インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フォアグラ弁当は残酷か

コンビニのファミリーマートで発売予定だった「フォアグラ弁当」が、消費者からのクレームを受けて発売中止になったというニュースを読みました。

ファミリーマートは24日、28日に予定していた「ファミマプレミアム黒毛和牛入り ハンバーグ弁当~フォアグラパテ添え」の発売を取りやめると発表した。フォアグラについて消費者から「残酷な食べ物だ」と指摘があったという。


フォアグラは、ガチョウやカモなどに大量の餌を食べさせ脂肪肝の状態にした肝臓で、フランス料理などに使われる食材。


ファミマは「一般的に受け入れられている食材と認識して発売を決めていた。不快に思われた方には申し訳ない」(広報担当者)としている。

http://www.47news.jp/CN/201401/CN2014012401001950.html

金髪に高い鼻が人種差別だとクレームのあったANAのCMや、カエルのキャラクターが未成年の飲酒を誘発するとクレームのあったキリンのチューハイなど、このところ似たようなニュースが続きましたが、実は私、最初はいずれもいわゆる「釣り」じゃないかと思って何度も確かめちゃいました。

で、ANAやチューハイはさておき、フォアグラについてはそれまでも流通してたのに、コンビニで販売するようになったらクレームが顕在化したというのが興味深いですね。「消費者」の「指摘」の動機は何だろうと考えて、「欧米で健康志向が高まり、フォアグラの消費量が減ったぶん日本に安価で流れ、コンビニ弁当にまで登場、そうやって大量消費を温存するから鳥たちの受難は続くのだ」っちゅ〜抗議の理屈を拵えてTwitterに流してみました。

数日経って分かったのですが、健康志向の部分はハズレみたいだったものの、その他はだいたい想像通りだったようです。欧米で倫理的(?)な観点からボイコットが起こっていて、コンビニでの大量消費はその流れに逆行するものだという主張をされている「消費者」の一団があるんですね。

http://www.hopeforanimals.org/topics_detail6/id=274

まあ私はフォアグラなどほとんど食べたことがないし、これからも食べなくても特に残念でもないんですけど、コンビニがフォアグラの流通先になれば、「残酷な」生産が温存ないしは拡大されるという理屈、特にその「残酷だ」という理屈を敷衍していけば論理が破綻するんじゃないかと思いました。

これはもう昔から、例えば呉智英氏などが太田竜氏あたりを批判して繰り返し取り上げられてきた議論ですけど、じゃあ狭いところで肥育させられる魚の養殖は、労働の成果を横取りされる蜜蜂は、高温で大量死させられるイースト菌は…と際限なくなるんじゃない?

というか、敷衍する気はないのかな。それはそれ、これはこれ。是々非々。上記の「団体」は肉食の弊害を訴えていて、その主張はとても論理的で隙がないように見えます。でもこう言っては失礼ですが、比較的豊かな都会でしか生きてこなかった方はそういう硬直化した思考法に陥るのかもしれないと思います。自給自足に近い暮らしを一度なさってみるといい。人間がどれだけ他の生き物に活かされているかが分かります。

肉を食べないのは自由です。私だって肉の大量消費はいいことだとは思いません。が、それをイデオロギーにしない方がいいんじゃないかと。野菜だって作ってみれば分かりますが、F1の種苗(ぐぐってね)から間引きから植物の一生を無視した収穫時期から、とことん人間の都合、優生思想なんです。きっとそれにも我慢できなくなるよ。

そしてそういう人間の都合で、肉にしろ野菜にしろ穀物にしろ、食べ物を生産する仕組みを営々と積み上げてきたからこそ、食べ物にとどまらず人間の必要な物資を他の生命を犠牲にすることで生み出してきたからこそ、今これだけの人間が(自分も含めて)この世の中に生きていられるんじゃないかな。その営為をあまり軽く見るべきではないと思います。贖罪したい、気持ち的にスッキリしたいのは分かるんですけどね。

大量生産・大量消費を見直そうという考えには共感しますが、コンビニのフォアグラ弁当を「残酷だ」という理由でボイコットするというのには、どこか釈然としないものを感じたのでした。

義父と暮らせば7

部屋にエアコンを入れました。

これまで小さな電気ストーブで暖を取ってきたんですけど、築半世紀のこの古い家ではさすがに厳冬期は辛くて、ついに我慢ができず「価格.com」で最安値のをポチッと。電気工事は近所のおなじみさんにお願いしました。

あああ、快適。電気をじゃんじゃん使うのは若干の後ろめたさも感じるので、いっそのこと昔使ってた火鉢にしようかとも思ったんですけど、深夜や早朝はやはりエアコンが最強。古い家は壁や天井に断熱材など入っておらず、外の寒さが直接伝わってくる感じなんです。特に外壁と繋がってる押し入れなんか開けると、ほとんど冷蔵庫という感じ。こんなに寒い冬は、部屋の中でコップの水に氷が張った学生時代の下宿以来です。若いときはサバイバルできましたが、アラフィフには辛いです。

寝室と私の仕事部屋のそれぞれにエアコンを入れ、ブレーカーが落ちないよう新たに配線工事もしたので、かなりの臨時出費になりました。日中関係が冷え込んで業界が超氷河期を迎えているこの時期、この出費は痛いわ〜。細君は「何でじいさん(注:お義父さん)が出してくれないのよ!」と怒っていますが、まあ我々の居住空間ですからね。

「でもさ、炊事・洗濯・掃除から、日常の細々したことまで全部私たちがやってあげてるんだよ? 少しくらい感謝してもバチは当たらないっての」

まあそうね。でも同居していることで家賃はかからないわけだし、お義父さんとしては、じゅうぶん恩恵は与えてやってるだろうということなんじゃないの。

「それに、毎月光熱費を請求してくるのが信じられない。頭数で割って三分の二を寄こせと言ってくるじゃない。日用品だって全部私たちが買ってるんだからね」

まあそうね。その辺はまあ、親しき仲にも礼儀ありというか、お互い大人の付き合いしましょという、お義父さんのスタンスなんじゃないの。

とはいえ細君にとっては実の父親だから、よけいそのドライなところに腹が立つようで「もう、要介護になっても面倒なんて見てやんない!」とか、ときどき毒を吐いてます。なんか「大手小町」みたいなハナシになってきましたが。

同世代の友人・知人で、やはり親の介護でてんてこ舞いしている人たちの話を聞くと、程度の差はあれみなさん「できるだけのことをしてあげよう」という気持ちと「もう面倒なんてみてやらない!」という気持ちとの間で、そのときどきに、いろいろなグラデーションを呈しているようですね。

こないだ友人からもらったメールには、こんなことが書かれてありました。

うちの母も認知症で、今はもう私のこともわからなくなっていますが、やはり通常の生活は一応送れるけど一人で暮らすにはかなり不安がある、というレベルの時が、一番大変な気がします。本人はわからなくなってきている状況を受け入れたくないという気持ちが強いので、周りが振り回されちゃうんですね。


各御家庭で考え方がだいぶん違うところではありますが、最終的に専門の施設に入ってもらうことを早めに検討しておいたほうがいいような気がします。周りにも認知症の親を抱え、大変な思いをしておられる方が結構いて、みんな最初は家族だからと頑張るんですが、のちのち疲れきってしまうんですね。

うん、うちはまさにこの「レベル」ですね。私が週の半分くらいは在宅ワークしてますから、家事も片付けられるし、育児もないので一般的なケースよりはよほど負担が軽い方だと思います。それでも、一から十までとは行かないまでも、一から七か八くらいまではこまごま気を使ってると、気持ち的に煮詰まってくる瞬間がたまにあります。

それに畢竟「義父」ですから、「できるだけのことをしてあげよう」というモチベーションの維持に、ときどき自信がなくなりそうになることも、正直あるんですよね。お義父さんは昔から亭主関白かつマイペースな人だったそうで、細君は「これだけ面倒見てもらっといて、『ありがとう』とか『すまないね』の一言も全くないんだよね」と日々「disって」います。

もう一人、別の友人からはこんなメールをもらいました。やはり両親を介護で抱えている人です。

長寿ということがまったくめでたくない国に住んでる私たち。今、介護者としてがんばっている世代が介護から解放されたとたん、こんどは被介護者になるのですよ。それも「ボロボロ」の状態で。

う〜ん、長寿がめでたくないというのはシビアで重い表現です。でも確かに後半生が介護→被介護で終わるというのも悲しすぎる。人類史上いまだかつてない規模で、世界でも一番最初に超高齢化社会へ突入しつつある私たちは、長い老いと上手く折り合う習慣や思想やライフスタイルを手探りで見つけていかなくてはならないのかもしれません。

今後、自分の暮らしや仕事や親の状態がどのように変化していくか予想することは困難ですが、そのときどきで最適解を見つけていくしかないんでしょうね。

語学は筋トレみたいなものだけどホントにやりたいですか?

フランス語の教科書『スピラル』に付録でついている「ポートフォリオ」という小冊子は、フランス語に限らず外語学習者にとって貴重なヒントが満載です。これほど的確な外語学習のアドバイスは見たことがありません。

版元が太っ腹なことにpdfを公開しています。以前リンクを張っていたのが変わっていたので、再録しておきます。
http://www.hachette-japon.jp/image/data/Portfolio.pdf

特にこの「ポートフォリオ」に入っている「フランス語学習のためのアドバイス」と「ストラテジーを明確にするための評価シート」が秀逸です。この二つは常に座右に置き、熟読玩味されたしと、中国語学習者の皆さんにも勧めたことがあるくらいです。

「フランス語学習のためのアドバイス」には、冒頭にこんなことが書いてあります。

外国語を学ぶこと……
……それはスポーツのようなものです。

外語学習のうち、聴いて話すという能力を伸ばしたいのであれば、初期の段階は語学とか勉強とかいうより、むしろ身体トレーニングと考えた方がいいです。私は筋トレと思っています。言葉を聴く・話すというのは畢竟一種の身体能力で、しかもこれまで日本語にしか対応していなかった喉や口腔や唇やその他の身体器官の能力を、他の言葉にも対応できるように、様々な調整と訓練を加える……まんま筋トレなんです。この筋トレをやる前に会話学校に行っても、あまり効果は上がらないと思います。筋肉がつく前にレースに出るようなものだから。

……と思っていて、先日ネットで調べ物をしていたら、偶然こちらのブログの記事に出会いました。

そんな中、自分なりに思うのは、(ネイティブレベルを目指さなければ)語学学習と筋トレはかなり近いな、ということ。どちらも才能はあまり関係ない。適切なトレーニングを一定量サボらず積み重ねれば、誰でもそれに見合った効果がある。


カジケンブログ筋トレにあって、語学学習には無いもの。

同感です。筋トレに近道はありません。どんなにお金持ちであっても、今すぐここで筋肉をつけるのはムリな相談なんです。「三日であなたもマッチョに!」などというジムの広告があれば、誰だって胡散臭いと思うはず。語学だって、少なくとも聴く・話すは身体能力だから、一定量を継続して(できうる限り大量かつ長期に)やらなければ、身につきません。なのに「三日であなたもペラペラに!」みたいな本やメソッドが次々に登場するんですよね。次々に登場するということは、それに飛びつく客層が一定量いるということで。

さまざまな比喩

筋トレとかスポーツということでは、努力して語学をモノにした先達たちの金言・至言が興味深いです。表現は違えど、みなさん同じようなことを言っています。

俳優の渡辺謙氏が英語を学んだときの実感を紹介しているこちらのブログの記事。大先輩の中国語翻訳者のブログです。

謙さんによると、英語でのコミュニケーションが必要な場に長くいると、「あれっ、俺っていつのまにかこんなに英語が分かるようになってる」と気づくことがあるそうだ。逆に、しばらく英語を使わないでいると、あっというまにその英語力が消えてしまい、また分からなくなってしまうのだという。


その状況を謙さんは、「まるで雪みたいなもんですよ」とたとえた。ふと気づくと、ずいぶんと積もっていたり、あるいはいつのまにか溶けて消えていたり。


語学に関して悪戦苦闘している人なら、絶対にうなずける比喩だ。ただし、たとえ少しずつであっても、雪がなが~~~く降り続けると、根雪になったり、土と一体化した地層になったりして、ゆっくり蓄積するんじゃないだろうか、とも思う。


中国語翻訳者の仕事実録語学は雪のようなもの(by 渡辺謙さん)

筋トレも、ちょっとサボるとたちまち筋肉が落ちますし、スポーツもちょっと休むと身体がなまって、元に戻すのが大変ですよね。語学も同じような側面があると思うんです。

あと、これはどなたがおっしゃったのか失念してしまい、ネットで探しても見つからなかったのですが、「語学はエスカレーターを逆向きに上るようなものだ」というのを聞いたことがあります。少しでもサボるとどんどん下がっちゃう。常に学んでないと(上ってないと)いけない。母語はそう簡単に忘れないでしょうけど、外語・第二言語はいとも簡単にその能力が失われるんですよね、それはもう非情なくらいに。

ビジネスマンに個人レッスンで中国語をお教えすることがありますが、上記のことを踏まえて毎回同じようなことを言ってます。「毎日、10分でも5分でも1分でもいいから、中国語の音声を聴き、口に出してください」。1分ならやってもやらなくても同じなんじゃないかと思うでしょうけど、毎日やってるってのが意外に重要なんですよね。毎日、1分すらもやらなかったら、すぐに「やらないモード」に落ち込むから。筋肉が落ちて、雪が溶けて、エスカレーターから放り出されます。

ホントにやりたい? どこまでやりたい?

いつもの話で申し訳ないけど、つくづく、こんなにしんどい・めんどくさいことに「小学校から早期教育だ」「中学校から全部英語で授業だ」と全国民が血道を上げなくていいと思います。趣味で学ぶだけならまだしも、ビジネスに必要なレベルの語学は、それが必要な方だけが学べばいいんです。ただし学ぶからには「必要」なんだから真剣に大量に訓練しなきゃいけませんが。

上記の「カジケンブログ」さんは、ジムのトレーナーみたいな語学教師には一定の需要があるのではないかとおっしゃっています。

語学学習は継続が命。長くて苦しいマラソンを、声かけしながら並走してくれる先輩ランナーのような存在がいたら、それだけでも目標達成は約束されたようなものかも知れません。


いやマンツーマン英会話とか結構あるやん?それじゃだめなの?


私が知らないだけなのかも知れませんが、業界で一番評判が良い学校のマンツーマンレッスンに通ったりした経験から言えば、上記どれも皆無かと。というか、何かしら教科書があって教室に来たらそれを1対1で教えてくれる、という形がほとんど。


完全に逆なんです。


理想論ですが、自分のなりたい目標から逆算してそれに必要なものだけを自分用に完全カスタマイズして学習したい。僧帽筋上腕二頭筋をこれぐらい鍛えたいみたいな、そういうニーズってあるんじゃないかな、と。

これも同感です。というか、今まさにそういうのをある方と一緒にやっています。この方は会社員で、仕事に使うからここまで中国語をマスターしたいというはっきりした目標があって、そのためにどこを鍛えればいいかこちらから提案して、実際に学習、というかトレーニングをしています。もう一年近く続いていますが、けっこう語学の筋肉がついてきたと思います。

そうそう、上記のブログでも言及されていますが、語学を学ぶ際に自分の目標を明確に立てることは大切だと思います。漠然と「ペラペラになりたい」じゃなくて。

目標を立てるということでは、こちらのブログにも大いに共感しました。自分に必要な英語能力はどのレベルなのかをきちんと把握しようということです。

まつひろのガレージライフ日本人に必要な英語のレベル

詳しくは本文にあたっていただくとして、私はこちらの記事を読んでとても気が楽になりました。だって私はここに書かれている「英語なんて基本的に必要ない。たまに観光旅行に行った時に、レストランで食事が頼めれば充分」な人間だから。そういう人は「中3までの英語がキチンと分かればもう『出来過ぎ』なレベル。高校英語は必要ない。高校3年間は中3までの英語をひたすらやり直し、血肉にしたほうがずっと実用的だろう」って。

巷間かまびすしいグローバルだTOEICだ国際人だ……という声に惑わされることなく、自分が本当に必要としているのは何かをもう一度自分によくよくたずねてみたほうがいいと思うんです。先日都心の大型書店に行って中国語の教材を物色したとき、隣の売り場に山とあふれている英語関連本の数々にやや圧倒されながら、改めてそんなことを考えました。

義父と暮らせば6

厳寒のこの時期、あまりにもブレーカーが落ちまくるので、結局東京電力にお願いしてブレーカーの容量を上げてもらいました。昔はこの二階屋で細君の家族が暮らしていて特に何ともなかったそうですから、いまは家電製品の使用電力が昔に比べて格段に増えたということですね。

そりゃそうです、お義父さんは火の取り扱いが怪しくなってきたので、ガスや石油関係を全て電気に変えたんですから。それでも夜中に台所のエアコンつけっぱなしとか、よく切り忘れが発生します。認知症には様々な症状がありますが、お義父さんの場合は、まずそこにしかとある物が確実に認識できないという状況が増えつつあります。

例えば夕飯に鍋を食べていて、焼酎の烏龍茶割りを飲んでいる(医者からは禁酒を勧められていますが、「週に一杯だけ楽しい酒なら」ということで許してもらいました)。で、ポン酢を焼酎にそそいじゃったりするのね。ポン酢と烏龍茶、似てるからね。う〜ん、まあこれくらいの「うっかり」ならハッキリ言って私にもありそうですが。

他にも例えば、玄関のインターホンが鳴っているのに、反応できないとか。音は聞こえていても、それが次の行動に結びつかないことがあるのです。でもそれはいつもではなく、いろいろなことに気が回ってしっかりしているときもあります。そういうアップダウンを繰り返す、そしてその振幅が大きくなってくる、ということでしょうか。

昨日も、配線の下見をお願いしていた電気工事屋さんが来てくださったんですけど、私がたまたま近所の郵便局に外出した時で、お義父さんはインターホンに反応できなかったらしく、工事屋さんは不在だと思って帰っちゃったそう。今朝改めて来てくれたので「すみませんでした」と謝ったら「どこのお宅も同じですね」とおっしゃる。

「同じ…ですか?」
「そうですよ。この辺は、子供が実家に帰って同居を始めるお宅が多いんです」

へええ。確かにこの周辺は半世紀ほど前に開発が始まった新興住宅地で、そのころ家を買って移り住んだ方が揃って高齢者になりつつあるコミュニティなんですね。朝、公園へ運動しに行くと、それはまあたくさんのお年寄りがウォーキングしてるもの。

「そういうお宅では、これまで一人暮らしで気が張ってたお年寄りが、急にほっと安心して気が抜けるんだそうですよ」

へえええ、なるほど。認知症が進んできたので同居を決めたわけですが、その同居が認知症を促進する側面もあるんですね。もちろんお年寄りが子の同居によって得られた安心感・満足感・幸福感にはかえがたいものがあるわけですが、同時にこれまで一人でしてきたこと・できたことを家族に任せるようになってしまうと。

細君は同居前からこの側面に気がついていたそうで、だから同居後も例えば朝のゴミ出しはお父さんの役目ね、とか言っていろいろ身体と頭を動かすように持って行っています。それでもお義父さんはだんだん横着になっているみたいで、「これ、洗って」とか「お〜い、お茶」とかいうセリフが増えてきたので、細君が「自分でやりなよっ!」とキレてますが。

自分の身の回りのことが、だんだん他の人の手を借りなければいけなくなってくる、それが単なる横着とか無精とかそういう個人的キャラクターの範疇を越えて、認知や認識のレベルでできなくなってくる……認知症というのは狭義には「知能や記憶や認知力や人格のありようなどが後天的に低下した、あるいは低下していく状態」を差すようですが、それはまるで大人が子供へと退行していくようでもあります。

先日、平川克美氏の『小商いのすすめ』を読んでいたら、成長のプロセスにはひとりひとりのバラエティがあるけれど、老いのプロセスは誰もが平等だという、印象に残る記述がありました。

成長とは、本来「生まれたときは平等」だったはずの人間が、個としての自分を確立していく過程で、お金持ちになったり、貧困に生きなくてはならなかったり、才能を開花させて名をなしたり、平凡な暮らしの中に幸福を発見したりというように個々にばらけていくプロセスでもあるわけです。
もちろん、現実的には生まれたときには、すでに人生に差がついてしまっているということも事実でしょうが、ここではあくまでも原理的な話をしています。
どんな大金も、才能も、名誉も、墓場に持って行くことはできません。
その墓場までのプロセスとは、まさにばらけた個々がもう一度「死」という絶対的平等へと降り下っていくプロセスであるわけです。

老いとは死に向かって収斂していくことだというイメージが、妙にしっくりと腑に落ちたのです。

この世に生を受け、幼児段階から徐々に成長して青年になり大人になり成熟をとげ、そしてまた降り下っていく、つまりは幼児に戻っていく。生まれる前の段階と「死」は同じものではありませんが、いずれもこの世に生を受けていない、この世に生がないという点では選ぶところがありません。

実際には成熟に成熟を重ねて、その成熟の最高点で往生する人もいるのでしょうから、こうした比喩が一面的であることは承知しています。それでも、老いとは大人が幼児へと、そして生を受ける前へと退行していく過程なのだなあと思ったのでした。

もっとも、うちのお義父さんはまだまだしっかりした大人ですけどね。ただ、鍋なんかやってると美味しいとこをごっそり持って行って、我々に残してくれないことがあって、私なんか「あら、子供っぽくなってきてるのかな」と思うんですけど、細君に言わせると「あ、それ、昔からだから。もともとの性格よ」だって。個人的キャラクターの範疇でしたか。

再び「英語を学ぶ人々のために」

年が明けて、また今年も仕事を頑張ろうという気持ちの時に、よく読み返す文章があります。戦後間もない昭和二十三年二月に書かれた、中野好夫氏の『英語を学ぶ人々のために』です。

中野氏は、敗戦後に人々の英語熱が急激に高まったことを「むろん悪いことではない」としながらも、こう書いています。

だが、それでは今の英語全盛を、私たちは、そのまゝ無条件に喜んでいたらそれでよいかということになると、私はどうもそうは思えない。というのは私は、日支事変から太平洋戦争中にかけての日本人の英語に対する態度をイヤというほど見てきているからである。私の関係している東京大学の英文科についていえば、昭和十二年頃までは、毎年必ず四五十人はあつた志願者が、その頃からはツルベ落しのガタ減りで、戦争中などは四五人か、多くて五六人が精々だった。(中略)

ところが戦後はどうなつた。英文科は迷惑な殺到だ。ドイツ語をやつたものまでが、なんとかして英文科へもぐりこもうとする。今年の志願者はいよいよ五十を越えそうだ。それ自体は別に悪くはない。だが、私にはこうした人間の軽薄さが嫌いなのだ。こうした情勢次第の英語志願者を頼もしいとは思えないのである。おそらく就職のよしあしに色眼をつかつた、こうした英語勉強に期待が持てないのだ。

※原文は旧漢字。以下同じ。


中野好夫氏。写真は光文社古典新訳文庫さんから。
http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/02/006472.html

中野氏によれば、戦時中も英語は敵性言語などと言われながらも、だからといって英語を学べば国賊だというほどではなかったそうです。もちろん今よりもずいぶんと階級差の激しい(格差ではなくて知識の階級差)時代だったでしょうから、中野氏のいた知識層と一般大衆との英語に対する感覚は違っていた可能性もありますけど。

それでも、戦時中はあんなに人気のなかった英語に、戦後は人々がなだれを打って殺到するさまを見ながら、中野氏が内心面白くないものを感じたというのはよく分かります。規模は全然違うけれど、中国語も流行り廃りが激しい言語で、数年前まで就職に有利、これからは中国の時代だなどと中国語を学ぶ方が激増していたのが、今ではチャイナプラスワンだ、いや中国の時代は終わった、だいたい尖閣靖国PM2.5だで感じ悪いしさ……といきなり冬の時代に突入ですから。

そのあとに、私がいつも自戒としている名文が続きます。

語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。実際は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。私はあまり英語のできる自信はないが、よしんば私がイギリス人やアメリカ人なみにできたところで、それは私という人間にとつてなんでもない。日本のためにも、世界のためにもなんでもない。要は私がその語学の力をどう使うかで決まつてくる。

正直に告白すれば、私にもここに書かれているような知的虚栄心はあると思います。だからこそ座右において自戒とするわけですが、語学を学ぶ場に行くとこの点に自覚的ではない方、いや、もっとありていに申し上げれば「どうしてそんなにエラそうなの?」という方が時々いますね。外語に対するコンプレックスの裏返しとして、虚栄心なり優越感なりが生まれるのかもしれませんが、あれは不思議です。語学は、やればやるほどその深さが実感されて、「私は〇〇語ができる」などと軽々しく言えなくなると思うんです。「ネイティブ並み」とか「ペラペラ」という言葉も使えなくなる。

中野好夫氏は「英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られてい」た(ウィキペディア)そうですが、その氏にして「私はあまり英語のできる自信はない」と書かれているのです。私の敬愛するある文芸翻訳者は「今でも原文にどこか靄のかかった感じをぬぐいきれない」とおっしゃっていました。こうなると、むしろ「ネイティブにはなれない」と心底分かることこそ語学上達の要諦ではないかと思えるくらい。もっとも私自身は、第二言語、つまり外語は母語を越えることはできないし、母語の豊かさが外語の伸びしろを担保するのだと気づいたのは、学び始めてからかなり経った頃でしたけど……。

中野氏は「外国語の学習は、なにも日本人全体を上手な通訳者にするためにあるのではない」と書き、そのあとにこう続けます。

それではなんだ。それは諸君の物を見る眼を弘め、物の考え方を日本という小さな部屋だけに閉じ込めないで、世界の立場からするようになる助けになるから重要なのだ。諸君が、上手な通訳になるのもよい。本国人と区別のつかないほどの英語の書き手になるのもよい。万巻の知識をためこむもよい。それぞれ実際上の利益はむろんである。しかし結局の目標は、世界的な物の見方、つまり世界人をつくることにあるのである。

このあたりは敗戦を踏まえた中野氏の思いがあふれている部分だと思います。一見すると昨今のグローバリズム的英語礼賛に近いような読まれ方がされそうですが、もちろんそうではありません。米英との戦争を避けられなかったという責任を、英語に携わる者として痛感するところから書かれているのです。だから、氏の書く「世界的な物の見方」とは、英語的な世界を通して、一般の日本人以上に日本を見つめる役割を己に課すということなのです。

では、諸君の先輩の英語をやつた人たちはそれをしたであろうか。明治時代の先輩のある人たちはそれをした。たとえば新渡戸稲造とか、内村鑑三というような人々には、単に英語ができるという以上にたしかに今までの日本人に見られないサムシングがあつた。そしてそれが新しい日本の指導に大きな力をなしたのであった。ところがこゝ十年あまりの、そうした語学を生かして、その頃の日本の歩みに一番警告や指導を与えなければならない英文学者や英語の先生たちは、この私をもふくめて、一人の例外もなしに、意気地なしであり、腰抜けであり、腑抜けであつた。(中略)


とにかく数からいえば、これだけ存在する英語関係者が、もう少しイギリスを知り、アメリカを究め、今少し自分の首や地位への考慮をはなれて物を言つていたら、よし日本の運命を逆転させる力はなかつたにせよ、もう少しは今にして後味のよい結果になつていたはずだ。

ここで語られているのは英語関係者ですけど、私も一人の「中国語関係者」として何だか遠い過去についてというよりは、近くの未来に対しての警句のように読めます。ここ数年、初対面の方にお目にかかるたび、私が中国語関係者だと知って皆さん一様にうかべる困惑というか同情というか時に嫌悪というか、そういった複雑かつ微妙な表情に気づくことが多くなりました。朝野ともに、かなり煮詰まってきているような気がしてなりません。

中野氏は「私自身をも含めて、今生きている英文学者や英語の大家小家は、一人として尊敬する必要のない人ばかり」としたうえで、これから英語をやろうとする戦後間もない頃の若い人たちにこう希望を述べます。

英語を話すのに上手なほどよい。書くのも上手なら上手ほどよい。読むのも確かなら確かなほどよい。だが、忘れてはならないのは、それらのもう一つ背後にあつて、そうした才能を生かす一つの精神だ。だからどうかこれからの諸君は、英語を勉強して、流石に英語をやつた人の考えは違う、視野が広くて、人間に芯があつて、どこか頼もしいと、そのあるところ、あるところで、小さいながらも、日本の進む、世界の進む正しい道で、それぞれ生きた人になつているような人になつてもらいたい。

この世の隅々で、ひとりひとりが、小さいながらも、語学をまっとうに生かしてほしいという「希望」にうたれます。それと「それぞれ生きた人になつているような人になつてもらいたい」というのもいいですね。「生きた人」というのが分かりにくいですけど、これは現在進行形で己の役割を(小さいながらも)つとめている人と読んでもいいし、あとから歴史を振り返って、役割を果たして生きた人がいたと思われるような人になれ、というふうに読んでもいいと思います。

そして最後に、中野氏はこう述べて締めくくります。「知的虚栄心」のくだりと同様、自戒にしている文章です。

語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい。

含蓄のある言葉です。いろいろ角が立つので書きませんけど、「業界」の方なら深く得心がいく言葉ではないでしょうか。

昭和二十三年に書かれたこの文章は、現在から見れば「ぽりてぃかるこれくとねす」的に微妙な表現も散見されますが、それはこの文章の重みを少しも減じるものではありますまい。全文は大修館書店から出ている『資料日本英学史2』に収められています。以前にもエントリを書きましたが、この本は「英語教育論争史」をまとめたもので、とても興味深いです。例えば現在の「ぐろーばる化」の要請を受けた小学校からの英語必修化や中学校からの英語による英語教育などをめぐる議論についても、通底する論争が明治以降めんめんと繰り返されてきたことが分かります。日本人は英語をはじめとする語学にどれだけ「胆」を抜かれてきたんでしょうね。

さて、では今年も、胆を抜かれないように気をつけながら、勉強しようと思います。

義父と暮らせば5

さっき、わが家に停電が発生しました。

仕事で使う文書をプリンタで印刷中だったんですが、見事に途中で止まってしまい、復旧がめんどくさいったらありゃしない。あと、きのうIKEAで買ってきた冷凍のシナモンロールをオーブンで焼いていたんですけど、こちらも落ちちゃって、え〜と、あと残り何分焼けばいいかしらと勘で設定し直さなきゃなりません。

停電、数日に一回は必ず発生します。停電というより、単にブレーカーが上がっただけですけど、いきなり家中の家電がぷつんと切れちゃうのって、十数年前に留学していた中国で経験したのが最後です。懐かしいなあ……と感慨に耽っているわけにもいかないので、電気工事屋さんを呼んで見てもらいました。

「今時、本当に珍しいですね」とのお言葉を頂戴した骨董的配電盤を取り替え、外からの引き込み線を単相二線式から三線式に換えてもらい、アンペア数も上げ、家電をつなぐコンセントも分散させたんですけど、それでも落ちる。

原因はよく分からないけど、どうやら、お義父さんがあれこれつけちゃうからみたいです。細君と私は、オーブンで焼くときには電気ストーブを消し、炊飯器のスイッチを入れたらエアコンを止め、電気ストーブだって二面ある放熱板の片方を切るとか、いじましいまでの努力をしているんですが、お義父さんったら、俺が使いたい物を使う。今すぐここで待ったなしに使いたいのね。

特に電気を大量に食ってると私が睨んでいるのは、お義父さんが台所に置いて使っている食器乾燥機です。食洗機じゃなくて、食器乾燥機。これまた年代物の、その用途が本来の目的とは全く違うところで絶賛レビューが殺到して話題になった「これ」と同様の家電です。
※参考:http://internet.watch.impress.co.jp/docs/yajiuma/20131202_625876.html

これ、お義父さんが、自分の使うご飯茶碗と味噌汁の茶碗と、箸と湯飲みと、それに歯磨き用のプラスチックのコップと歯ブラシ、これらの品々を乾燥させるためだけに使っています。細君も私も、食器は洗ったらすぐにふきんで拭いてしまえばいいじゃないと進言するんですけど、これらの品々だけはど〜しても乾燥機を使わないと気が済まないようです。

まあ誰にでもありますね、ど〜してもこうしないと気が済まないっての。う〜ん、このどでかい乾燥機がなくなるとキッチンがすごく使いやすくなるんですけどね。今度こっそり機械内部の配線を切っちゃおうかしら。で「あれ? お義父さん、これ壊れたみたいよ。今日からは私が全部拭いてしまいますから、これは捨てましょう」……って、いかんいかん、何を考えているんだオレは。

お年寄りは、これまで何十年も続けてきた生活習慣を変えることがなかなか難しいんですね。というか、変えるとストレスになる。うちの場合は、何十年もそういう生活習慣でやってきたところに、我々夫婦が同居することでブレーカーが上がる事態も出来したんであって、それに合わせて節電するという「生活習慣の変更」もなかなかできないのです。まあ、もう一段アンペア数を上げてもらうことにしましょう。

毎月お義父さんから水道・電気・ガス、それに有線テレビの代金を請求されますが、前に比べてこんなに高くなった、何に使ってるんだと詰問されます。う〜ん、一人暮らしから三人に増えたんだからこんなもんでしょと説明すると「まあそうかな」と納得しますが、たぶんまた来月もお小言を頂戴するでしょうね。

こないだなんか、市の水道局がごていねいに「毎回の検針よりかなり数値が上がっています」との注意書きを投函してくれちゃいました。水漏れなどにご注意という親切サービスなんですけど、うちの場合はこれもお小言に直結です。あああ。

ところで、前回見学に行った運動のデイサービス、お義父さんは「あんな年寄りばかりのところ、オレはやだ」ってんで、断っちゃいました。あなたも立派な年寄りじゃんと思ったけど、まあそうね、正直、私も見学についていって「あ、こちらの方々ほど身体は弱ってないわ、うちのお義父さん」と思ったもの。お年寄りといっても、本当に色々な状態、色々な段階がグラデーションのように広がっているんですね。

あれこれ考えずにはじめる

ラジオデイズで小田嶋隆氏の『タコ足ライティング・オリエンテーション「人生とビジネスに効くコラム」』を聴いていたら、「そうそう、そうなんだよね!」と膝を打ったお話がありました。
http://www.radiodays.jp/item_set/show/718

書いている時のほうが頭がいい

(原稿を書くときにいつも気づくのは)自分は、物を書いている時のほうが頭がいいんだなっていうこと。頭がいいんだなって言うとちょっとアレですけども、結局、文章を書くことによって気づくことがすごくあるっていうことですよね。(中略)


まずあらかじめ頭の中にあることを伝えるために外に出すっていうふうに考えがちだけども、実は書いているうちに、書いている段階で「ああそうだ」と気がつくことのほうがずっと多いんだと。

これは非常に得心のいく洞察だと思います。私は別に物書きではありませんが、それでも文章を書くときにはまず書き出す、書き出さないと書けないというのは経験的によく分かります。それこそTwitterの140字でも、こういうブログの文章でも、あるいはメールの事務的な内容でも。

書いている途中に、自分の中で色々な考えがささやき始めるんですね。書き始める前には聞こえなかった声が聞こえる感じ。それらの声が「コレも書け、アレも書け、早く書け」とまわりから催促する。それを逃さないように必死で追いかけるという感じ。だからなんですね、スマホで書くとなかなかまとまらない。入力がまどろっこしくて追いつかないからだと思います。

書いているうちに考えが深まるんですよね。自分が書いたことを手がかりに、もう一歩先に考えを進めますから。そうすると、まあ二時間くらいかけて原稿用紙五枚くらいのものを書いたとすると、二枚目まで書いた時に、当初自分が予想していた結論よりももう一歩考えが深まってたりすることが、いつもじゃないけですけど、たまにあるんですよ。(中略)


それは、物を書かなかったら決して気がつかなかったポイントで、それが一番、私は価値があるんじゃなかろうかなあと思っていて。

同じようなことを、最近どこかで見たブログでどなたかがおっしゃっていたなあと思って、検索してみたら、ありました。Google最強。

下書きを寝かさない

ぼくは文章を書いていて、しばしば「え?これ、ぼくが書いたの?」と感じてしまうことがあります。自分の頭では理解できないパフォーマンスを、ほかでもない自分が出している、という状態ですね。これはスポーツや音楽においても、同じことが起きます。あとで記録を振り返って、「え、これ自分?」と驚いてしまう感覚。打楽器を演奏していた時代、頻繁にありました。


下書きを作らず、そのまま文章を出すということで、この種の感覚を呼び起こすことができます。語弊はありますが、いってみれば「理性のフィルタリングを通さずに文章を書く」わけです。


一心不乱に書く。すると、自分の理解を超えた「自分」が立ち現れる。こういうメカニズムが、文章を書く本当の醍醐味だとぼくは感じています。自分という認識が、気持ちよく破壊・拡張されていきます。


ブログは下書き状態で寝かすな!ラブレターはそのまま出せ!それも「あなた」だから。 : イケハヤ書店

「自分が破壊・拡張されていく」というのは小田嶋氏が言うところの「当初自分が予想していた結論よりももう一歩考えが深まってたりする」に通底する洞察ですよね。

『俺はまだ本気出してないだけ』というマンガがありましたけど、あれこれ頭の中で考えをめぐらせて、ああしよう、こうしようと堂々巡りを繰り返すよりは、まず一歩踏み出してみたほうがいいと。本気じゃなくても正式じゃなくてもいいから始めると。

これ、語学も同じような気がします。始める前に、これこれこういう教材とアプローチで、いついつまでに検定の何級を取って、何年後までにこう……とプランを立てるのもいいけど、まずは手近な教材で声に出してみるほうがいいです。言葉は畢竟、身体能力の一種なので(耳で聴いて、口に出すんですから)、語学も初歩段階はとくに身体トレーニングの側面が強いです。だから身体が出来てくるまでは、トレーニングに「盲目的」に身を預けるのがよいと思います。もちろん、そこではトレーナーの質が大きく物を言うわけですけど。

まず一歩を踏み出してみるという点では、こういう記事もありました。

ちょっとやってみるだけ

千里の道も一歩から」という有名な言葉があります。千里(約4000キロ)を歩くなんて、想像しただけでゲンナリします。しかし、千里の道を一瞬で歩く必要などありません。今この瞬間にやるべきなのは、次の一歩を踏み出すことだけです。一歩一歩と進むうち、調子も出てきて、歩くのが楽しくなってきます。


「やりたいと思っているのにやれない病」を治すコツ : ライフハッカー[日本版]

そうなんですよね。最初からゴール地点を見据えると、怖じ気づいて何もできなくなっちゃう。フリーランスで仕事をしていると、舞い込む仕事に怖じ気づくことが日常茶飯事です。少なくとも私はそうです。それで毎回「この仕事は自分には荷が重すぎる」と思って、何かの理由をつけて断ってしまいたい誘惑に駆られるのですが、そこをぐっと抑えて引き受ける。で、引き受けた以上、何とかその仕事をこなして、まあ出来は八割か七割くらいだったかもしれないけど(クライアントさん、ごめんなさい)、やれば何とかなるもんだなと思う。その繰り返しで。

先輩の通訳者さんに伺った話では、通訳スクールの生徒さんにも「私などまだまだ」と言って仕事を受けない人がいるそうです。よく言えば自分の実力を客観的に見据えて無責任な仕事をしないという姿勢なんですけど、先輩曰く「それじゃ、いつまでたっても成長しないじゃんねえ」。

そうなんですよね。難しそうな通訳案件を受けた後はいつも後悔と不安でいっぱいになりますが、しぶしぶ予習を始めてみれば、徐々にそれが和らいで「大変だけど、何とかなる」という気持ちになるから不思議です。怖じ気づいて予習を渋っているあいだが一番妄想(失敗したらどうしようとか)が膨らむ魔の時間ですね。

次の一歩の先は進める前には想像できない

今年は著名なブロガーのちきりん氏の講演会に行く機会があったのですが、そこでもちきりん氏は、自分が今のような立ち位置にいることについて、同じようなことをおっしゃっていました。

いわく、自分だって今の立ち位置を最初から予想していたわけではないと。自分にはこんなことができるかなと最初の一歩を踏み出し、それをベースに次はこの一歩と踏みだし、そうやって一歩一歩を重ねているうちに自分でも想像もしなかった所まで来てしまって、そこで初めて最初の位置からの距離の長さに自分でも驚いている……とまあ、おおむねそのようなお話でした。

確か「次の一歩を踏み出してみたら、角を曲がって、今とは違う風景が見えるかもしれないじゃん」と言っていたような記憶が。そうなんだよね。そしてその風景は、その一歩を踏み出す前には想像することさえ不可能な風景なんですよね。

最近Kindleで読んだ堀江貴文氏の『ゼロ』にも同じような記述がありました。副題の「なにもない自分に小さなイチを足していく」というのが何だかもうこの本の全てなんですけどね。

80の力しかないのに100の仕事を引き受け、それを全力で乗り越える。すると次には120の仕事を依頼してもらえるようになる。信用とは、そうやって築かれていくものなのだ。

仕事を振ってくれる、ということは、相手は少なくとも「あんたならできる」と思ってくれたということですから。来た仕事は断っちゃいけないんですね、ダブルブッキングでない以上は。「あんたならできる」って、確か『サマーウォーズ』に出てくる陣内栄ばあさんのセリフでしたっけ。

とまあ、めいろま(@May_Roma)氏言うところの「キャリアポルノ」みたいな話になりましたが、小田嶋氏のネットラジオに触発されて、こんなことを考えました。要するに、私が一番好きな中国語の諺「車到山前必有路」というお話なんですが、これももう下書き保存せず、そのままエントリさせたいと思います。

義父と暮らせば4

先週、九州の実家に帰省してきました。年末年始を避けて早めの里帰りです。

お義父さんを四日間ほど一人にするので、細君は担当のケアマネさんや民生委員さん、それにご近所や比較的近くに住んでいるお義父さんの弟や、はてはすでに他界しているお母さんのかつてのお友達にまで声を掛けていました。何かあったらすぐ連絡してもらえるように、そしてできることなら声かけ程度でいいから様子を見てくれるようにと。

食事も朝晩は何とか簡単なもので済ませてもらうことにして、ご飯をいっぱい炊き茶碗一杯分ずつラップして冷凍、味噌汁はインスタントの美味しそうなやつをどっさり買ってきました。加えて夕飯は、初めて配食サービスというのを利用することに。一食単位でお弁当を自宅まで届けてくれて、同時に様子見の声がけも行ってくれるというサービスです。安全を確かめるために、お弁当を直接本人に手渡すというのが原則なんだそうで。

う〜ん、細君はなかなか周到ですね。私など、まだまだ元気だし「要支援1」だし、何もそこまで心配しなくてもいいんじゃないの……と内心思っていたくらいです。お義父さん自身も、何となく「そこまで心配してくれんでもいいわ」的表情でした。でもまあ確かに、同居してお義父さんも気が緩んでいることでしょうし、最近の行動を見ていると火の取り扱いなどは若干不安が感じられますし、気をつけるに越したことはないなと。

結果はまあ、何事もなく四日間が過ぎました。お母さんのお友達は差し入れを持ってきてくれたようですし、ご近所さんも何かにつけ気に掛けてくれていた様子。もっともお義父さん自身は、配食サービスの弁当が不味くて冷えてて量が少なかった、インスタントの味噌汁なんて飲めたもんじゃなかった……と、かなり不満だったようです。帰省から戻って、その晩はあたふたと鍋にしたんですけど、「ああ、やっぱり手作りはいいなあ」と言ってました。弁当もカロリーや塩分などに気を使った手作りだったんですけどね。カロリーや塩分に気を使った料理って、得てして美味しくないこともあるよね。

帰省して私の両親に会ってきましたけど、細君との一致した意見は、年齢は五つ違うだけなのに立ち居ぶるまいというか身のこなしが全然違う! ということでした。私の両親もかなり弱って来たなあと思っていましたが、お義父さんの普段の動きに比べると、かなり生き生きしているのが分かります。歩き方も、しゃべり方も、音や映像に対する反応なんかも。こういうのって、比べてみて初めて分かるんですね。

いや〜お義父さん、かなり身体が弱ってるわ……医者からもできるだけ身体を動かすように言われているので、ケアマネさんの勧めもあって、介護保険を使って機能回復・筋力向上系のデイサービスを利用してみることにしました。で、今日、早速いくつかの施設を見学してきました。

初めてこういう施設を見ましたが、地域のあちこちにあるんですね。このあたりはお年寄り人口が多いからね。でもって、地域の小さな診療所や整骨院なんかがそういう事業を請け負って様々なサービスを展開している由。ストレッチやったり、チューブ運動やったり、発声練習やったり、簡単なゲームをやったり。私も一緒にやらされましたが、結構な運動量です。自宅までの送迎つきで月に(要支援/要介護の度合いにもよるけど)数千円程度の負担。介護保険で一割負担です。ということは……けっこうな金額です。個人でジムやプールに行ってもそんなにはかからないですからね。

見学したところはどこも明るい雰囲気で、トレーナーさんもすごく親切でした。やや営業的なトークもあったところを見ると、多少の、いや、かなりの競争原理も働いているようです。もちろん、それぞれの施設がサービスに工夫を凝らしてお年寄りを集めてるんですから、それを否定はしませんけど。

う〜ん、でも正直なところ、自分が年老いたときに、できればこういうサービスを活用するような状態になりたくはないな、と思ってしまいました。んなこと言ったって現実的には寄る年波には勝てないんでしょうけど、できれば自分で自分を管理して、なるべく家族や他人や行政のお世話になりたくない。身体も、それからアタマも。地域で助け合うのは素晴らしいことだし、介護保険料だって払ってますけどね、それでも。

まずは仕事をできるだけ続けること、あと、適度な運動を心がけようと改めて思いました。さいわい今のところほとんど唯一の趣味である能楽は、舞と謡でアタマも身体も使いますからその一助にはなると思います。それにしても、こういうことを考えるトシになったのだなあと。

昨日、やはり同年代の親を持つかつての同僚からメールをもらって、そこにはこう書かれてありました。

長らく一人で自由に生きてきて、一人だからこそ耀いてた老師が家庭のことに煩わされることには、私だけでなく周りの友人皆が心配していることと思います。でもそこは老師、次々と新たなソリューション!を見つけて行かれることと期待しています。

うん、まあね。これまでも自由気儘に生きてきたつもりはないし、いまも家庭に煩わされているという気持ちじゃなかったつもりなんですけど、でも、妙に心のツボにはまるメールでした。というか、なかなか鋭いところを突かれたなあと。親の面倒を見る年齢になって、でもまだそれを完全に引き受けきっていない自分を見透かされたような気がしたのです。

ゼロ・グラビティ

IMAX3D版で『ゼロ・グラビティ』を観てきました。
http://wwws.warnerbros.co.jp/gravity/#/home

いや、前評判通り、凄かった。で、怖くて、寒気のする映画でした。真夏のロードショーだったら最高の納涼映画になったと思いますが、真冬のこの季節に観るのは少々身体にこたえます。

ネタバレを避けて、予告編で公開されている範囲でストーリーを描写すると、スペースシャトルで船外活動中の宇宙飛行士を突然スペースデブリの大群が襲って宇宙に放り出される……というものなんですけど、登場人物はたった二人、というかほとんどの場面が一人。驚異の映像と相まって、この上なく異色の映画体験になりました。

私は宇宙に関する話題が大好きで、宇宙船や宇宙開発、宇宙論や宇宙物理学などの入門書をよく読むんですが、この圧倒的な映像を目にして、なるほど宇宙の無重力空間ではこういうことが起きるんですね、物体はこういう振る舞いをするんですね、というのが改めて新鮮でした。

宇宙船の操縦や、様々な装置の使い方なども、まあたぶんデフォルメなり省略なりはされているんでしょうけど、すごくリアリティがあって。そして、重力もなく音もなく通信も途絶えた宇宙空間に一人でいることの絶望的な孤独感。その観る者全員が絶望しきったところからの、映画ならではの意外な展開。見終わってみればシンプルなストーリーですけど、何度も反芻できる奥深いテーマをいくつも内包しています。

その意味ではネットでも多くの人が語っているように、原題の『グラビティ(重力)』に「ゼロ」をつけて『ゼロ・グラビティ(無重力)』という邦題にしたのは、もったいなかったですね。全編ほとんどの場面が無重力だからこそ、重力の存在が強く意識されるわけで。絶望的な状態にいても、眼下には美しい地球が光っていて、人の営みを示す明かりも見える。そのすぐ手が届きそうな場所と自分のいる場所との強烈なコントラストというか、これ以上ないほどの相対性を象徴しているのが「存在しない重力の存在感」だと思ったのです。

宇宙に関する話は大好きな私ですが、自分自身が宇宙に行くのはまっぴらごめんです。「人間は、土を離れては生きていけない」と思うからです。この映画も、全編宇宙を描きながら鑑賞後に強く意識させられるのは、土の上に生きる人間という存在。ここでも極端すぎるほどの相対性が際立っています。

それから個人的にポイントだったのは、映画に中国が絡んでいる点です。中国といえば2007年に弾道ミサイルで人工衛星を破壊し、その結果スペースデブリを増やしたことで批難されましたが、この映画ではそれを踏まえ、しかもそれとは違う形で中国が絡んでいます。このあたり、時事性も兼ね備えていて興味深かった。ぜひ劇場の3D版で。私は字幕版を観ましたが、うわさによると吹き替え版のほうがより無重力感が増すらしい(字幕が画面下に出ると、上下の感覚が補強されるものね)ので、もう一度見に行こうかなと思っているところです。★★★★★。

きのう何食べた?

よしながふみ氏のマンガ『きのう何食べた?』の最新第八巻が届きました。

はじめて「限定版」というのが出ていたので、こちらを買ってみました。限定版は特製「ビニールカバーXmasバージョン」と第一巻から第八巻までの各巻収録メニューがまとめられた「きょうの献立シール」つきです。

いや、編集さんはよく分かってるなあという感じ。というのもこのマンガ、台所に持ち込んで読むことが多いからです。要するに料理マンガなんですね。しかも「あのメニューは第何巻だっけ」ととっかえひっかえしながら探すことも多く、このシールが索引がわりになるというわけ。

基本的に各話読み切りのこのマンガ、弁護士の筧史朗(シロさん)と美容師の矢吹賢二(ケンジ)が一緒に暮らしてて(あ、このお二人はゲイカップルなんですね)、で、「兼業主夫」を自認するシロさんが、日々家庭料理を作るその過程が作品の大部分を占めているという、特異な作品です。

だけど、単にレシピを紹介するマンガというわけではなくて、料理がその回のストーリーと密接に関わっているのが特徴。でもって、各話読み切りながら全体を貫くストーリーがちゃんとあって、このあたり、『大奥』などでも大いに発揮されているストーリーテラーとしてのよしながふみ氏の凄みが存分に堪能できます。

この二人は共に四十代で、親の世代が老境に入って様々な変化が起こりつつあり、それに時に悩みながらも生活を楽しんでいるというのが、個人的にはとても親しみを感じるところでもあります。もちろんそれだけじゃなくて、二人を取り巻く人たちのキャラクターがとても立っており、結婚や離婚、DVやハラスメント、LGBTへの偏見、家事と仕事の両立など、非常に身近で今日的な話題について、声高ではなくとてもさりげなく語られているところが共感を呼ぶんですよね。

弁護士と美容師が主人公なので、業界の裏話的話題もいろいろ出てきます。これがまた面白い。よしながふみ氏は両業界を詳しく取材していますね。とあるきっかけで知り合いになった弁護士さんや、いつも髪を切りにいっているお店の美容師さんに一読を勧めました。ただお二人ともたぶんストレートの男性で、料理はたぶんそれほどはやらない方みたいで、この作品のあふれる魅力より前に「なんで私にオススメ?」と思われてしまったかもしれませんが。

よしながふみ氏のレシピはどれもシンプルな家庭料理で、私は三日と開けずお世話になっています。いま改めて、実際に作ってその後ヘビロテになった定番料理を確かめてみると……

ツナとトマトのぶっかけそうめん(夏によく作る)
いわしの梅煮(お酢の効果か骨まで柔らかくなります)
鶏肉のオーブン焼き(焼き肉のタレを使った手抜きだけどうまい)
ぶり大根(下処理のコツが秀逸)
セロリと牛肉のオイスターソース炒め(めったに牛肉買わないけど)
アスパラ入りジャーマンポテト(あっさり中年向き)
煮込みハンバーグきのこソース(ソースが単純なのに複雑な味わい)
鮭と卵ときゅうりのお寿司(来客にも好評)
かぶの海老しいたけあんかけ(簡単かつ上品)
手羽先と大根の煮込み(お義父さんに大好評だった)
長ねぎのコンソメ煮(副菜にすごく重宝します)
さばの味噌煮(かなり手抜きなのに美味しい)

……あたりですか。

マンガの進行と同時に主にシロさんの一人語りで作り方が語られるので、いつも台所にマンガを持ち込んで作っています。だから今回の限定版にビニールカバーがついてきたのはうれしいですね。とはいえ、上記のレシピはもうほとんど覚えちゃってますけど。欲を言えば、本の背が180度開くような装幀にしてもらえたら素敵なんですが、これはまあモーニングKCの一冊なんで、難しいかな。最近は『きのう何食べた?』のファンのみなさんが再現レシピをブログなんかで公開されているので、iPadで見ながら作ったりしてます。iPadがもっともっと軽くなって、冷蔵庫なんかにマグネットで貼り付けたりできたらいいんですけどね。

レシピは、こまかく「しょうゆ大さじ1」とか「酢80cc」などと書かれているのもあれば、「日本酒どぼどぼ」などとかなり大雑把なのもあります。これもいいんだよね。日常の家庭料理って、そういうもん。その日の体調とか、冷蔵庫のありものでいろいろ調整するし、レシピも完全にマンガの通り作ることはむしろ少なくて、上記のヘビロテ料理は今ではかなり自分のアレンジが入っちゃったものがあります。

第八巻には冒頭でカキフライが出てきたので、今晩はカキフライに決定。……あ、ただこのレシピは『きのう何食べた?』じゃなくて、『dancyu』2013年3月号に載っていた「カキフライ完全攻略」のレシピです。ごめんね。このレシピはもう何度も試しているけど最強、鉄板。以前帰省するたびに作っていた手羽先と大根の煮込みと並んで、お義父さんから「また作って」と催促されるもののひとつです。でもって、『きのう何食べた?』第八巻に出てくるカキフライも、どうやらこの『dancyu』をリスペクトしたとおぼしきレシピ。特に、小さいカキは二つ合わせるというとこらへんが。

よしながふみ氏のマンガはほとんど読んでいますが、『大奥』とこの『きのう何食べた?』は新刊の発売が待ち遠しい現在進行中のマンガ。オススメです。

さて、じゃあ、まずはカキを塩洗いしますかね。

義父と暮らせば3

年の瀬も迫ってきましたがね、寒い……。寒いです、築半世紀になんなんとするこの家。細君の実家ですけどね。これまで十数年マンションで暮らしてきましたから、家の中でここまで寒い冬はホント、久しぶりです。留学していた天津や北京も冬は河が凍るくらい寒かったですが、あそこまでの寒冷地になると暖房設備がものすごく充実していて、部屋の中はTシャツ一枚で過ごせるくらい快適なんですよ。

九州にある私の実家は築八十年くらいとここより更に古いですから、あそこも寒いです。前々から「さっさと処分して、こぢんまりしたマンションか何かに移ればいいのに」と言ってるんですが、お年寄りはなかなか生活を変えたがらないんですよね。というか、そういう気力・体力がなかなか出ないの。まあ分かるような気もするんですが。

先回お義父さんが怪しい新聞広告を見て通信販売で購入しちゃった怪しいヒーター、案の定全然効きゃしません。そりゃそうですよ、広告でうたわれていた惹句は「電気代一日わずか〇〇円! 部屋中春のようにポカポカ!」みたいなもんだったそうですけど、お義父さん、それはさあ、マンションみたいな気密・断熱のしっかりした家でのハナシじゃん。うちみたいな「だんねつ? 何それ女優さん?」みたいな薄壁の家じゃ、暖めるそばから熱は逃げていきますって。

お義父さんは、日がなそのヒーターを抱え込むようにしてテレビ見てます。股火鉢じゃないんだから。

こないだも、「あそこの爺さんは必ず買うから」と高いものを売りつけられてるんじゃないかという疑惑を書きましたが、こうやってお金使っちゃうんですよね。でもまあ、お義父さん自身が稼いで貯めたお金だし、買うこと自体も楽しみのひとつですから、頭ごなしに「やめたら?」とは言えません。細君は実の娘ですからやいのやいの言ってますけど。でも、お義父さん、引き売りの魚屋から総菜を買うのはやめた方がいいよ。煮魚二切れで750円は高いんじゃない? 玄関先で買える利便性を加味しても、ちょっとぼられてるんじゃないかと思います。

今日は朝からケアマネージャーさんが来ました。これからの支援をどうやっていくかという打ち合わせ。お義父さん、こないだ「要支援1」に認定されました。MRIの結果からいくと、脳血管性認知症の初期段階だそうです。アルツハイマー性認知症と違って、今後急にがくんと症状が進むこともあるそうです。それと運動障害が出るようになる、と。実際、今はまだ記憶などはしっかりしていますが、歩行がかなり困難になってきていますね、確かに。お医者さんからは「転んで骨でも折ってしまうと寝たきりになっちゃうので、『転ばぬ先の杖』を持つようにしてください」と言われました。

杖ね〜。素敵なステッキでもプレゼントしようかしらと、銀座の三越と伊勢丹メンズ館に行ったんですけど、「こちらトネリコの木を使っておりまして、軽いけれどハリがあって、強度も申し分ありません」みたいな村上春樹の小説に出てくるようなのばかりで、五万円とか八万円とか冗談にならないくらい高価で、あんなもの買えません……と、お義父さんの弟が、以前ケガしたときに使ったことがあるというアルミ製の杖を譲ってくれました。百貨店じゃなくてホームセンターに行くべきだったんですね。

まあ「要支援1」に認定されたことで、まだまだわずかですけど公的なサービスや援助を受けることができます。我々が仕事や帰省などでどうしても家を空けなければいけないときだけ、配食や宿泊など、あと運動不足解消のために週一程度でレクリエーション的な運動、といったところ。一年ほど前から実家へ戻るたびに変化を感じていて、秋から同居に踏み切ったわけですけど、本当によかったと思います。放っておいたら大変なことになる可能性もありましたから。

今日いらしたケアマネさんはまるで腫れ物に触るように義父に接し、こちらの質問にもなぜか明確には答えてくれない……なぜもっとテキパキと、こういうケアが必要で、そのために利用できるのはこれで、と進めてくれないのかなとやや疑問に感じましたが、あれはきっと、あちこちの家庭で「俺はまだそんなもん要らん」とか「押しつけないでくれ」とかいうお年寄りや家族の反応に多々接してきたからなんでしょう。そう考えるとちょっと同情してしまいました。うちのお義父さんは長年民生委員もやっていた人なので、そのへんの理解はスムーズで、「運動? じゃあちょっと行って見ようかね」と前向きでした。

聞くところによると「要支援1」段階でいろいろ対策を考え始める家庭は少ないみたいです。なにもかも公的なサービスに寄りかからずに、自分たちでできることは引き受けていきたいと思いますが、とりあえずは方向が決まってよかったと思います。

あとはもう少し重いハナシについても家族会議を開かなきゃいけないと思っています。考えたくもないんだろうけど、考えとかないといけないいくつかのハナシ。例えばもっと認知症が進んだときに、貯金や財産をどう誰が管理するのかとか、亡くなったときのためにできる準備はしておくとか。

それからもうひとつ、細君は一人っ子で、お母さんは早くに他界していますから、親一人、子一人なんですよね。そこに私が「マスオさん」状態で一緒に住んでる。この状況で、もしお義父さんより細君が先に死んだらどうするか、私が先に死んだらどうするか、などなど……。

まだ早すぎる? いや、かつて住んでいた田舎で、思わず「娑婆だなあ……」とつぶやかざるを得ないケースに少なからず接したことがあるので、この辺りは腹蔵なく話しておきたい……って、自分の実家に関しては全然そういうハナシが進んでないんですけど。

義父と暮らせば2

こないだ、高齢者との同居には様々な「掟」があると書きました。

お義父さんは会社を定年退職してからもう二十年以上もこの暮らしを続けてきているわけで、その「掟」を変えるとなると、かなりのストレスを感じるようです。それでも絶対に一ミリも変えないかというと、そうでもない。

先日の盆栽の一件でも分かるように、理を尽くして焦らずゆっくりとやれば、変化にも柔軟です。昨日など「あの盆栽の台はいいね。俺のもああいうふうにしようかな」と言っていましたし。だもんで、「じゃあもう一枚残っている銘木の板をあげますよ、木場で買ってきたやつ」と提案しました。一週間前は「シロアリがたかるから捨てなさい」と言われていた板ですけどね。

あと、お義父さんと一緒に暮らして、暮らしの様々なシーンに立ち会ってみるに、「これ、ひょっとしてだまされてるんじゃない?」という場面が目につくようになりました。

お年寄りが詐欺被害に遭ったというニュース、よく耳にしますが、まあ詐欺ではないにしても、お金を持っている高齢者にはいろいろな業者が狙いを定めているようで。

昨日は「長年使ってきた髭剃り機がこわれた」というので、近くの家電店へ行って新しいのを買ってきたんですけど、「もうひとつ買いたいものがある」と言うんですね。何かと思ったら、手にした新聞紙の全面広告を店員に見せて、「これ、売ってないかな」。

見せてもらうと、聞いたことのないメーカーの遠赤外線ヒーターなんですけど、なぜこんなのがこの値段? と思えるほど高価なんですよね。もっと信頼できそうなメーカーの最新製品が同じくらいかそれより安い価格で目の前に売られてるんですけど、全面広告の「省エネ」とか「部屋中ぽかぽか」などの惹句に魅了されて、「これがいい」と。

結局その家電店には売っていなかったのでそのまま帰宅したんですけど、気になってネットで調べてみると、口コミやレビューは賛否が拮抗していて、全体としてかなり怪しい印象でした。う〜ん、やっぱりこれはやめた方がいいんじゃないかと思ってお義父さんに告げるも、もう通販で申し込んじゃったって。あああ。

それから、お義父さんは毎週一回引き売りにやって来る魚屋さんや豆腐屋さんから必ず何かしら購入していて、これも半ば「掟」と化しているんですけど、それらがかなり高価なことが分かりました。「長年の付き合いだから」と必ず購入するそれらの品々、確かに品質は悪くない、というかかなり高級なんですけど、例えば豆腐一丁が450円ってのはどうよ。それをお義父さんったら、四丁も買ったりしてる。「あそこの爺さんは必ず買うから」ってんで、わざと利幅のある商品を仕入れてきてるんじゃないかって、疑心暗鬼になっちゃいます。確たる証拠はないですが。

まあ、お義父さんが自分のお金でほしいものを買うんだから、別にいいんですけどね。ただ、不当に高く買わさてれることがあるとしたら、それはやっぱり「気をつけて」と言ってあげるべきかなと。

こないだは、お義父さんの発案でお風呂場に浴室乾燥機をつけられないかなと業者に見積もりをお願いしてみたんですけど、善意か商魂かはわかりませんが、やたら大規模なリフォームを提案されました。あれもつけて、これもつけて、バリアフリーで、お年寄りには最適ですよ〜って、もんのすごい見積もり額に膨れあがってました。さすがに高額すぎて、お義父さんも一瞥するなり「却下」でしたけど。

大手企業のサラリーマンだったお義父さんの世代はたぶん、年金収入が最も高いレベルにある人たちだと思いますけど、そういう世代を顧客として照準定めて、いろいろと売り込みに来る業者がこれまでにたくさんいたんだろうなあ、そしてこれからもたくさん来るんだろうなと思います。ちょっと今度床下や天井裏をのぞいてみようかしらん。まさか換気扇がどっさりついてるなんてことはないでしょうね。

義父と暮らせば

細君の実家に引っ越して、はやひと月が過ぎました。

友人知人からは「お義父さんと同居? たいへんでしょう?」とか「マスオさん状態なわけね。気を遣うでしょう?」などと声をかけてもらいますが、まあ特に大きな問題もなく日々を過ごしています。

もとよりここはお義父さんが建てた家でして、我々は居候みたいな立場ですから、今までのように好き勝手に暮らすというわけにはいきません。何か問題があれば、その時はこちらが折れるべき・譲歩すべきと最初から決めて同居を始めたんですよね。

細君は実の娘ですからいろいろ強いことも言える立場ですし、これまでの確執(?)もあって様々なことが気になっちゃうみたいですが、まあ私はもともと「赤の他人」ですから。もめたときには「まあまあ」となだめる役割を担ってます。お義父さんにしても、私はもともと他人なので多少は遠慮があるのか、たいていの場合譲歩してくれます。

というか、細君とお義父さんがことごとにぶつかるの、同居してみて初めてその理由が分かりました。

似たもの同士なんですよこの二人。この親にしてこの子あり。生活スタイルの様々な点が似ているんですね。さすが親子だなあと思います。

あと、生活スタイルという点では、お年寄りに共通しているんじゃないかと思うのが、いろんな「掟」が多いことですね。お風呂に入ったら即カビが来ないようにタイルを拭きあげる、とか、台所のここの位置に必ずお盆を置く、とか、毎週やって来る行商の車ではこれとこれを必ず買う、とか、とにかく生活の隅々に、これまで何十年とかかった積み上げてきたこまかいやり方やスタイルがあって、その「掟」に背くといちいちストレスになるみたい。別に意地悪しているわけじゃなくて、生活の中で積み上げてきたものの可変域がとても狭いわけです。他の選択肢や、今までとは違うやり方等を創造したり吟味したりする必要性を感じないというか。

でもよくわかるんですけどね。私の実母だって今現在の生活スタイルを変えることにはかなり抵抗を示します。というか、そんなにフレキシブルに変えられたら、お年寄りは身体がついていかないんだと思います。「お姑さんに泣かされるお嫁さん」という古典的なシチュエーションの背景にあるのは、実はそういう、積み上げてきた生活を一ミリも変えたくない(変えられない)というお年寄りとの闘いのことなのかしらと、初めて肌感覚で理解できました。

それでも、じゅうぶんに根回しをして、じゅうぶんに説明をして、一気にじゃなくて少しずつ少しずつ変えていくなら、ほとんどの場合大丈夫なこともわかりました。というか、そうやって結果的に大きな変更になっても、もはや変更前のスタイルを覚えていなかったりします。何と言うかね、「愚公山を移す」的にちびちび変えていくのが吉ですね、お年寄りとの同居生活は。

今朝も、私の盆栽を狭い庭に並べさせてもらおうと思って、で、むかし木場で買ってきた古い水車に使われていた趣のある廃材を盆栽台にしようと思ってたんですけど、お義父さんは「場所はないし、そんな古い木材、シロアリがたかるし」ってんでかなり難色を示されてたんですね。でも、これくらいの幅でこういうふうになって、お義父さんが持ってる盆栽はこっちで……とていねいに説明して、じゃあちょっと実際に置いてみるからそこで見ててくださいねと言って仮置きしてみて、じゃあ今度はちょっと並べてみるからね……みたいにステップごとに判断を仰いで了解をもらって。で、いざ完成したら「うん、なかなかいい感じになったじゃないか」と、かなりご満悦のご様子。

やっぱり、何事も急激に変えないのと、向こうに判断の権利を預けて面子を立てるというのがポイントなんですね。私はもともとかなり短兵急に結論を急いで「今すぐここで、待ったなし」的に仕事を進めるタイプでして、それで会社勤めしているときはかなり衝突しましたし、前職を辞めたのもハッキリ言ってそれが根本原因だったりするんですけど、義父と暮らしてみてようやく、こんこんと理を尽くすことの意味についても改めて気づかされたような次第で。

通訳者の社会的地位

昨日は通訳スクールのセミナー&公開講座でした。珍しく男性が二名も参加されていました。普段はゼロか、いてもお一人のみという回が多いです。他の言語は分かりませんが、こと中国語通訳に限って言えば、圧倒的に女性が活躍している業界です。

実際に開講しているクラスでも、男性の生徒さんは本当に少ないです。ここ数期はずっと女性のみですし、かつて私が通っていた頃も、男性はいつも私一人でとっても怖……いえ、楽しかったです。

それから公開講座にしろ、実際のクラスにしろ、中国語ネイティブの割合がとても高いです。学期にもよりますが、いつもだいたい7割から8割くらいが中国語ネイティブ。私は8年ほど通訳スクールの講師を続けてきましたが、日本語ネイティブの生徒さんはどんどん減っている印象があります。

日本で稼働している日中通訳者の、中国語ネイティブ率も非常に高いです。個人的な感覚だと6割から7割くらいは中国語ネイティブじゃないかな。日本における日中通訳業界って、とても特殊なんですよね。日英通訳を考えてみればその特殊性が分かります。

日本国内で稼働している英語ネイティブ通訳者(例えばアメリカ人とかイギリス人とか)って、いると思いますか? いないことはないと思いますが、ごく少数でしょう。圧倒的多数の日本語ネイティブ日英通訳者が、日本国内での通訳業務を担っています。

ところが日中通訳だけは(韓国語もかな?)日本国内市場なのに中国語ネイティブ通訳者の数が日本語ネイティブを凌駕しているのです。じゃあ中国や台湾で日本語ネイティブ通訳者があちらを圧倒するほどたくさん活躍しているかというと、もちろんそんなことはないでしょう。報酬額や物価を考えても中国や台湾では、中国語ネイティブ通訳者が圧倒的多数であることは間違いありません。

つまり、日本語と中国語のコミュニケーションにあっては、その担い手の母語がかなり偏っているということなんですね。別に「国益」とかそんなことは持ち出したくないけど、政治でも経済でも文化芸術交流でも、圧倒的多数の中国語ネイティブがコミュニケーションの仲立ちを担っている……これはやっぱり色々とまずいんじゃないのかなと思います。

現状がこうなっている原因は、何なんでしょうね。

地理的歴史的に中国語圏と日本が近い。
通訳者や翻訳者など言語を司る職業の社会的地位が比較的低い……ので、日本人が就きたがらない反面、中国語ネイティブがどんどん参入している。
中国語ネイティブの方が語学学習に意欲的、ないしはハングリー。

色々考えられるでしょうけど、やっぱり言語を司る職業に対する低評価・無理解が根本にあるような気がします。「英語屋さん」という言葉がありますけど、日本企業では、語学専業になってしまうと出世コースからは外れたと見なされるのだとか。まあ私は出世しなくてもいいですけど、せめて「通訳なんて口先でペラペラっとやって結構いい日当稼ぐんだろ?」みたいな偏見はただしていく必要があると思います。言葉が話せれば通訳ができる……わけでは全くないのです。

そんな環境だから、日本人で通訳者や翻訳者を志す方が減って、その部分をハングリー精神旺盛な中国語ネイティブの方々が補うようになっているのではないかと。これ、他の業界でもよく見聞きする状況によく似ていませんか。

では、女性が圧倒的に多い理由は?

脳の構造からして女性の方が語学に向いているという学説もあるそうですけど、私にはよくわかりません。ただ、やはり根本にあるのはこの職業に対する低評価だと思います。

日本はまだまだ女性の社会進出が遅れています。男性が主たる家計の担い手で、女性は専業主婦ないしは非正規的な働き方をしながら家事育児……という時代遅れのパターンが根強く残っています。いっぽうで通訳者や翻訳者は、その社会的地位からしても、実力にもよるけどそうそう家計を十分に担えるほどに稼げる職業ではありません。

となれば、やはりダンナさんが企業に勤めて家計を支えるいっぽうで、女性が通訳や翻訳でパートタイム的に働くという構図になる。これがなかなか崩れないんじゃないかと。クライアントによっては通訳者を「コンパニオン」的に捉えている場合もあるんです。先輩の女性通訳者が宴会の通訳でお酌をさせられたなんて話も聞いたことがあります。通訳者や翻訳者はそれぞれがことあるごとに社会的地位の向上を訴えていかなきゃいけないですね。

あと、特に語学を目指す日本人の男性諸君は(私も含めて)……もっとガンバレよぉ、ということですか。

義父と同居

フリーランスに舞い戻って四ヶ月。宮仕えを辞めた直後はぽかっと空いた時間の大きさに喜びつつも恐怖を感じて、「こんな暮らしでいいんだろうか」と思うことしきりでした。朝から晩まで「世間様並み」に働いてないと罪悪感を覚えるんですね。いや、私も立派な「社畜」の一人だったのかというか。

でもまあ、以前にもフリーランスになって同じような感慨を覚えた経験があるので、今回はあんまりじたばたしませんでした。「あんまり」というだけで、多少はじたばたしましたけど。じたばた、というのは要するに仕事の種を播くということですね。あまたの求職転職サイトに登録しましたし、人材派遣会社にも面接に行きましたし、ハローワーク(職安)に行って求職すると同時に失業認定も受けてきました。

ここに来てようやく播いた種が芽を出し始めて、またややオーバーフローになりかけています。この不景気なご時勢、しかも日中関係が最悪の時期にもこうやって仕事が多少なりとも来るんですからありがたいものです。

しかし何ですね、播いた種が芽を出すタイミングって、どうしてこうも思うに任せないんでしょうね。あまりにも芽が出なくて人生諦めたくなるくらいな時もあれば、数日間に集中してぽぽぽぽんと芽が出ることもあります。

仕事はそこそこあるとはいえ、以前よりは収入ががくんと減ったので、あれこれ出費を抑えています。出費の大部分を占めるのは何と言っても家賃なので、この際もう少し安いところに引っ越そうと思って物件を相当探したのですが……予想通り、不動産関係はフリーランスにとことん冷たいです。サラリーマンではないというだけでかなりハードルが高くなります。収入を証明する手段はいくらでもありますが、そもそも収入が一定していないというだけで不動産屋さんの見る眼は厳しくなるんですね。大手のダ〇ワハウスやセ〇スイハウスといった住宅会社系は特に審査が厳しいです。

ただまあ、地元の不動産屋さんが直接管理している物件だと、こちらの事情にも耳を傾けてくれるところも多くて、まあそれなら信用してお貸ししましょうという場合もあります。で、そういう物件で手を打とうと思って半ば契約まで行きかけていたのですが……。

ここにきて、細君のお父さんがずいぶん弱って来まして。実家に一人住んでるんですが、八十を越えてるし、まだまだかくしゃくとはしているけど、足腰が弱って日常生活にやや不便を来すようになってきました。週に一度は様子を見に行ってたんですが、だんだん心配になってきて、だったら一緒に住めばいいじゃないかと思いつきました。

都心に出るにはちょっと不便な場所ですが、と言ったって一時間と少しという程度ですし、私は在宅でやる仕事や非常勤の仕事や出張が中心だから、ネットがあれば郊外でも別に構わないし。細君は毎日通勤する必要がありますが、そもそも以前はこの実家から都心の会社に通勤していたんですから。それに何より、持ち家だから最大の出費である家賃がかからない! 在宅ワークの時は私がご飯作ったりできますし、お父さんだって我々と一緒に住んだ方が楽しいに決まってるんです。なぜもっと早く思いつかなかったかなあ。

で、近々引っ越すことになりました。ただ車がないと不便な土地なので、昨日近所の販売店に行って「一台くださいな」と買ってきました。ホンダN-ONEの一番シンプルなやつ。買い物や送り迎え程度の街乗りにしか使わないので、これで十分です。試乗してみましたけど、昨今の軽自動車ってここまで進んでるんですね。昔は三菱のミニカに乗ってたんですが、もの凄い変化を感じました。当たり前ですか。