インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

言語リテラシー教育(のようなもの)の必要性について

先日Twitterのタイムラインで拝見したtoraneko285氏(@toraneko285)のツイート。

通訳という「作業」を利用するのは、ある言語で話した自分の言葉を違う言語で聞き手に届けてもらうためです。ちょっと考えれば、違う言語の方の耳に最終的に届く言葉は通訳者さんが話している言葉なので、その通訳者さんに最大のサポートをしてこそ自分の言いたいこともより伝わる……はずなのにそう考えない方が多いのは本当に謎です。

具体的には、話す際に使用する資料やパワーポイントなどのスライド、発表原稿や出席者の名簿、さらにはその発言が行われる背景についての知識など(交渉などの場合にはどんな戦略や隠れた意図があるのかなどまで)、とにかく最大限通訳者に伝えてこそ発言者である自らの理に適うことになります。

もちろんその辺の事情をよく御存知で、通訳者に対して最大限「まえびろ」で資料などを提供し、必要に応じてブリーフィングやレクチャーを行ってくださるクライアントもいる……んですけど、実際には私が以前ツイートしたような状況が、通訳者のみなさんから「あるある!」と言われてしまうような状況が多いのです。

こうなるともう、わざと相手に伝えないようにしているんじゃないか、通訳者に何か恨みでもあるんじゃないか、などと思ってしまいますが、もちろんそうではありません。端的に言って、通訳という「作業」についての正確な認識がないために、通訳者に情報を提供しないことがどういう結果をもたらすかについて想像が働かないのです。

しかし通訳とはもともと多少の「無理筋」を内包した営みです。業界の専門家ばかりが集まる会議で、専門家同士でさえまだ共通の知見が得られていない事柄について話す(だからわざわざ国際会議をやるのです)場面で、通訳者だけがひとり門外漢であるにもかかわらず、その門外漢が一番前に出て二つの言葉で瞬時に専門的な内容をやりとりする……という、この「無理筋感」をご想像いただけるでしょうか。

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qianchong.hatenablog.com

巧婦難為無米炊──ひとりだけ門外漢の苦衷
https://haken.issjp.com/articles/careers/ke_tokuhisa_09

わたしは上で「ちょっと考えれば(分かるじゃん)」と書きましたが、いや、そうではない。分からないのですね。そも言語とは何か、外語とは何か、言語が異なる人々との交流すなわち「異文化(異言語)コミュニケーション」とは何か、という包括的なリテラシー教育の必要を感じます。

昨今は「グローバル化」のバスに乗り遅れるなとばかり、朝野をあげて小学校から英語教育だとの声喧しいです。それぞれの言語の学習もけっこうですが、その前に、あるいはそれと平行して、「言語リテラシー」のような一般教養を発達段階に応じて身につけていくプログラムが必要ではないでしょうか。

それは言語の習得のみにとどまらず、多様性を認識し、認め合い、寛容と相互理解の精神を養うことなどにもつながると思います。