インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ふたたび見知らぬ人に声をかける

先日東京メトロ青山一丁目駅半蔵門線のホームを歩いていたら、大道芸でジャグリングだか奇術だかをやっていそうなコスチュームの欧米人とおぼしき男性がいました。素敵な格好だったので思わず「その服、いいですね」と声をかけようとしたんですけど、なぜかできずに通り過ぎてしまいました。

私はもともと人見知りが激しいというか、人付き合いがあまり上手な方ではないので、見知らぬ人に声をかけるのは苦手なんですけど、それでも海外で多少は感化されたのか、ときどきは自分でも気づかぬうちに声をかけていることがあります。誰かと一緒にいるときなど、気が大きくなるのか(何かあっても仲間がいる安心感からか)他人に声をかけやすいような気もします。

それでも多くの日本人(……の定義が現代では曖昧に過ぎますけど、まあ日本人的なメンタリティの持ち主)には、なるべく悪目立ちしないのが吉というか、下手に声をかけてトラブルに巻き込まれたくないというか、単純に内向的で慎み深くてじっと我慢する性格というか、とにかく見知らぬ人に声をかけるのを苦手と方するが多いようです。昨日はTwitterでこんなツイートを見かけました。

わははは。他人に声をかけるのもそうですけど、他人から声をかけられるのも慣れてない私たちにとっては、いきなりこういうコミュニケーションを取られると「ドン引き」してしまうと。うんうん、よく分かる気がします。私は電車などでベビーカーや大きなトランクを持った方が乗り降りする際に「手伝いましょうか」と声をかけることがあるのですが、にこやかに受けて下さる方がいる一方で、ものすごく怪訝な顔をされたり,明らかにありがた迷惑という表情をされたりする方もいます。

もちろんそういうサポートは相手の意向に沿ってこそ意味があるので、怪訝な顔をされても「拒否された」などと思わず、「そうですか、ではお気をつけて〜」でおしまい……でいいんですけど、やはり正直に申し上げて心にモヤモヤが残りますね。まあ、手を差し伸べるのが、私のようなむくつけき中高年の男性だから思わず防御に入っちゃうのかもしれません。一応笑顔を心がけてはいるんですけどね。

……てなことをつらつら考えていたら、これもTwitterでこんな動画を目にしました。

そうそう、こんな感じで「手伝いましょうか」という声がけすらなく単に手を差し伸べるだけってのが気軽でいいんですけど、日本だと無言でいきなり手を出した場合、下手をしたら「何するんですか!」って怒られそうな気配もありますね。う〜ん、ツイートへのリプライにもありましたが、みんな(特に東京の人たちは)疲れ切っちゃってて心に余裕がないのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_24.html

その一方で、「内向的で慎み深い」はずの日本人なのに、このツイートにも言及されているごとく泣いている赤ちゃんに「キレ」ちゃたり、ベビーカーを押した親御さんに冷たくあたったり、あるいはスーパーのレジなどで舌打ちとともに「ぐずぐずすんな」的な罵声を浴びせたり……という輩も時折出没するのが不思議です。これもまた心の余裕のなさがなせる技なのかな。

qianchong.hatenablog.com

李叔同の書

清末・民国初期の詩人・書家にして教育者でもあった李叔同(り・しゅくどう、号:弘一)という人がいます。天津生まれのこの人のことを、私は天津留学時に知りました。当時、大学に書を学びに来ていたとある韓国人留学生から教えていただいたのです。特に彼が見せてくれた李叔同の書を集めた大判の画集が魅力的で、私も帰国時に買い求め、いまでも時々ながめては楽しんでいます。

李叔同は日本に留学していたこともあって、犬童球渓(いんどう・きゅうけい)がアメリカのジョン・P・オードウェイの曲に訳詞をつけた唱歌旅愁」(♪更けゆく〜秋の夜/旅の空の〜……というあの曲です)にさらに中国語の歌詞をつけ、母国に紹介しました。この李叔同による「送別」という曲は今でもよく知られています。映画『城南旧事(邦題:北京の思い出)』でも使われていました。

youtu.be

長亭外古道邊,芳草碧連天。
晩風拂柳笛聲殘,夕陽山外山。
天之涯地之角,知交半零落。
一觚濁酒盡餘歡,今宵別夢寒。 

李叔同は後年仏門に入り、仏教を背景にした書が多く残されています。

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▲写真はいずれも『二十世紀書法經典 李叔同(河北教育出版社/廣東教育出版社:1996年)』より。

どこかユーモラスで可愛くて、モダンな感じさえする書だと思いませんか。その飄々とした墨跡は良寛の書にも通じるものがあると思います。なんだかこれだったら自分でも書けそうな気がしますけど、とんでもない(無謀にもやってみたので、分かります)。李叔同の書を元に作られたフォントなどあったら、素晴らしいんですけど。どこかのフォントベンダーさんがやってくださらないかな。

自分ちで「お座敷天麩羅」

連休に友人が家に来たので天麩羅を揚げました。旬の最後の山菜や、今が旬のアスパラやソラマメなど、他に少々魚介類も。みんな揚げ物ばかりをたくさん食べられないお年頃になったので、ほんの少しだけです。

天麩羅は難しいと言う方もいますが、要は衣をつけて揚げるだけです。山菜や野菜類はすぐに熱が通るので揚げ上がりを気にしなくていいし、魚介類も小ぶりなものばかり選べばこれまたすぐに熱が通り、生揚げを心配する必要はありません。

しかも昔から家庭で繰り返し作られてきた料理だけに、上手に揚げるためのアイテムも揃っています。まずはこの「天ぷら粉」。邪道ですか? いえいえ、この粉は優れもので、卵も要らないし、粉を溶く水を冷やしておくとか、粉がダマにならないよう気をつけるとかの気遣いも一切不要です。単にきっちり粉と水を量ってぐるぐる混ぜ合わせるだけ。しかも非常に軽く揚がるので胸焼けもしません。

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昔はバカにしていたんですよね、「天ぷら粉」。きちんと卵と小麦粉を使って、ちょいと粉が残り気味にまぜて、魚介類はまず薄く粉を打ってから更に衣につけて……などなどしないとおいしい天麩羅はできないって。ところがあるとき「天ぷら粉」を使ってみたら、自分流のこざかしい天麩羅より数倍おいしいことを発見しました。さすがロングセラーの商品だけのことはあります。

油も昔は高級菜種油など買い求めたり、オリーブオイルで揚げたりしていたんですけど、はっきり申し上げて私たちのようなお年頃にはもう重すぎます。大手精油メーカーから出ている「ヘルシーなんたら」みたいなごくごく軽い揚げ上がりになる油で充分。というか、粉や油に懲りまくるより、揚げる素材そのものにお金使って、さっと熱を通して食べるだけ……的なスタンスにした方がよほど美味しいと気づいたのです。

かんじんの火加減も、いまのガスコンロは温度調節機能がついているものもあって、例えば天麩羅に最適な180℃前後をキープしてくれるみたいなのもあります。家のコンロはそこまで進んでなくて、単に温度が上がりすぎると火が弱まるだけですけど、これでも充分。あとは衣を少し落としていったん沈みかけてすぐに上がってくる程度の温度を常に心がけていれば、まず失敗することはありません。

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アスパラは下半分の皮をピーラーでむいて食べやすく、タラの芽は下の硬いところだけ斜めに落として、ソラマメだけは衣に粉を少し足して粘度を上げて豆が二〜三個まとまるように、貝柱だけは刺身用なのでわざと中を半生状態で揚げ、アナゴとメゴチとエビは……これはもう単に揚げるだけ。あと、めずらしく売っていた花ズッキーニの花の部分にはこれも魚屋さん出来合いのエビのすり身を詰めて衣をつけ揚げました。

天つゆも用意したんですけど、みんなほとんど塩だけで食べました。このあたりもお年頃……ですかねえ。

まるで大晦日のような

新聞各紙の朝刊一面に載っているコラムは、文章のたいがいが情緒的で、特に最後を「ちょいと上手いこと」言って締めくくりがちなものですが、今朝の東京新聞「筆洗」は筆を洗いすぎたか薄墨色に過ぎるというか、情緒の含有量が高すぎてちょっと勘弁してほしいと思いました。元号が変わるからって、過去をきれいさっぱり水に流すみたいなのはよしとくれ、という感じです。

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新聞もテレビも今日は一日大晦日みたいなノリで、こういうふうに抑制が効かないところが私たち日本人なのかしらと思います。私の周囲でも少なからぬ方がみんな「平成最後」とか「令和もよろしく」みたいなことを言ってきて、それも日頃からけっこうこの方はものを考えてらっしゃるなあ、批判精神に富んでいるなあと尊敬している方も多くて、そのたびに驚き、溜息をついています。

だいたい天皇が「生前退位(譲位)」を希望されたのは、象徴としての務めを充分に果たすことができる者がその地位にあるべきという思いと共に、こういう朝野をあげての浮かれた騒ぎ、あるいは三十年前のような歌舞音曲の類い一切自粛みたいになることを極力抑えたかったというのもあるんじゃないかと思うんです。あれだけ忖度がお好きな方々も、こういうところは天皇の思いなどすっ飛ばして我も我もと改元騒ぎに乗っかっちゃう。

昨日所用で渋谷の街を通ったら、スクランブル交差点の辺りは規制の準備が進められていました。カウントダウンかなんかで盛り上がる人たちがどっと繰り出すと予想されているんでしょうね。昭和天皇が亡くなったとき、私はちょうど大学を卒業する年でしたが、あの時の自粛騒ぎの異様さをよく覚えています。あの時とは真逆のコントラストを示す今回の騒ぎも、長く記憶することになると思います。

……って、今日の自分の文章も情緒的で「ちょいと上手いこと」言って締めくくってました。私も軽い人間ですねえ。

トリですよ

能のお稽古をしている人たちが年に一回か二回ほど発表会を行うことがあります。「素人会」とか「温習会」などとも言われるこの発表会は、玄人の能楽師と同じように能舞台に立てる機会なので、愛好者にとってはとても楽しみでありかつ緊張する時間です。

素人の発表会ではありますが、例えば仕舞の地謡(コーラス)や舞囃子のお囃子(オーケストラ)などは玄人の能楽師が務めることが多く、とても聞き応えがあります。また素人とは言っても中にはもう何十年もお稽古をしてらっしゃる方もいて、こちらもまた見応え、聞き応えがあるものが多いのです。

そんな中、私のような「駆け出し」はたいがい会の前半で「お役目」を終えて、あとはゆっくり先輩方や玄人の先生方の芸を堪能するという優雅な一日を過ごすのですが、今年の会の番組(プログラム)を見て一気にそんな気分が吹き飛びました。私がいわゆる「トリ」になっているのです。

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この番組の最終ページ、素人の方のお名前はぼかしてあります(下に並んでいるお名前は、お囃子を勤めて下さる玄人の能楽師のみなさんです)が、私の舞囃子「枕慈童」が最後にあります。素人会とはいえ、ふつう「トリ」は上述したようなこの道何十年かの手練れの方が務めるんですが、お師匠によるとそれ以外に会のエンディングにふさわしい曲(演目)が選ばれることもあるとのことです。

能には例えば武将が悲惨で壮絶な最期を迎えるとか、亡霊が暴れ回った後に祈りによって退散するとか、けっこう重苦しい題材も多くて、そういう番組を会の最後に持ってくると何となく後味が悪い(?)ので、たいがいはおめでたいお話とか、勇壮で後味スッキリ! みたいな題材の番組を持ってきて盛り上げて締める……ってのが習わしみたいなんですね。

で、今年の会はそういう「トリ」にふさわしい演目があまり揃わなくて、それで私の「枕慈童」にしたんだそうです。確かに「枕慈童」は小体な曲ではありますが、とても幻想的かつ祝祭的な気分に満ちた明るい内容ですから、会の最後に持ってくるのはよろしかろう……とは思いますが、ちょっと私には荷が重いような。うちのお師匠は、パーソナルトレーニングのトレーナーさんと同じで、こちらの限界ぎりぎりを見定めて「ひょい」とハードルを上げてくるのがとてもお上手です。

舞囃子の「枕慈童」には「樂(がく)」という中国的な舞が入っていて、足拍子をたくさん踏みまくります。せめてこの連休を利用してお稽古に励んで、一ヶ月後の会に備えたいと思います。昨日お能を見に行ったら、会場で出会った先輩(この方はトリを何度も務めてらっしゃいます)が「今回はトリですね。あれは緊張が長く続くんですよね」とおっしゃっていました。確かに今度の会は一番最初に連吟「賀茂」にも出るので、結局会の最初から最後まで緊張が抜けないことになります。まあこれも貴重な機会なので感謝して、一日楽しもうと思います。

kita-noh.com
※入場無料、出入り自由です。

健身房裡面面觀

タイトルの中国語は「トレーニングジムに見るあれこれの人間模様」みたいな意味です。

「男性版更年期障害」による不定愁訴の改善を目指して週に数回のパーソナルトレーニングを一年半ほど続けてきましたが、四月からは「朝活」として職場近くのジムにも通い始めました。朝活なのでトレーニング時間はわずかなものですが、朝から身体を動かすと少なくともお昼まではかなり調子がいいです。あとはお昼ご飯を食べたのち、夕方までの不調を何とかしたいところです。

お昼を食べなければ夕方まで爽快なのですが、これはしばらく続けてみて逆に体重が減る(当たり前ですが)ことが分かったのでやめました。周りからは「体重減った方がいいじゃない」と言われますが、そうするとせっかくトレーニングでついた筋肉も減るのです。身体が危機感を抱いて筋肉から栄養を取ろうとするんですね。別にマッチョになるのが目的じゃないんですけど、せっかくついた筋肉は減らすのがもったいなく思えてくる……これは筋トレしている方に共通する心理みたいです。

朝活していると、いろいろな方がいるのに気づきます。ジムには目もくれず一直線に「スパ&サウナ」(要するに銭湯みたいなものです)に向かう方、筋トレマシンは使わず、ひたすら身体をほぐすことに専念されている方、軌道が決まっていて比較的簡単に使える「マシン」ではなく、バーベルやダンベルなどを使う「フリーウェイと」のコーナーばかり使っている方……。

中国に留学しているとき、朝から市民(お年寄りが多い)が大学のグラウンドでそれぞれの健康法とおぼしき体操をやってらっしゃったのを思い出しました。太極拳をする方、鉄棒をする方、トラックを走る方、トラックを「後ろ向きに」走る方、樹に身体をぶつける方……。中国の大学は学生や教員だけでなく、学校関係者や退職者やその家族なども一緒に学内に住んでいて言わば一つの街みたいになっているところが多いので、朝のグラウンドはとても賑やかなんですよね。ジムはあの光景にそっくりです。

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https://www.irasutoya.com/2013/04/blog-post_8578.html

朝活のジムで私は「マシン」と「フリーウェイト」の両方を使っていますが、フリーウェイトは何となく「玄人感」を漂わせている方が多く、かなり以前に通っていた別のジムでは怖くて近寄れませんでした。尋常ではない(失礼)筋肉をつけた、大抵黒々と日焼けされているおじさんが「はぁああっっっっ!」とか「ふんぬっっっっ!」などの奇声(気合いですか)を発して、これまた尋常ではない重さのバーベルやダンベルを挙げているのです。服装はピタピタのタンクトップに、ダブダブのパジャマみたいなズボンだったりして。

そんな私がフリーウェイトのエリアにも出没できるようになったのは、これはもうパーソナルトレーニングでトレーナーさんに細かくフォームを教えていただいたからです。トレーナーさんによると「フリーウェイトやっている『こわもて』のマッチョさんたちは意外に優しい人が多くて、フォームの相談なんかすると気軽に教えてくれますよ」とのことですが、う〜ん、今のところ私にその勇気はありません。

でもこのフォームはとても重要で、きちんとしたフォームで筋トレをしないと、ほんと、驚くほど効果がありません。まあ全く運動をしないよりはいくらかマシですけど、筋肉は全然つかないのです。これは以前私が別のジムで二年間ほど「自己流」で筋トレをやった結果、証明済みです。そして現在朝活をやっているジムで周囲を見回してみると、大変僭越ながらこの自己流フォームでトレーニングしている方がとても多いことにも気づきます。

そうやって人のフォームの善し悪しが分かるようになったのも、トレーナーさんに教わったおかげですね。「ジムではやたらマシンのウェイトを上げて必死に挙げ下げしている方がいますが、それよりも適度なウェイトでいいですから正しいフォームでやるべきです」。なるほど、ジムはあくまでも自分に向き合う場所であって、他人にウェイトの多さを誇ったり他人と競ったりする場所ではないんですからね。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

というわけで、朝から黙々とベンチプレスなどしています。この歳になっても挙げられる数字が徐々に増えていく、つまり身体の機能が向上していくのを実感できるというのはなかなかに貴重なことではないかと思っています。だいたいのことは逆にどんどんできなくなっていくお年頃ですから。ただまあ「誇ったり競ったりするのが目的」ではないので、黙々と、淡々と……を心がけています。

背景知識が後押しする訳出

こちらの動画、任天堂アメリカで『ポケットモンスター Let's Go! ピカチュウ』というゲームをプレゼンテーションする「ツリーハウスライブ」の様子です。

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この映像を見て、多言語コミュニケーションの新しい地平を見るような感覚にとらわれました。冒頭に登場する英語母語話者とおぼしきお二方の日本語力が素晴らしくて、司会者的な役割の方は自分の英語を自分で日本語に通訳しちゃうし、もうお一方は日本人ゲストの日本語をものすごいスピードで、なおかつ一切メモを取らずにテキパキと通訳しています。

ゲームの実況という特殊な状況ではありますが、日本語と英語が混在しているのに、ほとんど違和感がないと思いました。まるでそれぞれが自分の母語をしゃべりながら、それでいて自然に会話が成立しているような感覚なのです。通訳者や翻訳者はよく「黒子」などと言われ、字幕翻訳などでもよく「外国語で視聴していた気がしない」ほどさりげなく自然に、かつ的確に日本語で伝えるのがいい字幕、などと言われます。この映像にも同じような雰囲気を感じました。

このお二人は任天堂の社員もしくは関係者のようで、背景知識がとてつもなく豊富なのでこうした通訳が可能なのかもしれません。インハウス通訳では常に専門の内容を訳しているのでこういう感じになっていくのだと思われますが、ここまでテキパキと訳してくださったらかなり重宝される・重用されるのではないでしょうか。うちの学校の留学生もインハウスでの通訳のお仕事を目指している方が多いのですが、通訳というお仕事は「話せれば訳せる」わけではなく、背景知識の豊かさが的確な訳出を担保しているのだということ、その一つの例として紹介したいなと思いました。

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拙を守って田園に帰る

毎朝毎晩、通勤電車に揺られるたびに、人の多さに酔いそうになります。自分もその「人」のひとりであるのですから、全く身勝手なものいいですが、東京都心の、出退勤時の人の多さはちょっと異様ですよね。これでも「ピークオフ」と言いますか、ジムで朝活をするためにかなり早い時間に都心へ出てきているのですが、その時間にしてこの人の多さはどうでしょう。みなさん朝早くから本当にお疲れ様です。

歳を取ったからこうやって「人に酔う」ようになったわけでもなく、実は私、はるか昔の学生時代にも同じようなことを感じていました。とにかく満員電車がイヤでイヤで、会社勤めなんて絶対にしたくないと思って、大学を卒業するとすぐに九州の田舎で農業のまねごとを始めたのでした(専攻の関係で求人が全くなく、就職できなかったというのがホントのところですが)。

なのに、その農業のまねごとも五年ほどしか続かず、結局都会のネオンに吸い寄せられるように東京に戻ってきてしまいました。

都会は確かに便利です。何をするにも選択肢が多くて、心満たしてくれる新奇なものも多くて、さらに大好きなアート系のあれこれ(美術や音楽や演劇や映画や……)を楽しむすべも揃っています。いまの仕事にしたって、都会に、特にこの東京に住んでいなければたぶんたどり着くことができなかったでしょう。その意味では都会によって私は生かされていると強く感じています。

なのにこの息が詰まるような感覚はどうしようもありません。特に周囲の人々から感じる「人圧」とでもいうべき圧迫感。ここ数年はその「人圧」を逃れようと、海外の離島の,そのまた離島の、人がほとんど行かないような場所に行き、360度ぐるりと見渡して人影一つ見つけることができないような荒野に立つのが楽しみになりました。別に海外へ行かなくても、日本にだってそんな場所はたくさんあるのでしょうけど。

中国のいわゆる六朝時代、東晋末の詩人に陶淵明という人がいて、有名な「帰園田居」という詩があります。私はこの詩が大好きで、特に最初の一番有名なところは折に触れて思い出します。

少無適俗韻,性本愛丘山。
誤落塵網中,一去三十年。
羈鳥戀舊林,池魚思故淵。
開荒南野際,守拙歸園田。

角川ソフィア文庫の『陶淵明』に載っている、釜屋武志氏の訳文を引きます。

若い時から俗世と調子を合わせることができず、生まれつき丘や山が好きだった。
ふと誤って俗世の網の中に落ちこんで、たちまちのうちに三十年が過ぎ去った。
旅の鳥はもといた林を恋しく思い、池の魚は以前泳いでいた淵をなつかしがる。
それで南の野のあたりに荒地を開拓し、不器用な生き方を守りとおそうと田園に帰ってきた。

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陶淵明 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

特にこの「守拙歸園田(拙を守って田園に帰る)」という部分の、なんと心に響くことか。このフレーズは折に触れ繰り返し自分に語りかけてくるような気がするのです。自分は「拙を守って」いるだろうか、いつか「田園に帰る」べきではないだろうかと。

思えば、学生時代に就職を忌避して、農業を志したのはまさにこうした思いからでした。それがなぜか「誤落塵網中」してしまい、「一去三十年*1」。おお、そういえばちょうどいまの仕事が雇い止めになるのが、東京に舞い戻って三十年経つそのときです。陶淵明は「開荒南野際」すべく田園に帰ったわけですが、私は何をしに田園に帰ろうか、帰る田園はあるだろうか、それを最近はよく考えるのです。

*1:諸説あって「十三年」ではないかと主張する方もいるようですが。

ファミマのパスタサラダをシェイクする留学生

今日の学校のお昼休みに、華人留学生数名が、教室で何やらプラスチックの箱のようなものをシャカシャカと音を立てて振っていました。「何ですか、それ?」と聞いてみると「ファミマのパスタサラダです」とのお答え。このパスタサラダは彼らの中でちょっとした流行らしいです。

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蒸し鶏のパスタサラダ |商品情報|ファミリーマート

このサラダにはドレッシングがついているのですが、華人留学生諸君はパッケージを開けてこのドレッシングを投入したのち蓋を閉め、パスタと具材とドレッシングがよく混ざるようにシャカシャカ振っていたというわけです。

「それがそのパスタサラダの正式な食べ方なんですか」と聞いたら「自分で考えました」だって。なるほど、中国語圏の“拌面(和えそば)”系は、牛肉乾麵にしろ炸醬麵にしろ、全体をしっかり混ぜて食べますよね。それに倣って日本のコンビニのパスタサラダも当然のごとくしっかり混ぜて食べていたというわけです。しかも蓋がついているんだから箸などで混ぜず、直接シャカシャカやっちゃえというこの合理主義。さすがは徹底したリアリズムが信条の華人……と唸りました。

私はあまりコンビニのお弁当を買わないので確かなことは分かりませんが、日本人がこのパスタサラダを食べる場合は、たぶん添付のドレッシングを上から全体にかけて、多少「混ぜ混ぜ」しつつ食べ進めるんじゃないかと思います。そもそも日本人ってこういう「初手から全部混ぜちゃう」ってのは少々苦手ではないですかね? でも最近は「和えそば」「混ぜそば」系の食べ物も多いですから、特にお若い方は全く抵抗がないかしら。チョップドサラダみたいなのもあるし、逆におしゃれな感じですよね。

でも私くらいの年代より上の日本人は、けっこうこういう食べ物に抵抗がある方も多いかもしれません。ビビンパにしても、本場では全体をよく混ぜ、混ぜれば混ぜるほどおいしいと言われ、確かにその通りで味のハーモニーが楽しくて、私もいまではそうやって食べますけど、最初はちょっと慣れませんでした。何というか見た目があまり麗しくないですし、初手から味を均一化してしまったら,食べ進める楽しみがなくなってしまうような気がして。

カレーもインド料理店の店員さん(たぶんインドかネパールの方)に「よく混ぜて食べてくださいね」と言われて、最初は何となく抵抗がありました。カレーとご飯を少しずつ「混ぜ混ぜ」しながら食べるのが好きだったんです。大昔に見たお芝居のセリフ(たぶん転形劇場だったと思うんですけど,記憶が定かではありません)に「カレーを食べ終わって、ぼそっと一口ほど残った白いご飯がうまいんだよなあ」みたいなのがあって、大いに共感した覚えがあります。

同僚の韓国人は夫が日本育ちの韓国人で、子どもの頃はカレーを混ぜないで食べていたそうです。ところが帰省したか何かの折に韓国の祖母の家に行った際カレーが出て、おばあさんが全部をしっかり混ぜてくれちゃって大泣きしたとか。わはは、こういう食文化の違いは面白いですねえ。そして、日本に留学してもパスタサラダを自分の文化に則ってシャカシャカしちゃう華人留学生に感動した次第です。

ちなみにシャカシャカしている最中のパスタサラダは見た目的にちょっと「アレ」ですが、蓋を開けてみるとなかなか美味しそうでした。明日のお昼はマネしてやってみたいと思います。

北欧風のオープンサンドイッチ

昨年初めてデンマークに行ってから、北欧風のオープンサンドイッチにはまっています。もともとサンドイッチが大好きで、何十年も前に買い求めた坂井宏行氏の『サンドイッチ教則本』に載っていた、コペンハーゲン伝説のオープンサンドイッチ店「オスカー・ダビドセン(Oskar Davidsen)」の世界一長いサンドイッチメニューのエピソードに惹かれ、一度現地でオープンサンドイッチ(スモーブロー)を食べてみたいなとずっと希っていたのです。

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サンドイッチ教則本 1997 (暮しの設計 NO. 136)

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もっともこの「オスカー・ダビドセン」というお店は、この本が出版された当時すでに閉店して本当の「伝説」になってしまっており、実際に行けるわけではありませんでした。それで昨年はコペンハーゲンで別のお店をネットで探して行ったのですが、素朴ながらなかなかおいしくて(特にサーモンが!)、とても印象深い食事になりました。

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北欧風のオープンサンドイッチは、サンドイッチといいながらもパン(黒パンが多い)はほんの申し訳程度が底に敷かれているだけで、ほとんどサラダと言ってもいいような料理です。普通のサンドイッチのように手でつかむことはまずできず、フォークとナイフで食べるしかないという……。でも炭水化物を取り過ぎるとすぐにお腹に直結してしまう中高年にとっても魅力的なので、自分でもよく作っています。

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最近見つけたこちらの本は、デンマークスウェーデンのオープンサンドイッチ店が数多く紹介されていて、ああこれらのお店をもっと早く知っておけばよかったと思いました。次に北欧へ行ったときは、ぜひ訪れてみたいと思います。

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北欧のオープンサンドイッチ: コペンハーゲンとストックホルムの人気店に教わる本場のスモーブローレシピ

ちなみに成就した伝説の「オスカー・ダビドセン」ですが、さっき検索してみたら、なんと先代の娘さんが「Ida Davidsen(アイダ・ダビドセン、かな?)」というお店で家族の味を引き継いでいるようです。おお、これも知りませんでした。こちらもぜひ行ってみたいです。

idadavidsen.dk

セレクトショップにおける言葉の経済性

週一回、東京から横浜まで電車に乗って、フィンランド語の講座に通っています。わざわざ横浜まで通うのはたまたま都心に私のレベルに合ったクラスが開講されていないからですが、行き帰りの30分ほどの車内で予習や復習ができるので、通うのもそんなに苦にはなりません。

教室は駅ビルに入っているカルチャーセンターで開かれていて、授業が終わった後、同じ駅ビルのお店をひやかして帰るのが楽しいです。この駅ビルには「ユナイテッドアローズ」「ナノユニバース」「ビームス」の「御三家」が入っているのです。もっともこれらのお店で服を買うことはまずなくて、結局近くのビックカメラの上にある「ユニクロ」に行っちゃうんですけど。

しかしなんですね、セレクトショップがお好きな方には怒られるかもしれませんが、こういうお店の服って、その品質の割にはお高くありません? いえ、私はそんな「目利き」じゃないので確かなことは言えないのですが、これからの時期に重宝するTシャツなど、セレクトショップでは8000円などという値札がついています。でも同じようなTシャツは、例えばユニクロの「UniqloU」シリーズだったらたった1000円でもとてもお値打ちです。

www.uniqlo.com

材質とか縫製に違いがあるのかもしれませんし、ファストファッションの製品の多くが開発途上国の低賃金労働に支えられている現実もあるので手放しにユニクロを押すのは気が引けるのですが、どう比較しても8倍の差があるのは解せません。比較して……そう、私は御三家の服も買ったことがあるんですが、けっこう高価なのに着てみるとそれほど高品質でもなくて、すぐ「へなへな」に型崩れしたりするものも多いんですよね。

それに御三家って、バーゲンセールの時期になると同じ服が半額とか6割引とか7割引とかになるものも多いじゃないですか。まあそれが期末のクリアランスセールってもんなんですけど、じゃああの定価はいったい何だったのかと思いません? 値引き交渉したらぐわっと値段を下げてくるペルシャの絨毯屋さんかと。

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https://www.irasutoya.com/2017/11/t_67.html

あんまり「disる」のもはしたないのですが、あともうひとつだけ、御三家で苦手なのは店員さんの言葉遣いです。前にも書いたことがありますが、「いらっしゃいませ」がユナイテッドアローズは「しゃっせー」、ビームスにいたっては「せっ」で、言葉の経済性を究めまくりです。これ、例外的な方はもちろんいらっしゃるものの、私は複数の店舗で「観察」した結果、ほぼ同じような傾向があるのを確かめました。社風みたいなものかしら。でも私はあれを店内のあちこちで聞かされるたびに購買意欲がみるみる減退していくのを感じます。

まあセレクトショップというのは、というかブランドというものは、お店全体で作り出すある種の世界観を価値にして売っているところがありますから、それに納得して高くても購入する消費者がいるのは、それはそれで構わないのかも知れません。でもあの「しゃっせー」や「せっ」は明らかにそういう高級な世界観を毀損しているんじゃないかと思うんです。きちっと「いらっしゃいませ」と言った方が高級感が出るんじゃないかな。きちっと言わないのがカッコいいという価値観なのかな。

qianchong.hatenablog.com

容赦なく追い込める

先日ジムでパーソナルトレーニングを受けていたら、トレーナーさんが面白いことをおっしゃっていました。「お客さん(私のこと)だから追い込めるんですよ」。ここのジムは予約不要で、行ったときにたまたま空いているトレーナーさんが指導してくださる(カルテがあってトレーニング内容は引き継がれる)んですけど、周囲にいた他のトレーナーさんたちも「そうそう」とおっしゃっていて、ちょっと驚きました。

どゆこと? と聞いてみると、私はいちおう一所懸命に、というか必死にトレーニングについてくるので、それじゃあということでトレーナーとしても負荷をかけやすいということらしい。つまり指導や指示をしたタスクに真面目に取り組んでくれるから、こっちもやりがいがあるということらしいのです。

確かに、私はもともとかなり非力な人間で、毎回のトレーニングは文字通り青息吐息の状態です。たった一時間のトレーニングなのに、終わる頃には自他共に認める「へろへろ」状態になっていて、階段を上がる際にも足がもつれる始末(ジムは地下一階にあります)。「這々の体」とはまさにこのことです。上半身を集中して鍛えた日など、帰りの電車で腕が上がらず、吊り革がつかめないこともあります。もう一方の手で肘を支えて押し上げ、ようやくつかめるような状態。

でもトレーナーさんはプロなので、そういう私の状態を見極めながら、常に体力や筋力の上限ぎりぎりのところを狙って負荷をかけてくるのが上手です。楽なところに留まってお茶を濁すのではなく、もうちょっと頑張ればさらに体力や筋力がつくというその「いっぱいいっぱい」ちょい手前のところに毎回追い込まれるのです。

ところがお客さんによってはそこまで頑張れない、あるいはそこまで求めていない方もいる。そうなるとトレーナーさんとしても無理矢理押しつけるわけにはいかず「ほどほどのところでいいですよ」と負荷を下げざるを得ない。ホントはそれでは体力も筋力もつきにくいんだけど……と内心忸怩たるものがあるらしいんですね。だけど私にはそんな気遣いはいらないので「安心して容赦なく追い込める」、つまりは指導しやすいと。

この話を聞いて、いやもうこれは語学教師の心境と全く同じじゃないかと、ある種の感動さえ覚えました。語学も一種の身体能力で、筋トレみたいなもの。そして容赦なく追い込める生徒さんにはこちらも燃えるし、そういう生徒さんは上達も速いです。ジムのトレーナーさんたちからは毎回いろいろな気づきをもらっていますが、今回もイイ話、いただきました。どっかの授業で使おうっと。

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https://www.irasutoya.com/2015/01/blog-post_965.html

祝祭ですからね

若い頃、小さな出版社に勤めていました。官庁や企業から注文を取って、社会保険関係の出版物を編集する会社です。年金や健康保険、福利厚生などに関するパンフレットやリーフレット、読み物、広報誌、各種のお知らせ資料などを作っていました。

当時から国民年金の未加入問題は顕在化しており、また公的保険や企業年金の運用が金利の影響でかつてほど順調に行かなくなった影響で、各地の保養施設などの存続が危うくなってきていた時期でした。そんな背景の中で、例えば国民年金について「単なる個人の貯金ではなく『世代間扶養』という考え方に基づいた相互扶助制度なんですよ〜」などといった趣旨の啓蒙的な出版物を数多く世に送り出していました。まあ政府の宣伝のお先棒を担いでいたようなものです。

上司のひとりはそんな状況をよく弁えていて、つねづね政府や企業の批判をしていました。もちろん客先である政府機関や大企業に出向いたときには一切批判はせず、客先から帰ってきて社内で私たち部下にあれこれ語るのです。例えば上述した原資の運用についてもそうですし、かつて日本全国に建てられた福利厚生施設(保養施設)についても「本来なら運用利率が良いときにこんな箱物を作るんじゃなくてきちんと留保しておき、利率が下がった場合にも給付が続けられるようにしておくべきなんだ」と極めて真っ当なことを話していました。その後、財政の悪化からこうした施設がどんどん売却されていったのはみなさまご存じの通りです。

ところがこの上司は、ある週明けの月曜日にこんなことを言っていました。「選挙? んなもん行くわけねえじゃん」。前日の日曜日は統一地方選挙の投票日で、上司が住んでいる街でも首長や議会の選挙があったのですが、なんとこの上司、そうした選挙には一切行っていないと言うのです。「行ったって何も変わらねえし」。若かった私はあきれてしまいました。いや、いまこうやって書いていてもあきれますが。日頃あれだけ政治や行政の不備を批判していながら、ご自身はその程度の感覚で生きていたわけですね。

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https://www.irasutoya.com/2018/08/blog-post_37.html

それから何十年も経った今日でも、各種選挙での投票率を見れば、くだんの上司のような感覚の人がかなりの割合で存在していることが分かります。まあ、なんだかんだいって日本というこの国は、世界でもかなり珍しく豊かで安全で暮らしやすい国ですし(ネットではあれこれネガティブなことをおっしゃる方が多いですが、いや、どう考えても日本は恵まれていますよ、いまのところは)、選挙なんて行っても行かなくてもそんなに変わらなくね? ……という気持ちも分かる気はします。

でも私は、そういう恵まれた国に生きているからこそ、当たり前のように付与されている権利を当たり前に行使することにこだわりたいと思います。これはほとんどまともに選挙というものが(民主的な選挙というものが)行われていない、例えば中国のような国に住んで、その国の人と知り合い、語り合った経験からでもあります。どこかの国で、初めて民主的な選挙というものが実現したとき、人々はまるでお祭りのように着飾って投票に向かった……というようなエピソードを聞いたことがありますが、私はこの話にとても心を動かされるのです。

投票権があるということの意味を、その歴史や背景から考えてみれば、それがどんなに興味を持ちにくい実態であっても(言っちゃった)なおも祝祭的なものとして捉えていけない道理はありません。というわけで私は新聞に折り込まれていた選挙公報を仔細に読み、ネットで検索などもして、誰に投票しようか考えています。うちの区は区議会議員候補だけで75人もいるので、けっこう時間がかかります。でも祝祭ですから面倒くさいなどと言ってはいけないのです。そしてこのあと、ちょっとめかし込んで近所の小学校(投票所)へ細君と一緒に出かけるのです。

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https://www.irasutoya.com/2013/12/blog-post_3442.html

「くっついていればいいじゃん」的な行動原理が実に興味深い

世界各国から集まっている留学生の立ち居振る舞いを見ていると、それぞれの民族性とかお国柄とか、あるいは世代の差のようなものが垣間見えて、とても面白いです。

新学期が始まったこの時期は、学校の教務から様々な書類の提出を求められ、中には例えば保険証とか外国人登録証のコピーを貼ってくださいみたいなものもあります。私たちも例えば証券口座を開くときなど身分証明書のコピーを提出みたいなのを求められますが、いまはほとんどがネット上で手続きでき、スキャナでスキャンした、あるいはスマホで撮影した証明書の画像をブラウザ上で添付、というのが一般的です。

でも学校現場ではまだまだそこまで「進化」していなくて、紙のコピーを証明書の大きさにハサミでチョキチョキ切って、糊づけ……というパターンが多いです。何とかならないのかなと思いますが、まあそれはさておき、先日はその糊づけの方法が面白いなと思いました。私たち日本人(と一般化はできないかもしれませんが)はこういう時たいがい、添付しようとする紙片の裏全面に糊を塗って張りますよね。あるいは四隅にぐるっと糊を塗る(私はこれ)。

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https://www.irasutoya.com/2013/03/blog-post_2552.html
https://www.irasutoya.com/2014/07/blog-post_477.html

でも留学生のみなさんは、洋の東西を問わず、紙片の裏の真ん中一点にちょんと糊をつけて、あるいはせいぜい真ん中にぐるぐるっと糊をつけて、書類に貼り付けるのです。だもんで、中には糊づけが弱くて証明書のコピーがはがれてしまい、私たちが再度糊づけをしてあげたりします。

なるほど、証明書のコピーを添付、ってんだから、要は台紙にくっついていればいい。糊が一点だけでもくっつくことはくっつくんだから、それ以上は「過剰」なんですね。実に合理的というか、リアリスティックというか、省エネというか。私など、後からはがれたらどうしよう的心配が先に立って糊を四隅に塗るのですが、それとは全く違う行動原理の人たちがいるわけです。

いえ、どちらが正しいとか、ましてや、だから日本人の労働生産性が低いんだなどというご大層なことを申し上げたいわけではありません。ただ面白いな、自分の考えがスタンダードではないんだなと改めて思うのでした。

「めっちゃ、ヤバいっす」をめぐって

日頃から、いわゆる「日本語の乱れ」についてはできるだけ寛容でありたいと思っています。私は日本語母語話者ですが、言葉は世につれ人につれ常に変化していくものですから、私の「よし」とする日本語だけが正しいとはとても言えないからです。これはまた、話者が非常に多くて地域差もかなり大きい中国語(の標準語とされる北京語・普通話)を学んで培われたスタンスでもあります。

中国語においても「これが標準!」という主張は、特に学校の現場ではひとりひとりの中国語(母語話者)の先生がお持ちですが、それらは往々にして視野の狭いご意見であることが多く、私はどちらかというとそこには冷ややかな視線を向けてきました(学恩がありながら申し訳ない)。これもやはり言葉は生き物で常に変化していくものだと思うからです。

以前ネットで「日本語の乱れ」について、「けしからん!」と憤慨するのが日本語学者で「おもしろい!」と興奮するのが言語学者……というようなもの言いを目にしました。なるほど、そういう意味では私は言語学者のような立場でありたいのかもしれません。

……ところが。

以前の話ですが学校に、二十歳代の若い先生が赴任してこられました。この方は日本語母語ですが外語も流暢で、主に留学生の通訳や翻訳の授業担当として公募で採用された方です。私はその面接などには関与していなかったので、赴任初日に初めてお目にかかったのですが、その話し方に度肝を抜かれました。

「めっちゃ、ヤバいっす」

私はこの時、自分の身がこわばるのを感じました。そしてその日は、その「めっちゃ、ヤバいっす」をめぐって、終日自分の感情を反芻することになったのです。以下、反芻を再現してみます。

①日本語を学んでいる留学生に相対する教師、それも通訳や翻訳という言葉のプロを養成する教師が、授業ではなく教員室でのおしゃべりとはいえ「めっちゃ、ヤバいっす」を使えるものだろうか。


②いやいや、言葉は常に移り変わっていくものであり、自分とは一回りも二回りも歳の違う若い世代の「めっちゃ、ヤバいっす」もまた、その変化の萌芽として受け入れればよいのではないか。


③だいたい「その日本語はなんだ、なっとらん!」などと言うこと自体(実際にご本人には言っていませんが)、自分が常日頃から嫌悪している年寄りの価値観の強要ではないか。言葉は人格であり、そこに注文をつけるのは一種のパワハラかもしれない。


④いやいや、そこはそれ、その若い先生も教員室での雑談だったからフランクな態度で接してこられたのに相違ない。授業は授業で、もう少しフォーマルな言い方もなさるはず。曲がりなりにも公募で何度かの面接も経て採用された方なのだから。実際、私以外にその場に居合わせた同僚からは「若いね〜、世代の違いだね〜」という感想だけで、「なっとらん!」「けしからん!」的な意見は出なかった。


⑤しかし、これが企業であったらどうか。新入社員が一回りも二回りも歳の違う上司に向かって(うちの学校には職階はありませんが)「めっちゃ、ヤバいっす」とのたまえば、まず確実に指導が入るはず。


⑥いやいや、だから、学校は会社組織とはまた違うわけで。英語や中国語でも敬語的な表現はあるけれど、そのいっぽうで上司だろうが同僚だろうが互いに「Hi!」的なフランクさだ。学校だから、先生だから「めっちゃ、ヤバいっす」を白眼視するのはいかがなものか。


⑦普段から「絶対に正しい中国語などない。発話者の発した言葉は、それがどんなものであれ訳す義務を負う。そういうプロ意識を持とう」と華人留学生諸君に言っているではないか。それに常日頃「けしからん!」の日本語学者ではなく「おもしろい!」の言語学者的立場でありたいと思っているのではないか。自分だって「〜じゃん」とか「超〜」あたりはすでに身体に馴染んで自分でも使うことがある。であれば「めっちゃ、ヤバいっす」についても特段めっちゃヤバいと思う必要はないのかもしれない。

……いやはや、こんなにも思考が行ったり来たり(たいした思考ではないですが)するとは思いもよらないことでした。私自身はこの、元々大阪弁発祥で、お笑い芸人さんのメディア露出によって広まった「めっちゃ」という言葉はいまだに使えないし、これから使う気もないし、テレビで俳優さんやタレントさんが使っているのを聞くと「イラッ……」とするような人間のですが、みなさまはどう思われるでしょうか。特に語学の先生が、雑談とはいえ「めっちゃ、ヤバいっす」を、それも故意にとか冗談でなどという意図ではなく、ごくごく自然に使うことについて。

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https://www.irasutoya.com/2016/09/blog-post_317.html