旧海軍司令部壕に続いてもうひとつ、沖縄陸軍病院南風原壕群20号に行きました。「壕群」の名の通り、このあたりには約30ほどの横穴壕が作られ、陸軍病院の代替施設として使われたということです。そのほとんどは埋没するか破壊されるかしていて、現在ほぼ当時のままの姿で見ることができるのはこの20号だけのようです。
https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/heiwadanjo/heiwa/documents/siryou2-2.pdf
黄金森公園の一角にあるこの壕、予約もせずに訪れてしまいましたが、受付の方とガイドの方がいて、壕内を見せてくださいました。旧海軍司令部壕は見学コースが整備されていて気軽に(というと語弊がありますが)入ることができますが、この沖縄陸軍病院南風原壕群20号ではヘルメットと懐中電灯を手渡され、さらに「今日は台風の後で壕内に水が出ていますから」と長靴に履き替えることを勧められました。
壕に入る前に「もしよかったら」と二重に密閉された小瓶を手渡されました。戦争当時の壕内の匂いを再現したもの(あるいは壕内で採集した物質:説明を聞き逃しました)で「当時を体験した人にとっては、そのあとご飯も喉を通らなくなるほど」なのだそうです。ちょっとたじろぎましたが、嗅がせてもらいました。湿った雑巾を放置したときのような、少し腐敗したような匂いでした。
このあたりで収集された米軍の砲弾の破片、その実物もあって、触らせてもらいました。見た目よりもものすごく重い鉄の塊です。もともと那覇市にあった沖縄陸軍病院は、空襲による焼失のために南風原(はえばる)に移り、さらに艦砲射撃が激しくなったためにこうした壕へ分散移転したのだそうです。この砲弾の破片もそうした艦砲射撃に使われたものの一部なのでしょうか。
壕内は真っ暗です。ガイドさんに「暗いところは大丈夫ですか」と聞かれました。そのうえ狭い。場所によっては腰をかがめなければならないほど天井も低いです。ここで手術や治療が行われ、患者が収容されていたとはとても思えないほどの狭さですが、実際ここに木組みのベッド(というか棚のようなもの)が置かれ、患者を横たえていたそう。あのひめゆり学徒隊の一部もこの壕に動員されていたそうですが、その証言によればベッドの脇を「カニのように」横になって移動していたとのことです。
手掘りの荒々しい岩肌が続く壕内は、壁も天井も黒く焦げています。これは米軍が火炎放射器で焼き払ったからで、いまでも絶えず剥落が起きているので、壕の一部、特に入口付近はコンクリートで補強されていました。当時は鉱山の坑道のように坑木を組んで壕内を支えていたようです。その焼け残った坑木の一部も見ることができました。
上述したように、当時このあたりには他にもたくさん壕があり、この20号も中央で隣の19号や21号とつながっていたそうですが、現在はいずれも埋まってしまっていてわずかに通路が残るのみでした。また壕内で一箇所、天井の一部がアクリル板で覆われて保護されているところがあり、そこには漢字の「姜」の文字が見えました。入院していた朝鮮人兵士が自分の名を刻んだものではないかと推定されているそうです。
私がガイドさんに、ここに来る前に旧海軍司令部壕にも行ったと言ったら、「あそこはここに比べれば宮殿みたいなものですね」と言っていました。たしかに、これはもう野戦病院という範疇にすら入らない、絶望的な空間のように思えます。実際、この南風原にも米軍が迫ってくる中、陸軍病院はさらに南の摩文仁(まぶに)への撤退を決め、その際には重症患者に青酸カリを配って自決を強要したのだそうです。
見学を終えたあと「ひょっとしたら」とスマートフォンで検索してみたら、その糸満市摩文仁にある平和祈念公園が台風後に再開園したとのことで、さっそくそちらに向かいました。沖縄県平和祈念資料館はかなり大きな施設で、近代以降の日本と東アジア、さらには世界との関わりから説き起こして日中戦争・太平洋戦争へと向かう歴史、さらには戦後の沖縄史まで網羅した展示になっています。
特に沖縄戦のあらましを伝える映像がとてもわかりやすく、しばらくそこにとどまって1タームの映像を全部見ました。いま見ている沖縄の風景に、それらの映像や写真が重なって見えます。これはちょっと言語化が難しいのですが、遠くない過去に、たしかにここでこのような悲惨な出来事が起こったのだというその事実の重みが自分にのしかかってくるような感覚を覚えました。やはり実際に現地でその感覚を体感することは、幾百の書籍を読み証言を聞くことと同様に意味があると思いました。
戦後の沖縄の歩みを紹介した展示も充実していて、こちらも非常に興味深かったです。私の祖母は福岡県の警察署で売店を経営していた人で、私は子供の頃にそこへ行ったことがあるのですが、沖縄が日本に「復帰」してから6年後の1978年に、車両の通行が右側から左側へ切り替わることになり、その福岡の警察署からも警官がおおぜい「手伝い」に行くという話をしていたのを覚えています。展示の中にその当時の様子を伝える写真もいくつかあって、個人的にはとても懐かしい思いがしました。
https://www.okinawatimes.co.jp/common/otp/feature/kawarunichijo/
▲資料館の外にある「平和の礎(いしじ)」