インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

スペックを下げてみた結果

もうずいぶん昔のことですが、都内の某通訳学校に通っていた頃、クラスにとても通訳の上手な方がいました。課題の音声を聞いて講師から指名されるたびに、とても正確で整った訳出をされるのです。すごいな、と驚嘆しつつも、しかし私はその方の訳出にどこか違和感を覚えていました。整いすぎているというか、まるで翻訳をしたような精緻さというか……。

ほどなく違和感の理由は分かりました。その方は事前に配布された音声教材をディクテーションして文字に起こし、そこに自分で翻訳した文章を添えたノートを作って、授業では毎回それを読み上げていたのです。なぜそんなことをするのかなと、当時の私は理解できませんでした。通訳という作業の本質が、事前に音声を聞くことができないというものである以上、私たちが訓練すべきは「初見(初聴?)」でどこまで精度の高い訳出をできるようになるかという技術です。あらかじめ訳文を用意しておいて、それを読み上げるだけでよければ苦労はありません。

もちろん、ディクテーションして、翻訳して、原発言の区切りに合わせて読み上げること自体も勉強にはなると思います。でもそれは少なくとも通訳技術の訓練ではない何かほかのものです。自分がいま何を学ぼうとしていて、そのためにはどんなことをすればよいのか、すべきではないのか、そういう主体的な学び方をしないといけないな……と、このときの体験は「他山の石」になりました。

何年も前のこの体験を思い出したのは、最近自分の受け持っているクラスでの訓練のやり方を大きく変えてみたからです。
qianchong.hatenablog.com
くだんのクラスメートが、通訳訓練なのにあらかじめ訳した文章をただ読み上げるだけという「本末転倒」に陥ってしまったのは、ご本人の自覚のなさもあるでしょうけど、先に音声教材を配ってしまう学校側のやり方にも問題があったと思います。それもあって、後年自分が通訳訓練を受け持つようになった際、私は事前に一切音声を配布しないと決めました。

もちろん通訳は何の背景知識もなくいきなり「訳せ」と言われてできるものではありません。そのために音声は配布しないけれども、関連資料や参考になる情報はふんだんに出します。その上で「自分がもし本当にこの通訳業務を承けたとしたら、どのような準備をして当日に望むかを考える」というのを生徒さんたちに課してきました。ところが一部のクラスで、このやり方だと難しくてとてもついて行けないという人が続出してしまったのです。

そこで、まず最初に教材全体を視聴させ、語彙をピックアップしてグロッサリーを作り、その語彙をクイックレスポンスなどでじゅうぶんに口慣らししたのち、逐次通訳の練習をする……という構成にしました。実践的な通訳訓練とはほど遠いですが、このクラスの生徒さんたちは日本語のアウトプットそのものがまだ洗練されていない段階の習熟度です。ですから、学校のカリキュラム上は通訳訓練と銘打たなければならないものの、実質的には日本語の音声訓練に近いような教案にしたのです。

それでも、学習の過程で曲がりなりにも「訳す」ことはしますし、初見で訳さなければならないというプレッシャーからも解放されるので、生徒さんたちは比較的のびのびと学んでいるような感じがします。まだ取り組み始めて数週間なのでなんとも言えませんが、授業のスペックを下げてみて今のところはよかった、と思っています。

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