インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

自分ひとりで生きようとすること

先日、NHKの「ニュース9」で「九州大学 ある“研究者”の死を追って」という特集を放送していました。概要はこちらの特設ページで読むことができます。

www3.nhk.or.jp

この特集は昨年の暮れに放送されたドキュメンタリー番組「事件の涙」を元にしたもので、多くの方のコメントがついています。「ニュース9」での放送後にもTwitterなどでは多くのツイートがなされていました。

www.nhk.or.jp

コメントやツイートのなかには同じ研究者や大学院生、ポスドクの方、あるいは親御さんたちから「他人事ではない」「明日は我が身」といった共感や同情が多く見られます。私は研究者でも何でもありませんが、派遣や非常勤といった形態で働いてきた経験が多く、失業したことも何度かあるので、やはり共感や同情とともにこの報道を見ていました。

他の国はどうだか分かりませんが、日本の大学や専門学校などでは常勤職員が数多くの雑多な事務作業をこなしていて、研究や教育だけに専念できるという環境は少ないようです(初中等教育の先生方も、その超過労働がたびたび問題視されていますね)。ですから常勤は常勤で大変なのですが、収入の安定という点では恵まれています。学校にもよりますが、ボーナスや退職金があり、有給休暇や学期間休み、さらにはサバティカルみたいなものも取ることができます。

その一方で非常勤は、それも週に数コマしか授業を持てないとなると、当然ながら生活のために複数の学校で授業を掛け持ちせざるを得なくなります。授業をコマで受け持っているといっても、授業に関する業務はそのコマの時間内だけできっちり終わるものではありません。教材を作り、教案を練るのは当然のことながら授業の時間外ですから、結局のところ時間外労働が発生してしまう。そうした作業にかかる経費をすべて学校側に請求できるかといったら、必ずしもそうはいきません。

私も現在非常勤でうかがっている学校がありますが、こちらはかつて在職されていた先生方の働きかけで学校側と交渉を行い、コマ当たりの講師料のほかに、自宅などで行う教材作成にも一定の報酬を設定していただいています。労働が発生しているのですから当然と言えば当然なんですけど、その当然なことがいずれの学校でも行われているかというと、残念ながらそうではない。学校までの交通費にしても、私がこれまでに勤めた学校では、出るところと出ないところがありました。

非常勤講師の時給

実際のところ、非常勤講師の時給はどれくらいなのでしょうか。私は中国語に関する講師をしてきましたが、以前勤めたことのあるいくつかの学校では、いずれも時給は3000円程度でした。教材作成費などは基本、出ませんでした。交通費は上記のように実費が出るところと出ないところがあり、まちまちです。でも、いま試みにGoogleで「中国語講師 時給」と検索をかけてみたところ、こんな結果が出ました。

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1600円、1500円、1400円ときて、中には1000円から、というところも。まあこれは経験や勤続年数によって増えていくということなんでしょうけど、全体のレートは通訳や翻訳と同様に、どんどん下がってきている印象ですね。これは中国語講師の時給ですが、「英語講師 時給」で検索をかけてもそれほど大差ない結果が出ました。う〜ん、松田青子氏の小説『英子の森』で描かれた、この国の語学スキルに対する低評価に思わず天を仰ぎますが、さらに「塾講師 時給」で検索しても、これまた大差ない結果が出るので、これはもう非常勤講師全体の時給相場ということになるのでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

もちろん、すでに豊富な経験があったり、特殊な技能の講師ということであったりすれば、また違った相場が存在するのも確かです。また1600円の時給だって、一般のパートやアルバイトに比べれば十分高給ではないかと感じる方もいるかもしれません。でも、上述したように授業以外にも膨大な作業が発生する講師業は、単に時間で「はい、ここまで」と労働を打ち切ることができる作業とはかなり違った側面を持っています。その労働に見合った時給であるべきですし、最低でも授業のコマ以外の作業時間(労働時間)にも一定程度の報酬が設定されるべきですよね。

K氏の自殺に思うこと

冒頭の放送に寄せられたコメントやツイートと同じように、私もK氏の自殺に対しては胸ふたぐ思いですが、自殺というやむにやまれぬ、でも最悪の結末を選んでしまったことについては、もう少しその生き方を変えることができなかったのだろうかと思えてなりません。番組の中で、K氏の大学院時代の先輩がこんなことをおっしゃっています。

ただ単に食っていくだけだったら、そこそこにやればよかったのかもしれないけど、授業するということが、最後の生きがいだったのかもしれませんね。

そう、これは自戒でもあるのですが、「そこそこにやる」という姿勢を極端に排除してしまう心性が、心の闇を引き寄せてしまうのではないかと思うのです。特に研究者や、研究者でなくても学究肌の人が往々にして傾斜していく「無謬性の追求」という心性が。もちろん、手抜きや不誠実を推奨するわけではありません。ただ、自分の進む道はこれしかない、これ以外はすべて間違っていると過度に無謬性や純粋さを追い求めてしまうとしたら、かえって人間の自然なあり方から遠ざかることにはならないでしょうか。

「世の中そんなもん」といった雑駁な世界観に収斂してしまうのは本意ではないのですが、K氏は自ら掲げた「研究者になる」という理想にあまりにも一途でありすぎたのかもしれません。理想に一途であることは崇高ではありますが、その一方で現実世界と折り合いつつ清濁併せ呑む胆力のようなものも必要だと思います。夢や理想を追い求めている人に現実を説くのは、野暮であり、お節介であり、無神経でもあるかもしれませんが、時には誰かがその冷徹な現実を伝える役割を果たすべきなのかもしれません。

そして自分ひとりで生きていこうとせず、頼れるものには頼る、頼れる人にも頼る、頼って助けてもらった恩はその先の人生のどこかでまた誰かに返していく……といった長いスパンでのものの見方も養っていくべきではないかと。その意味では、K氏にとってそんな「持ちつ持たれつ」の人間関係が希薄だったことも、自分を追い詰める要因のひとつになったのかもしれません(番組では、K氏を支えていた方々が幾人か証言されていましたが)。

その意味でも、これまでいろいろな人や物に頼ってきた私は、今度は誰かに手を差し伸べる存在にならなくては……と、この放送を見て思ったのでした。