インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

続ければ続く

昨年の一月二日に何となく思いついて、はてなブログで一年間毎日文章を書いてみました。

qianchong.hatenablog.com

それまではたまに更新する程度で「ほとんど放置」状態だったので、「続くかな?」とあまり自信はなかったのですが、忙しい暮らしの中でもけっこう続くものですね。いや、というよりも「続ければ続く(続けなければ続かない)」といった方がよいでしょうか。

ブログを一年間毎日続けた「結果」は……実はあまり感じないですけど、まあ文章を書くのが速くなりました。それから、文章を書いていて「あ、これはきちんと着地できて、まとまった文章になるな」というのと「あ、これは空中分解して、着地できないな」というのが分かるようになりました。

それから、文章は書き始めてみて初めて動き出すというのも分かりました。文章の書き方は人によってそれぞれでしょうけど、私の場合はまず最初に全体を大きく俯瞰しておいて、大体の流れを意識しながら書き始めます。でも書いているうちに予想から外れた方向に飛んでいったり、書いているうちに最初の予想とは違う着地点が見つかったりします。

どなたかが「書いている時の自分は、普段よりちょっとだけ頭が冴えている」というようなことを言っていましたが、書くことが自分の思考をより後押してくれるということは確かにありそうです。

ブログを毎日書いていると、逆に一日の中で文章を書かないと何だかむず痒い気持ちになります。語学でも運動でもそうですけど、それをしないとむず痒い、気持ち悪い……と思えるようになったらしめたもので、それは習慣化できつつあるということです。「続ければ続く」というのはつまり習慣化するまで続ければ吉、ということなんでしょうね。

そして習慣化するまで続けるための秘訣は、毎日の「続ける量」を最初はかなり少なく設定するという点だと思います。最初から「続けるなら最低これくらいはやらないと」などと欲張ったり意気込んだりせず、「たったこれだけで『続けている』と言えるかしら」というくらいの少量から始めるのです。

そうしておいて、脳が、身体が「今日もそれをしないとむず痒い、気持ち悪い」と思うようになるまで続ける。そうすれば続くようになります。なんだか禅問答みたいですけど、昨年はこの「続ければ続く」ことを再認識した一年でした。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_209.html

しまじまの旅 たびたびの旅 85 ……旦過市場

北九州市小倉北区の「旦過(たんが)市場」に行ってきました。ふだん人混みは苦手だといいながら、こういう古くからの市場を見て回るのは国内外を問わず大好きです。

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魚介類が新鮮です。年末で、マグロとブリとフグばかりが目立つ印象ですが。間口が1.5mくらいしかないんじゃないかと思われるお店で、フグを大皿一皿分引いてもらいました。

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昔はこういうお店に頼むと、陶器の大皿を貸してくださったもので、子供の頃に「菊盛り」された大皿を受け取るためにお使いに出された記憶があります。いまはもうプラスチックの大皿で風情が半減ですが。

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旦過市場には鯨肉の専門店がいくつかあります。いろいろ珍しい部位があるのですが、鯨ベーコンと「おばいけ(皮下脂肪。酢味噌で食べると美味しいです)」を買いました。

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お正月の食材もたくさん売られています。

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北九州の商店街は、地方都市の例に漏れずどこもいささか寂しい雰囲気になってしまいましたが、旦過市場は、特に年末のここは、まだ活気にあふれています。この雑多な雰囲気のまま今後も残り続けてほしいです。

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ジャーにゃんの非正規雇用観

数日前の東京新聞に、2008年の「年越し派遣村」を回顧した記事が載っていました。

www.tokyo-np.co.jp

1986年に施行された「労働者派遣法」では、通訳者など13業務がその対象になり、2003年の法改正では原則として最長1年とされていた期間制限が最長3年に緩和されました。私は2003年から約3年弱、台湾に「長期派遣」で赴任していたのですが、なるほど、それができたのもこの法律があったからこそなのかな。

記事によると、この法律の施行後も派遣労働、つまり非正規雇用はどんどん進み、私が台湾にいた2004年には「労働者の3人に1人が非正規雇用に」なっていたとのことです。「雇用の調整弁」などと呼ばれる非正規労働ですが、そうか、本来ならば私も正規雇用されなければならない立場ではあったわけですか。もっとも私は、あの長期派遣時の経験がいまの仕事に大きく影響しているので、仕事の内容そのものや報酬面も含めて、とても感謝しているのですが。

ところで、派遣労働というといつも思い出すのが「求人ジャーナル」のテレビCMです。同社の公式キャラクター「ジャーにゃん」がお仕事探しのアプリを紹介するのですが、例えば「お仕事いろいろ篇」はこんな内容です。

youtu.be

このアニメーションには「バイト」「派遣」「パート」「社員(正社員?)」の四種類の「ジャーにゃん」が登場するのですが、バイトと派遣とパートはいずれも額に汗して忙しそう&仕事に追いまくられているいっぽうで、社員だけがゆっくりお茶飲んだりして優雅なんですよね。

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▲バイト

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▲派遣

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▲パート

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▲社員

わははは。きっとアニメーターさんは無意識のうちに作っちゃったんだと思いますが、非正規雇用における現場の現状と、一般の人々の正規雇用に対する漠然としたイメージが、端なくも表れているような気がする……といったら言いすぎかな。このアニメーターさんは正規雇用なのかしら? それとも派遣労働かしら?

しまじまの旅 たびたびの旅 84 ……門司港の天麩羅屋さんと焼き芋屋さん

帰省するときはいつもスターフライヤーを使っているのですが、この十月から北九州・台湾間へ就航したのを記念してか、機内のビデオ放送で北九州観光の特別番組をやっていました。歌手のジュディ・オング翁倩玉)氏が案内する、中文字幕つきの門司港近辺ガイドです。

www.starflyer.jp

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© 民間放送教育協会/K.Yukitake

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こんな言い方も大変失礼ですが、ジュディ・オング氏によるガイドはとても丁寧な日本語で分かりやすくて、これは行って見たいと思わせるものばかり。というわけで、さっそく門司港近辺に出かけてきました。夏にも抹茶アイスを食べに来た「梅月」さんは臨時休業とのことで残念でしたが、ビデオにも出てきた天麩羅屋さん「天ぷらのひろ」が素晴らしかったです。

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天麩羅だけでなくフライも多種多様なものが売られていますが、こちらは持ち帰りの専門店。しかも小皿ひとつで100円から300円程度とみんな激安です。

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鯨や牡蠣など魅力的なのがたくさんあるんですが、ジュディ・オング氏もおすすめだった海老皮(海老の殻をサクサクに揚げたもの)と3つで100円のカレー味のコロッケと、揚げたてで店主のお兄さんがおすすめのウズラの卵を買いました。

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これを食べ歩きしながらもう一軒、こちらはビデオにも出てこなくて地元の人に教えていただいた焼き芋屋さん「芋伝説」へ。間口の狭いお店の前に様々なサツマイモの段ボール箱が並べられていて、一種異様な店構えですが、売られているのはスイートポテトや大学芋などの甘味系。それに店の奥に窯があって、品種を指定して焼き芋を量り売りしてくれます。

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店のおじさんが、サツマイモの品種をひとつひとつ、味の特徴とともに解説してくださいました。

この二つのお店がある栄町銀天街という商店街は、いわゆるシャッター商店街になりつつあって門司港が栄えた往事の活気はあまり残っていませんが、それでも最近は韓国や中国語圏からの観光客が多く訪れるそうです。スターフライヤー(星悅航空)で台湾からの観光客もより多く訪れていただけるといいですね。

しまじまの旅 たびたびの旅 83 ……薄味のとんこつに癒やされる

年末の帰省ということで、北九州市にやってきました。帰省でいちばん楽しみなのは家族に会うこともさることながら、本場のとんこつラーメンを食べることです。今回も北九州空港から実家に向かう途中で、もうお目当ての一軒に寄ってしまいました。

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帰省して食べるたびに思うのですが、本場のとんこつラーメンは本当に薄味です。食べた瞬間に「ああ……」とほっとする味。東京ではどこのお店でラーメンを食べても塩が強すぎて身体が受けつけず、数年前まではあんなに好きだったのにほとんど食べなく(食べられなく)なりました。これも年齢のせいでしょうか。万やむを得ず食べる場合でも、大将の目を盗んでコップの水を足す始末です。もちろんぬるくなって美味しくないので、ますます食べなくなる……という結果に。

そこへいくと、北九州のラーメンはとにかく薄味なのです(それでも私の父親などはお店によって「塩辛い」と言いますが)。地元の人には無類のラーメン好きが多く、毎日お昼に食べるような剛の者もいるのですが、そりゃこれだけあっさりしていたら毎日だって飽きないだろうなと思います。

ところで、とんこつラーメンが「あっさり」って「どゆこと?」と思われるでしょうか。

いや、私は九州で生まれ育っていない(単に実家があるだけ)のであまりエラそうなことは言えないのですが、九州のとんこつラーメンは、それも地元に根ざした昔からのお店は概してあっさり味です。「濃厚」や「こってり」を標榜したお店もあるにはありますが、そも味の濃厚さと塩辛さは別のパラメータですよね。

いっぽうで関東のとんこつラーメンは、概して「濃厚すぎ」「こってりしすぎ」じゃないかと思います。関東の方はドロドロしたスープこそとんこつラーメンと思ってらっしゃるフシがありますが(もちろん本場にもそういうタイプはないわけではないものの)、あれは関東の方の好みに合わせて変化した別物のように私には思われます。

関東でもときどき「本場ふう」にあっさりしたとんこつラーメン店が登場することがあって、昔はネットでそういう情報を仕入れるとわざわざ食べに出かけたりしたものです。でもそういうお店はたいがい長く続かずに暖簾を下ろしてしまうんですよね。やはり関東の方の口には合わなかったということなのでしょうか。

今回まずおじゃましたのは(これからもっと食べる予定)、こちらのお店。

店内満員、でも回転が速くて、店員さんもとびきり感じがよくて、本当に素敵なお店でした。しかも薄味のとんこつラーメンが絶品。あまりに美味しくて、つい写真を撮るのを忘れ(いらすとやさんのイラストをお借りします。いつもありがとうございます)、看板だけ写してお店を後にしました。

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https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_4739.html

追記

作家の松本清張氏がお気に入りだったという中華料理店の「耕治」にも初めて行きましたが、こちらのお味は、う〜ん、ものすごく塩が強かったです。こういうお店もあるんですね。あああ。

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ZOZOの社長にぜひ能面を買っていただきたいです

先般、ファッションショッピングサイト「ZOZOTOWN」を運営する株式会社ZOZOの社長、前澤友作氏が1717年ストラディヴァリウスのバイオリン「Hamma(ハンマ)」を購入したというニュースが流れていました。

www.huffingtonpost.jp

購入金額は明らかにされていませんが、こちらの記事によるとストラディヴァリウスのバイオリンはいずれも一挺十億円規模の価格がつくそうです。

toyokeizai.net

この購入を巡って、ネット上では「金持ちの道楽」とか「それだけのお金があれば他の有意義な事業に寄付すべき」などといった意見が散見されました。私は、まあ自分のお金をどう使おうがその方の勝手だと思いつつも、前澤氏が他にも高額の美術作品などを蒐集していることから、今回もまたそうした美術品所有欲の成せるわざなのかなと漠然と考えていました。

ところが、お能の師匠にうかがったところによると、こうした名器と言われる楽器を富豪が所有するのはわりとよくあることなのだそうです。しかも所有した富豪がそれらの楽器を演奏家に貸し出すことで、名器が単なる金持ちの個人的な趣味で死蔵されることを防ぎ、金銭的には厳しい状況にある若手の有能な演奏家にも名器に触れる機会を与えることになると。

前澤氏も上記の報道で「今後、このストラディヴァリウスを世界中ぐるっと旅させます」とコメントし、「現地の音楽家の皆さまにもご協力いただきながら、その国や地域の子供たちの耳に、この力強くも繊細な奇跡の音色を届けていければと思います」としています。なるほど、音楽芸術に関して真っ当な見識を持った方が名器を所有すれば、よりその楽器の存在価値は高まるということですね。

そして師匠は、この仕組みをお能の「面(おもて)」にも取り入れることができればいいのに、とおっしゃっていました。能楽において「面」はとても大きな意味を持つ存在で、これなしには能楽が成立しません。しかも楽器の名器同様、古くから伝えられた伝説的で貴重な「面」がたくさんあるものの、それらのほとんどは各流儀ごと、あるいは能楽師や収集家の個人所有が多く、市場に流出していて散逸の危険性があるものも多いとのこと。

こうした「面」は優れたものでもせいぜい数百万円単位だそうで、バイオリンの名器に比べれば桁がずいぶん少ないです。師匠は、そうした散逸の危険にさらされている「面」を能楽に造詣の深い資産家が買い取り、ストラディヴァリウスと同様これはと見込んだ若手能楽師に貸し出すというような仕組みができればいいのに、とおっしゃっていたのです。なるほど、そうなれば資産家は貴重な作品を所蔵でき、能楽師は貴重な「面」をつける機会ができて芸の励みになり、「面」自身の散逸も免れることができます。

前澤氏はいまのところ、時計とか絵画とか自動車とか飛行機とか月旅行とかプロ野球球団とかにご興味があるようですが、ぜひどなたか周囲の方が、日本の伝統芸能、とりわけ能楽へと引きずり込ん……いえ、お誘い申し上げていただけたら幸いです。

ZOZO前澤友作の高額購入品と所持品リスト!社長さんのお買い物! | EATalk

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https://www.irasutoya.com/2017/12/blog-post_923.html

「エスカレーターで歩かない」をめぐって

先日の東京新聞、宮子あずさ氏の「本音のコラム」で、二列で乗るエスカレーターの片側を空けるか否か問題が論じられていました。

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宮子氏は、空けるべきではなく二列で止まって乗るべき、と主張し、その理由として片側を空けて歩けるようにするのは「強者の論理」であり、二列で止まって乗る方が輸送効率も高いことを挙げておられます。確かに、エスカレーターが階段を上る労力を軽減するための装置と考えれば、弱者への配慮こそ最優先に考えられるべきですよね。

ただ宮子氏ご自身もおっしゃっていますが、ここまで生活習慣として根付いてしまったエスカレーターの「片側空け」を変えるのは容易なことではないようです。急いでいる人は階段を使えばいいという意見もありますが、エスカレーターと階段が併設されていない場所もあって、なかなか難しいです。私も空いている方の片側に、舌打ちや「急いでるんだよ!」などの罵声を浴びるかもとおびえながら止まって乗る勇気はまだありません。

エスカレーターで歩いて怒られる

ただこの罵声、私は全く逆のシチュエーションで浴びたことがあります。仕事で名古屋に行った際、地下鉄駅のエスカレーターで空いている片側を歩いて降りていたら、その片側に立っている人がいたので「ちょっとすいません」と脇を通り抜けようとしたところ「歩くなって書いてあんだろが!」と大声で怒鳴られたのです。

その人は五分刈り頭に筋骨隆々とした体格の、悪役プロレスラーみたいな強面の男性(失礼)でした。見ると確かに、エスカレーターの脇、手すりの外側に「エスカレーターでは歩かないでください」と書かれていました。なるほど、名古屋の地下鉄ではこうしたキャンペーンを強力推進中だったのですね。

そして、それでも長年の習慣からか、つい片側を空けて乗ってしまう名古屋のみなさんを尻目に、このキャンペーンを意気に感じたあの筋骨隆々男性は、その空いている片側に堂々と立ち、たまたまそれを知らずに歩いて降りてしまった私に一喝を加えたというわけです。その悪役然とした風体(失礼)と「マナーを守りましょう」的正義感のギャップに私は吹き出しそうになりつつも、その一方で恐怖で顔を引きつらせ、その場に立ちすくんでしまいました。いや、特異な体験ではありました。

待ち時間はほんの数十秒

私は、二列のエスカレーターは二列で止まって乗り、歩くべきではないと思っています。理由は、上掲の宮子氏のような主張もさることながら、エスカレーターで歩いてもさしたる時間の節約にはならないからです。

ネットで検索してみると、現在首都圏でいちばん長いエスカレーターは大井町駅にあるそうです。乗っている時間は約1分30秒とのこと。仮にこのエスカレーターを急いでいるからと歩いて上った(下りた)として、いったいどれくらいの時間の節約になるでしょうか。ましてや通常のもっと短いエスカレーターだったら。

現在の片側空けだと、エスカレーターに乗る際に長い行列ができがちで、それもあって急ぐ方はより片側を歩きたがるという悪循環に陥っていますが、全員が止まって乗っても、歩いて乗るのとの時間差はほんの数十秒程度ではないでしょうか。たったそれだけの時間を節約するために、宮子氏のおっしゃる「強者の論理」が振りかざされるのはやはり間違っていると思います。

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https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_46.html

私は人の多い場所が苦手で、エスカレーターや階段の下に並ぶのさえ苦手です。それで朝のラッシュ時など、電車のドアが開いた瞬間に我先にとエスカレーターや階段に殺到する黒山の人だかりに巻きこまれるのを避けるため、人があらかたいなくなるのを待ってから、ゆっくりと利用することにしています。

新宿や渋谷など、いつも混雑している駅でこれをやると、いったいどれくらい待つことになるのかを測ってみたことがあるんですけど、いずれも30秒から1分ほどの時間でした。ちょっとスマホのメールやSNSを覗いていれば過ぎてしまうような短い時間です。これ、やってみると分かりますけど、意外なほど短い時間で人混みは解消します。いままで我先にとイライラしていたのは何だったのかと、かなり驚くこと請け合いです。

qianchong.hatenablog.com

スーパーのレジでも、少しでもすいている列を探して右往左往したり、レジの列の進みが遅いと舌打ちしたり「何やってんだよ!」と怒鳴ったりする方(初老の男性に多い)がいますが、あれもほんの1〜2分程度の差でしかありません(これも測ってみたことあり)。そんな時間をイライラしながら稼いでもあまり意味がないのではないかと。

というわけで、エスカレーターでは歩きたくない、でも空いている片側に堂々と立つ勇気もない(あの筋骨隆々男性のように)私は、そばに階段があればそれを使い、ない場合には1〜2分間Spotifyで曲を探すなどして待って(実際にそれほど待つことはまずありません)からゆっくり移動するようにしています。そのためにスケジュール前倒しで行動するという習慣も身につきました。

「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」 という、昭和48年(1973年)の全国交通安全運動で採用された標語は現在でも有効ですね。

ピダハン

ダニエル・L・エヴェレット氏の『ピダハン』を読みました。ブラジルアマゾンの奥地に住む少数民族・ピダハン族の言語を、30年近い歳月をかけて調査してきた記録です。


ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

言語を構成する音素が約10個と極端に少なく、その一方で声調が重要な役割を果たし、さらに口笛やハミングなどでも伝達ができ、数や色、左右や時制を表す言葉がなく、特に「魚を獲った男が家にいる」のような入れ子構造をもつ「再帰(リカージョン)」が全く見られないという特徴は、チョムスキー言語学の理論を覆す発見として注目されたそうです。

この本ではそうした言語学上の格闘についても多くの紙面が割かれていますが、私がいちばん心を引かれたのは、そうした言語にも表れているピダハンの人々の世界観や人生観(死生観といってもいい)、あるいはその文化の諸相です。私たちが現在生きている西洋文明、あるいは西洋的な文明のあり方とはかなり異なるピダハンの人々の暮らしですが、それはこの本でも通奏低音のように繰り返し語られるように、とても充実した精神生活であり、幸福で満ち足りた一生なのです。

むしろこの本は、西洋的価値観+キリスト教的価値観の体現者であった一人のアメリカ人が(筆者がピダハンにアプローチする最大の理由は、キリスト教の聖書を翻訳して伝導することでした)、ピダハンの言語と文化に触れる中でその価値観を変容させられていったその過程こそ、最も読みごたえのある部分かもしれません。実際、世界観が揺らいでしまったことで筆者は最終的に信仰を失い、そのために家族も崩壊してしまうのです。ただその筆致があくまでも明るいことが「福音」ではありますが。

それにしても、最終章で語られる「伝導の失敗」に関する記述は、非キリスト教者である私から見れば、一種異様に思えるほどの素朴さ&一方的な押しつけで、正直に申し上げて少々「引いて」しまうほどでした。かつての中南米におけるコンキスタドールたちのふるまい(アステカ帝国を侵略したコルテスやインカ帝国を侵略したピサロなど)も根っこは同じなのかもしれません。

前々から、特に911以降、アメリカ合衆国という国はやたらに宗教をふりかざす「神がかり」的な国だなあと思っていました。現在は何やらとても「内向き」な彼の国ですが、かつては神の名のもとに世界各地でこうしたキリスト教的世界観の普及を図っていたのかと思うと、そしてそれがどれくらい奏功してしてしまったのかと考えると、ちょっとその横暴さに身震いするほどです。

それでもピダハンにとって救いだったのは、ダニエル・L・エヴェレット氏が自らの宗教的基盤さえうち捨てるほどの聡明さを持っていたことでしょう。もっとも、そんな氏の奮闘をよそに、ピダハンの人々がその価値観をほとんど変えていないように見えるのもまた興味深いです。話者が数百人になっても、ピダハン語はその独自性とピダハン自身のモノリンガル性から、ユネスコの言語消滅危険度評価でも「脆弱」のカテゴリーにあり、危機に瀕する言語とは考えられていないのだそうです(最近はポルトガル語の浸透が強まっているようですが)。

とにかく興味深い本です。でも、私はこの本をとある大学図書館で借りたのですが、なんと2012年刊行のこの本を私の前に借りた方は一人もいませんでした(見返しに貸出日のスタンプを押す紙が貼ってあるのです)。なんともったいない。みなさんにお勧めしようと思います。

そんなに出世したいですか?

日経ビジネスオンラインで、CMプランナーの岡康道氏とコラムニストの小田嶋隆氏がメインのトーク記事を読みました。「人生の諸問題」というコラムで、長年楽しみに読んできた記事です。今回が一応の最終回とのこと。おお……。

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今回の話題は主に50代のサラリーマンにおける「出世観」なのですが、読んでいて、自分も同じ50代ながらどこか遠い星の物語を聞くような感覚になりました。そんなにみなさん、出世したいんですね? そして多くのみなさんが夢かなわず、失意の日々を送っているんですね? ……って、本当に?

いや、サラリーマンにとって出世が究極の目標であることは理解できなくもありません。以前勤めていた会社でも上司の口癖は「社内で偉くならなきゃ意味ないだろ」でしたし、映画『シン・ゴジラ』でも主人公の矢口蘭堂内閣官房副長官に、松尾諭氏演じる泉修一政調副会長が「出世は男の本懐だ」などと言っていました。

泉氏のセリフはさらに「そこに萌えんとは、君、なぜ政治家になった?」と続くのですが、政治家に限らず、サラリーマンも出世には「萌える」のが普通らしいですね。私は社会人人生のスタートからしてつまづき、足踏みし、その後遠回りし続けて今に到っていますので、出世に萌えるどころか、考えたことすらありません。

そりゃまあ、出世して権力を持てば、あれこれのことがもっと自分の思うままになるかもしれないという野心みたいなものはありますけど、そういう「出世=権力=我が意のまま」という発想をする人間こそ出世して人の上に立っちゃいけないわけでして。私は私の性格からして、権力を持てば必ず恐怖政治を敷く体質であることをよく分かっているので、その意味でも出世とは縁遠いところで人生を歩みたいですし、また実際にそうなっているので本当によかったと思っています。

出世をサラリーマン人生における唯一の指標としなくなれば、人生はラクになります。とはいえ例えば『釣りバカ日誌』の浜ちゃんみたいな在り方は、あれはフィクションだから可能なんであって、実際の組織では出世しないと自分の存在が無価値なものに思えて苦しいということはあるでしょうね。そのまま何十年も組織にいたら精神を病むかもしれません。『ラーメン発見伝』の藤本浩平みたいに具体的な野心があれば別でしょうけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_119.html

いっぽうで、上記のこの記事における小田嶋隆氏の至言は「一言多いやつは出世しない」なんですが、これはその通りかもしれません。初手から出世とは縁遠い存在の私でしたが、様々な職場で一言どころか二言も三言も多くて、その度に「立つ鳥跡を濁しまくり」で転職を繰り返してきましたから。どこか遠い星にいたのは、ほかならぬ自分なのでありました。

女子会にひとり混じるのが楽しい

忘年会シーズンです。が、ここ数年はほとんど忘年会や新年会のたぐいに参加しなくなりました。私が人付き合いの苦手なあまのじゃくだからじゃなくて、仕事関係で忘年会に呼ばれることがほとんどなくなったのです。これは全くエビデンスのない妄想ですが、語学業界の方々ってどちらかというと一匹狼的にゴーイングマイ・ウェイでエキセントリックな方が多いような気がします。だから普通の組織みたいに連れだって会食に行き盛り上がるのが苦手なのかもしれません。

とはいえ、いま一番多くの仕事をこなしている某専門学校では、先日忘年会が開かれました。学校全体の教職員ではなく、私が所属している研究室の教員五名だけのささやかな会です。私以外は全員女性で、私が幹事役になって銀座某所のビストロを選びました。

言うなれば、いわゆる「女子会」にむくつけき男が一人だけ混じるようなものです。話が合わないんじゃないか、「女子」の方だって「黒一点」の取り扱い方に困るんじゃないかと思われるでしょうか。それが私、こういう会食がいちばん楽しいんです。以前勤めていた会社で男性の同僚に「女性ばかりの会に一人で参加するのが楽しい」といったら「そんな『アウェー』はありえない」と驚かれました。

でも、私にとっては例えば男性のみ五人の会食とか飲み会の方がもっと「アウェー」です。だって話が合わないんだもの。2018年の現在では男性の生態もずいぶん様変わりしていると思いますが、少なくとも私くらいの世代の男性って、会食や飲み会になると仕事の話かスポーツ(プロ野球とかサッカーとか)の話か、はたまたちょっと際どい話題がメインで、私はそういうのに昔から全然興味が無くてついていけないのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/03/blog-post_641.html

あと、女子会で行われる会話を仔細に観察していると、話題が実に豊富で、かついい意味で(?)深まらない。脈絡がないと言ってもいいですけど、ちょっとしたきっかけで、いやちょっとしたきっかけさえなくいきなり話があちこちに飛んでその刹那刹那で「わあっ」と盛り上がって笑いこけるんですね。私はこういう方が肩肘張ってなくて好きです。

私は細君と話していて、彼女があまりにも脈絡無くあれこれの話題にポンポン飛ぶので、よく「なんでその話題になったの?」とか「さっきの話とどう繫がってるの?」的なクエスチョンを出すんですけど、細君は「いいの。私の頭の中では繫がってるの」といいます。どうやら、いろいろ頭の中で考えていることがときどき声になって出てくるといったふうなんですね。

最初はなかなか慣れなかったんですけど、次第にこういう間欠泉的な発話につきあうのもなかなか面白いと思えるようになりました。よく言われることですけど、要するに「質問の答えを求めてはいない。ただ話を聞いて反応してほしいだけ」なのかもしれません。いや、こう言い切っちゃうと、もはや何を言われても「へえそう。そうだねえ」ばかり返しているみたいで却って「バカにしてんのか」って感じですけど。

とにかく、女性ばかりの会での会話は「これこれこうなんだよ」→「ふうん、そうなのか、そうだねえ」というちいさな傾聴と共感がさざ波のように寄せては返すってのが心地いいんですよね。

男性のみの会食でも「バカ話」は多いですけど、なんというのかな、現今の芸人さん文化に影響されすぎなのか、とにかく誰もが「ウケを狙う」というか、面白いことや鋭いことを言わないと負けみたいな、一種競うような雰囲気があって、私はあまり馴染めないんです。……まあ一般化はできないと思います。私のこれまでの職場でおつき合いのあった男性にたまたまそういう方が多かったというだけのことかもしれませんけど。

そういうことを公私ともにいろいろな場所でつぶやいていたら、取材されて記事にもなりました。これはもう十年以上も前ですけど、当時から私は男性だけの会が苦手でした。今でも苦手です。

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ただし、女子会に一人参加する「男子」として、ひとつだけ気をつけていることがあります。それは理屈をぶつ傾向がすぐに頭をもたげるので、なるべくそれを抑えるということです。特にお酒が入って饒舌になるタイプの私みたいな男性は危ない。いわゆる「マンスプレイニング」的に語り出す危険性があるんですね。

今回のビストロでの忘年会でも、私が「昔取った杵柄」で分厚いワインリストからあれこれ選んでいるうちにこの「マンスプレイニング」的な傾向が頭をもたげて、つい語り出しそうになって「いかんいかん」と思いました。いや、ちょっと語っちゃったかもしれません。申し訳ないです。

でもまあ女子会特有のとりとめもない(褒めてる)楽しい会話で三時間ほどはあっという間に過ぎ、銀座四丁目の交差点でそれぞれが乗る電車の駅に向かって別れる際にハグまでして帰ってきました。男子会で最後にハグまでして別れるなんて考えられないから、これも女子会で幸せな気分になれる理由のひとつ……いや、昨今の男性諸君はハグくらいするかもしれませんね。

「明るくて清潔」な未来を信じてる

初冬から次の年の二月頃までにかけて、四月入学の留学生の入試面接を担当することがあります。その中で、なぜ日本語を学びに留学しようと思ったのかと尋ねると、華人留学生のかなり多くの方が答える第一番目の理由は「子供の頃から日本のマンガやアニメを見て育ったから」です。「ドラえもん」や「名探偵コナン」が最頻出作品ですね。

第二番目は「旅行で日本に来たときに、街がとっても清潔だと思ったから」です。昨今は留学前にも日本へ旅行で(それも何度も)訪れているという方も少なくないんですよね。いやほんと、二十年くらい前から華人留学生と関わる職場で働いてきた私には隔世の感があります。

この「日本の街がとても清潔だと思った」というの、かつては内心「そうですか? 例えば東京でも新宿や渋谷など、けっこう乱れてるけどなあ」などと思っていたものですが、最近は「まあそうかもしれないな」と思うようになりました。中国や台湾でも特に都会は清潔だなと思える場所も多いですが、やはり日本の各地は以前に比べて格段にきれいになったと思います。

私は小学生の頃に、まだ舗装されておらず自動車の轍が残る道路や、道端の「ドブ板」などがあったのを覚えている世代で、駅でも飲食店でも、長じた後は職場でもタバコが吸い放題で、ゴミのポイ捨てや吐痰(おっと、これは中国語でしたか。つまり痰を吐く行為)も今より多かったし、駅には「痰壺」さえあったのも記憶に残っています。いつも拝見しているシロクマ (id:p_shirokuma)氏のこちらの記事にある通りです。

p-shirokuma.hatenadiary.com

その意味では本当にいい時代になったなあと思いますし、これからもどんどんよくなっていくとかなり楽観的に考えています。もちろん現在の日本は政治経済面では何やらきな臭さや閉塞感が立ちこめていますし、「よそ者」に対してかなり冷たい社会ですが、こと暮らしのマナーについては日本人の民度は確実に上がっているし、私がいちばん苦手なタバコ環境の改善もさらに進むものと希望を持っています。

上記のシロクマ氏はこうした状況について、こう述べておられます。

現在よりももっと清潔で健康的で道徳的な近未来の社会では、今まで以上に細かな不清潔や不健康や不道徳が槍玉に挙げられるようになり、現在のタバコと同等かそれ以上の非難の対象になっていくのではないだろうか。

確かにそうかもしれません。電車内での暴力(乗客同士や乗客の乗務員に対する暴力)について、それを戒める啓発ポスターを日々見かける東京の現在は、以前に比べて「細かな不清潔や不健康や不道徳が槍玉に挙げられる」ようになったのかもしれません。

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https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2018/sub_p_20181130_h_01.pdf

ましてや私はこのブログで何度も「タバコの害」や「健康のためのトレーニング」についてエントリを上げていますから、そうした「槍」をやたら振りかざす尖兵になる要素がたっぷりです。実際、タバコや公共交通機関などでのマナーに関しては、正直毎日と言っていいほど軽い殺意を覚えるくらい短気な私です。そのために毎日定刻の一時間半〜二時間も前に出勤しています。満員電車を避けるためだけに。

それでも私はあの昔の記憶にある「快適でも健康的でも便利でもなかった社会」に戻りたくはない(まあ戻れもしません)ですし、そうした規範意識を互いに急進的に押しつけあってドラスティックに社会を変えようとする動きには疑問を呈しながらも、より明るい未来を信じたいと思っています。

「二人になるのを避ける」理由について

先日の東京新聞朝刊に「『#MeToo』に萎縮する男たち」という特報記事が載っていました。いわゆる「ハラミ会(「ハラスメントを未然に防ぐ会」という、男性だけの飲み会)」や「ペンス・ルール(妻以外の女性とは二人きりで食事をしないという、ペンス米副大統領の発言)」などを紹介した上で、セクハラを防ぐ、あるいはセクハラだと糾弾されるのを防ぐために、「女性と二人になるのを避ける男性が増えている」という内容です。

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こうした動き、私も短絡的で浅薄な対応だと思いますが、同僚の女性数名とこの件を話してみました。彼女たちの一応の結論としてはまず、性別を問わず、何らかの縦の関係にある二人が、二人だけで会ったり飲食したりするのは基本的にNGではないか、ということでした。なるほど。でもうちは、細君も私も、性別や縦横の関係に関わらずそれぞれが人と会ったり食事したりしてるんですよね。

細君も私も、例えば夜に用事がある時(それが一人だけの私用だろうが、誰かと会っての食事だろうが)には、朝の出勤時に「今日は遅くなるから」と言うだけです。うちは私が炊事全般の担当なので、晩ご飯の要不要(細君が出かける場合)あるいは「あり・なし」(私が出かける場合)も伝えます。それだけ。基本的に誰と・どこで・何をするのか、お互いに確かめもしません。

でも同僚の女性は「それはちょっとありえない」と言うのです。最低限誰と・どこで・何をするから遅くなる、とか、ご飯は要らないとか言うのではないかと。しかも会う相手が異性だった場合とか、年齢差がある場合だったりすれば、当然気になるではないかと。

まあ細君の正直なところは分かりませんが、少なくとも私は、全然気にならないし、気にしないんです。お互いに信頼があるからと言えばカッコいいですけど、要は個人の自由だと思うんです、誰と会おうが何をしようが。夫婦といえども干渉すべき・できることではないと思うんですよね。大人なんだし。

これはまあ、私たちに扶養家族がおらず、お互い再婚同士だから、そしてこの年齢だからという要素が様々に絡んでいるような気がしますが、私に限って正直に言えば、たぶんそんなに相手のことに興味がないのかもしれません。夫婦なのに冷たすぎる? 確かにそんな気もします。もちろんパートナーの存在はとても大切ではあります。ただ個人の自由を最大限尊重したいだけです。

実は私、ずいぶん前から女性と二人で会食するというのをやっていました。相手は親しい友人だったり、職場の同僚だったり、仕事で協同(字幕など)した仲間だったりします。未婚者も既婚者もいました。お互いよく知っていて信頼もあって、そういうふうに二人で会食することそのものに自分も相手もとくだん特別な感覚を抱いたことはなく、単に会って、話して、食べて、「美味しかったねえ。じゃまたね」でおしまい。よしながふみ氏の『愛がなくても喰ってゆけます。』に出てくる、「F山」氏と「Yなが」氏のこんなシーンにそっくりでした。でもこれも、世間的には「ありえない」のかな。

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上掲の記事では、ウォール街出身のニューヨーク市副市長とシニアアドバイザーの女性四人による公開書簡が引用されています。いわく「女性と二人で食事するという簡単な行為すら、ばかげたこと(セクハラ)をせずにはできないのなら、財務上も文化的にも会社に不都合をもたらす。自分の行動を保証できないような男に、あなたは数百万ドル託せますか?」と。もっともです。

また英誌『エコノミスト』記事の引用もあって、こちらは「そういう男性たちは適切な行動の仕方を知らないか、あるいは、人口の半分を占める女性はひたすら虚偽のセクハラの訴えをするものだと考えているかのどちらかだ」と論評しています。これも、もっともだと思います。誰かと二人だけで会う際に守るべきルールは、相手の属性に関わらず、ひとりの人間として尊重し合あうことだけではないでしょうか。

「きれいごと」に聞こえるかもしれません。でも「ハラミ会」や「ペンス・ルール」などを設定してリスク回避しなきゃいけないくらい、そこまでみなさん(特に男性)の多くが、一人の社会人として「何をしてはいけないのか」が分からない、あるいは女性と二人きりになると「何をしでかすか分からない」のでしょうか。だとしたら本当に情けないことですし、不可解です。

www.businessinsider.jp

中年になってからの歯列矯正

私は40歳を過ぎてから「歯列矯正」をしました。ときどき人から「中年になってもできるの?」と聞かれることがあるので、簡単にまとめてみようと思います。

歯列矯正は子供がするもの?

私もかつては、歯並びを直すというのは成長過程にある子供の頃だけの話だと漠然と思い込んでいました。その一方で私は、若い頃から自分の歯並びがあまり好きではありませんでした。前歯、特に上の片方の歯が極端に前に出ていて、唇を閉じても時々歯が見えることがあったからです。

笑うときに歯が見えるのもなんとなく気になって、軽いストレスを感じていました(自意識過剰ではありますが)。で、あるとき履歴書用の証明写真を撮ったら歯が見えた状態で写ってしまったことを契機に、一念発起して歯列矯正について調べ始めました。

調べてみて分かったのですが、歯列矯正は大人になってからでもできるんですよね。私のように40歳という「高齢」になってもできるのかどうか分からなかったので、ネットでいくつか歯列矯正の専門医を探して、受診してみました。

歯科医を選ぶ

都合3軒ほど、歯科医を「はしご」しました。セカンドオピニオンを聞くのが大切だと思ったからですが、最初に訪ねた歯科医があまりにも「営業的」で、ちょっと身構えてしまったからでもあります。歯列矯正はそれなりのまとまったお金が必要で、歯科医にとっても「大きな商売」なのでしょうね。その歯科医は受信後もDMを送ってきましたし、診察室もかなり高級なサロン的雰囲気で、なるほど歯列矯正というのはそういう「セレブ的(?)」な世界の一端なのだなと感じた次第です。

結局、目黒区は洗足にあるこちらの歯列矯正専門の歯科医院を選びました。

www.senzoku-square.com

自宅からは遠かったんですけど、料金が比較的良心的だったのと、駅前で便利だったこと、先生が歯列矯正の「認定医」に加えて「指導医」の資格もお持ちだったこと、最初の診断で現在の状況を分かりやすく説明してくださり、今後の具体的な治療案も提示してくださったことなどが決め手になりました。

認定医:5年以上の矯正治療経験があり、審査に合格して得られる資格。
指導医:12年以上の矯正治療経験があり、認定医取得後に大学病院で3年間の教育歴がなければ取得できない資格。

ここの先生はその後「専門医」の資格も取られたそうです。「認定医・指導医・専門医」については、こちらをどうぞ。

http://www.senzoku-square.com/japan_super_orthodontists.html

費用

ホームページによると通常の歯列矯正の場合「¥650,000〜¥750,000」とのことです。私が受診したのはもう10年以上前ですが、確かに合計でこれくらいの費用がかかりました。う~ん、まあ、お安くはありません。また、歯列の状態によってはこれよりもかかる場合もあるとのことです。

私はその直前に台湾へ長期派遣で赴任していて、そのときの給料+海外派遣手当などをまるまる貯金していた分でまかないました。田舎のへんぴな場所にあるプラントでの「実質24時間勤務」だったので、お金を使うところがなかったのです。

治療期間

このブログにも「治療記」(カテゴリーの「歯列矯正」)を書いていましたが、さっき確かめてみたら歯列矯正の装置をつけていた期間は約2年でした。その後「リテーナー(保定装置)」という、歯列が戻らないように固定するマウスピースのようなものをつけていました。このリテーナーは現在でも、夜寝るときに装着しています。また現在でも半年に1回通院して、定期検診を受けています。虫歯予防にもなって助かります。


暮らしや仕事への影響

歯列矯正の施術は様々な種類がありますので、詳細は各歯科医のウェブサイトなどにあたっていただくとして、私が実際に歯列矯正の施術中(特に矯正装置が歯に装着されている段階)に感じたことを簡単にまとめます。

・矯正装置

一般的な「マルチブラケット」と呼ばれる、歯の表側に装着する装置を選びました。いったん装着すると、約2年間つけっぱなしになります。表から見えないように歯の裏に着けるタイプや、透明なマウスピース状の装置もあるそうですが、いずれも矯正のスピードがやや落ちるそう。私はなるべく最短で矯正してしまいたかったので、スタンダードなタイプを選びました。このあたりは医師から詳細な説明があります。

https://www.irasutoya.com/2014/04/blog-post_28.html

実際には途中で2回ほど一部が外れたので、緊急で装着し直してもらいました。装置が外れるとかなり危ない(ワイヤーや装置の一部で口腔内を傷つける恐れがある)ので緊急の処置が必要ですが、遠方への出張中にそういうことが起きても、地元の歯科医で何とかしてもらう……というのはかなり難しそうで、これは一つのリスク要因ではあります。もっとも、普通に暮らしているだけではそうそう外れるものではないらしいので、多分私の「狼吞虎咽(ガツガツ食べる)」な食べ方に問題があったのでしょう。

装置をつけているとかなり目立つんじゃないかと思って、最初は抵抗がありました。特に当時語学教師や通訳業などをしていて、人前で話す機会が多かったからで、特に中国語の発音指導などでは、口の形や舌の位置、それに歯の開け方などを細かく実演するので、最初はかなり不安でした。また装置をつけると発音がしにくくなるのではないかとも思いました。

結果的には、ほとんどの心配が杞憂でした。生徒さんの中には「私も子供の頃に矯正していましたよ」と理解を示してくださる方も多かったですし、周囲の人たちも最初は「へえ、矯正中なんだ」と興味を示すものの、すぐに馴染んでしまいます。だいたい、自分があれこれ気にしているほど、人はそんなに私のことなど興味ないんですよね。みなさん自分の人生で忙しいんですから。

発音も、装着して数日はかなり話しにくくて「これは暫時廃業かしら」と心配しましたが、すぐに慣れてしまいました。特段話しにくいとか発音しにくいなどということは、私についてはありませんでした。

・食事の問題

歯の表面にかなり複雑な形の装置がついているので、食事ごとの歯磨きは必須です。しかも装置の隙間や奥まで磨くために、普通の歯ブラシとは別に、歯科医で進められた細長い形の歯ブラシも併用していました。こういうのです。


https://www.amazon.co.jp/dp/B0744J7MVP/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_gffhCb2CGVPJQ

また、あまり堅いものは食べられなくなります。装置が外れてしまう可能性があるからです。それ以外は特に制限されませんでしたが、カレーは食べませんでした。食べても別に問題はないのですが、装置を固定している半透明の小さな輪ゴムみたいなのがあって、それがカレーのスパイスで黄色く染まってしまうからです(現在では改善されているかもしれません)。

また矯正開始当初はかなり痛くて、ものが上手く食べられないという状況もありました。それでもやはり矯正を続けるうちに慣れちゃいます。人間って、かなり特殊な状況でも慣れてしまえるものなのですね。

・痛みの問題

上記のように、装置を初めてつけた日はかなり痛くて泣きそうになりました。やはり「矯正」の名の通り、強引なことをやっているわけですから、仕方がありません。また装置の出っ張っているところが口腔内の粘膜などに当たることで、口内炎に似た炎症を起こすこともあります。そのための薬も処方されていました。

矯正中のかなりの時間帯は、夜寝る際にヘッドギア状のものを頭につけていました。これは主に装置と連結させて「加強固定(動かしたくない歯をしっかりと固定)」するために使われます。これをつけて装置を引っ張っているときも、最初はじんわりとした痛みを感じてあまりよく寝付けず、苦労しました。でもこれも、じきに慣れてしまいます。

矯正を終えてみて

全体として、やはり歯列矯正をして本当によかったと思います。あのままコンプレックス(卑屈な、本質的ではないコンプレックスですが)を抱えて悶々としているより、矯正して思い切り話したり笑ったりできるようになったというのは、存外心理的に大きな効果がありました。もっとも、私はその後に介護疲れ(?)で顔面麻痺を発症してしまい、笑顔が作りにくくなっちゃったんですけどね。

また矯正後は顔の形というか雰囲気がかなり変わりました。そういう意味では歯列矯正もまごうかたなき「整形」ですね。私はもともと上下の歯列がいずれも前に出ている状態で、例えが適切かどうか分からないけど「犬顔」だったんですね。口の周囲全体が前に出ている感じというか。それが矯正後はかなり引っ込んだ形になったと思います。

また「あれだけ真剣に矯正に取り組んだんだから」ということで、歯の健康についてよく考えるようになりました。毎度毎度の歯磨きはもちろんですが、定期的な歯の健康診断に行き、幼い頃に虫歯治療で詰めた金属をセラミックに変えたり、PMTC(専門家によるクリーニング)を受けたりするなどして、虫歯などの不健康な状態からはこの十年あまりずっと遠ざかっています。

歯列矯正をしても、また加齢と共に歯列は多少崩れていくのですが、今でも就寝時にはリテーナー装着を欠かさずにいるので、矯正完了から10年以上経った現在でも歯列はほとんど崩れていません。いくつになっても健康な歯できちんと食べることができるというのは何物にも代えがたいものなので、とても満足しています。

歯列矯正には様々な方法があって、健康な歯を抜いてそろえる(私はこの方法で都合四本抜きました)施術や、それは不自然なのでなるべく歯を抜かないで行うと謳っている施術など、多種多様です。またその方の歯列の現状によっても方法や期間や金額などもかなり違ってくるので、まずは信頼できる医師を探して、カウンセリングを受けるところから始めるとよいと思います。

頑迷な老人にならないために

若い頃、頑迷な老人が大嫌いでした。今でも苦手です。むかし取った杵柄をいつまでも後生大事に抱え込んでいて、新しい知識のアップデートを怠っていて、時代と激しくずれている方。しかもそういう方が権力を持っていたりするともう目も当てられません。

でも最近、じゃあ自分は、自分の仕事のフィールドである中国や中国語に関してそういう老人になっていないだろうか、あるいはなりつつあるのではないだろうか……と自問するようになりました。中国をはじめとする中国語圏は変化が速く激しいので(逆に日本の変化が遅すぎるとも言えそうですが)、よほど意識して注意をはらったりアンテナを張ったりしていないと、すぐに「頑迷固陋な老人的」な勘違いに陥ってしまいそうです。

といって、そうやっていつもキャッチアップに汲々としているのは疲れますし……世に言う「チャイナ・ウォッチャー」の方々は本当に気が抜けない日々を過ごしてらっしゃるんじゃないかしらとお察し申し上げます。変化が早くてエキサイティングではあるけれど、けっこう目まぐるしいというか、面倒くさいというか、あまり心穏やかではいられない業界ですよね、現代中国に関わる業界って。

言葉の変遷

とにかくまあ、そう意識して、ときに自分の中国や中国語に関する知識を「棚卸し」してみると、昔の経験や常識でずっとリファインしてこなかったものとか、かつての職場だけで通じたニッチな「潛規則(暗黙の了解)」とか、現地に身を置いていないがためにずれてしまっている語感とか、そういうものがたくさんありそう……いや、実際にあって、本当に冷や汗をかきます。

あまり適当な例を思いつかないのですが、例えば中国語の「小姐」の変遷。私が初学者だった頃、この言葉は英語で言えば「Miss./Mrs./Ms.」のように、女性の名前につける一般的な呼称でした。また名前を知らない方に対しての呼びかけにも使えると教わりました。

そののちこの言葉は、女性に対して少々失礼ということで(「ねえちゃん」的な語感とでもいいましょうか)忌避されるようになり、例えばレストランなどではスタッフを「小姐」と呼んでいた時代から「服務員」などになり、さらにそれもちょっと古い語感になって単に「你好」とか「不好意思(すみません)」などと言うようになり、でも地方によっては現在も「小姐」が現役で「普通に使うよ?」だったりして……。

現代はどこの国でもポリティカル・コレクトネスを重視するのが倣いということで、「スチュワーデス」が「フライトアテンダント」などになるのと同様、中国語でももはや「空中小姐」は使いにくい……と、いま私はこのように書いていますが、これだってもしかすると使い古された知識かもしれず、また広い広い中国語圏のいずこでも汎用的だと言い切ることは難しいです。また時と場合によっても違いますしね。

さらに、いま現在の言い方をネイティブ・スピーカーに聞いて確かめようとする際にも、「地域ナショナリズム」みたいなものに注意が必要です。中国語は巨大な言語であるがゆえに、ある地方では現役の言葉であっても、ある地方では時代遅れだったり全く使われなかったりすることもあるからです。ネイティブ・スピーカーといえども、そのくびきからは逃れられません。さっきの「普通に使うよ?」も、留保をつけつつ聞いた方がいい。

qianchong.hatenablog.com

ともあれ、自分の過去の達成や成功体験などからできるだけ距離を置こうと意識しなければ、すぐに「頑迷な老人」のダークサイドに堕ちてしまいそうです。まあ無謬性は追求してもし尽くせるものではないので、少なくとも自分の思い込みや間違いを指摘されたら、それをまずはありがたく素直に受け入れてみるという心構えだけは忘れないでいたいものです。

「センセイ」が一番あぶない

ある程度の年齢になると、本音で厳しいことを言ってもらえる人間関係を作るのが徐々に難しくなるような気がします。別に私は何の肩書きもない人間ですけど、そんな馬齢を重ねた私でもひとつの業界で経歴が積み上がってくると、それなりの立場になったり、周りからそれなりに扱われたりする。非常勤講師をつとめている某通訳学校では、講師をまるで「腫れ物を触る」がごとき扱いで平身低頭されちゃうんですけど、私はアレ、正直に言ってとても苦手です。

だいたい講師業を都合20年程やって来ているというのもホントに危ういんです。最初は「先生」と呼ばれるのさえ違和感があって(いまでも多少あります)「センセイと呼ばれるほどの〇〇でなし」みたいな自虐さえカマしていたのに、だんだんその呼称にも慣れ、権威的になり、「最近の若いもんは」的なセリフを発してたりして………あああ、怖い。

頑迷固陋な老人に陥らないためには、新たに「初心者」となれる環境に身を置くのがいいかもしれません。仕事をリタイアしたその先も、これまで培ってきた知識や技術を活かして……などとセコい考えを起こすのはやめて、講師や師匠やトレーナーから「ぜんぜんダメ」とハッキリ言われるような環境を常に求めるのです。そのためにも体力だけはつけておこうと思います。
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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_426.html

「どゆこと?」を生まないシンプルさがほしい

先日、都営大江戸線新宿駅改札を通りかかったら、東南アジアからと思われる観光客のご夫婦に遭遇しました。券売機の前で困ってらっしゃる様子だったので、簡単な英語でお手伝いしたのですが、確かにこれは困るでしょうねえ、と思いました。

お二人は地下鉄の「ワンデーパス」を買おうしていたようです。券売機で英語表記を選べるところまではよかったものの、東京メトロ都営地下鉄でパスが分かれていて、なおかつ双方乗れるパスもあり、都合三つの選択肢があるので「どゆこと?」と戸惑っていたのです。確かにこれ、東京の地下鉄事情をご存じない観光客には分かりにくいですよね。

さらに、お話ししてみると最初はPASMOを買わなきゃいけないと思ったそうで、PASMOの購入画面に進むも、記名式と無記名式の選択肢があってこれも「どゆこと?」と。で、うっかり記名式に進んじゃって、個人情報(氏名、生年月日、性別、電話番号)の登録を求められ、さらに「どゆこと??」となったよし。確かにこれも分かりにくい。

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https://www.pasmo.co.jp/tc/buy/

もっとシンプルな仕組みにできるといいなと思いました。例えば台湾にも、PASMOに似た「悠遊卡」などのチャージ式カードがありますが、買って、チャージして、使うだけ、と極めてシンプルです。地下鉄(MRT)以外にコンビニでも使えますし、使い勝手はPASMOとほぼ同じですが、外国人が購入して使うという点で入り口の敷居が極めて低い。というか、チャージ式プリペイドカードとは本来そういうものであるべきでしょう。それ以上でも以下でもない。なのに日本のそれは初手から外国人にも記名式と無記名式を選べるよう提示してきて、これはこれで「おもてなし」なんでしょうけど、複雑ですよね。

またこちらは外国人観光客向けに配布されているPASMOのパンフレットですが、初めて来日した外国人観光客になったつもりで読んでみていただきたいと思います。そのあまりの複雑さに恐怖さえ覚えるのではないでしょうか。

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https://www.pasmo.co.jp/tc/pdf/guide01.pdf

路線図にしたって、確かに首都圏の交通網はこの通り超弩級に複雑なんですけど、ここまで余すところなくすべて載せる必要があるでしょうか。ましてや今はグーグルマップなどで路線検索ができる時代だというのに。これを言っちゃ身も蓋もないかもしれませんが、このようなパンフを作るよりも無料Wi-Fiなどスマホの通信環境を充実させる方がよほど喜ばれると思います。

様々な選択肢を豊富に用意するのが日本流「おもてなし」だとすれば、それはひょっとすると大きな勘違いかもしれません。くだんの東南アジアのご夫婦も、結局はPASMOをあきらめて紙の「ワンデーパス」を購入されたのですが、最後に「領収書は要りますか」というボタンが出てきたので押したら、ワンデーパスと同じ色と大きさの領収書が出てきて(つまり機械から同じような紙が二枚出てきたわけです)またまた混乱されていました。

領収書まで発行してくれるなんて、とても日本的らしい細やかな「おもてなし」かもしれません。でもその細やかさが逆に「どゆこと?」という混乱を生んでいるような気もします。日本には日本の事情がありますし、台湾など諸外国の公共交通機関と東京の複雑怪奇な鉄道事情を一緒に語るのもやや乱暴かもしれませんが、日本人がよかれと思って細かく作り込んでいる「おもてなし」は、実はそんなに素晴らしいものではないのかもしれない、と思わされた一件でした。

追記

……というようなことをブログに書いていたら、ネットでMay_Roma(めい ろま)氏のこの記事を読みました。おっしゃるとおりだと思います。

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