インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

カルト宗教信じてました。

たもさん氏のマンガ『カルト宗教信じてました。』を読みました。「エホバの証人」に翻弄された日々と、カルト宗教から決別するまでのいきさつ、その後の気持ちを描いた「体験系マンガ」。ネットで見つけてすぐにKindleで読みましたが、私も小学生の頃から母親の影響でとある新興宗教に引きずり込まれ、大学生の時に自力で洗脳を解いたので、全編涙なくしては読めませんでした。


カルト宗教信じてました。

冒頭に、宗教にハマった母親と、それに反対する父親が口論する場面が出てきます。私も子供の頃に全く同じような(夜、ふすまのすきまからこわごわ眺めていたというシチュエーションまで全く同じ)体験をしました。母親が、妹(つまり私の叔母。すでに他界しています)から誘われて「入信」したのは、神慈秀明会(しんじしゅうめいかい)という新興宗教でした。

神慈秀明会世界救世教の分派で、外見的には日本の「神道」を踏襲したスタイルの宗教です。礼拝に用いられる「天津祝詞(あまつのりと)」は神社での様々な儀式で一般的に用いられている祝詞(私は今でも暗誦できちゃいます)で、拍手をするのも同じです(ただし三拍手)。世界救世教の教祖である岡田茂吉(おかだもきち)氏を「明主様(めいしゅさま)」として礼拝の対象に据え、浄霊(じょうれい)という手かざしのお清め儀式が日常的に行われます。

また「真善美」の全き「地上天国」を建設するというのが教義のひとつで、美術品収集や芸術鑑賞、さらには自然農法などを重視しています。尾形光琳作の国宝「紅白梅図屏風」を所蔵していることで有名な熱海の「MOA美術館」は世界救世教が運営していて、MOAは「Mokichi Okada(岡田茂吉) Assosiation」の略称なんですよ。また滋賀県にあるI.M.ペイ設計で有名な「MIHO MUSEUM」は神慈秀明会の運営です*1。MIHOは世界救世教から独立して神慈秀明会の初代会長になった小山美秀子(こやまみほこ)氏の名前から取られています。

神慈秀明会 - Wikipedia

youtu.be

私は小学校三年生頃から、母親に連れられて集会所(教会)に行くようになり、中学校、高校とこの宗教の価値観の中で育ちました。幸か不幸か、母親は身体が弱かったこともあって(それも信仰のひとつの理由)あまり熱心で過激な宗教活動はできず、また、たもさん氏のご家庭同様、父親が全くの無信仰で反対していたこともあって、私もカルト宗教でよく取り沙汰されるような「出家」や「滅私奉公」みたいなところまでは行きませんでした。それでも多感な時期をすべてこの宗教の価値観に引きずられて暮らしたことについて、一時は母親を恨んだこともありました。

たもさん氏は、あとからご自身の母上を振り返ってこう書きます。

もし母がもう少し自立した女性で、もう少し自分に優しくひとりでも心許せる友人がいたら、母が神に抱かれることはなかったのかもしれません。

そうなんですよね。私の母親もその意味では自立できていなかったのかも知れません。父親は典型的な転勤族で、九州から北海道へ、その後大阪へ、東京へ……という感じで転々と移動していました。それについて母親もあちこちに移動していたわけで、馴染めない土地の連続はとても寂しかったのではないかと想像します。

そして、たもさん氏のマンガでは、その後結婚してともにカルト宗教の呪縛から抜け出すきっかけになる夫・カンちゃんがこう語っています。

自分の人生の半分を奪っていったエホバを許せなかったよ
最後に集会に乗り込んで全部暴露してやろうかとも思ったよ
でもそれやって何になる?
エホバの証人の信者なんてこの宗教内でしか生きられない人ばっかりだよ
目が覚めない人は何やったって覚めないし
やるだけ時間の無駄だと思ってやめた

……うんうん、よくわかります。その気持ち。

突然洗脳が解けた理由

神慈秀明会は、規模が拡大するにつれて布教活動や献金活動が過激化していきます。上記のWikipediaにも載っていますが、それが1990年代の半ばから後半にかけてで、ちょうど私が高校から大学に進む時期でした。確かにかなり過激でファナティックな雰囲気だったという記憶があります。こう書くとちょっと語弊がありそうですが、もともと神道系の教義で純粋思考というか潔癖というか、極端に走りやすい体質だったのではないでしょうか。「滅私奉公」という言葉も実際に投げかけられたことが何度もありました。

そんな中、大学生になっていた私は徐々に教団に対して疑問を抱くようになっていました。これもたもさん氏のマンガに出てくるのですが、自分たちはこの宗教に依って善行を積み、救われる。だが信じないものたちは地獄に落ちる……というある意味単純で傲慢な価値観への違和感がいやがおうにも膨らんできたのです。

これ、やっぱり大学の一般教養科目で「法学」や「経済学」や「教育学」などを学んだことが大きかったと思います。うちの大学ははっきり言って一般教養科目はお飾り程度にしか考えていないような三流校でしたが(関係者諸氏、ごめんなさい)、それでも学ぼうとする者には学びを与えてくれるまっとうな先生方がいました。この点、本当にラッキーだったと思いますし、当時の一般教養科目の先生方に感謝しますし、リベラルアーツの大切さを改めて感じます。

たもさん氏のマンガにはこう書かれています。

洗脳されている当の本人は(かつての私も含め)自分が洗脳されているなんて夢にも思っていません。むしろ、唯一無二の真理を知ることができているという、謎の優越感を抱いています。そして真理を知らない人、知っていても神の教えを守らない人を、「いずれ亡びる気の毒な人、救いの必要な人」とみなしています。

そう、かつての私自身も、まさにこうした謎の優越感に浸っていました。ただ「ハルマゲドン」にしたって、要はよい人が生き残って悪い人が亡びるってこと。人間の歴史も社会もすっとばして単に自業自得ってことなんですから、よく考えればこれほど単純で傲慢な考えもないですよね。でもホント、かつての私も全く同じように思っていました。そのために友人を失ったこともあります。それでも、大学でより幅広い世界を知るにつけ、違和感がどんどん大きくなっていったのです。

実は神慈秀明会は1997年に新体制となり、以降は「それまで社会問題の原因になりがちだった過激化した布教活動や献金活動などを制限、活動は全盛期に比べかなり沈静化(Wikipedia)」するのですが、私が洗脳から解けたのはちょうどその直前だったと記憶しています。

洗脳から解けて神慈秀明会と決別した日のことはとてもよく覚えています。あまりに熱心に自己犠牲と滅私奉公を強いる若い信者夫婦*2の攻撃のおかげ(?)か、あるとき不意に「こんなものいらない」と、浄霊のために常に肌身離さず首にかけていたお守り(おひかり)を下宿前の庭で焼いたのです。身体から外すときは必ずお清めをした半紙の上に置き、常に恭しく取り扱うべきと教え込まれていた「おひかり」を、です。本当に洗脳から解けたのであればゴミ箱にぽい、で済むはずですが、一応のお清め的儀式のように焼いた、というのが今考えると微笑ましいし、自分としても精一杯のところだったのかなと思います。

いや、カルト宗教の呪縛から抜け出すことができて本当によかった。私は今でも、大学生の時に自らの力で洗脳を解くことができたことを誇りに思っています。いや、自らの力だけではないですね。当時私の周りにいた友人や知人、学校の先生やアルバイト先の人々、様々な方とつながり、話をしていく中でその決断に到ったのだと思います。そしてまた学生時代に大量の本を(多少背伸びしながらも)読んだことも。人はたった一人で生きているわけではなく、人とのつながりの中で生かされているのだという事実を今さらながらに噛みしめています。

このマンガのあとがきにはこう書かれています。

日本には信教の自由がある。しかし、信じない自由もある。

どなたにとっても、このマンガに描き出された「自分の人生への肯定」はなにがしかの糧になるはずです。人とつながりながらも自律と自立を尊ぶ方にぜひお読みいただきたいと思います。

*1:この記事を投稿した当初、私の書き方が悪くてどちらの美術館も世界救世教の運営のように読めてしまっていました。正しくはMOA美術館は世界救世教の、MIHO MUSEUM神慈秀明会の運営です(2018年7月17日訂正)。

*2:私が住んでいた街のリーダーでした。小さなお子さんがいて、NECにお勤めの20代後半の方だったかな。今どうしているかな?

フィンランド語 18 …動詞登場(その3)

AtA, otA, utA-タイプ

先生が「動詞の変化パターンを一気に説明してしまった方が全体像が見えると思います」ということで、次のタイプの説明に入りました。動詞の最後が AtA / otA / utA で終わっているものです。このタイプは、真ん中にある t を取って語幹としますが、そのあと語幹の最後に「k,p,t」があって変化させるときに、変化パターンの「逆転」が起こります。

k,p,t の変化パターンは15種類しかなく、主語や名詞や形容詞を格変化させるときも全く同じように機械的に変化が起こるため、できれば覚えてしまってくださいと先生に言われました。

● tykätä(好む)
①語尾が AtA のタイプです。真ん中の t を取って語幹は tykää 。
②語幹の最後の音節に k があるので変化パターンに従って「逆転」します。つまり「k → kk」となって語幹は tykkää に。
AtA タイプは、上記の dA タイプと同様、三人称単数だけ語尾がつきません。あとは全く同じ。つまり……

tykkään tykkäämme
tykkäät tykkäätte
tykkää tykkäävät ※三人称単数は語幹のまま。

● pudota(落ちる)
①語尾が otA のタイプです。真ん中の t を取って語幹は pudoa 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」はありませんが、このタイプは「逆転」なので「d → t」であることに気づかなければなりません。う〜ん、これは慣れないと大変そう。したがって語幹は putoa に。
③otA タイプは、三人称単数の語尾を伸ばします。あとは全く同じ。つまり……

putoan putoamme
putoat putoatte
putoaa putoavat

● haluta(欲しい・したい)
①語尾が utA のタイプです。真ん中の t を取って語幹は halua 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」はありませんし、「l」は「逆転」パターンにもないので語幹はそのまま halua に。
utA タイプも、三人称単数に語尾「a」がつきます。あとは全く同じ。つまり……

haluan haluamme
haluat haluatte
haluaa haluavat

● tavata(会う)
①語尾が AtA のタイプです。真ん中の t を取って語幹は tavaa 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」はありませんが、「v」は「逆転」パターンにあります。しかもこれは「v→k」の逆転ではなく「v→p」と逆転します。この逆転は稀で、tavata と次の luvata くらいしかないそうです。というわけで逆転が起こって語幹は tapaa に。
AtA タイプは、三人称単数だけ語尾がつきません。あとは全く同じ。つまり……

tapaan tapaamme
tapaat tapaatte
tapaa tapaavat

● luvata(約束する)
①語尾が AtA のタイプです。真ん中の t を取って語幹は luvaa 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」はありませんが、「v」は「v→p」と逆転します。語幹は lupaa に。
AtA タイプは、三人称単数だけ語尾がつきません。あとは全く同じ。つまり……

lupaan lupaamme
lupaat lupaatte
lupaa lupaavat

● avata(開ける)
①語尾が AtA のタイプです。真ん中の t を取って語幹は avaa 。
②これは「v→p」の逆転がありません。
AtA タイプは、三人称単数だけ語尾がつきません。あとは全く同じ。つまり……

avaan avaamme
avaat avaatte
avaa avaavat

● kerrata(繰り返す・復習する)
①語尾が AtA のタイプです。真ん中の t を取って語幹は kerraa 。
②語幹の最後の音節に「k,p,t」はありませんが、「rr」は「rr→rt」と逆転します。語幹は kertaa に。
AtA タイプは、三人称単数だけ語尾がつきません。あとは全く同じ。つまり……

kertaan kertaamme
kertaat kertaatte
kertaa kertaavat

先生によると、まだまだ動詞の変化パターンは続くそうです。う〜ん。

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Minä tykkään talvesta!

巧妙な皮肉と機械翻訳

Twitterのタイムラインで見つけたこちらのアカウント、なかなか皮肉が効いていて面白いです。

ウナギについては、今年の初めにこんな報道に接して以来、食べるのを控えています。というか、以前からめったに食べないですけど。高いから。

mainichi.jp

またこちらの記事にも衝撃を受けました。特に水産庁の、その危機感と責任感の「欠如っぷり」に。

nlab.itmedia.co.jp

Twitterの「うなぎ絶滅キャンペーン」さんは、こうした現状、特に外食産業各社のSCR(企業の社会的責任)放棄となりふり構わぬ営利追求に対して痛烈な皮肉をかましていますし、それに呼応したTwitterユーザが様々な企業の「ウナギ販促例」をまるで大喜利のように投稿しているのも面白いと思いました。真正面から「ウナギを食べないで!」と訴えるよりもさらに深い “反思*1” を私たちに促す要素があると思うからです。

ところがいささか驚いてしまったのは、このアカウントに対して少数ながら抗議の「マジレス」いや「クソリプ」(いずれも好きな言葉じゃないですけど、カタカナでこう書くのがぴったり)を飛ばしている方が見受けられることです。なるほど、これを皮肉と捉えず、真正面からウナギ絶滅を叫ぶ主張だと思われたのですね。

シャレの分からない方はどの世界にもいますし、それもこれも含めての自由なSNSの言論空間なのですからまあよいのですが、こうした皮肉を批判(悪口ではなく)に変える力量というのか、リテラシーというのか、センスというのか、そういうスキルは今の日本に足りないもののひとつだなあと思います。

私は中国語を学んで、語学そのもの以外に中国語語圏の人々から学んだことがたくさんあります。中国(中華人民共和国)の人々が、苛烈な言論統制やネット検閲などをくぐり抜けて繰り出す数々の手法、そのしたたかさと諦めないしぶとさもそのひとつです。例えば最近もこんな記事に接しました。

wired.jp

うん、今の日本は平和ながらも息苦しいというか、どこか閉塞感が漂っていますが、私たちも諦めちゃいけないですね。

ところで「うなぎ絶滅キャンペーン」さんのツイートを拝見して、もうひとつ考えたのは、こうした高度な皮肉なり諧謔なりを含んだ文章を、機械翻訳システムはどう処理するのだろうという点です。ひとつひとつのツイートをそのまま訳せば、どう翻訳の精度を上げてもお手上げですよね。だって100%「絶滅肯定」の文章で綴りつつ、その裏をほのめかしているのですから。

人間は前後のツイートや様々な背景知識からこれが「この文章はおそらく、こういう隠れた意図があるのだろう」と行間や裏を読んだりできますが(できない人間もいるけど)、機械翻訳システムやAIはどう対処するのでしょう。

私がこれらのツイートを中国語に訳すとしたら、わざと難渋な言い回しや文語的な表現をつかうとか、生真面目に書いておいて最後をくだけた調子にするとか、何か読み手に引っかかりを残そうとすると思います。

機械翻訳システムやAIも、ネット上のありとあらゆる知見を総動員して比較検討して、もちろん当該ツイートの前後も検索して理解して……ということを一瞬でやってのけて、皮肉と認識できるのでしょうか。認識できたとして、それをどう別の言語で表現するでしょうか。「うなぎ絶滅キャンペーン」さんのツイートは、私たち人間が文章を読む際、様々な背景知識や一般常識などを総動員しつつかなり高度な処理を行っているのだということを再認識させてくれます。

ううむ、そう考えるとこちらのアカウントは、機械翻訳システムの開発者に叩きつけられた、強烈な挑戦状のようにも読めます。私? 私はリングサイドかぶりつきで事の成り行きをワクワクしながら見つめたいと思います。あ、それから今後も当分ウナギを食べることはないと思います。

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https://www.irasutoya.com/2013/05/blog-post_7617.html

*1:反省・反芻・再考・振り返りなどの含意がある中国語です。

フィンランド語 17 …動詞登場(その2)

フィンランド語の動詞、語尾の変化の続きです。

dA-タイプ(タイプ2)

動詞の最後が da / dä で終わっているものです。このタイプは若干の例外を除いてかなり単純な変化をします。基本的に……

私 -n 私たち -mme
あなた -t あなたたち -tte
彼/彼女 -× 彼ら/彼女ら -vat/vät

……です。単数三人称の「彼/彼女」が「-×」になっているのは、語尾がつかないということ、また複数三人称の「彼ら/彼女ら」の語尾はタイプ1と同様、単語に「a,o,u」が含まれていれば「-vat」、含まれていなければ「-vät」になります。

● juoda(飲む)
①タイプ2の場合、最後の dA を取って語幹とします。よって語幹は juo 。
②あとはもう単純に上記の語尾をつけるだけです。

juon juomme
juot juotte
juo juovat ※三人称単数は語幹のまま。

● saada(得る)
①最後の dA を取って語幹は saa 。
②語尾をつけます。

saan saamme
saat saatte
saa saavat ※三人称単数は語幹のまま。

● syödä(食べる)
①最後の dA を取って語幹は syö 。
②語尾をつけます。

syön syömme
syöt syötte
syö syövät ※三人称単数は語幹のまま。

タイプ2の例外は「tehdä(する・作る)」と「nähdä(見る・会う・理解する)」です。両方とも語尾が「dA」なのでタイプ2に見えますが、これらは元々それぞれ「tekeä」と「näkeä」だったものがよく使われるうちに変化しちゃったとのこと。語尾が「母音+ a/ä」で終わっていますから、この二つはタイプ1のやり方で語尾が変化します。

● tehdä(実は tekeä )(する・作る)
①元々の形「tekeä」を最後の母音と ä の間で切り、前を語幹とします。→ teke
②最後の音節に「k,p,t」がある場合、変化パターン通りに変化させます。take には「k」があるので変化パターンに従って「×」に(k を取る)。つまり「tee」。ただし三人称だけは単数も複数もこのパターン変化をさせません。つまり……

teen teemme
teet teette
tekee tekevät

● nähdä(実は näkeä )(見る・会う・理解する)
①元々の形「näkeä」を最後の母音と ä の間で切り、前を語幹とします。→ näke
②最後の音節に「k,p,t」がある場合、変化パターン通りに変化させます。näke には「k」があるので変化パターンに従って「×」に(k を取る)。つまり「näe」。ただし三人称だけは単数も複数もこのパターン変化をさせません。つまり……

näen näemme
näet näette
näkee näkevät

この二つは変化しちゃうと原形とはかなり違う形になりますね。動詞の変化はまだまだ続きます。

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Minä syön illallista.

外食の味が濃すぎてつらい

最近はお昼ご飯を食べずに一日二食なのですが、今日は何となく気が向いて久しぶりに「丸亀製麺」に寄りました。季節限定の「香味野菜と蒸し鶏のつけ汁うどん」というのがあったので食べたのですが……う〜ん、美味しいけれど、全体的に味がしょっぱい。

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いえ、丸亀製麺さんだけじゃないのです。最近、外食をするとほとんどのお店で「しょっぱい」と感じるようになってしまいました。

血圧が高めだったので、ここ数年かなり減塩に気をつけてきたというのはあります。それに小学校までほぼ関西で過ごしたので、もともと薄味が好きということもあります。でもここにきて飲食店どころか、調理パンの類や加工食品全般に到るまで、ほとんどの食べ物で「しょっぱい、味が濃すぎる」と感じるようになってしまったのに、いささか驚いています。

いくら何でもちょっと極端だと思って、一時は「摂食障害」的な疾患を疑ったのですが、どうやらそうでもないみたい。これも中高年に特有の現象なのでしょうか。細君も、たまに仕事でどなたかと食事に行った時には「外食の味が濃い」と言っています。というわけで、最近は自宅での食事がほとんどになり、めったに外食をしなくなってしまいました。

大好きなラーメンも、東京近郊で食べるそれはまずほとんどが濃すぎるので、いわゆる「淡麗系」のお店ばかり行くようになり、その淡麗系でさえ濃いので、大将に見つからないようにこっそりコップの水を足して食べています。今日の丸亀製麺でもコップ半分くらい(約100ccくらいですか)水を足してようやく食べられる濃さになりました。

ファストフードのハンバーガーなども、記憶にある限りここ15年くらい食べていませんが、いま食べたらきっとかなり濃い味に感じるかもしれません。

でも不思議なのは、外国で食べる食事は「しょっぱい、味が濃すぎる」と感じることがあまりないんですよね*1。あと、たまに帰省する実家がある九州は小倉のラーメンなども、まったく平気*2

旅先という非日常のシチュエーションでの体験が勝って味覚が寛容になっているだけなのかな? それともここ東京の味つけが世界でも群を抜いて濃いのかな?

*1:ただし、中国の北の地方はさすがに濃いと思いました。

*2:九州のとんこつラーメンは「こってり」のイメージが強いですが、味はかなり薄いと思います。東京のとんこつラーメンは濃いですけど。

フィンランド語 16 …動詞登場(その1)

動詞はこれまで、英語のbe動詞にあたる「olla動詞」しか出てきませんでしたが、ここへ来てようやく他の一般動詞が登場です。ご多分に漏れず、この動詞たちもどんどん変化します。しかも変化のタイプにもいくつかあるということで、まずはその全貌をざっと習いました。

手始めに……

私 minä 私たち me
あなた sinä あなたたち te
彼/彼女 hän 彼ら/彼女ら he

……の六つで変化させてみます。語尾が変わるのですが、それらの語尾は……

私 -n 私たち -mme
あなた -t あなたたち -tte
彼/彼女 -? 彼ら/彼女ら -vat/vät

……です。olla動詞の変化とほとんど同じような感じですね。三人称単数の「彼/彼女」の語尾が「-?」となっているのは、単語によって変わるから。また三人称複数の「彼ら/彼女ら」の語尾は、単語に「a,o,u」が含まれていれば「-vat」、含まれていなければ「-vät」になります。

vA-タイプ(タイプ1)

動詞の原形(第一不定詞単形、などとも言うそうです)の最後が母音(vokaali)+ a/ä で終わっているものです。この母音は「a,o,u,e,i,ä,ö,y」のこと。フィンランド語では「y」も母音扱いなんですね。中国語の「ウムラウト(ü)」に似た音です。タイプ1の動詞は、フィンランド語の動詞のうち七割くらいを占めるらしいです。

● nukkua(眠る)
①最後の母音と a の間で切り、前を語幹とします。→ nukku
②最後の音節に「k,p,t」がある場合、これまでにもさんざんやった変化パターン通りに変化させます。nukku には「kk」があるので変化パターンに従って「k」に。ただし三人称だけは単数も複数もこのパターン変化をさせません。つまり……

私 変化させる 私たち 変化させる
あなた 変化させる あなたたち 変化させる
彼/彼女 変化させない 彼ら/彼女ら 変化させない

③これに従って語尾をつけると……

nukun nukumme
nukut nukutte
nukkuu nukkuvat

このタイプの三人称単数は、最後の母音をふたつ重ねて伸ばすようです。「nukkuu」のように。

● ottaa(取る)
①語幹は otta 。
②最後の音節に「tt」があるので変化パターンは「tt→t」。ただし三人称は変化させないので……

otan otamme
otat otatte
ottaa ottavat ※三人称は変化させない。


● istua(座る)
①語幹は istu 。
②最後の音節に「t」があるけれども「st」の場合は不変化という法則があるので、一二三人称いずれも変化させず……

istun istumme
istut istutte
istuu istuvat

● antaa(与える)
①語幹は anta 。
②最後の音節に「t」があるけれども「nt」の場合の変化パターンは「nt→nn」。そこで……

annan annamme
annat annatte
antaa antavat ※三人称は変化させない。

● tietää(知る)
①語幹は tietä 。
②最後の音節に「t」があるので変化パターンは「t→d」。そこで……

tiedän tiedämme
tiedät tiedätte
tietää tietävat ※三人称は変化させない。

● maksaa(支払う)
①語幹は maksa 。
②最後の音節に「k,p,t」がないので、語幹に語尾をつけるだけ。

maksan maksamme
maksat maksatte
maksaa maksavat

● asua(住む)
①語幹は asu 。
②最後の音節に「k,p,t」がないので、語幹に語尾をつけるだけ。

asun asumme
asut asutte
asuu asuvat

これで例えばこんな文章が作れます。

(Minä)asun Helsingissä.
私はヘルシンキに住んでいます。

主語の「Minä」がカッコ書きになっているのは、なくてもよいから。動詞「asua」が一人称単数の「asun」になっているので、言わずもがなだから省略されるとのことです。しかもこの文章は「Helsingissä asun」でもよいそう。つまり「Minä(主語)+asun(動詞)+Helsingissä(目的語)」で話しているようでいて、フィンランド人的な言語感覚としては別にその語順にこだわってるわけでは全くないんですね。フィンランド語が語順で話す言語ではないというのがよく分かります。とても新鮮。

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Minä asun Tokyossa.

フィンランド語 15 …関係代名詞 joka

関係代名詞が登場しました。英語ではさんざっぱら学ばされたなつかしいお名前です。英語では「that」や「what」や「who」などで、この関係代名詞自体が変化することはありませんでしたが、フィンランド語では予想通り、数多くの格に展開するそうです。

とりあえず、これまで学んだ変化は「単数主格」「単数属格」「単数分格」「単数内格」「単数所格(接格)」「複数主格」の六種類。関係代名詞「joka(単数主格の原形)」は以下のように変化します。

joka 単数主格
jonka 単数属格
jota 単数分格
jossa 単数内格
jolla 単数所格(接格)
jotka 複数主格

例えば以前に教科書で学んだ文章で……

Tämä on tuoli. これは椅子です。
Tuolilla on kassi. 椅子の上は手提げ袋です(椅子の上には手提げ袋があります)。

この二つの文を関係代名詞でつなぐとき、共通項は「tuoli」と「tuolilla」で、ここに使われる関係代名詞は、後ろに来る格を明示するものになるとのこと。つまり……

Tämä on tuoli, jolla on kassi. これは椅子で、その上には手提げ袋があります(これは手提げ袋が乗っているところの椅子です)。

「jolla」は関係代名詞として文をつなぐとともに、後ろで叙述される格(単数所格)をも指定するんですね。

Tämä on herra Jokinen. こちらはヨキネン氏です。
Hän on Turussa. 彼はトゥルクにいます。

Tämä on herra Jokinen, joka on Turussa. こちらはヨキネン氏で、彼はトゥルクにいます(こちらはトゥルクにいるところのヨキネン氏です)。

この場合は「herra Jokinen」と「Hän」が共通項なので、後ろで叙述される格は単数主格なので原形の「joka」が使われています。

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Tämä on pöytä, jolla on kirja.

京劇の「覇王別姫」と能の「項羽」

覇王別姫(はおうべっき)」といえば、陳凱歌監督の映画「覇王別姫 さらば、わが愛」でも有名な京劇の演目です。楚の項羽と漢の劉邦が戦い、最後は項羽が追い詰められて虞姫(虞美人)と愛馬・騅と別れる……という悲劇。「四面楚歌」という成語の元になったお話でもありますし、敵の手に落ちる前に虞姫が自刃して果てる場面や、映画でも印象的に使われていた「垓下歌(垓下の歌)」などがよく知られ、人気のある演目です。

こちらの「中国語スクリプト」さんの解説がとても分かりやすいです。
覇王別姫
http://chugokugo-script.net/story/haoubekki.html

映画「覇王別姫 さらば、わが愛」についてはこちらのWikipediaをどうぞ。
さらば、わが愛/覇王別姫 - Wikipedia

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この映画や実際の公演をご覧になった方はお分かりだと思いますが、「覇王別姫」は京劇の面目躍如、非常に勇壮かつダイナミックで、なおかつ項羽と虞姫の別れという悲劇が時系列に沿って現在進行形で語られ、特に虞姫の自刃というクライマックスが大きくクローズアップされています。

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▲能「項羽」。写真は『能・中国物の舞台と歴史』口絵より。

ところで、日本の伝統芸能である能楽にも「覇王別姫」を題材にした曲(演目)があるのをごぞんじでしょうか。それが能「項羽」です。「項羽」は「覇王別姫」と全く同じように、四面楚歌となって戦意を喪失した項羽が虞姫や騅と別れ、最後は自身も果てるというストーリーを扱っています。中村八郎氏の『能・中国物の舞台と歴史』には「あらすじ」がこのように記されています。

四面楚歌の項羽(シテ)が烏江に落ちのび、追撃の漢軍と奮戦する様を能にしたもの。その間に例の有名な「時に利あらず、騅逝かず」の詩や愛姫虞美人(ツレ)の死などを取り入れ、最後に烏江の野辺の土中の塵となるのである。

このように、京劇「覇王別姫」と能「項羽」は全く同じ物語と言っていいのですが、その物語へのアプローチが全く違っています。京劇「覇王別姫」が現在進行形で生々しく物語るのに対して、能「項羽」はその悲劇から何年、何十年も経ったあとの烏江のほとりでのできごとから往事を回想するという手法を採っているのです。

こちらは「名古屋春栄会」さんのウェブサイトにある「項羽」の詞章です。
項羽
http://www.syuneikai.net/kouu.htm

「あらすじ」を読んでいただければ分かると思いますが、悲劇の物語を直接現出させず、前半は渡し船の船頭(実は項羽の幽霊)とのやり取りを延々と見せる中で虞姫を象徴する一輪の花に託して過去の悲劇の物語を呼び寄せ、後半は弔いの祈りの中で項羽の幽霊に往事の悲劇を再現させるという、なんとも凝った、情趣あふれるストーリーテリングです。悲劇を悲劇のまま見せず、深い鎮魂とともに時空を超えた演出で語る。これが日本的な発想というものでしょうか。

私は一度だけ能「項羽」を見たことがありますが、直接ダイナミックに描き出す京劇も、夢幻の中で追憶する能も、どちらも好きですし、ひとつの物語に対して彼我でこんなにもアプローチが違うということそのものが非常に興味深いと思います。

昨年は、京劇と能を融合させた野心的な舞台が企画上演されたそうですが、見逃してしまいました。残念です。
www.shincyo.com

できることなら、いつか「融合」ではなく、京劇「覇王別姫」と能「項羽」を連続で上演して見比べるような企画公演があったらいいなと思います。能舞台で京劇のアクロバティックな演技が可能かどうかは分かりませんし、京劇の演出に能舞台の構造は向かないかもしれませんが、伝統的な京劇の舞台(映画にも出てきます)はちょうど能舞台ほどの大きさで、客席から一段高い位置にあって、ぴったりな感じがするんですけどね。

ところで蛇足ですが、映画「覇王別姫」の邦題が「さらば、わが愛」っての、あまりに俗っぽくて昔から馴染めないです。中国語のタイトルをそのまま邦題にしても、中国語を学んだ方以外は「?」となって興行的によろしくないという判断なんでしょうけど、そもそもが中国映画なんだし「覇王別姫」のままでよかったのになと思います。

追記

この記事を書いたあと、古本屋さんで買って「積ん読」状態になっていた吉川幸次郎氏の『支那人の古典とその生活』を読み始めたら、冒頭からいきなりこんな文章があって驚きました。

支那人の精神の特質は、いろいろな面から指摘出来るでありましょうが、私はその最も重要なもの、或いはその最も中心となるものは、感覚への信頼であると考えます。そうして、逆に、感覚を超えた存在に対しては、あまり信頼しない。これが、支那人の精神の様相の、最も中心となるものと考えます。

なるほど、だから現実のチャイニーズに接してもゴリゴリとしたリアリズムを感じるし、上述の「覇王別姫」のストーリーテリングにしても現実そのままの現在進行形で物語り、能「項羽」が異なる時空の幽霊に物語らせるのとは明確なコントラストを成しているのですね。

教師だって生徒を選びたい

先日、cakesで読んだ、こちらの記事。

cakes.mu

入社試験における採用基準が「素直であり、自ら意思表示のできる人」で「一緒に働きたいと思うかどうか」だというの、とても共感します。もちろん能力やスキルだって大切ですけど、試験で一定程度の選別をしたら、あとはこれに尽きますよね。私も企業で面接担当をしたことがありますが、やはり「この人と椅子を並べて仕事をするとしたら……」という視点で見ていました。だって「ヤだな〜」と思う人が同僚で日々机を並べているのはツラいですから。

いまは教育現場に身を置いていて、入試の面接も担当することがありますが、実は最近、学校の面接も同じで「一緒に学びたい人」を選ぶべきじゃないかなと思っています。教師だって人間ですもん。そして教師だってもっと学びたい。であれば、ともに学んでいける、ともに成長していける相手としての生徒じゃなきゃ、楽しくないですよね。

誰かに何かを教えたことがある方ならたぶん同意してくださると思いますが、「教える」ことって実はこちらが新たに学ばされることでもあります。逆にそうでない一方的な「教え」は、やっていてもツラいのではないでしょうか。

生徒が学費を払って、教師は教育を行う。ここだけを見れば教育はあたかも「サービス業」のようです。生徒を満足させられない教師は、つまり対価に見合ったサービスを提供できない教師は教師失格だ、といった物言いが時々見られますが、これには私、少々違和感を覚えます。

もちろん様々な工夫で教育的効果を上げる努力は必要ですし、教案の作成に手は抜きませんけど、教育は単なるモノやサービスの売買じゃない。だからこちらの記事で書かれているような行儀の悪すぎる客は「来てくれなくていいです」と出入り禁止になるように、学ぶ気のなさすぎる生徒は「来てくれなくていいです」と断るべきなんじゃないかと。

note.mu

ところで何でも牽強付会で申し訳ないですが、冒頭に出てきた「素直であり、自ら意思表示ができる」っていうのは、語学においてもとても重要だと思います。先入観や成功体験や我流にこだわらず、恥を恐れないで大きな声で積極的に参加する人じゃないと語学(少なくとも身体一つで聞いて話すことに関して)はあまり伸びないのです。もちろん、生徒が「素直」に全てを受け入れてもきちんと高みにまで導いていけるという「責任」が教師に伴うことは言うまでもありませんが。

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これは台湾の留学生が卒業時に描いてくださった「通訳訓練で学生をいじめ抜く私」です。ルンバに乗っているのは授業でお掃除ロボットに関する技術通訳の教材を使ったから(コードが出ているのは掃除機が床のコードを吸い込むトラブルに関するくだりがあったから)。手にしているのはアトランダムに学生を指名して訳出させるための名札です。

この学生はとても熱心に学んで、台湾に進出している日系企業に就職していきました。訓練を通してどんどん上達していくので、こちらも本当に楽しかったし、いろいろと学ぶことができました。本人は「最初はいろいろ苦労したけど、通訳が心から好きになりました」とこの絵の裏に書いてくれました。労働が報われるというのはこういうことですよね。

動詞がドーシても必要なんです

中国語が母語である華人留学生と「中国語→日本語」の通訳訓練をしていると、いくつか興味深い現象が見られます。そのうちのひとつは、訳出する時に日本語の文章の係り受けがねじれる、特に最後に動詞を入れることを忘れる、という現象です。

中国語は、英語ほど厳格ではありませんが、まず最初に「誰が・どうする」という文の核になる部分を言ってから,細かい付加情報を足していくことが多いです。つまり主語や動詞が文の最初に出てくるんですね。

First of all, thank you for taking time out of your busy schedule to come to this meeting.
首先,感謝大家在百忙之中抽出時間前來參加此次會議。
まず、みなさまがお忙しい中この会議に参加してくださったことに感謝申し上げます。

英語と中国語はそれぞれまず “Thank you” や “感謝大家” のように、文章の核である「私はみなさんに感謝します」という結論を先に行ってから、では何に感謝するのかという具体的な詳細について述べていきます。

中国語では文の最後に “對此表示感謝(この点に感謝します)” などと持ってくることもできますが、基本的には先に結論を明示しちゃう。日本語では「私は→感謝する」と意図がはっきりするまでの距離が長いです。言い換えれば、最後まで聞かないと結論が見えないということでもあります。

まあこれは今さら私が書くまでもなく、同時通訳訓練などではさんざん指摘されていることです。結論としての動詞が最後に出てくる、あるいは動詞を最後まで取っておかなければならないことが多いというのが日本語の特徴だと。もちろん倒置を使って「私は感謝します」を先に持ってくることも可能ですけど、少々不自然ですよね*1

そういう日本語のあり方が母語の中国語とはかなり異なっているので、華人留学生のみなさんが訳出する際、その取っておいた動詞を言い忘れてしまう、あるいは主語との関係を見失ってしまうのかな、だから係り受けがねじれたり最後に動詞が抜けたりするのかな、と思いました。

これは日本語母語話者が英語や中国語を話そうとするとき、日本語の思考方法でいきなり細かい付加情報や目的語から文を始めてしまい、にっちもさっちもいかなくなってしまう現象と表裏一体をなしているような気がします。例えば「私は新宿に買い物に行きたいです(我想去新宿買東西)」と言おうとして、最初に「主語+動詞」つまり “我想去” が言えず、日本語の語順に引きずられて “我…新宿…” と言ってしまって後が続かない、といったような現象です。

私自身、中国語を学び初めて日が浅い頃は「まず最初に主語+動詞を言え!」というのを肝に銘じていました。それでも仕事で中国人の同僚に話しかけるときなど、最初に主語+動詞を言っていても、何だか物足りないというか言い切っていないような感じがするのか、最後に「です」とか「なんです」をつけ加える癖がなかなか抜けなかったことを覚えています。“張さん、我想聽聽你的意見…なんですけど” みたいな感じで。

日本語と「OS」が異なる英語・中国語

上掲した英語の例文は『究極の英語学習法 はじめてのK/Hシステム』から採りました。この本では、英語の基本的な「構造的特徴」として、まず「主語+動詞(+目的語)」のようなしっかりした主述構造(何がどうした)が提示され、そこに前置詞や接続詞を使って名詞や文がくっついていくこと*2、「意味的特徴」として、まず結論が提示され、そこに詳細な情報が付け加わっていくこと、この二つが「英語の感覚」の核であり、これらを身体に叩き込むことが何より大切であると繰り返し説いています。


究極の英語学習法 はじめてのK/Hシステム

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私はこれはとても大切な指摘だと思います。中国語でもそうですが、先に「主語+動詞を言え!」次に「細かい情報をつけ加えていけ!」という思考回路を何度も何度も練習して、オートマトンというか、あたかも車の運転を身体が覚えるのと同じように、ほとんど自動的に処理できるようになっていくことが「話せる」ということだと思うからです*3。実際、自分が中国語を話しているときは、特にノって話せているときは、この自動処理が上手く機能していることを実感できるのです。次から次へと淀みなく言葉が紡ぎ出されてくる快感とでもいいましょうか。

『はじめてのK/Hシステム』ではこれを、パソコンのOSの違いに例えています。英語や中国語のように語順で話す言語、語順が大きな意味を持つ言語*4は、まずこのOSの違いをきちんと認識して、その違ったOSを自分に新たにインストールすることを心がけ、反復して練習する必要があるということなんですね。

……ところで。

英語や中国語は最初に結論を言い切ってしまうため、物言いが断定的というかクリアになりがちな気がします(もちろん婉曲な表現方法は山ほどありますが)。私は英語や中国語を話しているとき「明らかに自分の性格が変わってアグレッシブになる」のを感じるのですが、これはこうしたOSの違いがあるからなのかもしれません。

*1:同時通訳の際には、この多少の不自然さに目をつぶって積極的に利用したりします。

*2:この本ではこれを「船+フック+フック」というビジュアルに訴える面白い表現をしています。

*3:この段階では語彙力ももちろん問われますが。

*4:ちなみに、いま取り組んでいるフィンランド語は語順で話す言語ではないので、また違うアプローチが必要かなと感じています。

憧れども未だ馴染めぬ体育会系

先日、Twitterのタイムラインにこんなツイートが流れてきました。

リンク先のまとめサイトも読んでみましたが、「確かに!」と首肯することしきりです。私も運動嫌いでしたけど、ジム通いだけは(特にトレーナーさんについてもらうそれは)本当に楽しいし、長続きしています。これはやはり、ジムのトレーニングには他人と競う・競わせる要素がほぼないからですよね。学校の水泳なども「競泳」の要素をなくせばもっと好きになる人が増えると思います(今ではもうそうなってるのかな?)。

ただ、以前別の大手トレーニングジムに通っていた時は、パーソナルトレーニングではなく自由にマシンを使う形式だったこともあって、そこにいる人たちに何となくヒエラルキーができていて、ちょっと苦手な雰囲気でした。

特にフリーのベンチプレスやバーベルを使うエリアには「古参」と思しきボディビルダーみたいな人たち、それもたいがい筋肉を誇示するかのようにピッチピチで襟ぐりと袖ぐりが極端に深いタンクトップを着ている黒々と日焼けした方々が陣取っていて、とんでもない重量を「はぁうっっ!」とか「ふんっっぬぅおぉぉ!」などという奇声を発しつつ上げているのです。とてもじゃないけど入っていく勇気は出ませんでした。

そこへいくと今通っているジムのトレーナーさんは、威圧感皆無。中壮年のおっさんが青息吐息でふらふらしながら筋トレしていても決して笑ったりしませんし、逆に「素晴らしい!」とか「いい修正です!」とか「はい頑張って!」とか声をかけてくれる。まとめサイトの冒頭にもありましたが、「なにこれ、もっとやらせてくれ」ですよ、ホント。

体育会系の空気感

ただしひとつだけ、まあこれは別にイヤというほどのものでもないのですが、「ああこれが体育会系のノリというものかしら」といまだにちょっと慣れないことがあります。それは、体育会系の方々の一種独特の諧謔あるいはユーモアの文化、もしくは「おふざけ」といったような行動です。

例えば私がトレーナーさんの指導でスクワットをやっているときに、別のトレーナーさんがそーっと無言で近づいてきて前に立ちはだかり、にやにやしている……なんてことが時々あって、こういう時、根っからの体育会系ではない私はどういうリアクションを取ればいいのかわからず戸惑ってしまうんですね。こうやって文字にしてしまうとホント他愛ないことで、特に意味もへったくれもない、意味を見出そうとすることそのものが野暮なんですけど。

おっさんの私に対してはまあその程度ですが、休憩時間などに観察していると、周りのアスリートの皆さん同士では、けっこうこの手の「おふざけ」が散見されます。これも言語化するのがなかなか難しいんですけど、それは少々過激なスキンシップであったり、野卑な言葉の応酬であったり、時に一見無意味で素っ頓狂な行動であったりします。

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https://www.irasutoya.com/2015/01/blog-post_965.html

ホモソーシャルな空気感

ふと、かなり前に見た「情熱大陸」という番組を思い出しました。サッカーの香川真司選手がドイツのチームに移籍して間もない頃のドキュメントです。その中にまさにこうした「おふざけ的体育会系のノリ」のシーンがあったなあと思ってYouTubeを検索してみたら、何とその動画がありました。ネットってすごい。

youtu.be

香川選手が槙野智章選手と食事をするシーンで「一緒に勝負パンツ見せようよ」と言っています(14:17あたりから)。何枚も重ね着したパンツを見せたり、槙野選手が香川選手に「お前、いいケツしてんな〜」となでなでしたり……。わははは、まあホントに他愛ないんですけど、運動嫌いだった子供の頃から、私が何となく馴染めなかったのはこの種の「体育会系独特のノリ」あるいは「ホモソーシャルな空気感」だったのではないかと思い至りました。

とはいえこれはホモフォビアとは違うのです。ホモフォビアは予断と偏見の産物であり、他人に対する理解と尊重と寛容を欠いた行為です。例えば男性同性愛を嫌悪する文脈で世上よく冗談めかして言われるのは「襲われるのが怖い」というものですが、これは「じゃああんたは自分の性的嗜好の対象に見境なく襲いかかるんですか」の一言で論破できるほど薄っぺらく思慮に欠けた言動です。

そうではなくて、むしろ裏を返せば、私はこうしたノリや空気感に憧れていたのかもしれません。憧れ、できることなら溶け込みたかったけれども、運動神経が乏しく運動嫌いだった劣等感からなのか、臨機応変のユーモアやフレキシビリティに欠けていたからなのか、単に「くそまじめ」だったからなのか、そうしたノリや空気感には絶望的なまでに不向きで馴染めなかったのです。

かつて大学では極めて「ガテン系」な彫刻学科を専攻してしまった私ですが、思えばかなりホモソーシャルな空気感が充満した空間でありました。今から考えれば、私はどうやら一番自分に向いていない世界を選んでしまったようです。ジム通いは楽しいという話題から、何だかとんでもない場所に帰結してしまいました。……が、これもまた文章を書くことの面白さですね。

「♪You wanna 酔わないウメッシュ」

平日にほぼお酒を飲まなくなってから半年ほど。血圧はまだ「平常値」より若干高いですが、これでもかなり落ち着いてきました。いろいろ検証してみましたが、私の場合はやはり飲酒が血圧を押し上げる一番の原因のようです。

今でも夕飯時に何か飲みたくなる衝動が時々襲ってきますが、そんなときは強炭酸のミネラルウォーターを飲むことにしています。不思議なことに、いったんガス入りのミネラルウォーターで喉を潤してしまえば、もうあまりお酒を飲みたいと思わなくなるんですよね。つくづく、私の飲酒は惰性であったことが分かります。

お酒を控えるようになってから、電車内にはお酒の広告がやたらに多いことにも気づきました。特ににわかに暑くなりはじめたこの時期、夕刻にスカッと暑気払い的なビールやチューハイやハイボールなどの広告を見ると、これは確かに飲みたくなるよなあと思います。……などと客観視している自分も今では何だか新鮮ですけど。

ガス入りのミネラルウォーターの他に、チョーヤ「ウメッシュ」のノンアルコールも愛飲していました。缶に書かれている「完熟南高梅100%」で「酸味料・香料・人工甘味料を一切使用せず」ってとこに惹かれてなんですけど、氷を入れたグラスで飲み始めるときはその爽快感からあまり気づきませんが、しばらく経って口をつけてみるとやけに甘い。よくよく缶を見ると、人工甘味料は入っていないけど、砂糖は入ってるんですよね。梅酒だから当然ですね。梅酒を作るときは大量の氷砂糖を入れますから。

2020年の「アレ」に対する危機感

先日、ノンフィクション作家・安田峰俊氏のこの記事がTwitterのタイムラインに流れてきました。

bunshun.jp

わははは、同感です。でも日本代表が決勝リーグに進んだということで、新聞やテレビなどマスメディアではさらに大々的に報道が流れてきていますから、一見すると世の中「真っ青」に染まっているような気がするけれど、安田氏のように考えている方は今やけっこう多いんじゃないかと思います。

スポーツへの同調圧力という点では、私の子供時代はもっとひどかったように思います。特に男の子は野球かサッカーをやっていないとほとんど「仲間はずれ」「いじめ対象」の扱いでしたし、夏休みを返上で強制的にプールで泳がされましたし、就職した会社でさえ業界の野球大会に休日返上で有無を言わせず参加させられました。

今でもその傾向は依然根強いかもしれませんが、少なくともそれらを相対化する見方も市民権を得つつありますし、ハラスメントではないのかという批判もきちんと世の中で議論され始めています。上記の休日返上で野球大会なんて、大問題になりますよ(いまでもそういう文化は残っているのかな)。

現代はスポーツだけが至上の価値ではなく、オタクも腐女子もゲーマーも草食系もいて、それぞれがそれぞれの居場所とステイタスを持っていて、昔よりはよほどいい時代になりつつあるんじゃないかと思います。明るく「五輪反対〜!」とさえ言えますしね(今のところは、ですが)。

qianchong.hatenablog.com

私は職場でもプライベートでも「サッカーや野球にはこれっぽっちも興味ありません」というのを普段から公言していますので、まわりも気を使ってくださって、私にはそういう話題を一切ふってきません。ありがたい限りですが、それでもここんとこ、サッカーワールドカップで日本チームが快勝や辛勝を重ねて決勝トーナメント進出を決めたあたりから、さすがにちょいと同調圧力が増したような気がします。こういうとこ、スポーツ嫌いの人間は逆に敏感なんです。

例えば冗談めかして「徳久さんはこういう話題お好きじゃないでしょ」とわざわざ振ってくる方がいます。もちろん軽いギャグであり、悪気は全くないのです。私もそれは重々承知なのですが、サッカーワールドカップでなければそんな話題の振り方さえまずあり得ないですよね。昨日は確かフィギュアスケート羽生結弦選手が国民栄誉賞をもらったはずですが、「徳久さんはフィギュアなんてお好きじゃないでしょ」的に話題をふってくる方はいません。

これは端的に言ってフィギュアスケートが全国民的に応援すべき・されるべきスポーツ種目とは認識されていないからです。五輪などでメダルがからむときはさすがにニュースのトップになりますが、サッカーワールドカップの「大騒ぎ」と比べれば、やはりその規模がまったく違うでしょう。この点で、サッカーワールドカップは他とは少々異なる「危うい」側面を持ったイベントだと私は思います。ふだん充分に個人の自由を尊重してくれる知人でさえ,ちょいと諧謔で「こういう話題お好きじゃないでしょ」からかってみたくなるような何かを持っているという点で。

何を大袈裟なことをとおっしゃいますか。そうかも知れません。でも私は二年後に迫った、今次のサッカーワールドカップの比ではなさそうなあの巨大スポーツイベントのことを考えると、いくら杞憂といわれようとも憂鬱な予感を払拭することができません。よほどの心の準備をしておかなければ、熱狂的な同調圧力に心身共にやられてしまいそうな予感さえしています。私たちのこの国は、かつて大規模災害の際に流言飛語や集団的熱狂の末に犠牲者を出したことがあり、今また「非国民」という言葉が亡霊のように甦って最先端のヘイトと結びつきつつあることに敏感になっておかない理由はありません。

2020年の「アレ」はひょっとすると私たちに予想もしなかった影響や副作用をもたらすかもしれません。楽観的な夢や「レガシー」や経済効果やらばかりが先行する中、報道にもポツポツと現実の懸念材料があがりはじめています。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2018062702000174.htmlwww.tokyo-np.co.jp
www.yomiuri.co.jp

常識で考えればそんなバカな話はあり得ないはずなのに、そのバカな話が実際に起こり続けているのがここ数年のこの国のありようです。あり得ないほどバカな話が現実に起こる可能性は誰にも否定できません。「アレ」は、半世紀以上前の同じイベントとはまったく違う世界の中で開かれるのだということに、もう少し危機感を持った方がよいのではないか、自分自身に再度そう言い聞かせるつもりでここに書いておこうと思います。

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ちっともビジュアルでない料理本に惹かれる

料理本が好きで、書店に立ち寄るといつもあれこれ眺めてまわっています。実際に購入することは少ないのですが(すみません)、それでもさっき本棚にある料理本を数えてみたらおよそ五十冊ほどありました。これでもずいぶん断捨離して手放したのですが……。

料理本を眺める楽しみはもちろん、その美味しそうな料理のカラー写真や、あれこれ想像がふくらむ手順写真をひとつひとつ追っていくことなのですが、最近どこかでどなたかがお勧めしているのを読んで(ネットで見たのは確かですが、ついに思い出せず)買い求めた『長尾智子の料理1,2,3』は、それとは真逆の料理本ながら、とても深い印象を残す名著でした。


長尾智子の料理1, 2, 3

暮しの手帖社刊ですが、雑誌『暮しの手帖』に載ったものではなくて全て書き下ろしの料理エッセイ。料理にまつわる話題が中心でありながらも、レシピあり(若干のモノクロ写真も入っています)、食と暮らしへの提言あり、料理道具についての考えあり。総じてシンプル、かつ素材、特に野菜の持ち味重視が前面に出ていて、共感する項目がたくさんありました*1

私はここ数年「外食」というものからかなり遠ざかってしまいました。それは経済的な考慮や、騒々しさやタバコの煙など周囲の環境に疲れること、そして歳を取って外食の濃く複雑な味が苦手になってきたからでもあります。そんな自分の状況が、とりわけこの本に控えめな筆致ながら通奏低音として流れている「食を自分の手に取り戻す」というスタンスにぴったりとはまったような気がしました。

こう言っては大変大変失礼ながら、文章にそれほど工夫があるわけではないのです。唐突に始まり唐突に終わる印象の一文もあります。自分だったらもっと前提の状況を書き込んだり、読者にちょっとしたサプライズを与えようとか「意外な視点」を提供しようとかして文章をこねくり回すところです。でも長尾氏の文章にはそれがない。そのかわり、登場する食材や調理器具や暮らしの断片自体がとても饒舌で、読み手に「ああ、料理したい……」という気持ちを起こさせるのですね。それはもう、見開きのシズル感あふれるカラー写真よりもさらに強く。

暮らしの一部として料理をすることの意味とその大切さを、静かに、深く解き明かしてくれる料理本としては、土井善晴氏の『一汁一菜でよいという提案』も長く記憶に残るであろう名著だと思います。


一汁一菜でよいという提案

土井氏はマスメディアにもたびたび登場されている方です。そして日々の家庭料理は一汁一菜でよいというある意味大胆な「提案」、それにこの本の少ないながらもカラー写真で乗せられている料理のビジュアルが「衝撃的」であることも相まって、ネットの一部ではネガティブな感想も散見されました。でも私はこの本でとても救われたというか,肩の荷が少し下りたような気になりましたし、特に味噌汁に対する考え方が本当に大きく変わりました。

長尾氏のご本と比べると、より広範というか高みに立つスタンスから、日本人とは、和食の歴史とは、日本人の美意識とはといった視点が含まれていることも、一部の方には少々大仰に響くのかも知れません。それでも、土井氏のこの本は、日々の暮らしの中に無理なく組み込める家庭料理とはどんなものであるか、さらには「人間が食べること」とは何かについてひとつの結論を導き出しているように思えます。

ちっともビジュアルでない料理本としては、細川亜衣氏の『食記帖』なかなか大胆な一冊です。「まえがき」につづいて目次すらなく*2、いきなり日記風の、あるいは備忘録風の料理に関する文章が300有余ページにわたって延々と書き綴られているのです。


食記帖

細かいレシピのような文章もあれば、単に素材の名前や料理名、食品名を列記しただけのものもあります。写真は一枚もなく、野菜や果物などのイラストがほんの少し挿入されているだけ。いわば単にひとさまの家庭の食卓を垣間見せてもらっているだけのような本なのですが、これがなかなか味わい深いのです。各項目には日付が入っていますから、最初から読まずに気が向いたときにその日の日付に近い部分をぱらぱらと読んで、気になった料理やレシピを試してみる……という読み方・使い方が面白いかもしれません。

細川氏の料理本は他にも、すでに名著の呼び声高い『イタリア料理の本』や『野菜』などいくつか持っていますが、それらの本のビジュアル(写真)もかなり独創的です。氏はこう呼ばれることにきっと抵抗を示されると思いますが、私はほとんど美術書のカテゴリーとして眺めています。なのに『野菜』などは、日々の暮らしに難なく取り込める素晴らしいレシピがたくさん載っていて日々重宝しているのです。

ちっともビジュアルでない三冊の料理本、どれもお勧めです。

*1:個人的には、先般訪れたヘルシンキ郊外のアルヴァ・アアルト邸が登場するにいたって、人生の愛蔵版決定です。

*2:ただし巻末に詳細な索引がついており、この本があくまでも料理本であることを強烈に主張しています。

しまじまの旅 たびたびの旅 番外篇 ……ヘラヘラ・マガジン

美術を学んでいた学生時代、大きく影響を受けた本があります。岩田健三郎氏の『ヘラヘラ・マガジン』です。どこで買ったのかも覚えていませんが、偶然手にしたその本にはとても衝撃を受けました。なにせこの本、表紙から裏表紙まで、カバーやカバーの袖、見返しや扉、もちろん本文の隅々に到るまで(ノンブルや奥付けも)、すべて岩田氏がひとりによる、手描きの文章と絵で埋め尽くされているのです。

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今はなつかしい製図用の「ロットリング」ペンで緻密に書き込まれたその文字は、岩田氏独特の味のあるくせ字ながら不思議な統一感があって、このままフォントにできそうなくらい。絵もそのデフォルメと大胆な構図の一方で、決して声高に主張する類のものではなく、ほんわか、じんわり、心に染みてくるような雰囲気です。

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とくにこの、黒と灰色、二色の墨で表現されたイラストに私はとことん魅了されて、しばらく模倣してそんな絵ばかりを描いていました。黒は筆ペン、灰色はこれも香典用の薄墨筆ペンです。

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ご縁あって、川口祐二氏の『女たちの昭和 島に吹く風』や石牟礼道子氏の『食べごしらえ おままごと』(初版)に使って頂いた挿絵も、まんまその延長上です。

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岩田健三郎氏の『ヘラヘラ・マガジン』に戻って、この本の中でも特に魅了されたのは、「それぞれの旅 たびたびの旅」と題された、連作の紀行マンガです。紀行といっても岩田氏のそれは観光地のルポなどではなく、ご近所であったり、取材の旅先であったり、とにかく市井に生きる人々、あるいは生きた人々のかすかな息づかいが聞こえてくるような、なんとも内省的で思索に満ちた作品群なのです。

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このブログで書いている「しまじまの旅 たびたびの旅」というエントリも、ここへのオマージュ、というかここから拝借したタイトルです。昔から離島にとても憧れていて、離島をてんてんと旅するのが好きだからですが、いつまでたっても岩田氏の模倣が抜けない私。それだけ大きな影響を受けましたし、いまもこの本は繰り返し繰り返し読んで楽しんでいます。

ところで、ふと、岩田健三郎氏はいま何をしてらっしゃるのかしら、と思いました。ネットで検索してみると……

himeji.mypl.net

おおお、今でも故郷の姫路にご健在で、精力的に絵を描いていらっしゃるらしいです。「ヘラヘラつうしん」というご自身のウェブサイトまでありました。あれだけ私淑しておきながら、今になって初めて知る私。「川のほとりの美術館」というギャラリーも運営されているよし。近いうちにぜひ訪ねてみたいと思います。