インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

能とバッハとロックンロール

朝、細君を駅へ送った帰りに、車の中でInterFMの“Barakan Morning”を聴いていたら、珍しくバッハがかかっていました。

番組のウェブサイトによると、"BWV 1067, MENUET ー BADINERIE" AURèLE NICOLET & KARL RICHTER & MUNICH BACH ORCHESTRA です。ネットではこちら(下の方にYouTubeがあります)に。

ラジオでかかったのは最後の部分(22:16から)ですが、この演奏をピーター・バラカン氏の評していわく「ほとんどロックンロールですね」。ああ、ホントにそうですよね、このビート感というか「ノれる」感じ、確かにロックの精神を感じます。

最近同じようなことを能の稽古中にも感じました。いま謡は『野守』のキリの部分を稽古中なんですが、これがもうビートが効いていて、何とも爽快です。しかもそのビートに乗った言葉(詞章)がまたしびれる。

時も虎伏す野守の鏡
法味に映り給へとて
重ねて数珠を
押し揉んで
大嶺の雲を凌ぎ/大嶺の雲を凌ぎ/年行の功を積む事一千余箇日/屢々身命を惜しまず採果/汲水に暇を得ず/一矜迦羅二制多伽/三に倶利伽羅七大八代金剛童子
東方  
東方降三世明王も此の鏡に映り
又は南西北方を寫せば
八面玲瓏と明らかに
天を寫せば
非想非々想天まで隈なく
さて又大地をかがみ見れば
まづ地獄道
まづは地獄の有様を現す一面八丈の浄玻璃の鏡となって/罪の軽重罪人の呵責/打つや鉄杖の数々ことごとく見えたり/さてこそ鬼神に横道を正す/明鏡の寶なれ/すはや地獄に帰るぞとて/大地をかっぱと踏み鳴らし/大地をかっぱと踏み破って/奈落の底にぞ入りにける

何だかよく分からないながらも、も〜何かどえらいことが起こっていそうな感じがしません? 日本語がお分かりならこのスペクタクルなイメージの横溢にただならぬパワーを感じ取ることができると思います。

ネット上に音源や映像は見当たりませんでしたが、喜多流の『船弁慶』の終幕部分(キリ)がこちらに。『野守』の終幕部分と共通するテイストです。テイスト……ってのも何だか軽い表現で恐縮ですが。


noh FUNABENKEI - YouTube

どうですか、このめくるめく高揚感と疾走感、そしてグルーヴ感。能といえば、難解でスタティック(静的)なもの、という先入観が吹き飛んでしまいます。

もちろん能には、静かで、わずかな動きの中にパワーが凝縮された(したがって「ちょっと見」にはほとんど動いていないように見える)ものも数多くあって、それはそれで奥深いものがありますが、それとともにこういうロックな、あるいはジャズセッションのような音と言葉の共鳴に触れ、その中で繰り広げられる舞を見ると、あああ、よくぞ現代にまでこれが伝えられてきたものだなあ……と深い感慨にふけってしまうのです。

ソチ五輪フィギュアスケートなどを見ていると、フリーなどこういうので滑ってもいいんじゃないかと思います。確かこれまでは、ボーカルの入った音楽はNGだったはずですが、先日こんな報道がありました。

フィギュアスケート ルールはどう変わるべきか? | THE PAGE(ザ・ページ)

この記事によれば、これまでアイスダンスにのみ認められていたボーカル入りの音楽が、来シーズンから男女シングルやペアでもOKになるよし。能のシテ謡や地謡もいわば「ボーカル」ですから、はい。いつの日か、能の謡とお囃子で氷上の舞を披露してくれる選手が登場することを夢想しているのです。

横断幕の裏に見えるもの

今月八日、サッカーJリーグの浦和レッズサガン鳥栖の試合が行われた埼玉スタジアムで、“JAPANESE ONLY”と書かれた横断幕が掲げられ、Jリーグはこの横断幕を差別的だと判断、速やかに対応しなかったレッズ側にも責任があるとして、「無観客試合」などを含む厳しい処分を出しました。

私は時々テレビでサッカー観戦をする程度のごくごくミニマルなファンですが(しかもJリーグよりは欧州のリーグ……ごめんね)、当日のTwitterのタイムラインを皮切りに、ことの成り行きを注目していました。後味の悪い残念な顛末になってしまいましたが、昨日のJリーグが下した処分や、浦和レッズ側の発表については、まず妥当なところではないかという感想を持ちました。

被害感情や義憤

この件に関して、コラムニストの小田嶋隆氏がご自身のTwitterアカウントでこの横断幕について批判したところ、相当数の「罵倒ツイート」が届いたそうです。私もタイムラインを断続的に追っていましたが、意味不明なものも含め(これ、けっこう怖いです)、その愚かしいツイートに憤りを抑えきれませんでした。

そのうえで小田嶋氏は以下のように書かれています。

 それらのツイートを見ていてひとつ気づいたことがある。
 レイシズムの横断幕を擁護している人々は、必ずしも自分たちが、他者や他民族を「攻撃」をしているというふうには考えていないということだ。
(中略)
 差別を擁護する人たちのタイムラインを見に行ってみて目につくのは、嗜虐の喜びや、残酷さや、邪悪さよりも、むしろ、被害感情であり、義憤であり、正義の感情だったりする。
 つまり、自覚としては、彼らは、「いつもいつも敵に攻撃され続けていることに堪忍袋の緒が切れただけで、本当は自分だって、こんなことは言いたくないんだ」ぐらいに思っているということだ。
3月の横断幕の向こうに:日経ビジネスオンライン

これは鋭い指摘だと思います。ネット上にはJリーグの厳しい処分に対して「でも一般のサポーターに罪はないよな」「サガン鳥栖側の迷惑も考えろ」といったような意見も散見されますが、一見バランス感覚に富むようでありながらレイシズムに対してはいささか緊張感の欠けたこういう意見の延長線上に、横断幕を擁護する人たちや、横断幕を掲示したご本人たちの思考もつながっているような気がします。

厳しい言い方で申し訳ありません。でもこれは自分に向けたものであるのです。今回の問題を通して、それから小田嶋氏のコラムを読んで、自分の中にもそういう思考の根があることに改めて気づかされました。

大好きだけど大嫌い

私は仕事で中国語圏の人々と関わるようになってまだ15年ほどですが、その間に中国大陸や台湾に住んだり、日本で中国語圏関係の仕事をしたりする中で、しだいに形作られてきた態度というかスタンスというか、要するに「他者や他民族」に対する気持ちがあります。何度もあちこちで書いていますけど、「大好きだけど大嫌い」という感情です。

中国語を学び始めて、中国語圏の人々とつきあい始めた最初の頃は「大好き」のみだったんです。ミュージシャンのファンキー末吉氏がどこかで「中国ロックを愛するあまり、国籍を中国に変えようとまでして周囲に止められた」というようなお話を書かれていましたが、その感情の高ぶり、私にもよく分かります。それほど「ハマっちゃう」。

でも中国語圏、特に中国大陸での理不尽な思い、不合理なありかた、どうにもならない旧弊、荒廃した人心に触れるにつれ、その熱は冷めていきます。その一方で、表面的にしか知らなかった文化により深く触れ、漢字を共有している中国語と日本語の繋がりと奥深さを知り、実際に知り合った尊敬すべき人の数も増えていきます。こうしてだんだん「大好きだけど大嫌い」というアンビバレントな感情に引き裂かれてきたんですね。

かろうじて保たれているバランス

私のまわりにもそういう方はいます。ある友人は日中間の交易にかなり早い段階から関わってきた人物ですが、彼女が「私個人について言えば、日本の戦後補償は完全に終わったと思ってる」と言っていたのを思い出します。まあ半分諧謔なんですけど、要するにそれだけいろんな人に騙されて、様々なものをあちらに貢いできたと。もうこれでじゅうぶんでしょうと。

私自身も、まあ自分がバカでもあるんですけど、これまでに何度も何度も何度も何度も騙されたり欺かれたりしてきました。それでもレイシズムに走らないのは、個別具体的に素晴らしい人を何人も知っているからであり、個人のあり方と国や政治や歴史のあり方を粗雑に結びつけまいという気持ちからであり、国ごと引っ越して行けない以上「是々非々」でつきあっていくしかないでしょという諦念からでもあるわけです。

でもそれは、不断に意識をしていなければならない、もしかするとかろうじて保たれているバランス感覚なのかもしれません。小田嶋氏のコラムを読んで、自分はレイシズムと遠く離れたところにいるわけではなく、けっこう危うい稜線上にいるのかもしれないと思いました。

レイシズムの底にあるのは嗜虐の邪悪さよりむしろ被害感情や義憤」。自分にも多かれ少なかれそういう感情はあって、ただそれを漏らしていない、漏らすまいという矜恃をかろうじて保っているだけなのかもしれません。たぶんそれを理性と呼ぶのでしょう。となればこの理性は、お互いに声を掛け合って注意を促し続けなければすぐに失われてしまう類いのものです。その意味でも今回のJリーグの厳しい処分は妥当だったと思います。

通訳者は「ひとりだけ門外漢」なのでぜひとも資料をいただきたいです

先々週から今週にかけて、通訳の仕事で少々忙しくしていました。といっても外に出かけるのは間欠泉的にであって、多くの時間を在宅ワークに充てているので、うちのお義父さんなんかは「あいつは全然働かねえな」と思っているかもしれません。

だいたい、通訳者の仕事って、その内実はあまりよく知られていないんですよね。サラリーマンとして定年までの何十年間を律儀に勤め上げたお義父さんからすれば、朝晩定時の出退勤を繰り返さない私をいぶかしく思っているでしょう。私の両親もそうかな。外国で仕事をしたことがある父親は多少理解してくれているようですが、母親はきっと「つうやく? そがいなもんで暮らしが成り立っていくっちゃろか」と現在でも不思議に思っているはずです。 

楽な商売か?

お年寄りだけじゃありません。むかしむかし、仕事で伺った会社の方にも言われたことがあります。「通訳さんって、いい商売だよね。口先でちょろちょろっと喋って、日当が何万円ももらえるんでしょ?」う〜ん、香具師ですか。というか、香具師にだって香具師なりの喋りの技術というものがあると思います。それに「通訳は『ちょろい』職業か」でも書きましたけど、日本語と外国語が喋れるからといって、それで通訳がつとまるとは限らないのです。さらには、その「喋れる」というのがどれくらいのレベルを指しているのかも曖昧です。

例えばお買い物のアテンドくらいなら、たぶん普通にお話ができる程度で大きな問題はないでしょう。でも、専門的な会議や商談の場合だったら、半日、あるいは一日のお仕事をするために、通訳者はその何日も、時には一週間や十日以上も前からコツコツと準備や予習をしています。その時間は報酬に含まれません。というか、その時間も含んだ報酬として比較的高い日当が設定されているんです。でもね、仮に一日で何万円もいただいたとしても、それを仕事全体に費やした時間で割れば、コンビニ深夜バイトの時給のほうがよほど手厚かったりするんですよ。

ひとりだけ門外漢

例えば先々週はとある理系の学会でした。先週はとある機械メーカーの会議でした。今週はとある飲食店チェーンの商談でした。そのどの業界についても、私は全くの門外漢です。でもそれらの会議に出席している方々は、いずれもその業界の専門家ばかりです。

業界の専門家ばかりが集まる会議で、専門家同士でさえまだ共通の知見が得られていない事柄について話す(だからわざわざ国際会議をやるのです)場面で、通訳者だけがひとり門外漢であるにもかかわらず、その門外漢が一番前に出て二つの言葉で瞬時に専門的な内容をやりとりする……という、この「無理筋感」をご想像いただけるでしょうか。

事前に資料を出していただけず、全く予習ができずに会議に出て、「標準液密度高めなら払い出しはバタ弁微開のミニフロ運転でお願いします」などと言われたら、私のような駆け出しはもちろん、どんなベテランの先生だって、まず訳せないでしょう。これは実際にとある技術会議でなされた発言ですけどね。もっともこのときはクライアントがとても通訳者に理解があって、資料を豊富に提供して下さり、前日にわざわざ時間を割いてブリーフィングまでしてくださって、じゅうぶんに予習をすることができました。

大丈夫、普通のことしか喋らないから」とおっしゃる方もいます。でも、その方やその業界の方にとっては普通のことでも、門外漢にはたったひとつのジャーゴン(業界用語、仲間内の用語)が命取りになります。だから仕事の前に最大限想像力を働かせて手広く予習をするのですが、それでも時間的・物理的に全てをカバーすることは不可能です。そりゃそうですよね、どんな業界にも長年積み上げられてきた知識の集積があるのですから。

それをよこせ

とある会議でも、結局あまり詳しい資料が出ないまま当日を迎えました。現場に到着してみると、クライアントの手には印刷された資料があって、今日はどういう戦略で行くかとか、この点とこの点だけは確認するとか、ここは譲るがここは絶対に譲らないとか、いろいろな内部情報が書かれています。それをよこせ。い・ま・す・ぐ・に・だ。

……失礼いたしました。でも、それを前もって、前日の夜でもいいので通訳者にも提供していただけたら。そうすれば単語を調べることもできるし、よりよい訳出の方法を考えることもできる。「アンチョコ」を見て楽をしたいんじゃありません。そうではなくて、御社にとってもよりよい結果をもたらすために、背景知識をできうる限り共有させていただきたいのです。語学をやったことがある方なら同意して下さると思いますが、言葉のリスニングやスピーキングには背景知識の多寡が大きな影響を及ぼしているものなんですよ。

前にも書いたように、通訳者の耳に言語Aを吹きかければ、口から言語Bが出てくるというような機械的なものではないのです。「言ったとおりに訳してくれればいいから」とおっしゃる方は多いのですが、これは通訳者を音声変換器と捉えてらっしゃる方が往々にして陥る信憑です。

とはいえ……。

通訳者も一介のサービス業、お客様が用意して下さる範囲で最善を尽くすしかありません。通訳という作業に一般の方が理解が及ばないのはある意味仕方のないことであって、となれば程度の差はあれ現場での訳出は常に付け焼き刃で立ち向かわざるを得ないのかもしれません。精神衛生上は非常によろしくないんですけどね。事前にあまり情報が知らされない仕事ほど、心配で夜も寝られなくなります。

仕事場でご一緒する英語の通訳者さんにはとても強気な方がいて、現場に着くなりクライアントを呼び出し、「こことこことここ、どういうことなのか説明して下さい。あ、お偉いさんは要らないから、現場でこの技術を担当している人、連れてきて!」などと命じちゃったりしています。私は「うわあ」と圧倒されつつも、いつもその英語の通訳者さんの、仕事に賭ける執念に心から敬意を表しています。

もっと楽しんで仕事ができるようになれたらいいな。じゅうぶんに予習ができた仕事は、現場に向かう朝もとても楽しいです。それとも通訳者に対する理解を求めつつ、もっともっと訓練を積んで技術を高めて、なおかつ森羅万象どんな話題を突然ふられても自信を持って訳せるような博覧強記の人になればいいのかな。

義父と暮らせば12:「金さ君。」

いや、びっくりしました。

これまで毎月の光熱費を三で割り、私と細君の二人分をキッチリ請求してきたお義父さんが、突然「来月から俺が負担してやるわ」と。どうしちゃったの、お義父さん。

どうやらお義父さんの弟や、亡き義母の友人らが何度も進言してくれたらしいです。身体の衰えを心配して同居してくれて、炊事洗濯掃除から身の回りの一切合切を担当してくれている娘夫婦に、年金満額もらって悠々自適のおまいがみみっちいことしてんじゃねえや……って。あ、お義父さんも弟さんも元々「いどっこ(江戸っ子)」なんですけどね。

それでも「朝、エアコンと電気ストーブ一緒につけるのはよしとくれ。電気代がかさんでしょうがねえ」だって。お義父さんも精一杯の面子を保とうとしたのでしょう。なんにせよ、ありがたいことです。月に数万円のことなんですけど、細君は心なしかお義父さんに優しく接するようになりましたし、私は私でご飯作るのが以前よりは何となく楽しくなったような。

夏目漱石の『こころ』に、こんなくだりがあります。「先生」が「私」に、世の中に典型的な悪人などいないが、いざという間際には誰でも急に悪人に変わるものだと言い、「私」がその真意をただす場面です。

 門口を出て二、三町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
 先生は笑い出した。あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった風に。
「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」
夏目漱石 こころ

「私」はこの答えに拍子抜けするのですが、お金というものは実に侮れないものです。いくら平静を装ってはいても、お金の問題が介在するだけで心というものは影響を受けるんですね。お義父さんの申し出を聞いただけで、名状しがたい胸のつかえみたいなものがぽろりと取れちゃった自分に、いまちょっと驚いています。

二つの対照的な対談

土曜日の午後、二つの対談イベントを「はしご」してきました。期せずしてとても対照的な対談でした。

一つは、ピーター・バラカン氏と佐々木俊尚氏の対談です。池袋の東京芸術劇場で開催されている『Moving Distance:2579枚の写真と11通の手紙』というジャンル横断的芸術イベントの一つとして行われたトーク・セッションで、お題は「メディアの行方」。

展示スペースの一部を使ったこぢんまりとした会場で、しかもたった一時間でグローバル化するメディアを論じるのは難しいと思うんですけど、結果としてとても刺激的な対談でした。ピーター・バラカン氏との対談ということで、佐々木俊尚氏が冒頭で様々なメディアの中でも特に「音楽」、とりわけ音楽の聴かれ方について話したい、とテーマを明示したのがとてもよかったと思います。

私も通訳学校などで公開講座やセミナーの講師を仰せつかることがありますが、最初に、今日は何について語り、みなさんに何を持って帰っていただきたいかということを明示するようにしています。これによって聞き手も主体的にイベントに参加できるようになると思うんです。もちろん中身が充実していなければ意味がないので、準備には時間をかけないといけませんが。

バラカン氏と佐々木氏なら準備なしで「放談」しても内容に遜色はないと思いますけど、それでもお二人はたぶん対談前に簡単な打ち合わせというか、すりあわせをされていたのではないかと思います。お二人が対談の方向性を共有しつつ自分のコンテンツを提供しようという姿勢がとてもよく伝わってきました。

どちらかというと佐々木氏が聞いてバラカン氏が答えるというスタイルでしたが、お二人とも同じくらいの時間話されていましたし、話がうまくかみ合ってお互いをフォローしつつ発展性がありましたし、短いながらもとても満足度の高い対談でした。

いろいろな話がありました。なかでも、グローバル化が世界を一色に染めようとする一方で、ローカルなものが全く別の地域の人たちとと繋がる可能性が生まれているという「グローカル」の話題と、音楽の聴かれ方の今後の可能性、特にYouTubeやパンドラのようなクラウドから聴くことが主流になりつつあることなどが特に興味深かったです。

ところで、最後に質疑応答の時間があったのですが、質問に立ったうちのお二人ほどがいずれも「時間に遅れてきて途中から聞いたのですが」と言っていて、ちょっと驚きました。たった一時間の対談に遅れてきて、しかも全部聞いてないけど質問するというの、対談者に対しても聴衆に対しても失礼なんじゃないかな。しかも質問内容が「○○について、今日の対談で話されましたか?」だったりして。もっともお二人はそんな質問にも嫌な顔をせず、さらに興味深いお話を聞かせてくださいましたが。

通訳学校でセミナーなどを開催するときにも、遅れてくる方が必ずいらっしゃるんですけど、あれはとてもやりにくいです。冒頭で提示するテーマや今日の方向性を共有していただいてないと、こちらも話しにくいんですよね。それで話の途中でもう一度簡単にテーマに触れたりして。最初から参加されている方には迷惑な話だと思います。

もう一つは、アテネ・フランセで行われた字幕翻訳者の太田直子氏と映像評論家の安井豊作氏の対談です。

1930年代に撮影されたハワード・ホークス監督の映画『ヒズ・ガール・フライデー』を鑑賞したあとに、この映画の字幕を担当された太田氏と映像作家でもある安井氏が「映画にとって翻訳はいかにあるべきかを翻訳論と映画論の立場から考えてみたい」というのが対談の趣旨だったんですけど……ここまで空疎な対談は初めてでした。

いや、太田氏は中身のある話をしようとするんですけど、安井氏が全部ぶち壊しちゃう。対談の方向性を共有しようという姿勢が全く見られませんし、そもそも何を話しているのかさえ意味不明でした。何の準備もしていないのがよく分かります。あまりにひどいので途中で退席してしまいました。

あと15分くらい残して退席しましたが(私の他にもぱらぱらと退席する人がいました)、そのあと15分間に対談の中身が一気に濃くなって……ということはあったのかもしれません。でもあの安井氏の不誠実さに我慢ができませんでした。太田氏は『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』など著作を何冊か読んでとても共感していたので、対談を楽しみにしていたんですけど。もって他山の石としたいと思います。

時間に遅れてくる聴衆に憤っておきながら、自分は対談が終わる前に出てきてしまったという、なんだか情けない結果になってしまいました。

義父と暮らせば11:詰まりました

のっけから尾籠な話題で申し訳ありませんが、日曜日にうちのトイレが詰まりました。というか溢れました。お義父さんが「おおきいほう」で使ってて、何をどうしたんだかは未だに不明ですが、とにかくたいへんなことに。

私は二階で仕事をしていたんですが、階下がただならぬ騒動なので降りてみると、上記のような惨状を呈しておりました。細君もかなりパニックに陥っておりましたが、私が「ラバーカップ」はないか聞くと、お義父さんが「ある」というので、納屋へ取りに行ってもらいました。

いえいえ、そんな、自分だけクールに対処したみたいな嘘はいけません。「ラバーカップ」というのは、私が今ネットでぐぐって初めて知った名称です。

ラバーカップ - Wikipedia

実際には、私も半ばパニックに陥りながら腕を上下に激しく振るジェスチャーとともに「スッポンない? スッポンっっ!」と叫んでいたと思います。スッポンというかギュッポンというか、柄の先にゴム製のお椀みたいなのがついたアレですね。

で、お義父さんが持ってきた「ラバーカップ」ですが、もう何十年も前に買った物らしく、ゴムが硬化していて使い物になりませんでした。それで私が近所のホームセンターに車を飛ばして……私はこの時初めて「ラバーカップ」には単純なお椀型の「排水口用」と、底が出っ張ってマッシュルームみたいな形になっている「トイレ用」の二種類があることを知りました。勉強になります。

そして……文字にするのもはばかられるような悪戦苦闘の末、詰まりは解消されました。あああ、よかった。

お義父さんは徐々にではありますが、様々な行動がおぼつかなくなったり、目の前の状況が分からなくなったりしてきているようです。同居を始めて半年も経っていませんが、細君によれば以前なら絶対になかった「水道の蛇口の閉め忘れ」や「ドアや門扉の閉め忘れ」、「ゴミ箱以外の場所にゴミを捨てる」などの行動が目立つようになってきました。

私がちょっと気になっているのは、食事の際に無表情になってきたことです。うちは三人とも生活や仕事のパターンが異なるので、一緒に食卓を囲むのは夕飯だけなんですが、お義父さんは食事中ほとんど喋らなくなりました。黙々と食べて、食後の薬を飲んで、お茶をくれと言って、部屋に引き上げます。

食欲は落ちてないようですけど、時にごっそり食べたり、時にかなり残したり。食べ残しに、食後の薬を飲んだあとの水をざあっと流し込まれたりすると、思わず心が折れそうになってる自分に驚いたりして。いや、まだまだ修行が足りませんね。

成長から成熟へ

中国人とお仕事で一緒になると、ときどき“不成熟”というお叱りを頂戴することがあります。いえ、お叱りと言っても本当に怒っているわけではなく、なかば諧謔とユーモアと老婆心を込めて「成熟してないね」とおっしゃってくれるのです。

私は昔から実年齢に比して若く見られることが多く、日本人的にはまあ特に忌避すべきものでもないんですけど、中国人的な価値観、特に中年以降の男性のあり方としては「ちとマズいんじゃないの」ということになるんです。

彼らの言う“成熟”とは、いい年してみっともない事しないから始まって、清濁合わせ飲み、ユーモアと毒と経済的余裕と可愛げを持ち、外見や背格好や立ち居振る舞いがほぼ然るべき所にあるという、私など三度生まれ変わっても体現できない境地です。

う〜ん、自分にはそういう要素は皆無だな。余裕というものが欠けてるもの。私は時々能楽を見に出かけますが、自分がお稽古している喜多流だけじゃなくて、観世流とか金春流とかの舞台も見ます。で、それを知った師匠から「他流儀の舞台もご覧になっているんですね(決してダメと言っているわけではなく、勉強熱心ですねという意味)」と聞かれたときに「いえ、でも、まあ、そんなに見てません……」などうろたえちゃったりするんですけど、成熟した大人というのは例えば「やっぱり破門ですか?」とカラカラ笑う、みたいなもんですかね。

それはさておき、ことほどさように「成熟」に憧れている私ですから、書店で「成熟」の二文字を見かけたら必ず手に取り、そのほとんどを買って読むことになります。それで先日も某作家の手になる「成熟」を説いた新書を買って読んだのですが……う〜ん、ここまで空疎で支離滅裂な本は久しぶりでした。

おすすめしたくもないからリンクも張らないでおきましょう。それでも買って読んでしまったのは、書名と、目次に並んだ各章のタイトルが面白そうだったから。あれは編集者がつけたのかな? だとしたらその力業には心からの敬意を表したいと思います。

次に読んだ天野祐吉氏の『成長から成熟へ——さよなら経済大国』は、うってかわって素晴らしい内容でした。雑誌『広告批評』やマスメディアでの論客として有名な氏が亡くなったのは昨年十月。たぶん最後の一冊になった本だと思います。


成長から成熟へ さよなら経済大国 (集英社新書)

天野氏は日本の敗戦後から高度経済成長を経て今日に到るまでの消費文化を、ご自身のフィールドとされていた広告の側面から俯瞰して語ります。広告と言えば単に物を売って利益を上げるための道具と思われがちですが、広告にはそれ以外にも時の政府の批判や文明批評までも含んだ大きな役割があるという氏の考え方が軽妙洒脱な語り口で綴られています。

そしてこれまでの大量生産・大量消費を振り返り、昨今のグローバリズムを憂い、3.11以後の私たちが目指すべきは「成長」ではなく「脱成長」、成熟した「別品」の国ではないかと説くのです。「別品」というのは一等(一品)、二等(二品)、三等(三品)……という順位のカテゴリーには入らない、別格で個性的なありようのことだそう。大いに共感を覚えます。

冒頭で語られる「マスク・原発・テレビショッピング・福袋・リニア新幹線」への違和感も大いに共感しましたし、政府の広報活動に対する鋭い批判にもうなりました。そして文中に引用されているフランスの経済学者、セルジュ・ラトゥーシュ氏のこの言葉が、昨日のエントリともあまりにシンクロするので驚きました。

「脱成長のエッセンスは一言で言い表せます。『減らす』です。ゴミを減らす。環境に残すわれわれの痕跡を減らす。過剰生産を減らす。過剰消費を減らす」

最近へ移行して読んだ、あるいは読んでいる平川克美氏のいくつかの著作、『経済成長という病』『移行期的混乱: 経済成長神話の終わり』『小商いのすすめ:「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』などとも通底する読みごたえのある一冊でした。

ちなみに、件の某作家による「成熟」に関する新書、Amazonマーケットプレイスに出したら秒速で売れました。ミリオンセラーに迫る勢いだそうですから、人気なんですね。私は捨てたお金が戻ってきたみたいで何だか申し訳なかったですが。

追記

成熟と言えば、先日都内某所で聞いてきた対談イベントに『大人力検定』で有名なコラムニストの石原壮一郎氏が登場して、ご自身の本が中国で出版された話をされていました。『大人力検定』の中国語版が出たんだそうです。

http://www.amazon.cn/dp/B003WNA9EY

石原壮一郎氏は中国語版の出版をめぐって「一番『大人』から遠い人達の国でねえ……」とギャグを飛ばしていましたが、私は「あちらにも“大人”という理想があるんだけどね」と思いましたよ。まあそれはさておき、この訳書名が《成熟度鑒定書》なんですね。

う〜む、これは氏一流のユーモアや笑いは訳され(訳せ)なかったのかな……と思ったら、案の定“不知不觉间就会掌握成熟度,同时提高您的成熟度”と真正面から紹介されちゃってて、それを真に受けてノウハウ本として読んじゃった読者諸氏から、“有點幼稚”とか“沒太大用處”などといったレビューがついちゃってます。あああ。

親の家を片づける

先日新聞を読んでいたら「親家方(おやかた)」という初耳の言葉が載っていました。「親の家を片づける」で略して「おやかた」。う〜ん、正直あまり秀逸なネーミングじゃないなと思いつつも、この言葉を冠した書籍が出ていることを知り、Amazonに行ってみて驚きました。特にレビューの部分。軒並み高評価なんですが、その一つ一つのレビューを読んでいると、興奮を抑えきれなくなります。

父母ともに、戦後のひもじさや貧困を幼少期に経験して、昭和の経済成長をバリバリに経験して生きてきた人間だったので、その物欲と上昇志向たるや、呆れるほどのものがあり、役に立たない置物や巻物、壺から剥製、とても自分たちの生活レベルとは身分不相応なものを大切に押入れにしまったりしていました。

あるある、壺や置物や剥製。私の実家にも、今住んでいる義父の家にも、花を活けるには大きすぎるけど傘立てにもならないような壺、ど派手な獅子や北海道の熊なんかの置物、長い尾が京劇っぽい雉の剥製(それもつがいで!)があります。もう笑っちゃうくらい似てる。


親の家を片づける―ある日突然、膨大な老親の荷物や家の整理と処分が、あなたの身に降りかかってきたら、どうしますか? (ゆうゆう特別編集)

というわけで早速購入して読んでみましたが、いやあ、重い。重すぎる。親が突然倒れた、要介護状態になった、或いは亡くなったなどの理由で、それまで離れて住んでいた子供が親の家を片づけることになって初めて直面する事態をルポルタージュした本なんですが、ことに驚かされるのが「どこの家族にもほとんど共通なんだ……」という思い。

共通というのはつまり、親の世代が戦中戦後の貧しい時代に生まれ、その後高度経済成長をその身に体現してきた人たちで、年齢を重ねるにつれてモノに対する執着が一層強まり、全く必要でないモノまで大量に家に詰め込んだあげく、自分でもどうしようもなくなって子の世代が片づけに直面し、精神的肉体的にものすごく大きな負担を抱える……という構図です。

タンスまるごと空にしてみて、残す必要なものは何ひとつなかったことがわかった時のあの徒労感、で、「これでだいたいこの部屋はもう終わったはず」と思ったら、その奥から手つかずの押入れが現れる…

これは私たちが義父との同居に際して片づけを行ったときにも感じました。あまりにモノが多くて手が回らず、今でも天袋や押し入れの多くは手つかずのままです。九州にある私の実家はもっと大きな家なので、一体どれくらいの押し入れがあるのか想像もつきません。そして、片づけに際して必ず直面するのが、親の世代の「抵抗」です。

自分の領域なら一気に断捨離もできましょうが、親の領域はそうはいきません。親はモノを減らすことに興味がなく、抵抗だけがあります。「私が死んでから片づけてッ」と言われた時には口論にも。

細君によれば、お義父さんも現役時代は片づけ魔で、無駄な物が出してあると「仕舞いなさい!」と叱り、床に物を置くのも許さないほどだったそう。それが定年を迎えた頃から、記念品や思い出の品的なものに執着しだして、今では棚と言わず床と言わず家中にモノがあふれています。

分かるような気もするのです。お義父さんにとってはそれぞれ意味のあるモノなのでしょう。また身体が思うように動かなくなった今、必要なモノをすぐに手に取れるところに置きたいというのもあるのでしょう。

ただ、壊れて使わなくなってしまったガスストーブ、泊まり客があることは金輪際ないのに何組もある布団、うちの実家の場合だと何十年も読んだことがない日本文学全集、同じく何十年もカバーさえ取っていないアップライトピアノなど……合理的に考えれば処分すべきモノたちが家の中に残されているのが我々の親世代の特徴のようです。とはいえ、その「合理的」という部分が、親世代にとっては必ずしもそうじゃないんですね。

戦中戦後の貧しい時代に生まれ、高度経済成長をその身に体現してきた団塊もしくは団塊+α世代は、モノを捨てられないのかもしれません。だからどの家庭も驚くほど状況が似ている。もちろん「もったいない」というのは美徳ではありましょう。が、その一方で戦後の日本がアメリカに追随して大量生産・大量消費という波に乗り、その波に追い立てられるようにしてモノを買い込んできた世代の、一種の悲哀のようなものも感じてしまうのです。

これは、戦後の高度経済成長の「消費は美徳である」という価値観への総括でもある気がします。「戦後とは何だったのか、昭和とはなんだったのか、高度成長とはなんだったのか」とまで考えさせられます。そして、はしばしにも書かれていますが、親たちとのそういった経験から、自分たちがこれからどう生きていくべきか、にまで考えさせられる気がします。

この本は、コンパクトな作りながら様々な示唆を与えてくれます。現在、政財界の要路にある人たちは今だに「経済成長」を謳っていますが、高度経済成長をになった世代が徐々に引退し始め、人口も減少に転じ、食糧やエネルギーを含めて新たな課題に直面している私たちは、成長より成熟を目指さなきゃいけないのに何をやっているんだろう……そんなことまで考えさせられました。

上記のような重い事例だけでなく、親自身がじぶんできっちり「おとしまえ」をつけて片づけた「あっぱれ」な例も収録されていて、救われた気分になります。また自分が「親家片」に直面したときのノウハウ的情報もまとめられており、編集者の力量と心配りが感じられる構成です。

なお最近、このノウハウ部分を充実させた第二弾が出たそうなので、こちらも読んでみたいと思います。

親の家を片づける 実践ハンドブック (ゆうゆうブックス)

義父と暮らせば10:人はそれまで生きてきたように老いていく

やや旧聞に属するんですが、『朝日新聞』のサイトに「好々爺、いずこ」という興味深い記事が載っていました。中でも興味深かったのは、臨床心理士である信田さよこ氏のお話。

高齢男性からの相談は増えていますし、さらに増えると思います。多いのは、妻が出ていった、口をきいてくれない、子供もぐるになって自分を疎外している、といった訴えです。一人で食事をしなければならなくなったり、家族の中での孤独に耐えられなくなったりしてやってくる。でも、自分のどこが悪かったかという反省は、まずないのが特徴です。
(中略)
中高年男性が余暇で参加する活動に対して、アドバイザーが口を酸っぱくして言うのは、過去の自慢話をするな、社会的な地位は忘れろ、人の話を聞け、だそうです。そこから始めないとだめなんですね。
(耕論)好々爺、いずこ 信田さよ子さん、安藤哲也さん、菅原文太さん:朝日新聞デジタル

む〜、やっぱりそうなんだねえ。中高年男性の全てがそうだとはもちろん言えませんけど、この話、先日デイサービスの業者さんやケアマネさんからうかがった話とも符合します。

いわく、デイサービスのような新しい環境に入るためには、他人の話を聞き、他人との関係を調整するような気遣いが必要なんだけど、女性が比較的そういうものに長けている反面、男性はなかなか自分流を曲げなくて、結果溶け込めない。「俺はあんなとこヤダ」「俺はまだあんなに老いぼれてない」とかなんとか言って、結局デイサービスなどに参加しないで自宅に引きこもる人が多いと。うちのお義父さんなんかは、完全にそのタイプかもしれません。

お義父さんは、ときどき細君に向かって「俺の言うことを聞いてりゃいいんだ!」なんて言ったりして、衝突してます。やはり娘夫婦と同居ということになれば、これまでの一人暮らしとは環境が変わるし、お互い気遣いをする必要も生まれるわけで、こっちはこっちでストレスを感じるけど、お義父さんも同じようにストレスを感じる部分はあるのだろうなあと思います。

もっとも、お義父さんが「♪俺の話を聞け〜」とやる相手は細君だけであって、私には言いません。やはりそこはそれ、他人だからという遠慮なり配慮がお義父さんなりにあるのでしょう。だから、お義父さんだから、男性だから他人との関係調整能力が弱いと決めつけることはできないんですけどね。

結局、新しい環境に適応できるかどうかは、他人との調整力というか、もっと単純に思いやりとか公平で穏やかな心の多寡によると思います。だから、もともとそういうものをあまり育んで生きて来なかった人が、いざ定年なりリタイアなりの歳になって臨機応変に変われるわけはないんであって……う〜、もって自戒としたいと思います。

それから、これは先日ネットの『現代ビジネス』で読んだ記事ですけど、その中に印象深い言葉がありました。断末魔の苦しみにのたうち回りながら死を迎えたり、自分が選んだ治療法で晩年のQOLが極端に下がったり、心に大きな後悔の気持ちを残しながら亡くなったり、生前に不倫関係を清算していなかったために残された家族が大混乱になったり……という、胸ふたぐエピソードがてんこもりで読んでて辛い記事なんですが、最後の医師のコメントが印象深かったのです。

人は、死に直面しても、人格や考え方が大きく変わるものではありません。これまで、数々の方の死に立ち会ってきましたが、人は、それまで生きてきたように死んでいくものだと実感しています。
医師たちは見た!「あんな死に方だけは嫌だな」壮絶な痛み、薄れていく意識、耐えがたい孤独 | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

人は、それまで生きてきたように死んでいく。自分の晩年は、当然それまでの人生と不連続な突発的状況なのではなく、今の生き方の延長線上に必然的に立ち現れてくる状況なんですね。

前述の「好々爺、いずこ」には「妻は孫の進学が決まったタイミングを計って出ていきました。退職して一緒にいる時間が増え、変わるかと思ったのに、結局変わらないと、あきらめたんだと思います」という男性の述懐も紹介されていました。老境にさしかかって、変われるか変われないか。「人は、それまで生きてきたように老いていく」とも言えるんじゃないでしょうか。

余談ですが、友人から聞いた話では、本人が「自分が分からなくなってきていることが分からない」ので新しい環境を受け入れられないというのもあるんだそう。デイサービスに行っても「俺にはまだ不必要だ」と言っちゃう心理はそこにもあるのかもしれません。そして、その分からなくなっていることが分かった瞬間はかなりのパニックに陥るそうで、そこが危ないと友人は言っていました。うちは早晩そのステージに進みそうなので、今から心の準備をしておこうと思っています。

炭水化物が人類を滅ぼす

実に刺激的な一冊でした。

最初の100ページくらいは「糖質制限」のお話でダイエット本みたいな雰囲気ですが、その後そもそも食とは何か、家畜とは何か、草食動物と肉食動物との違いから、生命の進化、農耕の起源……と壮大な人類史を俯瞰する様相を呈してきます。

炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)

著者は『傷はぜったい消毒するな』で注目された医師・夏井睦氏。外傷を消毒殺菌してガーゼで覆うという当たり前すぎて誰も疑うことのなかった治療法に異議を唱えて、人間自身の自然治癒力に着目した「湿潤療法」を提唱した方です。いまではバンドエイドも、これを応用した製品を出しているくらい有名になりましたが、発表当初は非難囂々だったそう。

この本でも糖質=炭水化物ないしは穀物を主食にする人類史は転換の時を迎えているのではないかという大胆な仮説を展開していて、賛否両論があると思いますし、主食、つまりご飯やパンや麺類の一切を排するとなると、それだけでもう「ムリ」と思ってしまう人は多いと思います。

私も白いご飯はもちろん、パンもラーメンも大好きなので「とてもムリ」と思ってしまいます。でも以前、宮仕えをしていたときに午後からの膨満感と眠気にどうにも耐えられなくて、試験的にお昼を抜く、あるいはごくごく軽くバナナ一本とかソイジョイ(大豆のバーですね)一本などにしてみたことがあり、その時はご飯やパンや麺類をほとんど食べなかったのですが……。

あの時の爽快感といったらなかったですね。しかも数週間でかなり体重が落ちました。朝夕は普段とあまり変わらない食生活でしたし(朝食はグリーンスムージーだけということが多かったです)、バナナもソイジョイも糖分を含んでいるから、この本でいうところの「プチ糖質制限」程度なんですけど、それでも炭水化物を全く取らないとかなり身体が軽かったというのは鮮烈な記憶として残っています。

あの爽快感をもう一度味わいたいのと、長年悩まされてきたアトピーをいい加減なんとかできたらというのと、あとちょっぴりダイエットも期待して、「糖質セイゲニスト」をやってみようかなと思っています。

幸い今はフリーランスで、食事もほとんど自分で作っている気軽な身分なので、一度試しに「糖質制限」をしてみようかなあと思っています。こういう食事制限ってサラリーマンだと意外にやりにくいんですよね。いくら意志を持って行おうとしても、まわりからの(善意の)声が意志を鈍らせちゃうの。「あれ、ご飯食べないの?」とか「食べないと身体に悪いよ」とかですね。特にチャイニーズの皆さんはもう世界一食に命をかけてらっしゃる方々ですから、我々の業界ではこういう制限、なかなか理解してもらえないかもしれません。

試してみた結果はまたエントリさせたいと思います。

義父と暮らせば9:せっせと雪かき

関東地方は記録的な大雪になりました。雪国の方からすれば笑っちゃうくらいのレベルでしょうけど、もとよりこれほどの降雪を想定していない街の作りになってますから、あちこち大変なことになってます。

うちのまわりにはJRに加えて私鉄が二路線走っていて、いずれも都心から一時間強といったところですが、家はどの駅から歩いても30〜40分はかかるというどうしてこんな場所に家建てたのお義父さん的等距離外交を貫いた罰ゲームみたいな場所にありまして、気のせいか積雪はテレビで見る街の様子とは随分違う厚みを呈しています。

放置しておくと明日以降の行動に差し支えるので、早朝からせっせと雪かきをしてました。ついでに、数十メートルほど離れた駐車場に止めてある車も、雪の中から「発掘」してきました。あああ、腰が痛い。かつて九州の田舎に住んで、一軒家を月10000円で借りていた(住んでくれるだけで家が傷まないからありがたいんだって)ときも思いましたけど、うちみたいな夫婦二人にお年寄り一人といった小規模の家族にとって、こういう庭付き一軒家はとても無駄が多いですね。

三人で住むには大きすぎるし、でもって築年数もずいぶん経っているし、掃除やらメンテやら草取りやら枯葉集めやら雨戸の開け閉めやら、それに今日みたいな日は雪かきまで、面倒なことが日々・次々・色々と降りかかってきます。「一軒家は○○の夢」とか何とか言ってないで、こぢんまりした集合住宅に住むのが一番楽ですよ、本当に。管理会社マンションじゃなければ自治会の共同作業とかがあったりするけど、それでも小家族で古い庭付き一戸建てに住むよりはずいぶんマシじゃないかと思います。

しかもお年寄りって、その一戸建ての家の内外にちょっとありえないほどの数の細々とした物をため込んでいるんですよね。家の周辺にもお年寄りがたくさん住んでますけど、お世辞にも小ぎれいとは言えないレベルで物が庭や玄関先にまであふれているお宅も多いです。

そのどれもが長い人生の中でなにがしかの関わりがあった物たちなので、捨てられない気持ちは分からなくもないんですけど、も〜とにかくよく分からないものがたくさん詰まってる。明らかに何十年も使っていない物もあるけれど、これを捨てるとなるとお義父さんは強い抵抗を示します。断捨離とは無縁の世界ですね。

それと、物がごちゃごちゃあるだけで掃除がしにくくなるので、細君も私もなるべく物を持ちたくない、なるべく物を表に出しておきたくない派なんですけど、お義父さんはなるべく物を表に出しておきたい派なんですね。というか、何か物がないと不安というか殺風景に感じるみたい。玄関の下駄箱の上などきれいに掃除して片付けておいても、次の日にはなにやら壺とか馬の置物(今年の干支ですね)なんかが飾ってあります。

まあこういうのは本人のあり方と密接に関わり合っているんであって、80年以上も貫いてきた生活スタイルを娘夫婦と同居したくらいで変えられるものでもないでしょう。しかもここはもともとお義父さんが建てた家で、我々が居候みたいなものですから。というわけで今は、生活感が全くないインテリア雑誌など見ながら、羨望と嫉妬と諦念のため息をついているのです。

「母語なんてちょろい」のか

先日のエントリで、「語学なんて『ちょろい』でしょ」という信憑について書きましたが、Twitterでは台湾の方からこんなリプライをいただきました。

本当に不思議ですね。外語がなかなかマスターできないというルサンチマン(うらみ・つらみ)なのか、本当に外語なんて「ちょろい」からいつでもマスターできると思ってる(でも今はまだ本気出してないだけ)のか……。

もとより外語は母語じゃないので、恐らく一生勉強しても母語なみになることはないと思います。いや、まあ母語なみに学んでしまう達人も世の中にはいらっしゃると思いますが、少なくとも私自身は真の意味での「バイリンガル」にはなれないでしょう。だとしても「学ぶに如かざるなり」なんですよね。あれこれ考えててもしょうがないんで。

これも以前、「『英語プアの日本人は、ますます下流化する』のだろうか」というエントリで、こんなことを書きました。

第二言語を真剣に学び、その習得の難しさを骨身に染みて分かっている人ほど、バイリンガルとかトライリンガルとかネイティブ並みとか「〇〇語がペラペラ」などという言葉は使わないものです。それは学べば学ぶほど,母語の大切さが分かるから。そして豊かな母語があるからこそ、自分はこの第二言語を学び続けて深めて行くことができるんだという確信みたいなものがあるからです。

ここでは要するに、「母語の豊かさが外語学習の伸びしろを担保する」ということが言いたかったんですけど、語学なんて「ちょろい」という考え方のベースには、外語のみならず母語に対しても「ちょろい」という態度が横たわっているのだと思います。

この件については、思想家・武道家の内田樹氏が、ご自身のブログに書かれていた文章に心底共感しています。枕元に置いて朝夕三読したいくらい。

「熟達した日本語の遣い手」というものがありうること、長期にわたる集中的な努力なしには、そのような境位に至り得ないことを人々は認めたがらない。


だが、もちろんそのような文化的環境は存在する。それによる言語運用能力の差異は歴然として存在する。


でも、それを認めない人たちは自分が用いる日本語を豊かなものにすることに何の関心も示さない。


英語を最小の学習努力で習得しようとする費用対効果志向と、日本語はもう十分できているので、あとは量的増大だけが課題だと高をくくっているマインドセットは根のところでは同じ一つのものである。


どちらも言語というものを舐めている。 


言語というのは「ちゃっちゃっと」手際よく習得すれば、労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種だと思っている。


そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれており、外国語の習得によってはじめて「母語の檻」から抜け出すことができるという言語の底深さに対する畏怖の念がない。言葉は恐ろしいものだという怯えがない。


言語を学ぶことについて (内田樹の研究室)

外語と母語について、なにより言語そのものについて、ここまで透徹した語り口でその本質をついた文章を他に知りません。だからこそ外語は小学生から全員がその習得に血道を上げなくていいと思うし、だけど必要な人はより一層真剣に習得に励む必要があると思うんですよね。ましてや、外語習得のために母語の涵養が疎かになるなんて本末転倒も甚だしいと思います。

余談ですけど、こちらもTwitterで拝見して、大爆笑したツイート。

大爆笑ですけど、「やがて悲しき」……というか、小さなお子さんを育ててらっしゃる親御さんに、ぜひ母語の大切さを再認識していただきたいと願わずにはいられません。

母語の大切さについては、台湾の作家・張曼娟氏がこんなことを語っています。動画の最後の部分(2:36あたりから)です。


就是當前世界有幾億人外國人,就是華人以外的人在學中文的時候,身為一個華人卻不學中文,是不是可惜? 每個人的價值觀不一樣。那有一些人可能覺得說,我就是覺得不可惜。那,但是如果我的話,我會覺得很可惜。所以如果我有孩子,我一定不會讓他放棄華文的學習。而且我會希望他的華文比跟他在同一個地區的人的華文都更好。因為我覺得現在會華文已經不是優勢。你的華文要比其他的人更好才是優勢。


いまや中国語圏以外の数億という外国人が中国語を学んでいるというのに、ひとりの華人として中国語を学ばないのは残念ではありませんか? 価値観は人それぞれですから「別に残念じゃない」と言う人がいるかもしれません。でも私は違います。私に子供がいれば、中国語の学習を怠らないようにさせるでしょう。しかもその中国語が、まわりの華人よりも優れたものであるよう望むでしょう。この時代にあって、中国語を話せることは強みではありせん。自らの中国語が人より優れていることこそ強みなのです。

これは青少年に対するメッセージの一部です。華人(チャイニーズ)らしい、功利主義的というかリアリズムあふれる物言いですけど、母語の大切さを説き、人々が母語なんて「ちょろい」と思い込んでいることに警鐘を鳴らす、作家ならではのメッセージだと思います。

通訳や翻訳の留学生クラスを担当するたびにこの動画を紹介して、「どう思う?」と感想を聞くようにしているんですけど、若い学生のみなさんからは「別に〜何も〜」という反応が多いですね。私など、一説には中国語母語話者が六割から七割を占めるとも言われている(日本国内なのに!)中国語通訳翻訳業界の末席に連なる者として、張曼娟氏の言葉を日々かみしめているんですけど。

義父と暮らせば8:家族のためでもある介護サービス

この間、ふと鏡に映った自分の姿を見て、軽いショックを受けました。

「疲れてるなあ、何だか老けたんじゃないかなあ」って。聞けば細君も「あたしも同じ事を考えてた」と言ってました。さらに聞けば細君のとある友人は、かつてはブランドのバッグなど下げた「おしゃれさん」だったのに、最近は親御さんの介護疲れがちょっとした表情や雰囲気に表れていて、「もろもろ分かるわ〜。でも、とても本人には言えない」んだそう。う〜ん、そこはかとなくにじみ出てくるものがあるんでしょうね。私も人に「とても本人には言えないけど、最近ちょっと……」などと思われてるんでしょうか。

いかんいかん、せめて趣味などでリフレッシュしないと。というわけで、今日は能のお稽古に行くんですけど。

お義父さんはまだまだ元気で、特に介護が必要な状態でもないんですけど、最近はちょっとしたことに注意が行かないようになってきた気がします。私はここ五〜六年ほどしか知らないけど、ゴミ出しを忘れるとか(少しでも身体を動かすために、ゴミ出しはお義父さんの役割にしているのです)、水道の蛇口をきちんと閉めなくなるとか、わりあい潔癖できれい好きなお義父さんにしては「以前ならありえない」行動が表れてきました。お風呂に入るのを面倒がったりね。「いよいよ来たか〜」という感じ。

私は週の半分くらいは在宅で仕事をしていますが、家にいるだけでいろいろ気になって落ち着かないというのはあります。階下で何か物音がしたり、電話が鳴っていても誰も出なかったり(時々、目の前の現象に素早く反応できなくなることがあるんですね。あとは、うつらうつらしている時とか)すると、仕事を中断して「大丈夫かな」と考えますから。遠くから豆腐屋さんの「ぱ〜ふ〜」という笛(録音ですが)が聞こえると「ま〜た一丁450円のお高い豆腐を売りつけられやしないかしら」と気が気じゃないですし。

まあ基本、お義父さんの好きなように生活してもらっていいですし、その方が本人もストレスも溜まらなくて健康的だと思うんですけど、火の取り扱いとか、あと段差で転んで骨折とかね、そういうのはやっぱり気になっちゃいますね。それから「洗濯物を取り込みなさい」とか「雨戸を閉めなさい」とか「あいつ(細君のこと)は何時くらいに帰ってくるんだ」とかそういう干渉(というほどでもないけど)も……自分のペースを崩されるということでは軽いストレスになるかな。まあ同居しているんですから当然と言えば当然ですが。

ケアマネさんによれば、さまざなお年寄り向けのサービス、例えば一日外出して食事や入浴やレクリエーションなどをさせてくれるデイサービスみたいなの、もちろん本人のためではあるんですけど、実は家族のためでもあるんだそうです。家族の息抜きのためでもあると。確かに丸一日、あるいはお泊まりでお出かけしてくれたら、その時間はかなり落ち着くかもしれませんね。「軽い臨戦態勢」を一時停止できるから。

「ご家族の皆さんにも、それぞれご自分の人生があるんですから」とケアマネさん。今はまだ大したことないけど、これから認知症が進んで介護が必須の段階になったら、そういうサービスはとても助かるんだろうなと思います。ただ、こないだも見学に行った軽い運動系のサービス、お義父さんは「あんなじいさん・ばあさんばっかりのとこ、俺はやだ」って断っちゃったんですよね。まさか「家にずっと居られると落ち着かないから、たまには外出してね」とも言えないしねえ。

細君は、九州に住んでいる私の妹と仲がよくて、よく電話で長々とお喋りしてますが、妹は介護の仕事をしているんですね。で、上記のような話をしたら「家族だから却って言えない、他人(ケアマネさんや介護士さん)だから言えることもある。他人が言うからお年寄りも聞き入れる、ということもある」と言われたそうです。やはり他人だから時に優しく時に厳しく、時に演技も含めてお年寄りを動かすことができるのだそうで。これが身内だと、なまじ情もあり、恨み辛みもあるから、衝突ばかりが表に立ってしまうと。

妹やケアマネさんによると、お年寄り、特に男性は「俺はそんなのイヤだ」と言いがちだけれど、行ってみると意外に気に入ったりもするそうです。で、先日もケアマネさんがうちに来て、懇切丁寧に様々なサービスへの参加を勧めてくれたんですけど、お義父さんはやっぱり「いや、まだ私はけっこうですから」って全部断っちゃいました。わはは。

デイサービスなどを見学に行っても、うちのお義父さんに限らず「俺にはまだ必要ない」「あんな年寄りばかりの所はイヤだ」って溶け込めないのは男性に多いとケアマネさん。端的に言って、女性に比べてこれまでとは違う環境への適応能力が低い方が多いのだと。う〜ん、海外への留学でも男性は異国に適応できずに痩せる人が多く(私も中国で痩せました)、女性は逆にエンジョイして太っちゃう人が多いと言われるんですが、何か通底するものがあるような気がします。

追記

2014.2.6

Twitterで「レスパイトケア」という言葉を教えていただきました。

『知恵蔵2014』に載ったばかりだそうですから、比較的新しい言葉なのかもしれません。私は初めて知りました。乳幼児や障害児や高齢者などを在宅でケアしている家族を癒やすために、一時的にケアを代替して、リフレッシュを図ってもらうための家族支援サービスを指すそうです。

「『家族がケアを休む必要性』の社会的認識が日本で低いことによる利用抵抗感」が課題だそうです。なるほど、ついつい家族の中で頑張っちゃって、他に助けを求められない、また親を施設に入れることに対する批判的な視線など、日本ならではの問題も孕んでいるんですね。

レスパイトケア とは - コトバンク

通訳は「ちょろい」職業か

春節休暇(今年の春節は1月31日)のためか、都心に出ると観光客とおぼしきチャイニーズのみなさんを多く見かけます。日本の洗練されたところも、そうでないところも見て行ってほしいですね。本来の姿をありのままに体験してもらうだけで十分「おもてなし」になると信じています。

昨今はもっと外語(なかんずく英語)を学べとか、看板の表記を改善しろとか、おそらく2020年に向けた施策を叫ぶ声が様々な方向から聞こえてくるんですけど、そういう利便性を追求することだけが「おもてなし」じゃないと思うんですよね。それはむしろ旅情を削ぐんじゃないかと。不思議な未知の国のままである方が観光客は楽しいはず。だからありのままの日本をそのまま見せればいいのだと思っています。

おそらく春節休暇で急増するチャイニーズの観光客対応なんでしょう、ネットで登録している派遣業者のサイトから、店頭通訳の短期派遣求人がメールで数多く舞い込みます。相変わらずの低賃金でぴくりとも食指が動きませんが、昨日はこんな求人文句がありました。

スポーツ用品ショップにて中国人のお客様対応をお願いします。中国人のお客様の要望をヒアリングし、日本人の販売スタッフへ日本語に通訳するだけ! 商品知識は全く必要ありません!

う〜ん、商品知識が全くなくて、どう訳せというのかな。通訳は単に音声を変換しているんじゃないんだけどな。通訳者の耳に言語Aを聞かせれば、口から言語Bが出てくる…という機械だと勘違いされている方、いるんですよね。「言ったことをそのまま訳してくれればいいから」って、事前に情報を全然出してくれないクライアントがその典型。それでも言葉である以上訳せる部分はあります。あるけど、訳出の精度はかなり落ちます。これは「喋れれば訳せるでしょ」という信憑が根底にあるような気がします。

チャイニーズの観光客は、わざわざ日本までやって来て、本国では手に入らない仕様の本国より割高なスポーツ用品を買おうとされてるわけですよね。そんなお客さんに店員が「このスニーカーはフィットネスヘリテージをコンセプトに開発されたVintageパックで、レトロテイストなアッパー素材やクラックドサイドストライプやユニオンジャックをシュータンに施した今シーズンの注力コレクションです」と言ったら、知識なしに訳せると思う? いやこれ、たった今リーボックのウェブサイトから拝借してきたフレーズですけどね。

店頭販売でそこまで説明しない? まあそうかもしれませんね。「この靴、いいです。おすすめです。お安くしときます」くらい言えればいいのかな。「とにかくいろいろと細部にまでこだわった、今流行りのすんごくいい靴なんですっ!」くらいに超意訳することだったらできるかもしれません。でもお目の高いお客様や、商品に自信と誇りを持っている販売員だったとしたら不満でしょう。

商品知識なんかいらない、「喋れれば訳せるでしょ」というのは結局、お客様と販売員と、そして通訳者をも「なめてかかってる」んじゃないかなと思ったんですね。

と、昨日はFacebookのタイムラインでこんな記事を教えてもらいました。通訳案内士の受験者が減少してるという話です。

日本を訪れる外国人旅行者を案内する観光ガイドの不足が深刻化している。ガイド不足に向けて、観光庁は「通訳ガイド制度」の創設を打ち出したが、これが逆に既存のガイド資格の受験者数減少を招いている。観光庁は新資格創設を事実上断念。政府は東京五輪が開かれる二〇二〇年までに外国人旅行者を現在の倍の二千万人に増やそうとしているが、政策の混迷が足を引っ張っている。

東京新聞:「五輪までに2000万人」大丈夫? 訪日客ガイド不足

まあレートは激安だし、モグリが横行しているうえに取り締まりもほとんど行われてないしねえ。私も通訳案内士の資格を持ってますけど、ガイドの仕事をしたことは一度もありません。端的に言って通訳案内士の免許を取っても実際に稼働する人が少ないのは、きちんとした対価が支払われないからです。そしてそのベースには「喋れれば訳せるでしょ」という信憑があり、通訳なんて口先でぺらぺらっと喋って稼げる「ちょろい」職業だという誤解があるのだと思います。

上記の求人にせよ、通訳案内士の受験者減少にせよ、その背景には通訳という仕事に対する無理解が横たわっているなあと改めて感じたのでした。

ちなみに通訳なんて「ちょろい」でしょという誤解、語学なんて「ちょろい」でしょという意識と繋がっていると思います。内田樹氏のこちらのエントリをぜひ読んでいただきたいです。全編引用したくなるほどの素晴らしい文章ですが、とりあえずここだけ引用させていただきます。

英語を最小の学習努力で習得しようとする費用対効果志向と、日本語はもう十分できているので、あとは量的増大だけが課題だと高をくくっているマインドセットは根のところでは同じ一つのものである。


どちらも言語というものを舐めている。


言語というのは「ちゃっちゃっと」手際よく習得すれば、労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種だと思っている。


そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれており、外国語の習得によってはじめて「母語の檻」から抜け出すことができるという言語の底深さに対する畏怖の念がない。言葉は恐ろしいものだという怯えがない。

言語を学ぶことについて (内田樹の研究室)

幸か不幸か、日本はこれだけの巨大な人口(世界でも十指に入ります)がほぼ一つの言語で暮らすことのできる珍しい国です。それがこの国独特の社会と文化を創り出すことに貢献してきたわけですが、反面私たちは、外語に対する無理解といじましいまでのコンプレックスを育み、そして空気のような母語に対するありがたみの喪失を招いて今日に至っているのかもしれません。

追記

2014.2.1

これもFacebookのタイムラインで教えていただいたんですけど、通訳案内士試験に合格して免許を申請する際に「精神疾患の有無に関する健康診断書」が必要になったって、ホント? 私が取得した頃は求められませんでしたが……というか、一体何があったんでしょう。だいたい二次の口頭試問は人物考査も兼ねてるんじゃなかったのかな? 上記の記事の新資格騒動といい、行政の混迷ぶりが際立ってます。

さらに追記

2014.2.2

この「精神疾患の有無に関する健康診断書」について、Facebookで事情に詳しい方からご教示いただきました。感謝申し上げます。

通訳案内士は国家資格ですが、こうした国家資格には以前「精神障害者」を排除する「絶対的欠格条項」というものが規定されていたそうです。それが2002年に一括法改正がなされて、全てを排除するのではなく、通訳案内士として適当でない疾患を省令で定めるという「相対的欠格条項」へ改められたそうです。
通訳案内士法(第二十一条)

診断書はその施行規則にある「精神の機能の障害により通訳案内の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者」かどうかを判断するために提出を義務づけるようにしたもよう。つまり、全ての精神疾患を一律に排除するのではないということですね。通訳案内士だけでなく多くの国家資格でこのような措置がとられたとのことです。
通訳案内士法施行規則(第十七条)

これは障害者団体からの要望を受け入れた改正だそう。ざっと検索したところ、以下のページがありましたのでリンクを張っておきます。
精神障害関係の欠格条項の改正評価と今後の課題

おいしくて楽しい料理

先日、料理研究家・小林カツ代さんの訃報に接しました。

皆さまに長きにわたり親しまれてまいりました料理研究家小林カツ代は、2005年夏にクモ膜下出血を起こしたあと、ゆっくりと療養しながら、このサイトを日々楽しんで、静かに暮らしていましたが、去る1月23日(木)に家族が見守る中、安らかに天国へと旅立ちました。享年76歳でした。ここに謹んで御報告申し上げますと共に、故人の快復を祈り待ち続けてくださったファンの皆様に厚く御礼申し上げます。(中略)生前、「私が死んじゃっても、美味しい私のレシピは永遠にそこの家の家庭料理として残るのが嬉しいわね」と、大好きな珈琲を飲みつつ、笑いながらスタッフに話をしていました。
重要なお知らせ - KATSUYOレシピ

と、Facebookのタイムラインで、2005年に行われたインタビュー記事を知りました。含蓄のある言葉の数々です。

——家族でおいしく楽しく食べられれば、手作りとか自然食にこだわる必要もない?


「手作り」という言葉も嫌いですね。だって、料理は手で作るに決まっているじゃないですか。自然食にこだわる人もどうでしょう。何でもかんでも「自然」にこだわる人にはユーモアが感じられません。だいたい発想が「あれもいけない」「これもいけない」なので、おいしそうな感じがしません。そうではなくて、「これもいい」「あれもいい」という発想のほうがおいしい料理を作れると思うんです。


病気でもない限り、減塩とか減油といってぼけた味の料理を作っている人は、その人の人生もぼけていくと思います(笑)。そういう引き算の考えでは、おいしい料理は作れません。玄米が本当においしいならば、今でもみんな玄米を食べているはずなんです。でも実際はそうじゃない。自然かどうかじゃなくて、「おいしい」料理が元気を作るんです。


小林カツ代/「安全」や「自然」より、「おいしい」料理がいちばん大事 - 学びの場.com

う〜ん、いま、高血圧と肝機能障害があるお義父さんのために食事を作ってて、お医者さんから言われたとおりに多少なりとも減塩とか菜食とかに気を使ってるんですけど、やっぱり徹底しちゃうとかえって認知症が進行しちゃうかしらんと思ったりして。ま、もとより「ずぼら」な性格なので(私が)、昨日は極薄だったから今日はその分濃くてもいいや的なテキトー減塩だったり、時にどぉんとボリュームのある料理を作ってお義父さんにドン引きされたりしてるんですけどね。

小林さんのレシピをいくつも参考にさせていただいた一人としてご冥福をお祈りします。そしてこれからもおいしくて楽しい料理を作っていこうと思います。

追記

「おいしくて楽しい料理」ということでは、最近よく拝見しているのがこちらのブログ。こちらのレシピはどれも素朴かつオシャレです。なんだか矛盾するようですけど、ブログを読めば分かります。しかも「男の料理」的なアプローチとは全然違うところで、細かなところに手を抜いていないのがいいんですよね。

ばーさんがじーさんに作る食卓

今晩は、先日のエントリにあった「タマネギとごはんのグラタン」を作るのです。ああ、楽しみ。