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しまじまの旅 たびたびの旅 122 ……ひめゆり平和祈念資料館、旧海軍司令部壕

台風一過となってもずっと重い雲が立ち込めていて、ときおり雨も降る天気でしたが、強風はなくなったので沖縄本島の南端まで出かけることにしました。まずは糸満市平和祈念公園にある沖縄県平和祈念資料館と平和の礎です。……が、到着してみると台風のため公園全体が閉園になっていました。残念です。

気を取り直して、すぐ近くにあるひめゆりの塔ひめゆり平和祈念資料館。こちらは開いていました。入り口で花を買ってひめゆりの塔に献花したあと資料館を見学しました。1945年の沖縄戦末期で多数が亡くなった「ひめゆり学徒隊」をはじめとする方々の慰霊碑と、その歴史を伝える資料館です。学徒隊員の母校は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校で、私はこれまで漠然とかなり小規模な学校(と学徒隊)を想像していたのですが、実際にはとても規模の大きな学校であったことを資料館で初めて知りました。

戦争、とりわけ沖縄戦の悲惨さと恐ろしさがひしひしと伝わってくる資料館でしたが、とくに私が考えさせられたのは4月1日のアメリカ軍による沖縄本島上陸以降、主に本島中部から南部にかけて激戦が行われ、日本側の敗色が決定的になった6月18日に、陸軍から学徒隊に対して突然解散が告げられたという部分です。館内の写真撮影は禁止でしたので細かい文言は違っているかもしれませんが「これまでご苦労だった。これからは自分の判断で行動するように」と言われた、というのです。

その時の絶望感たるやいかばかりだっただろうかと想像しました。事ここに至るまで「動員」して戦争に巻き込んでおいて、最後の最後には責任を放棄してしまうというこの体質。大戦末期の満洲における関東軍の開拓民・一般市民放棄にも通じるものがあります。軍隊というものは結局は(というか当然のことながらと言うべきか)軍事作戦の遂行を最優先させるものであり、国民の生命や財産を守るなどという建前はいとも簡単に放棄されてしまうのです。

そのあと、豊見城市の高台にある旧海軍司令部壕にも行きました。ここは台風が来る直前に車で来てみたら、対向車のおじさんから「今日は開いてないって」と教えられて引き返したところです。資料館とともに、地下壕がほぼ当時のまま残されていて、一部は見学することもできます。約3000人の将兵が手掘りで掘ったというこの壕、以前台湾は馬祖列島の南竿で見学した「大漢據點」と雰囲気がよく似ていますが、あれよりももっと狭く、息苦しく感じます。

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旧海軍司令部壕の司令官だった大田實少将は、最後はこの壕内で自決をするのですが、その直前海軍次官にあてて打電し、その中で沖縄県民の戦闘における貢献をたたえ、後世(戦後)において「特別のご高配を賜らんことを」と述べています。資料館の前にある戦没者慰霊塔の脇には大田少将のこの打電内容を顕彰する「仁愛之碑」があり、壕内にも同じ内容の現代文・英文・中文が掲示されていました。

個人的には、先の戦争における旧海軍のふるまいと「仁愛」はなかなか結びつきにくいのですが、本土防衛のために時間をかせぐ「持久戦」の、そのいわば捨て駒のような扱いをされた理不尽さと悲惨さは、軍民問わず同じ重さでもって受け止めるべきなのだろうなと考えました。