インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フィンランド語 38 …生まれ年と様格

教科書に、生まれた年や場所を聞く会話が出てきました。

Milloin sinä olet syntynyt?
いつあなたは生まれましたか?
Syksyllä, lokakuussa.
秋です。10月です。
Minä vuonna?
何年にですか?
Vuonna 1974.
1974年です。
Missä?
どこで?
Kööpenhaminassa, Tanskassa.
コペンハーゲンです。デンマークです。

最初の質問は、先回学んだ現在完了形です。日本語だと「生まれた」だから過去なんじゃないかと思いますけど、生まれた「過去の経験」が現在まで「継続」しているから現在完了形なんでしょうね。

その次で、季節の「秋(syksy)」が所格の「syksyllä」に、月の「10月(lokakuu)」が内格の「lokakuussa」になっていて、それぞれ違う格を取るんですね。日本語だとどちらも「〜に(秋に/10月に)」となるところです。

その次の「Minä」は人称代名詞の「私(minä)」かと思いきや、疑問詞「何(mikä)」の様格なんだそうです。紛らわしいなあ。様格は「〜のときに」を表す格だそうで、語尾が「-na」、または「-nä」になります。月は内格を取るのに、年は様格を取るのね……覚えるしかありません。ちなみに「年(vuosi)」も様格の「vuonna」になっています。

「1974年」は、英語だと「nineteen seventy four」みたいに「19/74」と分けて言えますけど、日本語だと「せんきゅうひゃくななじゅうよねん」としか言えませんよね。「いち・きゅう・なな・よねんに生まれました」とは普通言わないもの。フィンランド語もそれと同じで、律儀に数字を言わなければならないそうです。しかし「1974」は「tuhatyhdeksänsataaseitsemänkymmentäneljä」と長大です。自分で言うならまだしも、フィンランド人にこれを言われて一発で聴き取れるかしら。

その次の「Missä」は「どこで?」ですけど、きちんと全部言うなら「Missä sinä olet syntynyt ?」なんでしょうね。これも現在完了形です。

授業ではこの他に、誕生日を言う練習もしましたが、月は例えば「9月(syyskuu)」なら「syyskuun」と属格にして「9月の」とすればよいのに対して、日は序数なのでまず序数特有の語幹にして、さらに様格にしなければならないそうです。私は9月24日生まれなのですが、そうすると……

Milloin sinä olet syntynyt ?
いつあなたは生まれましたか(あなたの誕生日は)?
Minä olen syntynyt syyskuun kahdentenakymmenentenäneljäntenä päivänä vuonna tuhatyhdeksänsataakuusikymmentäneljä.
私は1964年9月24日に生まれました。

……となるのですね。さらに長大です。

序数は……

1 ensimmäinen
2 toinen
3 kolmas
4 neljäs
5 viides
6 kuudes
7 seitsemäs
8 kahdeksas
9 yhdeksäs
10 kymmenes
11 yhdestoista
12 kahdestoista
13 kolmastoista ……

……なのですが、このうち「-nen」で終わる序数は語尾の「nen」を「se」に、「-s」で終わる序数は語尾の「s」を「nte」にします。それで「24(kaksikymmentäneljä)」が「kahdentenakymmenentenäneljäntenä」になるわけです。これまた長大です。また11から19の「-toista」は変化させず、例えば「11日」だったら「yhdentenätoista」とするそうです。

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https://www.pakutaso.com/20110452115post-34.html

Missä sinä olet syntynyt ?
Minä olen syntynyt Yokohamassa, Japanissa.

“核心価値”をつかむ通訳訓練

現在複数の学校で通訳のクラスを担当しているのですが、そのうちのひとつは華人留学生が学んでいる専門学校です。この学校の留学生は、ほとんどが日本語学校で日本語を一年から二年ほど学んで入学してくるのですが、通訳訓練を始めてしばらくは、なかなか訳すという作業そのもの、とりわけ口頭で訳すことに慣れないという方が多いです。

翻訳はまだ馴染みがあるのです。これまでにも英語や中国語を学んで、英文中訳や日文中訳などをやってきており、充分に時間をかければなんとか翻訳らしきものを書き上げることはできます(それでも添削する先生から赤ペンがぎっしり入っていますが)。ところが口頭での通訳になると、なかなか慣れない、訳せないという方が多いのです。

いくつか理由は考えられます。

まず、通訳は時間の制限があるので、訳語や訳文をじっくりと吟味している暇がなく、自信が持てずに声が極端に小さくなって、結果的に訳出の体をなさないこと。

そして、メモを取るとはいえ次々に流れては消えていく音声を追いかけるのに必死で、結局メモが取れないとか、一部分しか覚えていないなどで発言全体を再現できないこと。

さらに、これが一番大きいような気がしていますが、これまでは日本語学校でひたすら日本語だけを話すように言われ、母語である中国語をなるべく使わないように言われてきたのに、通訳は双方向なのでむしろ積極的に使わなければならず、その二つの言語をスイッチする感覚自体に戸惑っていること。

というわけで私はまず単語レベルのクイックレスポンスから始めて、二つの言語を行き来する(スイッチする)こと自体に慣れてもらったのち、徐々に短文から長文へ、簡単な内容から複雑な内容へと教材を調整していくようにしています。

それでも、なかなか翻訳や中文日訳での習慣が抜けずに、発話の頭から単語を一つ一つ変換しては組み替えていく……といったやり方しかできない方がかなり多く見られます。クライアントの中にも「通訳者さんって、そんなに素早く単語を変換して組み替えることができるなんてすごいですね」などとおっしゃる方が時々いますが、実は通訳という作業はそういうものではないんですよね。そんな、片っ端から単語を変換して他の言語の語順に組み替えるなんてこと、プロでもできないし、してもいないと思います。

Wikipediaで「通訳」という項目を引いてみると、こんな「定義」が書かれています。

通訳(つうやく、英: interpretation)とは、書記言語ではない二つ以上の異なる言語を使うことが出来る人が、ある言語から異なる言語へと変換することである。
通訳 - Wikipedia

確かに、市販の通訳の教科書などを見てみても、たいがい左側に原文(英語や中国語など)が、右側に訳文(日本語)が載っており、それらを「変換」することが通訳だというコンセプトを見て取ることができます。そうした「変換」をたくさん覚えていけば通訳ができるのではないかと。だから「素早く単語を変換して組み替えることができるなんてすごい」という誤解が生まれるのでしょう。

もちろん固有名詞や数字などであれば一対一の「変換」がなされると考えてよいと思いますが、もっと複雑な発話の内容では単語や文章を言語Aから言語Bにただ「変換」しているわけではなく、もっと大胆なことが行われています。この辺りのことを、数年前に放映された『情熱大陸』というテレビ番組で、英語通訳者の橋本美穂氏が分かりやすく解説されていました。

実際には通訳者にとっては、すごくいろんな動作を瞬時に行わなくてはいけなくて、「リスニング」した音を「理解」しないと意味がないですよね。で、ここ(頭の中)に、今度はイメージをして記憶するんですよ。「イメージ」をするんです。


日本語と英語は語順が逆で、それがゆえにやっぱり、聞こえてきた順番そのまんま文字を変換すれば訳せるのかというと、そうではなくて、この英語というところと日本語という世界の間に非言語地帯がある。「反対派が多い」って言われると、こう「プンプン」ってイメージが強いんだなとか、そういうふうに覚えておきます。

こちらはその番組で用いられていた図解ですが、つまり“I decided to ask my girlfriend to marry me.”という「音」から非言語である「イメージ」を思い描き、その「イメージ」を描写する日本語で語る……それが通訳という作業の営みなのだと。

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この「イメージ」、ないしは言語Aと言語Bの間にある「非言語地帯」という捉え方は、個人的にはとてもしっくりきます。私もそうやって訳しているからですし、またかつて通訳学校で学んだ際にも、恩師の多くが似たようなことをおっしゃっていました。「目の前にイメージを立ち上げ、それを説明するように話す=訳す」だと。

この営みのポイントは「俯瞰」ないしは「鳥瞰」だと私は思っています。例えば下の左側の写真、地上にいれば単なる列柱にしか見えず、その先は行ってみなければどうなっているのか分からない——これは発話の内容を、翻訳と同じように頭から次々に変換して組み替えようとするのと同じです。これを右側の写真のように上空の鳥の目から俯瞰してみると、全体の形が分かります。話の理路、ないしは意図全体が見通せるのです。通訳学校では先生によく「意味ではなく意図を訳すように」と指示されましたが、きっと同じことなのだろうと考えています。

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初心者は俯瞰ができず、いきおい聞こえてきた単語を片っ端から変換してつなぎ合わせようとする。だからたいがいそんなアクロバットが続かなくなって、発話の後半がごっそり抜け落ちるなんてことがよく起こります。ポイントは、慌てず騒がず発話全体を「俯瞰」して、その「意図」するところを別の言語で語る……ということなのですね。

とはいえ、“說起來容易做起來難(言うは易く行うは難し)”。そうした俯瞰の技術をどのように身につければよいのでしょうか。ひとつは「サマライズ」と呼ばれる要約訓練(例えば五分ほどのまとまった内容の音声をメモを取りながら聞き、それを一分に圧縮して話すなど)が有効だと思いますが、私が初学段階の華人留学生と一緒にやっているのは「その発話の“核心価値”を表す単語やフレーズをひとつだけ選ぼう!」というタスクです。

通訳における発話は次々に耳に届くので、アレも訳さねばコレも訳さねばとパニックになったあげくフリーズ……という方が多いので、まずは一言だけ、今聞こえてきた発話の中で一番言いたいことは何か、その単語かフレーズだけを訳すという練習です。例えば……

关于贵方提出的访问N公司的要求,由于该公司方面有关负责人正在国外出差,所以这次代表团逗留期间很难安排前去参观。

……という発話*1があったとして、この中で一番言いたいこと(発話者の最大の意図)は何でしょう。

いろいろな捉え方が考えられますが、私だったら“很难安排”を選びます。「手配できない」と言いたいのです。そこから「何が手配できないの?→N社への訪問が」、「なぜ?→担当者が出張中だから」と情報が膨らんでいきます。実際のところ、上記の発話を「担当者が出張中なのでN社への訪問は手配できません」と訳せば、完璧にはほど遠いものの最低限の情報伝達はできており、100点満点で60点くらいは獲得できると思います。もちろんもっと細かい情報を織り込むことができればプロの訳出に近づいていくわけですが。

こうやって、通訳を学び始めたばかりの華人留学生のみなさんには「まずは頭から全部訳そうと思わず、“核心価値”をつかんで、それだけを訳してください」と伝えています。そうやって「俯瞰」の感覚を養ってもらった上でさらに精確な訳出へと少しずつステップアップして行くのです。今のところ、最初はこうやってハードルを思い切り下げることで(とはいえ“核心価値”を的確につかむのは高い言語能力が必要ですが)過度に緊張することなく訓練に取り組めているような気がします。

フィンランド語 37 …現在完了形

前回、過去形の否定で「過去分詞」を学びましたが、この過去分詞を使って「現在完了形」を表現することができます。過去形の否定は「否定辞(en〜eivät)+過去分詞」でしたが、現在完了形は「olla動詞+過去分詞」です。

■現在完了形の肯定

Minä olen
Sinä olet   +過去分詞(単数)
Hän on

Me olemme
Te olette   +過去分詞(複数)
He ovat

■現在完了形の否定

Minä en ole
Sinä et ole   +過去分詞(単数)
Hän ei ole

Me emme ole
Te ette ole   +過去分詞(複数)
He eivät ole

現在完了形は「(現在までの)継続」のほかに「(過去の)経験」も表すそうです。これは何となく過去形と混同しそうな雰囲気がありますね。

Minä olen opiskellut kaksi vuotta suomea.
私は二年フィンランド語を勉強しています(継続)。
※過去の一時期勉強したことがある場合には過去完了形を使うそうです。
Me olemme opiskelleet kaksi vuotta suomea.
私たちは二年フィンランド語を勉強しています(継続)。


Minä olen käynyt Suomessa monta kertaa.
私たちはフィンランドを何度も訪れたことがあります(経験)。
Me olemme käyneet Suomessa monta kertaa.
私たちはフィンランドを何度も訪れたことがあります(経験)。

過去分詞は「kpt」の変化がないので比較的簡単ですが、いざ作文しようとすると目的語の格をきちんと変化させるのがやはり難しいです。

Minä olen lukenut tämän kirjan kolme kertaa.
私はこの本を三回読んだことがあります。
※ lukea は k が消えるなどの面倒な変化がありませんが、目的語は「この(一冊の)本」ということで、tämä kirja を属格にしなければなりません。


Minä en ole lukenut tätä kirjaa.
私はこの本を読んだことがありません。
※否定文なので、目的語の tämä kirja を分格にしなければなりません。

また日本語で「風邪を引きました」とか「治りました」などというと、つい過去形で言いたくなってしまいますが、これらは「風邪を引いている状態の継続」や「治った状態の継続」と捉えて現在完了形で表現されるそうです。

(Minä) olen vilustunut.
風邪を引きました。


(Minä) olen parantunut.
治りました。

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Kuinka paljon sinä olet opiskellut suomea ?
Minä olen opiskellut suomea noin puolitoista vuotta.

安易に飛びつきやすい雑駁な切り口

先日、中国四川省成都で開催されたサッカーの国際ユース大会「パンダ・カップ2019」。優勝したU-18韓国代表選手の、地面に置かれた優勝トロフィーに片足を乗せて高笑いする写真が拡散して大炎上、という「事件」がありました。

www.asahi.com

韓国チーム側は全面的に謝罪したものの、中国の大会組織委員会は優勝トロフィーの回収を決定、さらには中国サッカー協会アジアサッカー連盟に上訴を決定したと伝えられるなど、その余波はまだ続いています。

ところで、私が最初にこのニュースに接した時、そのあまりに非礼な行為に「これはいくら何でも……」と思い、その後すぐになぜこんな行為をしてしまうのかという「理由探し」に移りました。常軌を逸した行動を目の当たりにしたとき、人はその自分の耳や目を疑うような行為に対して何か合理的な理由を探したがります。そうやって自分のモヤモヤした不安定な心を落ち着かせようとするのかもしれません。

この「トロフィー踏みつけ」が単なる若気の至りなのか、韓国の若者に社会的モラルの欠如みたいな傾向があるのか、はたまたスポーツ選手に特有の現象なのか、中国と韓国の二国間関係とそれに絡む国民感情が影響しているのか……色々と考える切り口はあると思うのですが、こういうときに一番安易に飛びつきやすい理由のひとつが「韓国人の民度」とか「韓国人の国民性」みたいな雑駁な切り口です。

案の定、事件直後のTwitterではこのニュースに続くリプライやリツイートのほとんどがそうしたヘイトスピーチで埋め尽くされていました。さらには「だから韓国とは断交だ」みたいな、接続詞「だから」を論理の極端な飛躍に用いるツイートも散見されました。世の中には個別具体的な一つ一つの事例や個人的な感慨をすぐに国家大や地球大に拡大・膨張させて語っちゃう輩が数多く存在しますが、今回も同じような人々があまた出現していました。

マスコミの報道も、事件のあらましと中国側の激怒、韓国側の謝罪、国際社会の反応などを簡潔に記したものばかりで、様々な切り口から分析しているものはほとんど見当たりませんでした。経緯だけを簡潔に記すのはニュースの初動としてはよいと思うのですが、その後に多様な分析がなされなければ結局「韓国はとんでもない」といったイメージやニュアンスだけが残り、それは既に存在するヘイトスピーチをさらに補強するだけなのではないかと危惧していたのです。

ニュースの初動で唯一違う切り口を提供していたのは、「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔氏がTwitterに書き込んだ「『だから韓国は』ってすぐに韓国批判にすり替えるやついるけどただの無自覚で調子に乗っちゃった子供の話。自分のイデオロギーに、その国の子供の失敗を利用しちゃダメよ」という警句だけでした。私もこうしたすり替えには注意しなければならないと思って、大いに共感しました。

headlines.yahoo.co.jp

この事件に関しては、数日後に韓国のメディアが「トロフィー踏みつけ」は侮辱というよりは大会を制覇したという気持ちの表れではないかといった趣旨の報道をしています(同僚の韓国人講師に教えていただきました)。日本のメディアでも紹介され始めています。

bit.ly
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なるほど、こうしてみるとトロフィーを足蹴にする行為はある種の「偽悪的なかっこよさ」を演出するパフォーマンスにも見えてきます。私自身は、それでもかなり下品な行為だと思いますけど、そういう下品な行為がカッコいい、悪ぶってみせるのがカッコいいという一種のノリは確かにありますよね。ネットの動画サイトで炎上した例えば「おでんつんつん」や「コンビニの冷蔵庫に寝そべるアルバイト」などに代表されるイタい行為と通底するものがあるというか。

ひょっとすると韓国ユースの選手たちは、こうした海外のサッカー選手がトロフィーに足をかけた写真を見たことがあって、そこにある種のカッコよさを見いだして真似してみたのかもしれません。それが国際大会の、衆人環視の中での表彰式においてふさわしいかどうかにまでは思いが至らなかったのはまさに若気の至りですが、多くのメディアが報じていたような政治的・歴史的な、あるいは民族感情的な背景「すらなかった」というのがホントのところではないかと思いました。

いずれにしても、我々はこの件に関しては第三者なのですから「それ見たことか」みたいな反応だけに留まるのではなく、様々な切り口を考えてみることが大切だと感じました。

私が最初にこのニュースに接した時の「これはいくら何でも……」という感慨は、正直に言って頭に血が上るような奇妙な「高揚感(?)」とともにありました。そんなときに例えばTwitterなどで扇情的な意見ばかりに接していると、そこから「韓国人の民度」とか「韓国人の国民性」への飛躍ないしは膨張、あるいは「断交だ!」みたいなバカな発言(だって実際に断交したら、経済的な混乱は計り知れず、自分の暮らしも大打撃を被ります。そんなことにすら想像が及ばないのですからバカとしか言いようがありません)まではほんの数歩の距離です。

1937年の盧溝橋事件(七七事変)に端を発する日中戦争は、その後近衛文麿首相の「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとるの已むなきに至れり」という声明によって泥沼の状態、さらには太平洋戦争へと繋がっていきました。村本大輔氏がおっしゃるように、自分のイデオロギー、それも短絡短見の雑駁な感情論を一気に膨張させるものいいに慣れきっていると、「暴戻(乱暴で道理がないこと)を膺懲(懲らしめる)」的な煽動にもすぐに乗ってしまうのではないか。そう自分を戒めた次第です。

ステージがひとつ上がった感覚

年に一度の温習会は無事に終わりました。私はなぜか「トリ」を勤めることになっていて舞囃子の「枕慈童」を舞ったのですが、それまでお弟子さんたちはみなさん立派に舞っておられて、私が最後に大失敗でもしてぶち壊したらどうしよう……とかなり緊張しました。

それに会の一番最初に連吟で「賀茂」を謡ってから、最後に舞囃子を舞うまで、まるまる一日気が抜けないという貴重な(?)体験もしました。本当にうちのお師匠は、さりげなくハードルをあげてくるのがお上手です。

それでも本番直前は、自分でも不思議なほど緊張が抜けていくのが分かりました。これはひとえに、その前に何度もお稽古をして「大丈夫、絶対に失敗しないはず」と思えるまでになっていたからかもしれません。稽古の量に勝る安心材料はないですね、ホントに。直前に学校の合宿などがあって申し合わせ(リハーサル)にも参加できなかったのですが、合宿の行き帰りのバスで謡をこっそり練習したりして(仕事中なのに)何とか間に合わせました。

それにお師匠が私の代わりに申し合わせで舞ってくださった「枕慈童」のビデオを送ってくださったのですが、直前に何度も見たこのビデオでかなり「開眼」したところがありました。それはそれぞれの型の寸法だったり、地謡の詞章と型とのタイミングだったり、緩急の具合だったりするのですが、これまでお稽古でも何度も指摘されてきたいくつかのことが、ふっとパズルのピースが嵌まるように腑に落ちたのです。

中国語に“大開眼界(dàkāi yǎnjiè)”という言葉があって、辞書的には「視野を広げる」とか「見識を広げる」という意味なのですが、私の語感ではもう少し深くて「大いに目を見開かせられる」とか「新たな気づきを得る」という感じがします。目の前に新しい風景が広がったような一種の爽快感なんですね。

お能の世界は奥が深すぎるくらい深くて、単なる趣味で月に二回程度お稽古しているだけの私に見えている風景はほんの小さなものですが、それでもこうやって何年も続けてくると、それなりに気づくことも増えてくるのだなと思いました。ゲームのステージがひとつ上がったような感じといえば分かって頂けるでしょうか(私はゲームなんてほとんどやらないけど)。

舞囃子「枕慈童」に出てくる舞は「樂(がく)」といって、中国物のお能によく登場する中国風(というか室町時代の人々が空想した中国の雰囲気)の舞なのですが、お囃子の太鼓が規則的なリズムを刻む中で最初はごくごくゆっくりと、それが徐々に徐々ににテンポを上げていく、個人的にはまるで滔々とした大河の流れを見ているような雰囲気を持っています。その名の通り「楽」しんで舞うことができました。お師匠とお囃子や地謡を勤めてくださった玄人の先生方、それに地謡に参加してくださったお稽古仲間のみなさんに心から感謝申し上げます。

ささやかながら役目を果たして、なんだかもう「オレの夏は終わった」という感じです。これからどんどん暑くなるんですけどね。

追記

仕舞や舞囃子では、お師匠がその曲に合った扇を貸してくださいます。昨日の舞囃子「枕慈童」では、この美しい菊水の扇をお借りしました。

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「枕慈童(菊慈童)」の主人公は慈童という不思議な少年です。古代中国で皇帝の枕をまたいだために山中へ流刑となりましたが、お経を書いた菊の葉に溜まった露が不老不死の霊水となり、その水を飲んで山中で七百年間も生きてきたというお話。長寿を寿ぐおめでたい曲で、重陽の節句とも関係しているそうですが、反面「死ぬに死ねない」わけですからどこかに憂いというか悲しみをも湛えた、なかなか味わい深い曲です。

この扇は「枕慈童」の詞章に出てくる菊水を意匠化したものらしいのですが、菊水と聞いて本番前にもかかわらず「日本酒の『菊水』って、ひょっとしてこれが由来じゃないの?」と初めて気づきました。うちに帰ってネットで調べてみたら果たしてその通りでした。

www.kikusui-sake.com

後味の悪い出来事

先日、東急東横店の地下にある「フードショー」で特売のお刺身を物色していたら、突然シャワーの水が飛んできました。ちょうど私の目の前のガラス戸が開いており、奥(バックヤード)で洗い物をしていた店員さんの手が滑ったようなのです。眼鏡に水滴がたくさんつき、上半身のポロシャツがまだら模様になりました。

びっくりして奥を見ると、女性の店員さんがシャワーを手に、すまさそうな顔ないしは苦笑いのような顔で「会釈」していました。私は思わず「ヒドくない? 謝ってよ」と言ってしまいました。言ってから気づいたのですが、その店員さんは外国人労働者のようでした。近くにいた主任らしき人が飛んできて「大変申し訳ありません」と何度も謝るので「もういいです」となったのですが、この些細な出来事について後からいろいろと反芻しました(反芻ばかりしていて、まるで牛です)。

もし私があの店員さんの立場だったら、どう対応したでしょう。とにもかくにもまずバックヤードから飛び出て客の目の前に行き、深々と頭を下げるでしょうか。故意に水をかけたわけではないけれども、悪いのは自分ですから。でも、あの店員さんは苦笑いに会釈程度だった。だから私は思わず「謝ってよ」とキレてしまった。

しかしひょっとすると、水をかけた相手が私のような「こわもての、おあ兄さん」だったから、彼女は謝罪すらできず竦んでしまったのかもしれません。あるいは敬語や丁寧語を含んだ、ネイティブ・スピーカーを納得させられるレベルの謝罪の言葉を紡ぎ出せるほど日本語が達者ではなかったのかもしれません。さらには、彼女にとってはほんの少し水がかかった程度で実害はほぼゼロなのに、何をこの客は怒っているのだろうと不可解だったのかもしれません。

こういう場面では私は、まずはとにかく平謝りして誠意を示すのが最良の解決方法だと考えると思います。飛んできた主任らしき日本人店員さんも平謝りでした。でも、そうした価値観(?)を共有していない、あるいは理解できないという異文化の人もいるでしょう。またこれが地元の魚屋さんでちょっと水が跳ねて「おっとごめんなさいね」と言われれば私もスルーするところが、デパ地下という少々お高くとまった場所であったため「誠意がない」ことにことさら腹を立ててしまったのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2017/08/blog-post_82.html

私は以前、このブログで、コンビニで働く外国人労働者の日本語がほんの少し拙いだけでも「日本人に代われ」とか「働く以上きちんとした日本語を話せ」などと罵声を浴びせる日本人について批判したことがあります。

qianchong.hatenablog.com

今回の私の立腹を、日本人と同じレベルの誠意を見せろと求めたと考えれば、こうした「働く以上きちんとした……」というスタンスと同じようなものかもしれないと思いました。

それに、私に水をかけたあの店員さんはたぶんアルバイトだと思いますが、その低賃金が批判されて久しいアルバイトであれば、主任さん(たぶん正社員でしょう)と同じような対応を望むのは無理筋かもしれません。ご本人にもそんなインセンティブは働かないでしょう。私は海外でスーパーやコンビニやデパ地下(に類する売り場)を利用したことが何度もありますが、正直に申し上げておおむね「それなり」の接客態度です。むしろ日本が異質なくらいで。

政府が外国人労働者の大量受け入れ、それも単純労働のそれを積極的に推し進めようとしている現在、こうした出来事は今後あちこちで起こるのかもしれません。雇用に際して日本人的なメンタリティを教育するのか、それとも私たちの方がもっと鷹揚に構えるべく変わっていくべきなのか、ほんの些細な出来事ですけど、色々と考えさせられたのでした。

……しかし、まず恥ずべきは私の短気でしょうか。一張羅を着て結婚式の披露宴にでも向かっていたのならともかく、ポロシャツにジーンズ姿で少しくらい水がかかってもね。何とも後味の悪い出来事でした。

舞囃子の申し合わせ

趣味で続けている能の温習会(発表会)が間近に迫り、昨日は「申し合わせ」がありました。申し合わせというのは、本番の前日や前々日あたりに実際に能舞台でお囃子や地謡の方々も参加した上で、ひととおり舞ってみることをいいます。リハーサルのようなものですが、通常の演劇で行われるリハーサルやゲネプロとはちょっと違う感じがします。

通常の演劇では、通し稽古を何度も行って公演本番に近づけていくものだと思いますが、能では本番直前に一度この申し合わせを行うだけなのだそうです。それも全体をざっと確認するといった感じで、なおかつ申し合わせでも本番でも、舞台へ上がる前に入念に柔軟体操や発声練習をするということもないようなのです。

これは演劇としてはかなり特異なありようです。つまり玄人(プロ)の能楽師のみなさんは、普段から稽古を充分に積んでいて、いつでも一度限りの舞台にその芸を載せて、他の演者と同期でき、しかるべき達成を実現できるということなのでしょう。ちなみに能楽の公演は通常その一日の一回のみで、連日公演とか、マチネとソワレとか、他の演劇なら当然(歌舞伎だってそうですよね)の上演方式を採りません。

素人の私たちも、温習会の本番直前に一回だけ、お囃子や地謡をつとめてくださる能楽師の先生方や稽古のお仲間と一緒に「申し合わせ」を行います。ホントは何度もやりたいところですけど、それはもう日頃のお稽古で積み重ねておいてくださいということなんですね。今回の温習会にあたっても、その申し合わせが昨日ありました。ところが……私は出張でどうしても都合がつかず、参加することができませんでした。一期一会の舞台の、たった一度だけのチャンスだというのに。

実は私、申し合わせの日時を一日まちがえて、仕事が入っていない土曜日だと勘違いしていたのです。それに気づいたのが先週のお稽古日でした。今回はつごう二十分ほどもある『枕慈童』の舞囃子を舞うというのに、なんたる失態。何とか出張の予定を繰り上げられないか画策しようとしていたんですけど、もはや調整は不可能でした。師匠からは「まあまあ、お能は趣味ですから、ここはお仕事を優先なさって。申し合わせは私が舞っておきます」と言われました。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

というわけで、師匠が舞った申し合わせの映像と音声(お囃子も地謡も本番と同じ寸法で入っています)を送っていただいて、今日は何度も自宅でお稽古しています。でも自宅のリビングじゃ数足(数歩)進んだり、扇をかざしたりしたらすぐ壁にぶつかっちゃうんですよね。三間四方の能舞台とは全然違います。フローリングの床だって足袋を履いた足の滑り方は全然違いますし。結局、ド素人なのに玄人の能楽師さんなみに、いやそれよりもっと過酷な「ぶっつけ本番」になってしまいました。

明日は首尾よく舞えるかしら。『枕慈童』の舞囃子には「樂(がく)」があって、たくさん足拍子を踏むんですけど、せめてその拍子だけでも間違えないようにしたいです。あ、あといくつか仕舞や舞囃子地謡にも入るんですけど、こちらも詞章を忘れないかしら……。単なる趣味のはずなのですが、なかなかにメンタル面が鍛えられます。いつか仕事より趣味を優先する暮らしにしたいものです。

しまじまの旅 たびたびの旅 86 ……戸隠神社と小さな湖

奉職している学校の留学生と一緒に、長野県へ合宿に行きました。戸隠神社の「奥社」は初めて行きましたが、参道の杉並木がまるでギリシャやエジプトの大神殿に並んでいる柱のようで、壮観でした。

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合宿施設のそばには小さな湖があって、手漕ぎのボートを貸し出ししていたので久しぶりに乗ってみました。人がほとんどいない風景というのは本当に心が和みます。

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フィンランド語の先生によると、最近はフィンランド若い人たちも都会が大好きで、森と湖しかない風景にはあまり関心がなく人も少ないそうです。いつかフィンランドで湖にボートを浮かべて昼寝でもしてみたいです。手漕ぎボートは存外疲れるので、カヤックかカヌーみたいなのがあればもっといいですね。そしてその後はサウナに入るのです。

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ボートの上でそんな妄想を膨らませながら、小一時間過ごしました。

“不成熟”な初老の私

私はすでに「初老」と呼ばれてしかるべき年齢です。初老なんて、個人的にはかなり心理的インパクトのある呼称ですけど、NHK放送文化研究所が約十年前に行ったアンケート調査によれば、当時の人々が考える初老の平均年齢は57歳。これには男女差があって、男性の回答だけを平均すると55.5歳だったそうです。ほぼ私の年齢と同じです。

www.nhk.or.jp

ただし「ただし寿命が長くなった現代では、『初老』が当てはまるのは60歳ぐらいからと考える人が多くなっています」とのこと。なおかつご自身の年齢が高いほど初老と考える年齢も上がっていくそうですから、現在の平均はもう少し上になるのかもしれません。でも各種辞書では「もともと初老は40歳を指す」とされており、こちらのウェブサイトの、2016年に書かれた記事でも「最近の辞書は、50歳から60歳前後をさすとしているものが多い」となっていますから、やはり私は世間的には初老ということになるのでしょう。

しかし……と悪あがきをするわけではありませんが、私はふだん実年齢よりもかなり若く見られます。特に童顔というわけでもエネルギッシュというわけでもありません。なのに、いま日常的に顔をつきあわせている留学生のみなさんはその大半が20歳代で、私の年齢を知るとたいがいは「ウソでしょ? じゃ、うちの両親よりも年上?」と、なかば何か珍しい動物でも見つめるような目つきをされるのです。

いえいえ、若さを自慢したいわけでもありません。現実には、男性版更年期障害とでもいうべき不定愁訴に苛まされ「健康でなければ死ぬ」くらい体力も気力も失われつつあります。上述のNHK放送文化研究所のサイトには『新明解国語辞典(第六版)』における初老の定義が書いてありますが、「肉体的な盛りを過ぎ、そろそろからだの各部に気をつける必要が感じられるおよその時期」って……私など、そろそろ気をつける必要が感じられるどころか、全力で気をつけてないと身体の不調に負けて人生を降りたくなるくらいです。

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https://www.irasutoya.com/2018/07/blog-post_686.html

それに私は、昔から年相応に見られないことが逆にコンプレックスでした。一般に日本の方は男女ともに若く見られることを好む、あるいは望ましいと思う傾向にあるのではないかと思いますが、私がお仕事のフィールドにしている中国語圏では、感覚が少々異なります。なかでも男性、それも中年を過ぎた男性は、若く見られることをあまり好まないというのが私の見立てです。

華人(中国語圏の人々)の男性、ことに中年以降の男性は「中年男性にふさわしい“風格(fēnggé)”」が備わっていないのは“不成熟(bù chéngshú)”だと考えるようです。日本語にも「いい年をして……」という言い方がありますが、齢四十や五十になっても若く見えるというのは、むしろ不名誉なことみたいなんですね。

以前通訳のお仕事で、中国や台湾の「お偉いさん」に同行して各地を回っていたときなど、それとなくやんわりと「中年の男性は年相応の雰囲気がないといかんね」と言われたことがあります。みなさん上品だから、ハッキリ「あんた“不成熟”だね」とは言わないですけど。そういう“成熟”したみなさんは、うん、たしかに外見も物腰も、そしてお腹の出っ張り具合までも中年男性の風格が備わっている……ような気がしました。

しかし“風格”などというものは、意図して装おうとしたって装えるものではありません。結局これは私がいくつになってもあれこれ惑いっぱなしで、腰が据わっていないことに起因するのでしょう。そして自分が年相応の“風格”を持っていないとコンプレックスを抱くこと自体がまさに“不成熟”ということになるんでしょうね。だって本当の成熟した大人なら、そんな「こじらせ方」などとっくに卒業しているはずですから。

齢も50歳を越えれば銀座のお寿司屋さんや青山のワインバーなんかが似合うナイスミドルになれると思っていたのに、全然なれませんし、なれそうな気配すら今のところ見えていないのです。

語学クラスにおける日本人と華人の「生態」の違い

語学の授業をしていると、日本人(日本語母語話者)の生徒さんと華人(中国語母語話者)の生徒さんでは生態(失礼)がまったく違うことに気づきます。

日本人の生徒さんはとにかく静かです。語学の授業なのにずっと押し黙っていて、「分かりました?」とか「質問はありますか?」と問いかけてもほとんど反応がありません。促せばリピートだってロールプレイだってしてくださるので、やる気がないわけじゃないんでしょうけど、とにかくシーンとしていて、盛り上がらない。

声を出して練習するときも、その声が小さいです。芝居っ気ももうひとつ。ずっと下を向いて、できるだけ指名されまいとプロテクトしているように見える方も多いですね。かつて中国留学時に、中国の先生方が「正直、日本人留学生のクラスはやりにくいの〜」とおっしゃっていたのを思い出します。

そこへ行くと華人の生徒さんはとにかく賑やかです。特に通訳訓練などで誰かに当てたときなど、当たっていないのに答える人がいたり、当たった人にアドバイスする人がいたり、訳出が終わっても「そこは○○なんじゃね?」みたいに言う人がいたり。それで「はいはい、まずは当たった方が答えて下さいね。そのほかの方はとりあえず小声で訳出して」などと毎回申し上げることになります。

ところが面白いのは、華人でも、当たった方ご自身は声が小さくて「自信なさげ」なんですね。これは日本人と同じ。つまり華人は、自分が当たっていないときは不規則にどんどん発言してくるようなのです。こんな言い方はちょっと意地悪ですけど、自分に責任がない場合にはいきおいフリーハンドで大胆になれるというか。

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https://www.irasutoya.com/2015/04/blog-post_51.html

もちろん日本人にしろ華人にしろ、例外はあります。日本人でも賑やかな人はいるし、華人でもずーっと押し黙っている人はいます。だから安易に「○○人はこう」と一般化はできないのですが、総じて華人のクラスの方が賑やかで、いつも「わいわいがやがや」しています。私はこっちの方が断然授業がやりやすいです。

わいわいがやがやしていたら授業にならないんじゃないの? と聞かれることがありますが、そこはそれ、義務教育でも何でもない大人のための語学クラスですから、こちらも別に抑えつけたりしませんし、できません。それに大事なことはあえて控えめな声で話すと、逆に静かになるものです。みなさん自分の利益には素直ですから。

ただこれは実に興味深いのですが、授業でいつも賑やかな華人も、在日経験が長い方ほど静かというか、周囲の空気を読んでらっしゃるように見受けられることです。もちろんこれも例外はありますが、日本語学校を卒業したばかり、あるいは中国や台湾などの高校を卒業してすぐに入学してくる華人留学生が多い日本語学校や専門学校などではおおむね「わいわいがやがや」ですけど、在日経験が長く、すでに日本の企業などで働いてらっしゃる華人が多い通訳学校などではおおむねみなさん「日本人化」(?)してしまっているように感じられます。

かくいう私も本質は典型的な日本人マインドなので、自分が生徒の立場で通っている語学学校では、ご多分に漏れず空気を読みがちです。それで、フィンランド語の教室などでは先生の問いかけに積極的に大声で答えているんですけど、周りの生徒さんはいささか暑苦しく感じていらっしゃるかも……などと根拠のない「忖度」をするところがまた日本人的なマインドかもしれません。

「かぶる傘」ではなく日傘を買いました

五月としての史上最高気温が各地で更新されている日本。東京も数日前から尋常ではない暑さになっています。うちの職場は服装自由なので、私はすでに上はポロシャツ一枚で通勤していますが、今からこれだと六月や七月はどうすればいいんでしょう。というか、ポロシャツのやや厚手の生地でさえすでに暑く感じます。でもTシャツ・短パンで授業をするわけにはいかないものなあ……いえ、別にそれだって禁止されてはいないのですが、そこまで行くと自分で自分が「イタい」です。

この季節にしてここまで容赦のない猛暑が続くと、来年に迫った東京五輪が心配になります。……いえ、この書き方は「偽善」ですね。私は諸々の理由で今次の五輪開催は反対なので、この気候に鑑みて中止を決断してほしいと思っていますが、組織委をはじめとする関係者の「インパール作戦」にもなぞらえられるプロジェクト進行はおそらく止まることはないでしょう。炎天下のタダ働きたるボランティア要員も首尾よく集まったようですが、くれぐれも死人だけは出ないようにしてほしいと祈ります(これも偽善かな)。

開催都市の東京都もこの猛暑を重く見ているようで、先日は小池東京都知事が五輪の暑さ対策として「かぶる傘」の試作品を発表していました。

this.kiji.is

ネット上では「『かさじぞう』みたい」と揶揄する声で盛り上がっていましたが、私はまあこれでもないよりはあった方がマシかなと思います。帽子でもいいような気がするけど、確かに傘状のもので頭の上にも空間があった方が熱中症などの危険性は減るのではないでしょうか。もっとも私自身はこんなものかぶるの絶対にイヤですし、そもそもこんな季節に五輪を開催すること自体が無理筋だと思いますけど。

先日NHKのニュースを見ていましたら、気象キャスターの斉田季実治氏が「日傘男子」の普及活動(?)をしていました。氏のTwitterでも紹介されています。

確かに日本の夏はもうクールビズとか打ち水とかだけでは太刀打ちできないくらいの熱帯性気候になりつつあります。というわけで斉田氏に倣って私も日傘を買いました。同僚からは「環境省NHKの宣伝にのせられて……」的な揶揄も聞こえてきましたが、このさい固定観念は極力廃して、何でも採り入れ、試してみるべきだと思います。日傘、いいじゃないですかねえ。少なくともイタい「かさじぞう」スタイルよりはずっとおしゃれですよ。

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https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_11.html

一連の「浮かれよう」を目の当たりにして

東京都心の上空、昨日はやけにヘリコプターの爆音が聞こえましたが、これはアメリカのトランプ大統領が来日しているからなのかな? ここ数日、通い慣れた都心の街並みのあちこちに普段は見られない警官が立っているのに気づきましたが、これもおそらく警備の強化ということなのでしょう。

それにしても、いくら政治や経済で緊密な関係にあり、軍事的にも同盟を結んでいる国のトップが来日するからって、この国のマスコミはその飛行機の到着から、ホテルの出発から、ゴルフ場での握手から……断続的に報道していてちょっと気味が悪いです。羽田空港でも、エアフォースワンの到着をカメラに収めようと鈴なりの人だかりがしていたのにも、驚きを通り越して気味の悪さを感じました。なるほど、星条旗51番目の星などと揶揄されるわが「state」だけのことはあります。

昨日の朝は作業をしながらTBSテレビの『サンデー・モーニング』をつけていたら、ちょうど千葉県のゴルフ場で安倍首相がトランプ大統領を出迎える光景を生中継していました。番組を中断して延々(大統領がなかなか登場しなかったのです)中継しているものだから、司会の関口宏氏が「これまだ続けます? もういいんじゃないの?」みたいなことをおっしゃっていたのが印象に残りました。共同宣言の発表とかならまだしも、ゴルフ場での握手など、ホント、どーでもいいですよね。

アメリカファースト」を掲げ、排外主義的で強引な政策を次々に行ってきたトランプ氏。今また中国との貿易戦争で市場を引っかき回し、はっきり申し上げて大多数の日本人は迷惑を被りこそすれ、歓迎する理由などほとんどないんじゃないですか。あなたも、あなたのご家族も、回り回って様々な局面でとばっちりを受ける可能性が高い。なのにこの無邪気な「浮かれよう」はどういうことなんでしょうか。

思えば先般の改元騒ぎの時にも、横並び一線で「れいわれいわ」と大晦日や三が日のような報道と、そこに登場する数多の人々の無邪気で脳天気な騒ぎっぷりに気味の悪さを感じました。約三十年前の微熱だ、吐血だ、下血だ、自粛だ……も気持ち悪かったですけど。私は日常的に外国籍の方と接することが多い(というかほとんどそればっかり)職場にいるので、みなさんから「あれは、いったいなに?」という質問や奇異の視線を向けられるのがなんともむずがゆいです。

でもこれが、2019年の私たちの、紛う方なき真実の姿なんですよね。いや、マスコミに登場するのはマスコミが恣意的に選んだ一部の人々であり、違う反応をしている人たちも大勢いるはず。そういう意見もあるでしょう。私もそう思いますが、しかし、それは一部ではなくたぶん大多数なのだと思います。はなはだ残念ではあるけれど、それは認めざるを得ません。そしてこれが日本流の「平和と安寧」ということなのかな、とも。

先日亡くなられた加藤典洋氏の遺作となった『9条入門』を、ちょうど読んだところでした。天皇が現人神から象徴になって失った光を、戦争放棄という「光輝」が満たしたという構図が極めて印象的でした。ならば平成を経て象徴天皇が光を取り戻したように見える現在、改憲を再び日程に乗せようとする動きが出てくるのも必然なのか……と思いが巡りました。そして日本人は、曲がりなりにも民主的な選挙を通じて、こういう経緯を選び取ってきたのです。私たちの責任です。

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9条入門 (「戦後再発見」双書8)

この本では、マッカーサー氏の天皇憲法に対するある「もくろみ」が明らかにされています。それを読んで私は、改元から今回のトランプ大統領来日に至る一連の「浮かれよう」が、この加藤氏が描き出した戦後の天皇アメリカ、そして憲法の歩みにそのまま繋がっているのだなと感じました。当時の国会における「ダグラス・マツカーサー元帥に対する感謝決議案」(1951年)や「新聞各紙は解任を惜しみ、業績をたたえる記事を続々と掲載した」とか、帰国の際には「羽田空港への沿道に20万人以上が詰めかけた」などといったエピソードは、そのまま今日の風景に繋がっているような気がするのです。

「高齢男性はそこにいるだけでキモいもんじゃないか」をめぐって

いつも拝見しているfinalvent氏の『極東ブログ』に、興味深い記事が載っていました。同じくこれもいつも拝見している鴻上尚史氏の『AERA dot.』での連載「鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい『世間』を楽に生きる処方箋」の一記事、「66歳男性が風呂場で涙……」についての感想です。

finalvent.cocolog-nifty.com

私も先日この鴻上尚史氏の記事を読んで、いろいろと考えさせられました。この「66歳男性」は、隠居後に妻や兄弟からつれなくされ、その原因がこれまでの「自分の価値観を他人に押しつける性格」だったことにいまさらながらに気づいたものの、すでに関係を修復するのは不可能で、その上これからも新しい関係を築く自信もなく、老後が不安で寂しくてたまらない(それで風呂場で泣いている)というのです。

極端な例? いえいえ、こういう方(特に男性)はけっこう多いんじゃないかと思います。男性が、主に女性に対して偉そうに見下しながら何かを解説したり助言したりすることを指す「マンスプレイニング」にも通じるものがあります。では自分は? と思わず自問してしまいました。

ふだんTwitterのようなSNSの空間を眺めていると、このタイプの方は存外多いのではないかと感じます。上から押さえつけるような決めつけるようなもの言いが多い。タイムラインを見ているだけで気が滅入るので、最近はますます遠ざかるようになってしまいました。マンスプレイニングは要するに相手への「マウンティング」なのだと解説する方もいて、じゃあ自分の過去のツイートはどうかと読み返してみたら……イヤな汗をかきました。リツイートや「いいね」の数で承認欲求を満たすのもマウンティングの一種みたいなものじゃないでしょうか。俺はこんなに支持されているんだ(だから正しい、良いことを言ってる)と。

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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_53.html

極東ブログ』のfinalvent氏は「孤独ってそんな泣くほどつらいものだろうか?」と疑問を投げかけています。ご自身も家族や友人とそれほど対話なり交流なりがあるわけではないけれども「孤独でつらいということはないように思う」と。私もどちらかというと人付き合いが下手で、そもそも人見知りでもあり、なにより人が多い場所や騒がしい場所が苦手なので、孤独が辛いとはあまり思いません。旅行だって、休暇のサイクルがまったく異なる細君とは別に独りで何週間も海外の離島の、そのまた離島の果てまで行くくらいですし。

ただこれは、旅行から戻ってくれば、そこには帰る家があって家族がいるからかもしれません。私は一度離婚していますが、そのときは自分でも驚くほどの孤独感に苛まされたことを覚えています。もともとベタベタした人間関係は嫌いで、たとえ家族であっても互いに自立した、あるいは自律のある、独立独歩のあり方が好きだ、俺は一人でも生きていける……などと豪語していても、実際に家族が突然いなくなったらその感傷かよ、と自分で自分にツッコんだものでした。

またfinalvent氏は、くだんの66歳男性が「これからのありあまる時間をどうしたらいいのか」と悩んでいる点にも疑問を呈しています。ご自身の年齢や健康状態からしても、人生に残された時間は少なく、一方でやってみたいことは山ほどあるので、時間を持て余す「余裕」はないと。これも同感です。私もできることなら仕事など「プチリタイア」でもして、もっとやりたいことがたくさんあります。経済的にそれは許されないので、人生のかなりの時間をこれからも仕事に費やさねばなりませんが。

さらにもっとも共感して「そうだなあ……」と唸ったのは、「66歳の男が趣味やボランティアのサークルに飛び込んで友だちができるものだろうか?」という問いかけです。私はまだそこまでの高齢ではありませんが、紛う方なき中高年で、例えば今通っているフィンランドのクラスではたぶんぶっちぎりの「高齢者」です。毎回クラスメートとは挨拶をして、ペアワークやロールプレイなどしますが、特に知り合いにもなりませんし、互いのプロフィールもまったく知りません。お能の稽古は、私より年配の方も多いですが、これもお稽古以外でお付き合いがある方はひとりもいません。

この点、細君は人付き合いの天才ともいうべき人で、初めて参加した仕事関係のセミナーや学校のクラスなどで、すぐに知り合いを作って人脈を広げ、ほとんど「心の友」とも呼べるような友人を何人も作っています。さすがは「人たらし」といわれた豊臣秀吉田中角栄関連の本が大好きなだけのことはあります。本人はいつも「私、食べ物の好き嫌いは全くないけど、人の好き嫌いは激しいの」と言いますけど、えええ、それは私にこそふさわしい言葉ですよ。

finalvent氏は「高齢男性はそこにいるだけでキモいもんじゃないかと思う」と書かれています。物議を醸しそうなものいいですけど、私は言い得て妙だと思いました。老醜を晒すという言葉がありますが、基本、老いていくということは自分がそういう存在になっていくことを受け入れ、それは仕方ないと開き直り、その上でさて自分には何ができるかと考え続けることではないかと思うのです。

フィンランド語 36 …数字のあれこれ

ずっと以前にフィンランド語の数字を学びまして、時間の言い方や買い物での金額の言い方などを練習してきました。フィンランド語の数字はそんなに複雑な規則(例えばフランス語とか中国語のような)はありません。

0 nolla
1 yksi
2 kaksi
3 kolme
4 neljä
5 viisi
6 kuusi
7 seitsemän
8 kahdeksan
9 yhdeksän
10 kymmenen

11から19までは「toista」をつけます。

11 yksitoista
12 kaksitoista
13 kolmetoista ……

20以降は「10」の「kymmenen」が分格の「kymmentä」になります。これは「10がふたつ以上」だから分格という考えなんでしょうね。

30 kolmekymmentä
40 neljäkymmentä
50 viisikymmentä ……

100は「sata」。これも200以降は「sataa」と分格になります。

100 sata
200 kaksisataa
300 kolmesataa ……

1000は「tuhat」……とまあ、こんな感じで覚えてきたわけです。ところが数字には序数もあるんですね。「第一の、一番目」「第二の、二番目」……というやつです。

1 ensimmäinen
2 toinen
3 kolmas
4 neljäs
5 viides
6 kuudes
7 seitsemäs
8 kahdeksas
9 yhdeksäs
10 kymmenes
11 yhdestoista
12 kahdestoista
13 kolmastoista ……

さらにフィンランド語には「番号」それ自体を表す言い方もあります。「一番」「二番」……例えば「トラムの③番に乗って下さい」みたいな時に使う数字ですね。

1  ykkönen
2 kakkonen
3 kolmonen
4 nelonen
5 viitonen
6 kuutonen
7 seiska
8 kasi
9 ysi
10 kymppi

これらの「数字」「序数」「番号」を使い分けるとこんなふうになります。例えば「1」をめぐって……

Yksi bussi lähtee Tampereelle.
ひとつのバスがタンペレ(都市の名前)へ出発します。
Ensinmäinen bussi lähtee Tampereelle.
最初のバスがタンペレへ出発します。
Ykkösen bussi lähtee Tampereelle.
番号①のバスがタンペレへ出発します。(※ ykkönen が属格になっています)

また数字は、使われる文章によって格変化を起こします。ああ! そのために格語尾をつける前の語幹も覚えておかなければなりません。

1 yhte
2 kahte
3 kolme
4 neljä
5 viite
6 kuute
7 seitsemä
8 kahdeksa
9 yhdeksa
10 kymmene

先程の20は「kymmenen」の分格「kymmentä」になりましたが、この分格も語幹「kymmene」に分格の格語尾がついているわけです。そして例えば人と会う約束をして「○時に会いましょう(tavataan)」と言う場合……

Tavataan kello yksi.(数字の1)
1時に会いましょう。
Tavataan ennen yhtä.(分格の1)
1時前に会いましょう。
Tavataan yhden jalkeen.(属格の1)
1時過ぎに会いましょう。

……というふうに、「ennen(前に)」「jalkeen(後に、過ぎに)」という言葉との組み合わせによってふさわしい格(形)を選ばなければいけないと。さらに、ひとつめの「1時に会いましょう」のような時間は「kello yksi(1時)」でもいいけれど、ネイティブ・スピーカーの多くはこれを離格の「yhdeltä(1から)」で言うのが普通だそうです。

1 yhdeltä
2 kahdeltä
3 kolmelta
4 neljälta
5 viidelta
6 kuudelta
7 seitsemälta
8 kahdeksalta
9 yhdeksalta
10 kymmenelta

Tavataan yhdeltä.
1時に会いましょう。

これは大変です。う〜ん、いまのところ、文章に応じて正しい数字を言える自信はまったくありません。

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Tuota. Anteeksi. Osaatteko sanoa, missä on rautatieasema?
Joo. Se ei ole tässä ihan lähellä, mutta voit mennä raitiovaunulla tai taksilla.
Millä raitiovaunulla minä pääsen sinne?
Voit mennä kolmosella.
※番号③の「kolmonen」が所格の「kolmosella」になっています。

カードの不正使用に遭いました

クレジットカードのA社から電話がかかってきて、「iTunes Storeで妙な決済が続いていますが、ご本人のお買い物ですか」と言われました。身に覚えのない支払いなのでその旨伝えると、すぐにカードを止めてくれました。誰かに不正使用されていたわけですね。

私もiTunes Storeで曲やアプリを買ったことはありますが、最近はほとんど使っていませんでした。カード会社の記録によると、数日前に私のカード番号がiTunes Storeに入力された上で数百円の買い物があり、その後何度も一万円程度の購入が続いていたそうです。最初の一回を除いては決済が完了しなかったらしく、カード会社が注意喚起してくれたのです。助かりました。

最初の一回も身に覚えはないものの、私のカード番号が実際に入力されているので、Appleサポートに連絡して本当に購入事実があるかどうか確認して欲しいとカード会社に言われました。iTunes Storeの購入履歴には載っていなかったのですが、万一購入していたのにカード会社が救済措置を取ると、最悪私のiTunes Storeアカウントが凍結されてしまう恐れがあるんだそうです。

そこでAppleサポートに連絡し、私が購入した事実はないことを確認して再度カード会社に連絡して、結局全ての不正使用分は請求されないことになりました。まあ当然と言えば当然なんですけど、カード会社の丁寧な対応に救われました。ありがとうございます。

それにしてもどこでカード番号を盗まれたのかな。個人情報がどこかで漏れたのか、なにかの支払時にスキミングみたいな被害に遭ったのか。カード会社でも原因はわからないそうですが、ちょっと不気味です。ネットで度々買い物をするので、パソコンのブラウザやネットショップのウェブサイトにクレジットカードを登録して手間を省いているのがいくつかあるんですけど、ああいうのも危ないのかな。

あと、たま〜にデパートなんかで買い物をすると、店員さんがカードを奥のレジまで持って行っちゃうことがありますけど、あれもいつも何となく不安に思っています。いえ、別にデパートの店員さんを疑うわけじゃありませんけど、あの「習慣」はそろそろやめてほしいなと思います。

だいたいデパートって、その値段に見合う付加価値、例えば接客態度がいいとか品揃えがいいとか、そういうものがあまりないんですよね。利用するのはほぼデパ地下(食料品)のみ。ちょっと意地悪な言い方ですけど、宅配便などで使われている無線式のものなど決済端末は進化しているのに、一番進化していないのが高級店であるデパートだというのは、デパート業界の行く末を暗示しているような気もします。

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https://www.irasutoya.com/2018/03/blog-post_880.html