』を読みました。書店でたまたま手に取ったのですが、歌詞の原文とその対訳が収められているだけの訳詞集ではなく、翻訳を行う際にキャンベル氏が日本語と英語の間を何度も行き来しながらその言葉の森に分け入って行ったプロセスがつぶさに語られていて、一種の翻訳論になっています。一読、翻訳とはかくも繊細で奥深いものであるのかと改めて驚嘆せざるを得ません。翻訳に興味のある方にもお勧めの一冊です。

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井上陽水英訳詞集

文学の翻訳、とりわけ詩歌の翻訳はもっとも難しい、いや、ほとんど不可能だとされています。それはその言語でしか表現できず、その言語の母語話者でしか受け取ることのできない世界の切り取り方がもっとも繊細な形で表れており、さらに韻が踏まれ、掛詞が使われ、暗喩や隠喩が用いられ、音楽に乗せるための省略が行われるなど、そもそも他の言語に極めて翻訳しにくい要素もたくさん盛り込まれているからです。

井上陽水氏の歌詞に限らず、日本語では主語や主体が曖昧にされることが多く、その一方で英語は、主語はもちろん、単数や複数、性別までも明らかにしなければ文章が成立しにくい言語です。でもキャンベル氏は、だからこそ英語のフィルターを通して、原文の日本語に潜む深い意味を検証し直すことができるかもしれないと、この一見無謀にも思える試みを続け、合計50曲の歌詞を英訳するのです。

英訳のプロセスを細かく説明するその時々に、当の井上陽水氏と行われた対談が差し挟まれているのも面白いです(FMラジオでの対談だったそう)。キャンベル氏の質問に井上氏が改めて自身の歌詞の意味を再検討したり、時には明確に「そういう意味ではない」と解釈を訂正したり……近世・近代日本文学というご自身の専門知識を総動員しながら歌詞と格闘するキャンベル氏もさることながら、ここまで繊細に歌詞を紡ぎ、それを音楽に乗せて少なからぬ名作やヒット曲をいくつも世に送り出している井上氏のすごさにも驚きました。

個人的には、文中の英語の横にカタカナでルビを振ってあるのが面白いと思いました。ふだん、縦書きの日本語に英語の文章が挿入されると、その頭を右側に90度傾けた英文が読みにくくて読書のリズムが狂うのですが、この本では例えば「You too my love —— a rain check.」という英文の横に「ユー トゥ マイ ラブ —— ア レイン チェック」などと縦書きでカタカナのルビが添えられているのです。

必ずしも原音を忠実に表せるわけではないカタカナをあえて添えたのは、少しでも日本の(日本語母語話者の)読者に英語の味わいを分かってもらいたいというキャンベル氏の願いからでしょうか。確かに、使われている英単語は比較的シンプルなものばかりですから、カタカナの音として脳内に響けば(人は黙読している時でも脳内に音を響かせているものです)それだけ訳詞の世界に入り込みやすいような気がします。

この本は、キャンベル氏が大病を得て入院されていた折に、死のリスクと隣り合わせの病床で続けた翻訳をもとに出版されたそうです。そして出版に先立つ昨年、氏はご自身のブログで、自民党衆院議員が性的指向性自認のことを「趣味みたいなもの」と発言したことを受けて「20年近く同性である一人のパートナーと日々を共にして来た」と公表されたのでした。

robertcampbell.jp

この訳詞集には、キャンベル氏が若き日に日本文学を志し、日本での様々な局面の折々に井上陽水氏の楽曲が共にあったことも綴られています。これは単なる想像ですが、病床でご自身の来し方行く末を考え、かけがえのないパートナーの存在を見つめ直したからこそ、あの公表があったのかもしれません。この本の「はじめに」に添えられた献辞にも、パートナーのお名前が入っています。それ自体とても素敵なことですし、そうした思索や葛藤のプロセスをも追体験させてくれる本書は、井上陽水氏の歌詞同様、優れた文学の名にふさわしいと思います。

一般向け医療本に登場する扇情的なイメージについて

私は十代の頃から「アトピー」に悩まされてきました。幸い症状はそれほど重くなく、現在では外見的にはほとんどアトピー性皮膚炎を発症しているようには見えませんが、それでもときどき痒みや皮膚の炎症がひどくなることがあって、この状態が雲散霧消したらどんなに爽快だろうなあ、と夢想することがあります。

アトピー、もっと広くアレルギーの原因は、基本的には食べ物の中に含まれる「アレルゲン」だとされているので、若い頃から食事にはとても気を使ってきました。基本的に外食をあまりせず、三食を自分で作って食べていますし、間食はほとんどしません。ジャンクフードの類いも食べませんし、マクドナルドに代表されるファストフード店も、記憶にある限りここ十数年は利用したことがありません。

それでも症状は軽いとはいえ「完治」にはほど遠いので、食事に気を使う一方で様々な生活習慣の見直しも実行してきました。最近では長年どうしても諦めきれなかった「節酒」ができるようになりました。以前は毎日晩酌をしないと一日が終わらなかったのですが、今では数週間まったくお酒を飲まないこともあります。

もっとも、間食をしないのは歳を取って食事の量的にもできなくなったからですし、ジャンクフードを食べないのは歳を取ってその味や油の濃さを身体が受けつけなくなったから、お酒を飲まないというのも歳を取って飲めなくなったからというのが正直なところです。なんだ、結局加齢によって暴飲暴食ができなくなり、その結果アレルゲンの総量が減ってアトピーも多少はなりを潜めたということなんですかね。なんだか悲哀を感じますが。

アトピーにまつわる食事や生活習慣の見直しについては、これまでに無数の書籍も読んできました。試しにAmazonで「アトピー」というキーワードで検索すると、こんなにもたくさんの本が並びます。

www.amazon.co.jp

しかしこうした「アトピー関連本」は、それぞれの著者がそれぞれの論を展開しており、それらが相互にまったく逆のことを主張していたり、日常生活では実行不可能に近いほど細かな指示がなされていたりします。その一方で、これが決定版で究極かつ最良の方法だ! と謳われていて、本の中から光が差すような、読んでいて妙な高揚感をもたらすようなものも多いです。「グレートリセット」にも似た一種の爽快感があるんですね。

これは「めいろま」こと谷本真由美氏がおっしゃるところの「キャリアポルノ」、つまり読んでいるだけで何か世界の真理をつかんだかのような「明日からの俺ってスゴい」感を煽ってもらえる(でも実際の行動にはなかなか繋がらない)自己啓発本の読書感と似ています。それでも、頑固な症状に身も心も疲れ果てて、そこに光明を見いだす気持ちは私も痛いほど分かります。これはひとりアトピーに留まらず、全ての疾患に関する医療本・健康関連本に共通するのかもしれません。

しかし私はこうした書籍に数限りなく接してきたおかげで(?)、以前よりはもう少し冷静に、自分の高揚感を抑えつつ読むことができるようになりました。要するに「いいところだけ頂戴」し、眉につばをつけて読むのを忘れないということです。イヤな読者ですね。今回も、上記のAmazonで「アマゾンのお勧め商品」トップになっているこの本を買って読んでみました。

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油を断てばアトピーはここまで治る―どんなに重い症状でも家庭で簡単に治せる!

この本は長年の臨床研究の成果から、アトピーの主原因が「植物油」や高カロリー食品の摂りすぎであるとして、それらを抑えつつ家庭で治療を行う方法が記されています。全年代を対象にしていますが、特に小さな「アトピっ子」をお持ちの親御さん向けに書かれているという印象です。全体的には高カロリーで脂質の多い洋風の食事から伝統的な和食へのシフトを促すもので、その点では常識的で首肯できる部分も多く、個人的にもこれまでの経験から植物油やバターなどを多く摂取するとアトピーが悪化するという実感があったので、興味を持って読みました。

しかし例えば「キッチンの換気扇のような『油汚れ』が体の中にも」と題された章には、こんな記述があります。

あなたのキッチンの換気扇には、油汚れがべっとりついていませんか?
油を使った料理を多くする家庭の換気扇ほど油汚れがしみついています。このような油汚れが体の中の細い血管や内臓に沈着していく様子を想像してみてください。つまり換気扇が油べっとりならば、体の中にも同じように油がべっとりと溜まるのです。それだけでも、体に悪いということは容易に分かると思います。
(24ページ、太字は原著のまま)

これはどうでしょう。例えば脂肪の多い食事から脂質異常を起こし、血管壁の中にコレステロールがたまるような状態を比喩していると受け取ってもよいのですが、換気扇の油汚れと体内に取り込まれた脂質を一緒くたにするのは、消化や吸収のメカニズムからいってもかなり非科学的ではないかと思います。この本には他にも「『1週間に2個以上の卵』は、消化しきれずにヘドロになる」というようなやや突飛な表現が散見され、一般向けの医療本だからわかりやすい比喩を用いたのかもしれませんが、一歩引いて受け取らざるを得ません。

私は、こうした俗耳に入りやすい扇情的な表現にはどうしても一定の留保をつけてしまいます。尾籠なお話で恐縮ですが、以前「宿便」という言葉がもてはやされたことがありました(今でも一部で使われているかな?)。「排出されないで大腸や直腸内に長い間たまっている大便」で、とりわけ腸壁にこびりついて長年滞留し、それが各種疾患の原因になっており、断食療法などでそれを排出することができるとされていました。実際に断食療法をすると、数日で明らかに異様な便が排出される、これが宿便だ……というような。

私も一時期はこのイメージに「ハマって」、断食道場に通おうかしらなどと考えたこともあります。でもこれ、一般的に「便秘」と呼ばれている状態はさておき、腸壁にこびりつくといったイメージの便は存在しないらしいんですね。腸壁は不断に活動し、粘液の分泌や消化吸収を行っているからで、医学的にはほぼ否定されているようです。

www.google.co.jp

私は一度大腸の内視鏡検査を行ったことがあるのですが、その時に見た映像は衝撃的でした。なぜって、私の大腸の内壁は、まるで赤ちゃんの肌のようにツヤツヤでツルツルだったからです。腸と、例えば下水管などのパイプを一緒くたに考えることはできないのです。それは分かりやすくはあるけれど、非科学的です。扇情的なイメージで空想することの愚かさを知りました。

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https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_89.html

もともとこうした一般向け医療本のマーケット自体が扇情的なのだともいえるかもしれません。だからこそ類書がこんなに多数出版され、商売として成り立っているわけです。でも私は、疾患に悩む人たちを手玉に取るような表現はするべきではないと思っています。結局はひとりひとりが、こうした情報に右往左往することなく、地道に食生活や生活習慣の改善を行っていくしかないんでしょうね。

荷重よりも正しいフォーム

昨日ジムのパーソナルトレーニングで上半身の運動を見てもらっていたら、トレーナーさんから「肩甲骨がよく動きますね。気持ち悪いくらいですね」と変なほめ方をされました。でも確かに、最近は肩甲骨をぐっと背中の中心方向に寄せることができるようになったのです。そのうち鉛筆でも挟めるようになるかもしれません。

もともと私は、長い間慢性的な肩凝りに悩まされていて、あまりに肩が痛いので夜中に痛みで目が覚めてしまうほどでした。それで一年半ほど前から肩凝りや腰痛、それに不定愁訴の改善を目指して、体幹の強化を中心にしたパーソナルトレーニングに通い出すも、最初はまったくといっていいほど肩甲骨が動きませんでした。トレーナーさんに「全然動いていませんね」と言われたのを覚えています。

それがトレーニングを継続するうちに徐々に動かせるようになり、今ではトレーナーさんが肩甲骨に手を添えてサポートしてくれなくても、自分で肩甲骨が動いているのを自覚できるようになりました。そして肩凝りとはほぼ無縁の生活になりました。いまでも長時間デスクワークなどをしていると肩が凝ってきますが、数分ほど肩甲骨を動かしたりストレッチをしたりすればすぐに解消します。

以前は肩凝りがひどくなると整体やカイロプラクティック、あるいは「クイックマッサージ」みたいなサービスを利用していたのですが、あまり効果はありませんでした。やはりこうした身体の不調は自分から能動的に動かしてこそ改善できるのかもしれません。整体やマッサージもその時は気持ちいいですが、畢竟受け身で他人任せなんですよね。もちろん自分ひとりでは調整できない部位もありますが、肩凝りや腰痛はかなりの部分を自分で、自律的に調整して直すことができる——それが分かっただけでもかなり気持ちが楽になりました。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_324.html

肩甲骨が動かせることは、肩凝り予防だけでなく筋トレにも効果を発揮します。例えばベンチプレスなど大胸筋を鍛えようとする場合でも、あらかじめ肩甲骨を寄せてから行うと大胸筋により効果的に力を入れることができるようになり、結果腕の力に頼って挙げるよりもより大きい荷重に対応できるようなのです。また肩甲骨を寄せて下げることを意識すると広背筋にも荷重が効くようになって、より上半身の鍛錬に効果的なようです。つまりは「正しいフォーム」でトレーニングしないと、あまり意味がないということです。

これはプロのトレーナーさんに教わったことの中でも一番大切なものだと思います。筋トレは荷重の多寡ではなくて、正しいフォームか否かがポイントなんですね。正しいフォームができた上で荷重が増えていくならいいですけど、間違ったフォームで荷重を増やしてもトレーニングの効果が上がらないし、荷重も増えていかないと。なるほど、だからずっと以前に自己流で筋トレをしていたときには、何年やってもびっくりするほど筋肉がつかなかったんですね。

あるトレーナーさんは「ジムに行くと、やたら荷重の多さを誇るようなマインドがありますよね」とおっしゃっていました。確かにものすごい荷重でマシンを動かしている方がいますが、よく見るとフォーム不在で、単に身体の反動を利用して動かしているだけ、というような方も散見されます。そう、私ごときが非常に偉そうでおこがましいんですけど、ひとさまのフォームを見て「ああ、それでは鍛えたい筋肉に効いていないな」などと分かるようになりました。フォームを考慮せずに荷重の多さばかり追求するのは一種の虚栄心なのかもしれません。以て自戒といたします。