インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オーバースペックな教材作りをやめよう

以前、とある学校の通信講座用動画を見ていたら、講師の先生がMacBookを使って授業をしてらっしゃいました。教室の前方にホワイトボードがあり、左側に先生のMacBook画面をプロジェクターで投影するスクリーンがあります。私も現在いくつかの学校で同じような形で授業をしているので、最初はとても見慣れた光景に思いました。

でもその先が違いました。その先生は、①ネット検索用のChromeブラウザ、②板書用の「Pages(WindowsのWordにあたります)」、③プレゼン用の「Keynote(同PowerPoint)」、さらに、④pdfの配付資料を投影するための「プレビュー」と、都合四つのソフトを使っていたのですが、それを適宜MacOSに付属の「Mission Control」で、それもおそらくご自身で設定されたショートカットキーを使って「さくさく」と切り替えながら授業を進めておられたのでした。

「Mission Control」というのは、こんな感じで、ソフトだけでなく開いているウインドウや操作スペースまで「すべてを鳥瞰的に表示して、簡単に切り替えることができ」る機能(Appleのウェブサイトより)です。

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切り替えはショートカットキーでも、トラックパッド上の指の操作だけでも簡単にできます。Macを使い慣れた方なら「そんなの、当たり前じゃないか」とおっしゃるでしょうけど、私もすでに長い間MacBookを使って授業をしてきたというのに、こういうスマートな使い方はしていませんでした。「Mission Control」自体は使っていましたけど、授業ではすべての教材や素材を全部PowerPointに取り込み、資料は写真として貼り込み、映像もアニメーション機能で再生するようにして、クリックだけで次々に切り替わるように設定していたのです。

このように設定していた理由は、ひとえに授業をスムーズに進めるためです。授業中にソフトの切り替えで「もたもた」するのが生徒さんに申し訳なくて。これはまた、かつて自分が生徒の立場のときに、先生がソフトの切り替えで「もたもた」したり、パソコンの使い方に習熟していなくて「あたふた」したりというのが不満だったからでもあります。いまではなんと狭量なのかと思いますけど……。

というわけで、教材を作り込んでは授業に臨んでいたのですが、こうした教材は凝れば凝るだけ、その「凝りよう」は際限もなく広がっていきます。そして「もたもた」しない「スムーズさ」や「統一感」を実現するためにはかなり事前に作り込まないといけません。いきおい作業時間が増え、超過労働に陥ります。肩も凝るし、腰も痛くなるし、目も疲れる。しかもアニメーションなんかも駆使しちゃったりして、そのタイミングもコンマ秒単位で細かく設定しちゃったりして、ますます作業量が増えまくっていました。

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https://www.irasutoya.com/2014/10/blog-post_89.html

……でもね。

それだけ作り込んで授業を行っても、授業はあっという間に終わってしまうんですよね。そしてまた次の授業のために膨大な作業をこなさなければならない。あまりビジネスの用語ばかりで教育を語りたくないですけど、これは端的に言って「オーバースペック」というか「費用対効果が悪すぎ」です。そんなところに変にこだわって消耗しなくても、くだんの通信講座の先生のように、パソコン自体にある機能を上手に使って、私がちまちまこだわって実現していた「スムーズさ」や「統一感」以上のスマートさで授業を進めることができるのです。

あああ、私はその通信講座に参加しながら、巨大な虚脱感におそわれていました。ホントに愚かでした。というわけで、私はいま「脱オーバースペック」を自分の目標に掲げて「ひとり働き方改革」を断行中です。これ、細い稜線の上を「手抜き」の谷底に落っこちないように進むようなものなのですが、何とか通り抜けたいと思っています。

しゃっくりとげっぷ

尾籠な話で恐縮ですが「しゃっくり」と「げっぷ」というものがありまして、いずれも日常的によくある生理現象ですけど、このふたつは明確に違いますよね。「しゃっくり」は主に横隔膜や筋肉の痙攣(けいれん)に伴って声帯から「ヒック」といった音が出る現象で、一方の「げっぷ」は主に飲食時に胃に取り込まれた空気が排出されるときに「ぐっふ」などと音が出る現象です。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_807.html

ところが、華人(チャイニーズ、中国語圏の人々)とお話ししていると、このいずれもを「打嗝(dǎgé)」とおっしゃる方がほとんどなのです。もちろん辞書を引いてみれば、それぞれに違う訳語を当てているものもあるのですが、医療などの現場ではどうだか分かりませんが、日常生活ではこの「しゃっくり」と「げっぷ」を区別していない方が多い。面白いですけど、どうしてなんでしょうね。

中国語の「打嗝」は、「打」が「~をする」にあたる守備範囲の極めて広い動詞で、口偏のついている「嗝」は「ガー」と「グー」と「ゲー」の中間くらいの音。これ、個人的にはいかにも「げっぷ」の音を表していると思われます。つまり「打嗝」は「ゲーする」ということで、これは「しゃっくり」よりも「げっぷ」にふさわしい言い方じゃないかな……と思っていたんですけど、ネットで調べてみると、「打嗝」は「呃逆(ènì)」とも言って、痙攣性の収縮、つまりもともと「しゃっくり」の意味なんだそうです。で、「げっぷ」は本来「嗝氣(géqì)」と言うんだけれども、よく混同されると。へええ、そうなんですね。

打嗝 - 維基百科,自由的百科全書

類義語には「飽嗝(bǎogé)」というのもあって、これは「飽(満腹になる)」と結びついた言葉です。これも個人的には「しゃっくり」よりも「げっぷ」にふさわしい形容に思えますけど、まあ「しゃっくり」だって飲食後に起こることが多いですから、これはこれでいいのかもしれません。

いずれにしても「ヒック」という「しゃっくり」の音と「ゲー」という「げっぷ」の音、この私には全く異なるように聞こえる音が、華人の皆さんには同じようなものに聞こえるのかしら、という点が面白いなと思うのです。

人体の進化における保守性

ところで、この「しゃっくり」について、ジョセフ・ヒース氏の『啓蒙思想2.0』に面白い記述が載っていました。自然は一度それでうまくゆくという仕組みをみつけたら、なかなかその仕組みやデザインを捨てようとはしないというくだりで、人間の身体、とりわけ脳に示されている保守性の一例として「しゃっくり」が取り上げられているのです。

(「しゃっくり」とは)鋭い吸気が生じ、「そのあと声門が閉じる」不随意運動である。下位脳幹で生じる独特のパターンの電気的刺激によって引き起こされる。さらに、全く無益なことでもある。少なくとも人間にとっては無益である。しかし特筆すべきことには、ほとんど同一の呼吸パターンが両生類にも見られ、有益な目的を果たしている。オタマジャクシはこの運動で、肺呼吸と鰓呼吸を切り替えることができる。
(中略)
バカげて聞こえるかもしれないが、これが意味するところは、人がしゃっくりするときに何が起こっているのかというと、脳の(進化的に)古い部分が肺呼吸から鰓呼吸に切り替えようとしているのだ。身体機構がこの指示を実行しなくてもよくなって何億年も経ったが、この電気刺激による制御システムを排除するには及ばなかった。だから進化の前段階の輝かしき遺物として、なおもここにとどまり、たまに思い出したように発動しているのである。


啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

えええ、ホントですか! ということは、飲食とともに体内へ取り込んでしまった空気を排出するという「有益な目的」がある「げっぷ」とは違い、「しゃっくり」は人間にとってはさしたる意味を持たないものになっている……だから華人は「しゃっくり」を「げっぷ」に包摂してしまい、二つあわせて単に「打嗝」とだけ言うのでありましたか!

……というのはもちろん牽強付会ですが、日頃「げっぷ」と「しゃっくり」を区別しない華人を前にして「だって、溜まった空気の排出と筋肉の痙攣だから明らかに違うじゃん、なんで中国語は区別しないの? 日本語はハッキリ区別するよ」などと得意げに語っていた自分がなんだかバカに思えてきた一件でありました。

「先生が授業しながら勉強するなんてひどい」をめぐって

先日、Twitterのタイムラインでこんなツイートを見かけました(Twitterから距離を置こうといいつつ、まだ依存してますね)。

なるほど、先生は「教える」立場であって「教わる」立場ではないのだから、「先生が授業しながら勉強するなんてひどい」と。このアンケートに回答した生徒さんは勉強、あるいは学習というものを「すでにそれを学習し終えた=マスターした人から学ぶこと」だと考えたのですね。

でも少し想像力を働かせてみれば分かりますが、どんなジャンルのどんな学びでも「ここまで学んだらそれで完成、おしまい」ということはあり得ないんですよね。学問だって、芸術だって、スポーツだって、何かの技術や技能だって、教える立場の人も日々学び続けているわけで、死ぬまでゴールはないのです。逆に「もうこの技術は完璧にマスターしちゃったから今は学んでない」という人が先生だったら、それこそ「ひどい」と言うべきです。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_136.html

私が最初に仕事として(報酬をもらう形で)教えたのは中国語でした。留学から帰ってきてすぐだったと思いますけど、いくつかの場所で初級のクラスを受け持ったのです。留学から帰ってきたばかりですから、中国語だってまだまだ発展途上です(というか、今でも発展途上ですけど)。そんな私が人様に「教える」なんてとんでもないと当時は思いましたが、依頼してくださる方がいる以上、断るのも申し訳なくて引き受けたのです。

教えてみて初めて分かりましたが、人に教えるというのは優れて「自分の学びになる」行為なんですね。教える以上は受け身ではいられず、その知識を分かったつもりで済ませておくこともできません。ましてや人に伝える以上、自分が学んだとき以上にその知識を腑分けして、客観的に見つめ直す必要に迫られます。そうやって学び直してみて初めて「ああ、これはこういうことだったのか」と気づくことも多いのです。「教える先生がそんなことじゃこまる」と言われるかもしれませんけど、そういうものなんだから仕方がありません。

というか、教える仕事に就いて20年になんなんとする現在でも、その状況はあまり変わっていないように思います。私はいつも自分の仕事を半ば自虐的に「自転車操業」と呼んでいますが、本当にその形容がぴったりくるほど、次の授業はどうしよう……といつも準備に追われています。そろそろ「ありもの」の教材と教案でラクに仕事をこなしたいという欲望は常にあるのですが、ついつい前回とは違う何かをと考えてしまう。これももしかしたら、教えることのなかに自分でも新たな学びがなければ全然面白くないからなのかもしれません。

「教えることが一番の学び」だというのは、実は色々な方がおっしゃっていて、教員の仲間内でもけっこうよく聞かれるもの言いのひとつです。先日もアーリック・ボーザー氏の『Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ』という本を読んでいたら、「人に教えるという学習方法」という一節があって、こんなことが書かれてありました。

あるテーマについて深い洞察を得るには他人に教えるとよい、とは奇妙に——皮肉にさえ——思える。だがこの考え方には多大な研究の裏づけがある。教える人数の規模には関係なく、教えることによってその専門知識の理解は深まる。
研究者の世界では「プロテジェ効果」と呼ばれるが、これも実は知識応用の一形態である。あるテーマについて人に教えることで、私たちはその概念に自分なりの解釈を加える。そのテーマの何が重要かを明確にし、自分の言葉に直すことによって、専門知識を深めるのである。

こちらで一部が読めます。

そうそう、その通りなんです。冒頭のツイートにあった生徒さんは「先生が授業しながら勉強するなんてひどい」と「奇妙」に思い「皮肉」をおっしゃったのでしょうけど、社会に出て、例えば企業などで上司に説明したり部下を指導したりするようになったら「ああ、そういうことだったのか」と腑に落ちるかもしれません。そうなるといいですね。

楽をしようとすると鍛えられない

NHK大阪放送局が制作した「かんさい元気印『まだ間に合う筋肉体操』」という番組を見つけました。昨年話題になっていた「みんなで筋肉体操」の中高年版とのことです。これ、関西地方だけでしか放映されていないのかなあ。

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www.nhk.or.jp

こちらの動画では、中高年でも無理なく「腕立て伏せ」をできるように、様々な負荷のかけ方(減らし方)を紹介しています。こういうふうに、それぞれの体力や身体の状況に応じて加減しながら身体を動かしたり鍛えたりするの、いいですね。

私も通っているトレニーングジムで、よく腕立て伏せやベンチプレスなどを行っています。そこでトレーナーさんによく指摘されるのが、「なるべく脇を締めて、腕を横に広げないように」という点。腕立て伏せやベンチプレスなどでどこを鍛えるかによっても違ってくるのですが、私は主に胸筋を鍛えたいと思っています。でも以前はかなり腕を横に広げて腕立て伏せをしていたんですね。これだと腕は鍛えられるけど胸にはあまり効いてこないということが分かりました。

やってみると分かりますけど、腕が横に(外に)広がらないようにして腕立て伏せをすると、かなりきついです。つまり、腕の力をなるべく援用しないようにして、胸筋だけで体重を上げようとするからそれだけ負荷がかかるんですね。逆に腕の力を援用しちゃうと、いつまでたっても胸筋は鍛えられない。こういうのはプロのトレーナーさんに指摘されないとなかなか気づきません。

腕立て伏せのみならずトレーニング全体に言えることですけど、「楽をしようとすると鍛えられない」ということに気づきました。自重を使うにしろ、器械のウェイトを使うにしろ、それぞれの運動にはそれぞれ鍛える筋肉の違いがあるわけですが、正しいフォームで正しく鍛えようとすれば例外なく「きつい(楽ではない)」のです。つまりなるべく目標とする筋肉に集中して負荷をかけ、ほかの筋肉の援用をなるべく受けないようにすることで効果的に鍛えられるということなんですね。

これ、能の仕舞のお稽古にも通じるものがあって、正しい(美しい)姿勢で立ったり摺り足したりすると、例外なく「きつい」のです。楽をしようとするとすごく弱く見えてしまって、内側に力が充実しているような、あの能特有の所作や型にならないのです。また上体を正しい姿勢に持って行けば行くほど、摺り足にならざるを得なくなる。摺り足で歩くのは「きつい」のですが、それはひとり足先だけで実現できる歩みではなく、上体、あるいは全身の正しいありようが摺り足を要請する……みたいな感じになるんですね。ああ、言語化するのが難しいです。

上掲の動画を拝見すると、宮大工の方の腕立て伏せはやや腕が横に広がっているのに対して、僧侶の方はかなり脇を締めてらっしゃるようです。こちらの方が胸筋を鍛えるには効果的かもしれません。腕立て伏せって、小中学校の頃から何度となくやって(やらされて)来ましたけど、こういう点に留意して行ったことはありませんでした。なかなか奥が深いです。

留学生と小謡

留学生の通訳クラスで「通訳実践トレーニング」という科目がありまして、私が担当しています。「通訳実践」だから現場に出てどんどん通訳をする……のではなく、通訳を実践するために必要なさまざまな基礎的トレーニングを行うという科目です。だからほんとうは「通訳実践のための基礎トレーニング」とでもすべきかもしれません。いろいろ分かりにくくてすみません。

で、この科目は日↔英通訳を学んでいる留学生と、日↔中通訳を学んでいる留学生が一緒に参加するので、基本的には「訳さない通訳訓練」を行っています。通訳なのに訳さない?……と疑問に思われるかもしれませんが、要するにこれは全員の共通スキルである日本語のみを使って、訳す前に必要な日本語の発声や情報の伝達方法、パブリックスピーキング(人前で話す技術)などを学ぶ科目なのです。

来週は新しい年が明けて最初の授業日なので、少々特別な趣向を準備しました。それは「小謡(こうたい)」を体験するというものです。小謡とは、能楽の「謡(うたい:謡曲)」の一部を抜き出したもので、全体でも一分から二分程度の短いものです。有名なところでは結婚式などおめでたい席で謡われる「高砂」とか「四海波」とかが有名ですね。そして小謡の中には新年をことほぐものもあるのです……って、ほとんど私の趣味が入ってますが。

www.the-noh.com

小謡は、私の子供の頃だったら結婚式や家を建てるときの上棟式などで謡われていました。親戚か近所のおじさんおばさんあたりに趣味で小謡をたしなんでいる人がいたりして、うなるような声で「〽高砂や〜」などとやっていたのです。もっとも私は子供心に「あれはなんだろう。ずいぶん暗い歌だな」くらいにしか思ってませんでしたけど。

試みにYouTubeで検索してみましたら、いくつか祝言や上棟の席で謡われている映像がありました。いまでもこういう文化は残っているんですね。

youtu.be
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こうした動画を検索している途中で、能楽喜多流能楽師、大島輝久氏と大島衣恵氏による小謡のチャンネルを見つけました。以前から大島能楽堂のチャンネルはフォローしていたのですが、新しいコンテンツが加わったようです。しかもここには解説とともに「高砂」「四海波」「千秋楽」「羽衣」「江口」「融」などが並んでいます。素晴らしいです〜!

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大島能楽堂_小謡 - YouTube

留学生の通訳クラスでは、これらの映像も紹介しながら、留学生諸君にも実際に大きな声で謡を謡ってもらおうと思っています。実はこれ、毎年やっているのですが、けっこうみなさん興味津々で参加してくださいます。普段は現代日本語だけを学んでいる留学生ですが、ふだん慣れ親しんでいる歌や音楽とはかなり異なる古典の雰囲気が新鮮なのかもしれません。

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小謡はおめでたい席だけでなく、例えばお葬式で謡われるものもあります。私は死んだら葬儀もお墓もいらないと考えているような人間ですが、弔いに小謡の「融」を謡ってもらえたら嬉しいです。

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影傾きて明け方の
雲となり雨となる
この光陰に誘われて
月の都に行き給う装い
あら名残惜しの面影や
名残惜しの面影

素敵だと思いません?

百貨店の凋落

この連休に友人を家に招くことになったので、ちょいと「よさげ」なワインを一本調達しようと考えました。普段はもうあまりお酒が飲めない身体になってしまったのですが(実際、今年は——といってもまだ十日あまりですが——まだ一度も飲んでいません)、たまの機会ですから、奮発しようと思ったのです。

ネットであれこれ探していると、とある渋谷の百貨店、その百貨店の通販サイトに魅力的な一本を発見しました。で、ちょうどその日は渋谷を通って帰宅する予定だったので、その百貨店の「デパ地下」にある和洋酒売り場へ直接出向いて、「ぶどうバッジ」をつけた店員さんにスマホで通販サイトの画面を見せ、「このワインありますか?」と聞いてみました。

ところが残念なことに「すみません、売り切れました」とのお返事。でもこの百貨店は渋谷にもう一つ店舗があるので(どの百貨店か分かってしまいますね)、「あちらの和洋酒売り場にもないですか?」と聞いてみました。店員さんは「うちとは在庫管理が別々なので、分かりません」とのこと。う〜ん。それでも「聞いてみてもらえませんか?」と食い下がってみました。

待つことしばし、店員さんは「あちらにもないそうです」。そこで私は諦めて、そのお店をあとにしました。……が、ここでちょっと疑問に思ったことがひとつ。この百貨店の通販サイトには在庫があったはず。だってそれを見て実店舗に赴いたのですから。そこでもう一度スマホで確かめてみると、通販サイトには確かに在庫がありました。でもって注文してみたら、注文できちゃいました。

お目当ての一本を手に入れることができてよかったのですが、私は「ああ、だから百貨店業界は斜陽なのかな」と変に納得してしまいました。

だって、同じ東急百貨店なんですよ(って、もう東急って言っちゃってるし)。その同じ百貨店の店舗Aと店舗Bと通販部門とで、在庫管理を統一していないのです。もちろん百貨店側にも何らかの理由があるのでしょうけど、購入する側からすればそういう「縦割り」は不便以外の何ものでもないですよね。そりゃAmazon楽天市場などに客が流れるわけです。

かつてはその質の高い洗練されたサービスこそが百貨店の売りであり存在価値でもあったと思うのですが、いまやサービスの質でも他の小売り業種に水をあけられてしまったのですね。しかも価格面での強みもないとくれば、客足は遠のく一方でしょう。

私はかねがね、ファッション業界の低迷と軌を一にして百貨店が凋落の一途をたどるなか、唯一「デパ地下」だけはその魅力を失わず、むしろ輝きを増していると感じていたんですけど、今回の和洋酒売り場での一件でその「デパ地下」も例外ではないのかなと思わされました。

追記

この百貨店の通販サイトで注文する際、配達日を指定できないことに気づきました。配送時間帯の指定はできるんですけど、何月何日に届くかは分からないのです。また多くのワイン通販サイトでは配達方法に「クール便」などの指定を選べる設定があるのですが(いいワインなど変質が心配ですからね)、これもありません。百貨店側が「クール可」とした商品のみ選べるんだそうです。このあたりにも百貨店の「お殿様商売ぶり」が垣間見えるような気がします。

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https://www.irasutoya.com/2013/08/blog-post_4614.html

仕方がないので、サイトの「お問い合わせフォーム」から配達日を教えてほしい旨、お願いしてみました。すぐにお返事が来ました。

ご注文いただきました商品はインターネット上でご案内の通り、お届けまでに決済後、約4日~8日前後のお日にちをいただいております。
https://www.tokyu-dept.co.jp/ec/guide/order/delivery.html

おお、百貨店の通販サイトの「通販トップ>総合ガイド>お届けについて」という深いところにある保険の約款みたいな文章に「ちゃんと書いてあるでしょ」ということですね。これは失礼いたしました。そして「約4日〜8日前後」というざっくりとした配達予定日も了解いたしました。これじゃ連休に間に合わないので、別のお店で別のワインを調達するしかなさそうです。

あと20年しかない

最近「あと20年しかない」とよく思います。自分の人生があと20年しか残っていないという意味です。知人や友人にそう言うと、「年明け早々、ネガティブなことを……」とか「言霊ってこともあるから、よしてよ」などとたしなめられるのですが、いえ、これはネガティブな発想ではなく、逆にポジティブに考えるからこその「あと20年しかない」なのです。

最近は「人生100年時代」などと言われ始めていますが、まあ現在の平均寿命から考えて、私の年代であればあと30年ほども生きられれば僥倖というものでしょう。とはいえ、現在のようにとりあえず元気で、一応は自分の思うように暮らしを営んでいける状態があと30年も続くわけではないですよね。だったら、まあ内輪で見積もって「あと20年しかない」と思って、だからこそ今できること・やりたいことを後回しにせず、どんどんやっていこう……という意味でのポジティブな発想なのです。

もちろんお金の問題だってありますから、何でもかんでもできるわけではありません。それでも、行ってみたいところには行く、食べてみたいものは食べる、学んでみたいことは学ぶ。どんどんチャレンジしていきたいと思うのです。いつかできたらいいな、などと心にしまっておくのではなくて。

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https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_80.html

年に一回、どこか海外へ旅行するとしても、「あと20年しかない」のなら、20回しか行けないのです。20回と言えばあなた、もうすでに自分が行ってみたいところの場所の数を超えてますよ。しかも、現在だってすでに若い時のようにバックパックひとつで貧乏旅行などできる体力は失われつつあります。20年後も元気に旅へ行けるかどうかなど分かりません。

月に一回、美味しいものを食べに行くとしても、「あと20年しかない」のなら、合計240軒しか行けないのです。240軒と言えばあなた、多いように見えて驚きの数字ですよ。だって、食事のジャンルは多岐にわたるじゃないですか。寿司・天ぷら・フレンチ・イタリアン・中華……。

いやはや、我ながら下世話な話だと思いますけど、ジャンルの数が仮に20だとしたら(もっとありそうですが)、例えば死ぬまでにとびきり美味しいお寿司を食べに行く機会はあと12回しかないのです。たった12回、12軒ですよ。しかも、現在だってすでに若い時のように暴飲暴食できる体力は失われつつあります(お酒も弱くなりました)。20年後も健啖でいられるかどうかなど分かりません。

もちろん旅行や食事だけが人生の目的ではありません。ほかにも色々とやりたいこと、やらなくてはならないことはあります。また、これまで元気に生きてこられたことと、色々な方に支えられてきたことに感謝して、今度は自分なりに社会へ還元していきたい、支えるべき人を支えていきたいという思いもある。

そう考えると、やはり「あと20年しかない」。20年なんて、あっという間ですよ。『チコちゃんに叱られる!』じゃないけど、ボーッと生きてんじゃねえよ自分、という気持ちになるのです。

ごくごくシンプルな「ワインの選びかた」

年末に都内某所のビストロで忘年会をやったのですが、「ワイン、分からないから選んで~」と言われました。注文した料理を念頭にワインリストを見ながら選ぶ、あるいは「宅飲み」用に選ぶのは楽しいものですが、ワインの知識がないと戸惑っちゃいますよね。というわけで、まことに僭越ながら私が「昔取った杵柄」で、できるだけシンプルなガイドを書いてみたいと思います。

泡か白か赤か

まず、ワインは泡と白と赤に大別できます。泡というのはしゅわしゅわと発泡するワイン。白と赤は説明不要ですね。ほかにもロゼや酒精強化ワイン(ポート・マディラなど)もありますが、語り出すとキリがないので、この三種類でじゅうぶんです。

白は魚料理、赤は肉料理などと言われますが、これもお好みしだい。ただ、どちらかと言えば白はあっさり・淡泊系の料理に、赤はこってり・濃厚系の料理に向きます。泡はどんな料理にも合う万能選手。一人や二人でレストランに行くときなど何本も飲めないので、最初から最後まで泡で通すこともできます。

軽めか重めか

それから、ワインはもうひとつ、軽めの味わいと重めの味わいに大別できます。泡は基本「軽め」。白と赤はそれぞれ「軽め」と「重め」に分かれます。ワインショップでは通常、産地別にワインが並んでいますが、分かりやすくこの合計5つの区分で並べているお店もあります。

というわけで、「泡か白か赤か」と「軽めか重めか」の二つの区別でマトリックスを作ってみると、こうなります。

 
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ぶどうの品種

ワインの味わいは、主にぶどうの品種によって大きく異なります。品種はものすごくたくさんあって、これも語り出すとキリがないので、ここではごくごくシンプルに、①泡、②白軽、③白重、④赤軽、⑤赤重の代表的な品種(というか私の好み)を上記のマトリックスに当てはめてみます。

 
①スパークリング リースリング ピノ・ノワール
  シャルドネ カベルネ・ソーヴィニヨン

①スパークリング……これだけは、ぶどうの品種名じゃなくて「発泡性のワイン」という意味です。さまざまな品種で作られます。フランスのシャンパーニュ地方で規格に沿って生産されたもののみシャンパーニュシャンパン)といい、それ以外はスパークリングワインといいます。シャンパーニュはけっこうお高いですが、スパークリングワイン、例えばスペインのカヴァ(CAVA)などにはお手軽価格でおいしいものがたくさんあります。

リースリング……は、きりっとした酸味とほのかな甘みが特徴の品種です。爽やかな甘酸っぱさが一日の疲れを癒やしてくれるような気がして、飲むと幸せな気分になります。ドイツや、フランスのアルザス地方のものが有名ですが、なかには甘口ワインがあるので、買うときには「これは辛口ですか」と確かめてください。

※甘口と辛口について
食事に合うワインは基本的に「辛口」です。「甘口」ワインは本当にデザートみたいに甘いので、例えば「中甘口」などと書かれていても、通常の食事には合わせにくいと思ってください。

シャルドネ……は、一番ポピュラーな品種で、格安ワインから、フランスはブルゴーニュの高級ワインまで幅広く使われています。「宅飲み」用のお手軽価格(≒比較的軽い味わい)のものなら、きりっと冷やして飲むのがおすすめです。あ、基本的に泡と白は冷やして、赤は常温で飲む方がおいしいです。

ピノ・ノワール……は、赤ワインのなかでは比較的酸味があり、渋みは少なく、軽めの味わい。色も薄めです。フランスはブルゴーニュのものが有名ですが、アメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどでも多く作られています。

カベルネ・ソーヴィニヨン……は、渋みがあってどっしり濃い味わいが多いです。舌が紫色に染まる感じ。フランスはボルドーのものが有名ですが、世界中の産地で作られているポピュラーな品種です。

ブルゴーニュボルドーについて
フランスの二大ワイン産地で、ごくごくシンプルに言ってしまうと、ブルゴーニュ=軽い、ボルドー=重い、という感じです。ブルゴーニュワインはなで肩の瓶、ボルドーワインはいかり肩の瓶で、世界中のワイン産地ではだいたいこの分類でワインを瓶詰めしているため、瓶の形で味わいが(だいたい)分かります。

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▲左が「なで肩」のブルゴーニュ(軽め)、右が「いかり肩」のボルドー(重め)。
https://www.irasutoya.com/search?q=%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3

飲む順番

「宅飲み」では自由に飲めばいいんですけど、ワインの味わいは基本的に①→⑤の順番でどんどん重くなっていくので、いちおうこの順番で飲むとそれぞれの味わいをより楽しめると思います。重いものを先に飲むと、あとで軽いものを飲んでも味わいが分かりにくいのです。①泡は「とりあえず、ビール」的に最初の乾杯に向いていますし、⑤赤重はメインのどっしりした料理に向いています。

ワインを選ぶ

ワインショップに行って、胸に「ぶどうバッヂ」をつけている店員さんがいたら、ソムリエかワインアドバイザーなどの資格を持っている方です。「ピノ・ノワールみたいな軽めの赤」とか「カベルネ・ソーヴィニヨンみたいな重めの赤」などと大体の好みと予算を伝えれば、ほかの品種の面白いワインも紹介してくれるでしょう。そうやってプロに聞くのが一番ですけど、自分で選ぶ際も①から⑤までの区分で選べばそう大きく好みを外すことはありません。どんな品種が使われているかは、瓶のラベルや棚の値札に書いてあることもあります。

スーパーでもよく売られている、チリの「コノスル」シリーズは、バラエティ豊かな品種がラインナップしていて、①から⑤まで全部揃っているので、品種の違いを飲み比べるのも楽しいと思います。自転車の絵が入った「ビシクレタ」シリーズなら1000円以下ですし、お買い得です。

conosur.jp

このオフィシャルサイトに載っている、コノスルの「ビシクレタ」シリーズを①から⑤までに当てはめてみると、おおよそ以下のようになります。

①泡:ブリュット(BRUT:辛口)/ロゼ
②白軽:リースリングヴィオニエ
③白重:シャルドネソーヴィニヨン・ブラン
④赤軽:ピノ・ノワール
⑤赤重:カベルネ・ソーヴィニヨンメルロー/シラー/カルメネール

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コノスルヴァラエタルシリーズ

それからもうひとつ、コノスルは「ゲヴュルツトラミネール」という品種も出していて、これもスーパーでたまに見かけます。味わい的には②~③で、かつ「ほの甘」ですが、ライチの香りがしてエキゾチックなので、香辛料の効いた中華料理やタイ料理なんかにもよく合います。個人的にはとてもおすすめです。


コノスル ビシクレタ ゲヴュルツトラミネール ヴァラエタル [ 白ワイン 中辛口 チリ 750ml ]

ワインは勉強し出すと、これはこれでとても奥深い世界ですが、上記のような最低限の知識でもそこそこ楽しめます。もちろんこれはかなり大雑把な立て分けです。②白軽のリースリングや④赤軽のピノ・ノワールにも「どっしり」したものがあったりしてバラエティ豊かなので、興味を持たれたら関連の書籍やワインスクールでさらに「ハマって」しまうのもいいと思います。

全方向的に「適度」な整髪料

先日髪を切りにいったら、いつも担当してくださっているスタッフさんが「たぶんお客さんの髪質にぴったりだと思うんですけど」と紹介してくださったのが、これ。ワックスでもジェルでもムースでもない、「ジェルオイル」とでもいうべき全く新しいタイプの整髪料だそうです。

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ルベル ジオ パワーオイル クリエイティブホールド(ヘアスタイリング)
THEO|Products|ルベル - LebeL ALL YOUR OWN

最近はもう「つやばつける(格好つける)」歳でもなくなってきたので、整髪料もほとんど使わないくらい無精をしているのですが、まあ一応身だしなみ程度には。でも既存の整髪料はどれもベタつきすぎたり、かっちり固まりすぎたりで好きじゃなかったのですが、この新しい整髪料は適度にオイルっ気があって、適度にしっとり感があって、適度に固まらなくて(後で手ぐしで直せる)、その中途半端とも言えそうな「適度感」がとても使いやすいです。

スタッフさんによると、この整髪料はメーカーが開発したあと、ヘアサロンなどに先行販売して使ってもらっているらしく、まだ市場にはあまり類似品が出ていないそうです。メーカーもいろいろと工夫し、競いながら、これまでの欠点を乗り越える新たな商品を開発しているんですね。

私はお店から直接買いましたが、ネットで検索してみたらAmazonではもう売られていました(上記のリンク)。私のように、毛が太めで多めで短めの髪の男性は重宝しそうです。ネットの情報では「爽やかなジンジャーホワイトティーの香り」となっていた香りも(なんだかよくわかりませんが)また「適度」に抑えが効いていて、なかなか魅力的です。

スチームが恋しい

ここ数週間来の寒波に耐えかねて、オイルヒーターを買いました。


デロンギ オイルヒーター サーマルカットフィン8枚 【8~10畳用】

薄い羽のようなプレートが何枚もついた、デロンギのオイルヒーターです。この形を見ていると、中国の大学の留学生寮にあった「暖氣(nuǎnqì/スチーム暖房)」を思い出します。中国のそれは(昔の日本の小学校にもあったように記憶していますが)鋳物でできた「羽」がいくつも連なった形で、その中を集中暖房室のボイラーから送られてきた蒸気が流れているのです。

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私が留学していた天津市は北京のやや南に位置して、緯度的には新潟や仙台と同じくらいだと思いますが、冬の寒さはかなり厳しく、川や池にスケートができるくらいの氷が張ることもあるくらいの土地です。でも部屋の中はスチームが効いていて、Tシャツ一枚で過ごせるくらい暖かい。大陸の乾燥した気候と相まって、洗濯物もスチームのそばにかけておけばすぐに乾くなど、とても快適な冬の生活でした。

そこへ行くと東京の冬は、部屋の中の寒さという点では一番厳しいですよね。日本でも北海道あたりだったら暖房設備も充実していて、部屋や窓の作りも防寒仕様のはずですから快適だと思います。そういえば昨年の春にフィンランド利用した民泊にもスチームがついていて、本当に快適でした。東京の建物はやはりその点「中途半端」です。中国でも同じような位置にあるのが上海で、今はどうだか分かりませんが、昔は「上海も東京も、冬がつらいね」と知人の上海人が言っていました。

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▲窓の下にでっかいスチーム設備が見えます。

今回買ったデロンギのオイルヒーターは一番安いタイプのものですが、じわっと暖かくなって、ほんの少しだけ「暖氣」の温もりを思い出させてくれます。でもやっぱりスチームに比べると非力なのは明らか。しかも電力消費量が多いので、これ買ってからもう何度もブレーカーが上がっちゃってます。オイルヒーター・ドライヤー・オーブンの三つを同時に使うともうダメですね。炊飯器も意外に電力を食うので、炊事中はオイルヒーターを切るかパワーを絞るかしています。

エアコンの暖房は乾燥して肌がかゆくなるから使いたくないし……つくづく東京の冬は過ごしにくいなと思ったことでありました。

日々コウジ中

細君に勧められて読んだ二冊。作者である柴本礼氏の夫・コウジさんはくも膜下出血に襲われ、一命は取り留めたものの、様々な機能不全が現れる「高次脳機能障害」を抱えることに。その発症から現在に至るまでの奮闘と家族のありよう、様々な人々とのつながりを描いたコミック作品です。

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日々コウジ中―高次脳機能障害の夫と暮らす日常コミック

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続・日々コウジ中―高次機能障害の夫と暮らす日常コミック

この本の最初に、高次脳機能障害についての解説が載っています。

病気や事故などの原因で脳が損傷され、言語・思考・記憶・行為・学習・注意などに機能障害が起きた状態を高次脳機能障害といいます。原因として多いのが脳卒中ですが、交通事故による外傷性の脳損傷でも多く見られます。

脳卒中とは脳梗塞・脳内出血・くも膜下出血などのこと。簡単に言うと脳の血管が詰まったり破れたりすることです。コウジさんはくも膜下出血を発症しましたが手術は成功。術後の脳血管攣縮期を乗り越えてICU(集中治療室)から出ることはできたものの、いつも眠っていてリハビリに取りかかれず、目が覚めている時も変なことを口走り、典型的な後遺症のひとつである水頭症にかかってもう一度手術。それでも変な発言や行動がなくならず、結局主治医から「高次脳機能障害」と診断されます。

いやこれ、一昨年の末に細君がくも膜下出血で倒れたときとほとんど同じ経過です。細君も最初期のリハビリ期は一日中眠っていることが多く、かなり多くの妄言が見られました。その後遠方への徘徊(一時は東京から栃木県の鹿沼市まで行っていた)などが始まるに至って水頭症と診断され、これまたコウジさんと同じ「シャント手術」(脳室に溜まる水を腹腔に逃す管を埋め込む)を受けました。

ただひとつ違っているのは、細君はその後「高次脳機能障害」にはならなかったこと。くも膜下出血の予後(病気や手術の後、どの程度回復するか見通し)はおよそ三つのパターンに分かれると言われていて、1/3が即死、1/3に重い後遺症が残り、あと1/3がおおむね社会復帰できるというものです。細君はかろうじて最後の1/3に入り、コウジさんは真ん中の重い後遺症が残るパターン、つまり「高次脳機能障害」の状態になってしまったのです。というわけでこの二冊、とても人ごととは思えず、一気に読み通してしまいました。

高次脳機能障害には「千人千様」とも言えるほど人によって様々な状態があるそうです。しかも本人はもちろん、家族など周囲の人間にとっても大変なのは、その障害が別名「見えない障害」とも言われるように一見分かりにくく、社会各層における認識や理解がまだまだ深まっていない点です。行政や企業などでの対応もまだまだ十分ではなく、家族も周囲の無理解や経済的な不安、そして何より最愛の家族がそうした障害を抱えたままでいることなどから「真っ暗闇のトンネルの中」にいるような孤独感に苛まされるのだとのこと。

それでも柴本氏は孤軍奮闘し、ブログや講演などで発信し続ける中で同じ孤独の中にいる仲間とつながり、行政やマスコミなどにも働きかけて行きます。ほのぼのとしたタッチのコミックながら、実に様々な気づきを私たちに与えてくれる内容になっています。細君もまだフルタイムで働けるまでには回復していないのですが、それでも最近は、自分の経験をふまえて脳卒中の患者や家族の会、高次脳機能障害に関するイベントにも積極的に参加し始めました。

『続・日々コウジ中』の中に、印象的なフレーズがありました。

よく言われることだがこの障害はそれまでの夫婦・家族のあり方が試される。

う〜ん、本当にそうだなあ。細君は幸いにも生還し、高次脳機能障害にもなりませんでしたが、水頭症になっていた頃は私もかなりあれこれ心配しました。それでも細君は暴言を吐いたり暴力的になったりすることは全くなく、ただただ「年老いた猫」が家にいるような状態だったので私もそこまで追い詰められませんでしたが。

コウジさんはもともと楽観的で優しい性格だったそうで、この障害を持つようになってからもその一面が以前よりも強く表れているようです。でもその反面、時に攻撃的になったり感情の抑えが効かなくなったりすることも。もちろんご本人にはその「病識」がないのですが、これもまたもともと銀行員でMBAを持っており「一度は社長になりたい」と起業を志したような、コウジさんのアグレッシブな一面の反映かもしれません。

そう、認知症が進みかけていた義父とかつて同居していた頃にも思ったのですが、人はそれまで生きてきたそのありようが大病の予後や老齢期にも深く影響してくるのかもしれません。そう考えると、この本は自分の生き方を問い直すきっかけにもなるのではないかと思えてきます。

少々古いデータですが、2010年における脳卒中の発症率は人口10万人あたり166とのこと。これを多いと見るか少ないと見るかは人によって違うでしょうけど、私は誰でも発症しうる病気だし、またその予防の一環としての生活習慣の改善は(特に中高年となった今となっては)必須だと改めて感じました。

しかも前述のように、高次脳機能障害脳卒中以外にも事故などの外傷によってもたらされる場合もあるのです。私たちの周囲にはきっと多くの人とその家族がこの障害で苦しい環境にいるはず。そう考えると私たちも無知ではすまされないと思わされた二冊でした。

追記

先日はネット上でこのような記事に接しました。こちらは高次脳機能障害とは異なる精神疾患ですが、電車内などで大声を上げたりブツブツひとり言を言ったりしている人への理解を求めたものです。なるほど、私も時々見かけますが、以前は怪訝な視線を送るだけでした。高次脳機能障害にせよ、精神疾患にせよ、きちんと実情やその背景を知ることはとても大切だと思います。

charitsumo.com

それは視野の狭い教育観ではないでしょうか

お正月休みに、ネットで検索している途中でこの番組を見つけ、「無料配信中」の惹句に誘われて視聴してみました。「元大阪市市長の橋下徹氏が新党を立ち上げたらどんな政策を提言するのか」という設定でのトーク番組です。

https://abema.tv/video/episode/89-77_s10_p12abema.tv

特に教育に関する部分について、教員免許をお持ちで、かつて学校の先生も経験された乙武洋匡氏の意見に興味がありました。番組の議論ではいろいろと面白い見解(特に堀潤氏)に接しましたが、こと教育に関する部分については乙武洋匡氏・橋下徹氏ともに、かなり視野が狭いのではないかと思いました。

https://abematimes.com/posts/5496054abematimes.com

世上、「学校の先生なんて、子供ばかり相手にして、民間企業での経験もないから、世間知らずだ」という批判(悪口?)があります。私もかつていくつかの会社で働いた後に教育の世界に入ったので、そういう批判についうなずきたくなる部分もあるのですが、まあこれは「十把一絡げ」のそしりは免れないでしょう。

乙武洋匡氏の主張の骨子は、大学の教職課程をきちんと履修して免許を取るような真面目で、その反面多様な人生経験を経ていない人ばかりが教員になっているからこその教育の硬直化、ということになるのでしょう。でも、本当にそうでしょうか。当たり前のことですが、教育現場も様々ですし、教員にもいろいろな人がいます。学生時代にいろいろ豊かな経験をして、遊びも存分に堪能したうえで、なおかつきちんと努力して教員免許を取った方だって大勢いるんじゃないでしょうか。

まあテレビ番組ですから、乙武氏も多少刺激的な問題提起をされているのだと思いますが、これはちょっと橋下氏の「グレートリセット」的改革観に浸食されすぎだと思います。教育は、特に義務教育段階は、ガラッポンで変えてみて「あら? 失敗しちゃいました」で済まず、取り返しがつきません。だからこそ長い時間をかけて微調整が行われつつ現在の状態に帰着しているのです。時代に合わせて変えていくことは必要ですが、それは漸進的でなければなりません。これは教育というもののある種の宿命だと思います。


英語教育について

この番組で橋下徹氏は、英語教員の免許はどうなっているのかと問い、「俺、中学校、高校、大学で十年、英語習っても何にもしゃべれないもん。教え方がおかしいと思う」と言っています。これ、よくある勘違いのひとつで、あまたの先人が繰り返しその矛盾を指摘していることですが、週に数時間で十年学んでも、それを「語学を十年学んだ」とは言えません。あまりにも大雑把すぎる議論の前提です。

また橋下氏は「最初に“This is a pen.”かなんかが入るけど、あれネイティブの人に聞いたら、まず言わないって言うもんね。日常生活では絶対に使わないと。『これは』っていちいち言わなくても(目の前に見えていて)みんな分かってるわけだから」とも揶揄しています。これも語学を巡る、よくある勘違いのひとつです。

これは、語学を単なるコミュニケーションのツールとして捉えるかどうかという観点です。もちろん語学には「使えてナンボ」という側面もあってそれも重要ではありますが、それはその語学を本当に、今すぐ待ったなしで必要とする人(生活するとか仕事をするとか)の場合です。学校教育、それも初中等の段階では、語学はむしろ母語との世界観の違い(森羅万象の切り取り方の違い)を体感し、母語をより豊かにするために位置づけられるべきものだと私は思います。また異文化や異民族との違いを体感し、より公平でフラットな人間観を育むためのものであるべきだとも。

“This is a pen.”から学ぶのがよいかどうか(学習者の興味を引くかどうか)については議論があってよいと思いますが、畢竟これは文法を理解させようとするための設定なんですよね。子供は文法など気にせずどんどん話せるようになるとか、ネイティブ(スピーカー)は「そんなこと言わない」と言ってるとか、巷には語学に関するずいぶん乱暴な議論があふれていますが、その種の、母語と外語の違いさえも踏まえていないような議論に与してはいけません。語学(第二言語学習)は、もちろん文法だけに偏ってはいけませんが、かといって文法を軽視してもいけないのです。

ただし、「選択制でいいんじゃないの」というこの番組全体の議論、語学に関しては賛成です。小学校低学年から、週に数時間でだらだらと外語(なかんずく英語)を学ぶなど、いちばん非効率(イヤな言葉ですが)なやり方なのです。外語は、必要になった方が、その時から寝食忘れて死に物狂いで、がおすすめです。

数学について

橋下氏はよほど学者や教員がお嫌いなようで、こうもおっしゃっています。「インテリの学者とかはみんな、ああいうのは役に立つ役に立つって言うんだけど、役に立ってるものなんてほとんどないもんね。小学校、中学校、高校とかで勉強で習ったことは」。

それに応えて乙武氏が「サイン・コサイン・タンジェントを使ったことがない」と声を上げると、橋下氏「どこで使うの?サインコサインとか」、鈴木涼美氏「因数分解とかも使わないよね」、サバンナ高橋氏「なんで上底と下底を足させとんねん」、橋下氏「元素記号も使ったことないしさ」……と番組はがぜん盛り上がります。そして最後に「それ(そういう専門的なこと)は選択でいいんじゃないか」と結ぶのです。

でもこれは短見というものではないでしょうか。三角関数因数分解や幾何の公式や元素記号などを学ぶのは、のちのち使うか使わないかではなく、つまり実学のためではなく(人により実学にもなるけど)、そういう知見を学ぶことで抽象的な思考や想像力などが鍛えられ、それが豊かな人格を育むことに寄与するからです。教育は、コインを入れてボタンを押したら商品が出る自販機みたいに単純なものじゃありません。

教養について

橋下氏は上記の議論を受けて「勉強ができている人はそういうのも教養だと言うんだけど、そういう連中をもう取っ払わないといけない」と息巻くのですが、私は世界が新しい方向に向かいつつある今ほど、つまり、格差が広がり、内向きの保守主義が台頭し、AIなどの技術が暮らしを変えつつある今とこれからほど、幅広い教養が必要な時代はないと思っています。

この議論では、「ネットを検索すればわかる(だから専門的な知識をみんな平等に学ぶ必要はない)」というようなことをおっしゃる橋下氏に対して、堀潤氏が真逆の意見をおっしゃっていたのが面白かったです(真逆なので、スルーされちゃったけど)。いわく「僕、大学で教えてるんですけど、学生たちが僕がちょっとなんか言うと先生それ(ネットで)調べればすぐ出てきますっていうんだけど、学生に言うのはインターネットの中に入っていることって全部過去だよ。みんな未来を作るためにここにいるのに、過去を見ておもしろいのって」。

なるほど、私も授業中に「分からない→すぐスマホで検索」とか「だってウィキペディアに書いてありました」という生徒に対して日々「まずは自分の頭で考えてみましょう」と繰り返し伝えているのですが、この堀氏のお話、こんど拝借してみようかな。

フィンランド語のしくみ

お正月休みに読んだうちの一冊です。白水社から出ている「言葉のしくみ」というシリーズのひとつですが、とても感銘を受けました。

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フィンランド語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

「言葉のしくみ」とは、要するに「文法」のことなのですが、この本はできる限り文法用語を使わず説明することに徹しています。最低限の「主語」や「名詞」や「動詞」といった言葉は出てきますが、フィンランド語なら「不定詞」とか「格語尾」とか「母音調和」といった言葉はもちろん、「文法」という言葉さえほとんど出てきません。

そのかわりに「しくみ」として、「文字と発音のしくみ」から始まり、「分のしくみ」や「区別のしくみ」「『てにをは』のしくみ」……などなどが平易な表現で説明されています。とくに「区別のしくみ」というのは、語学の本質を突いていますよね。つまるところ言語とは、森羅万象をどうやって切り取って表現するか、つまりこれとあれとをどう区別するかという、そのやり方の体系であるからです。

この本の帯の惹句には「新書みたいにスラスラ読める!」「まずは寝ころんで、コレ読んで」とあります。もちろん、薄い本ですからフィンランド語のしくみ——文法をすべて網羅しているわけではありません。でもその一方で、この言語の核になる考え方、つまりフィンランド語を使う人々がどうやって森羅万象を切り取っているのかが、とても分かりやすく書かれています。

分かりやすく、かつ「王道」

著者の吉田欣吾氏は『フィンランド語文法ハンドブック』や『フィンランド語トレーニングブック』といった本格的な学習書も著されている大学の先生で、私もこの二冊には日々お世話になっています。でもこの本では、学者さんであればこそ無謬性にこだわってつい網羅的にあれこれ書きたくなるであろうところを、かなり抑えて書いていらっしゃいます。

とはいえ、入門書にありがちな「とにかく文法なんかあとまわしで、コミュニケーションできればいいんだ」という、一見実用的でありながら、結局はその言語に対するリスペクトを欠いたスタンスではありません。そうした、いわばその言語を「舐めた」態度は極力排しつつ、フィンランド語の魅力を繰り返し伝えています。

このように、初学者に分かりやすく、かつ語学の王道的なアプローチをする……自分も中国語を教える立場にあるので日々痛感していることですが、これはなかなかできるものではないと思います。

学習者に考えさせる

もうひとつ、この本の優れたところは、先に「しくみ」を説明してしまうのではなく(その方が手っ取り早いんですけど)、例文をいくつか挙げて、読者に「ここにはどういう『しくみ』が潜んでいるのか」を考えさせる、という形になっているところです。私は、語学にはこうした自ら文法を発見していく、そしてそれが母語とどのように違うのかを体感していくというプロセスがとても大切だと思っているのですが、まさにこの本ではそれを繰り返し行っているのです。

また基本的に見開き単位、または1ページでひとつのトピックスが語られ、完結する体裁になっているのも読みやすく、次々に新たな考え方が(それも母語とは全く異なる世界観による)登場して挫折しがちな初学者にとって、とても優しい設計だと思います。

俯瞰的なアドバイス

そして、ところどころに、その言語を学んできた方だからこそ言える、ある種の「奥義」あるいは「気づき」みたいなもの(というと大袈裟ですけど)が披露されているのがすてきです。例えば語順によるわずかなニュアンスの違い、前置詞や後置詞と格変化が協力してゆたかな「てにをは」の世界を作り出しているというフィンランド語のメカニズム、そして「フィンランド語の勉強は最初のうちは少し面倒だけど、しばらく勉強を続けるとどんどん楽になる」といった、達人ならではの「箴言」。

中国語も、特に日本語母語話者にとっての中国語は、多くの漢字を共有しているがゆえに最初は発音で苦労する*1けれども、しばらく勉強を続けると、膨大な古典からの遺産を共有していることが体感できてがぜん面白くなる(漢字文化を共有していない他の言語話者には体感することがかなり困難な世界)という側面を持っています。最初からそんな深遠なことを言っても始まらないかもしれませんが、語学というひとつの山を登ろうとする際に、こうした俯瞰的なアドバイスは大きな励みになるのではないでしょうか。

この「言葉のしくみ」シリーズは、Amazonの「なか見! 検索」で見るかぎり他の言語もおおむね同じような構成で書かれているようです。編集者の巧みな意図というか、語学に対する強い思いが出ているような気がします。収録音源が無料でダウンロードできるのも親切。新しい語学に興味があるとき、まずはこのシリーズで全体を俯瞰してみるの、おすすめです。

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https://www.hakusuisha.co.jp/search/s6994.html

*1:往々にして逆に考えている初学者が多い(私もそうでした)のですが、実は同じ漢字で双方の発音が違っているので、母語が発音に干渉するという点で却って学びにくいのです。

ふたたび、キャッシュレス化をとっとと進めてほしい

先日こんな記事に接しました。ファミリーレストランの「ロイヤルホスト」を運営する会社が作った「キャッシュレス(現金お断り)店」のルポです。

www.itmedia.co.jp

お店をキャッシュレスにすると、現金の管理や就業後の「レジ締め」などの業務が不用になり、いいことづくめ。それでもこちらの会社、この「実験店」はともかく、本家の「ロイヤルホスト」ではキャッシュレスに踏み切ることは考えていないそうです。その理由は8割のお客さんが現金で支払っているため、キャッシュレスにすると売り上げが2割は落ち込むことが確実だからとか。

QRコードで決済すれば速く終わるじゃないか」という指摘があるかもしれませんが、利用する際にまだまだ不慣れな人が多い。あと、事業者が多いので、お客さんも迷われるんですよね。「いま、どこの会社のモノを使えばいいのか」といった具合に。

なるほど、この部分は、日本ならではかもしれないなと思いました。「不慣れ」といいつつ、実は変化することを怖れ、「みんなと同じ」横一線が大好きなメンタリティ。「どこの会社のモノを使えばいいのか」とお互いに牽制し合い、気を使い合う自己規制。きわめて短期間のうちにQRコードによる決裁が(少なくとも都市部では)普及してしまった中国とは好対照です。

政策や市場のあり方などが日本とは全く違うお国ですから、比較するのはあまりフェアじゃないかもしれませんが、「便利なら、使う。それが何か?」という中国人的リアリズムもキャッシュレス普及の一翼を担っていると思います。世上よく「日本と違って中国のお札はボロボロで、自販機などにも適さないからいきおいキャッシュレス化が進む」などという分析を披露しているテレビ番組などがありますが、いったいいつの話をしているのでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2018/12/qr.html

先日、北九州市の実家に帰省したのですが、街のあちこちでクレジットカードが使えませんでした。タクシーも、車窓にはカード会社のマークが貼ってあるにも関わらず、やんわりと断られました。北九州市といえば、往事の活気はだいぶ薄れてしまったとはいえ、人口90万人以上の大都市です。私一人の狭い体験だけで決めつけるわけにはいきませんが、地方都市はどこでも似たようなものなのかもしれません。もちろんデパートやスーパーやコンビニなどでは、クレジットカードや交通系ICカードが普通に使えますが、その他の電子マネーの、特に中小の商店での普及はまだまだかな、という印象です。

中小の商店にとっては導入費用や手数料などが二の足を踏む理由になっているのかもしれませんが、上記のようにその分軽減される様々な作業もあってメリットは多いはず。今年はぜひキャッシュレス化がどーんと進むことを期待したいと思います。

qianchong.hatenablog.com

やめることを続ける

昨年の一年間、ブログを毎日書くことを続けてきましたが、その一方でやめてしまった、あるいは「やめることを続けてきた」こともいくつかありました。

飲酒

以前は毎日晩酌をして、休肝日などというものに全く縁がなかったのですが、いわゆる「男性版更年期障害」に耐えかねて体調の改善を志して以来、酒量をどんどん減らし、現在では週末にしか飲まないようになりました。最近は週末に飲むのもだんだんしんどくなってきたので、もっと減らすつもりです(多少の未練がまだある)。

いっぽうで食事の際に合わせるノンアルコールの飲み物を研究してみようと思っています。昨年の春にフィンランドを旅行した際、レストランで料理に合わせたノンアルコール飲料のセットがあったのですが、最近はこうした「ノンアルコールペアリング」が注目されているらしいんですね。

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▲メニューの左下隅に「Nonーalcoholic package 50€」とあります。

SNS

以前はFacebookTwitterをはじめ、その他あれこれのSNSのヘビーユーザーだったのですが、そのほとんどをやめてしまいました。現在はTwitterだけたまに書き込むくらいで、Facebookはほぼ知人とのMessengerしか使っていません。LINEも家族との連絡用とLINE Payだけで、以前におつき合いで入ったグループ的なものはすべて脱退かミュートにしています。

Twitterは、距離を置いてたまに覗いてみると、その一種異様な言語空間にたじろぎます。うまく表現できないのですが、ものすごく雑多で一方的な大声が四方八方からやって来ては飛び交い、ぶつかり合っていて、すごく「ストレスフル」なのです。また気づかぬうちに様々なリンクをクリックして大量の時間を消費することもしばしば。SNSは、少なくとも私にとってはかなり中毒性があると悟ったので、今年はTwitterからももっと距離を置きたいと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2014/09/blog-post_2.html

オーバースペックな教材作り

これは数年来の課題で未だ道半ばですが、ぜひともやめることを続けて行きたいと思っています。私は授業の教案に凝るあまり、膨大な時間をかけて教材を作り込むスタイルでこの十年ほどやって来たのですが、さすがに身体にこたえるようになってきました。しかもそれだけ作り込んだからといって、じゃあ教育的な成果がそこまで上がっているかと客観的な目でジャッジしてみれば……答えは「否」だと思います(じつに悲しむべきことですが)。

以前、某学校で非常勤講師をしていた際、ある方にこんな助言を受けたことがあります。「ありものの教材でも、それなりに成果の上がる授業を組み立ててこそプロですよ」。その時の私は、ありものの教材なんて……とその助言には多少の反発がありましたけど、いまではその助言の意味が分かるような気がします。私は教材を作り込む部分でかなり力を使い果たしていたのかもしれません。本当は教材を使ってどういう授業をするのかにこそ一番力を使わなければいけないのに。策士策に溺れる、ということですかね。

年賀状

一昨年に義父が亡くなり、年賀状を遠慮させてもらったのをきっかけに、昨年は完全に(メールなども含めて)年賀状をやめました。おかげで今年は「年賀状を出さない人認定」されたのか、数枚いただいただけでした。年賀状を送ってくださった方には、ごめんなさい、そのうちにまた時候の挨拶でもと思いますが、この「虚礼」をやめることができたのは本当によかったと思います。

こうしてあれこれ「やめることを続けてきた」のは、やはりなんといっても細君のくも膜下出血とその後の経過が大きかったと思います。人間、いつ死ぬか分からない。というか、私など、うまく行ってあと20年も生きられたら御の字でしょう。20年なんて、本当に短い。もうあれこれのことに心煩わせたり、かかずらっている時間はないのです。

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