インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

あれこれ考えずにはじめる

ラジオデイズで小田嶋隆氏の『タコ足ライティング・オリエンテーション「人生とビジネスに効くコラム」』を聴いていたら、「そうそう、そうなんだよね!」と膝を打ったお話がありました。
http://www.radiodays.jp/item_set/show/718

書いている時のほうが頭がいい

(原稿を書くときにいつも気づくのは)自分は、物を書いている時のほうが頭がいいんだなっていうこと。頭がいいんだなって言うとちょっとアレですけども、結局、文章を書くことによって気づくことがすごくあるっていうことですよね。(中略)


まずあらかじめ頭の中にあることを伝えるために外に出すっていうふうに考えがちだけども、実は書いているうちに、書いている段階で「ああそうだ」と気がつくことのほうがずっと多いんだと。

これは非常に得心のいく洞察だと思います。私は別に物書きではありませんが、それでも文章を書くときにはまず書き出す、書き出さないと書けないというのは経験的によく分かります。それこそTwitterの140字でも、こういうブログの文章でも、あるいはメールの事務的な内容でも。

書いている途中に、自分の中で色々な考えがささやき始めるんですね。書き始める前には聞こえなかった声が聞こえる感じ。それらの声が「コレも書け、アレも書け、早く書け」とまわりから催促する。それを逃さないように必死で追いかけるという感じ。だからなんですね、スマホで書くとなかなかまとまらない。入力がまどろっこしくて追いつかないからだと思います。

書いているうちに考えが深まるんですよね。自分が書いたことを手がかりに、もう一歩先に考えを進めますから。そうすると、まあ二時間くらいかけて原稿用紙五枚くらいのものを書いたとすると、二枚目まで書いた時に、当初自分が予想していた結論よりももう一歩考えが深まってたりすることが、いつもじゃないけですけど、たまにあるんですよ。(中略)


それは、物を書かなかったら決して気がつかなかったポイントで、それが一番、私は価値があるんじゃなかろうかなあと思っていて。

同じようなことを、最近どこかで見たブログでどなたかがおっしゃっていたなあと思って、検索してみたら、ありました。Google最強。

下書きを寝かさない

ぼくは文章を書いていて、しばしば「え?これ、ぼくが書いたの?」と感じてしまうことがあります。自分の頭では理解できないパフォーマンスを、ほかでもない自分が出している、という状態ですね。これはスポーツや音楽においても、同じことが起きます。あとで記録を振り返って、「え、これ自分?」と驚いてしまう感覚。打楽器を演奏していた時代、頻繁にありました。


下書きを作らず、そのまま文章を出すということで、この種の感覚を呼び起こすことができます。語弊はありますが、いってみれば「理性のフィルタリングを通さずに文章を書く」わけです。


一心不乱に書く。すると、自分の理解を超えた「自分」が立ち現れる。こういうメカニズムが、文章を書く本当の醍醐味だとぼくは感じています。自分という認識が、気持ちよく破壊・拡張されていきます。


ブログは下書き状態で寝かすな!ラブレターはそのまま出せ!それも「あなた」だから。 : イケハヤ書店

「自分が破壊・拡張されていく」というのは小田嶋氏が言うところの「当初自分が予想していた結論よりももう一歩考えが深まってたりする」に通底する洞察ですよね。

『俺はまだ本気出してないだけ』というマンガがありましたけど、あれこれ頭の中で考えをめぐらせて、ああしよう、こうしようと堂々巡りを繰り返すよりは、まず一歩踏み出してみたほうがいいと。本気じゃなくても正式じゃなくてもいいから始めると。

これ、語学も同じような気がします。始める前に、これこれこういう教材とアプローチで、いついつまでに検定の何級を取って、何年後までにこう……とプランを立てるのもいいけど、まずは手近な教材で声に出してみるほうがいいです。言葉は畢竟、身体能力の一種なので(耳で聴いて、口に出すんですから)、語学も初歩段階はとくに身体トレーニングの側面が強いです。だから身体が出来てくるまでは、トレーニングに「盲目的」に身を預けるのがよいと思います。もちろん、そこではトレーナーの質が大きく物を言うわけですけど。

まず一歩を踏み出してみるという点では、こういう記事もありました。

ちょっとやってみるだけ

千里の道も一歩から」という有名な言葉があります。千里(約4000キロ)を歩くなんて、想像しただけでゲンナリします。しかし、千里の道を一瞬で歩く必要などありません。今この瞬間にやるべきなのは、次の一歩を踏み出すことだけです。一歩一歩と進むうち、調子も出てきて、歩くのが楽しくなってきます。


「やりたいと思っているのにやれない病」を治すコツ : ライフハッカー[日本版]

そうなんですよね。最初からゴール地点を見据えると、怖じ気づいて何もできなくなっちゃう。フリーランスで仕事をしていると、舞い込む仕事に怖じ気づくことが日常茶飯事です。少なくとも私はそうです。それで毎回「この仕事は自分には荷が重すぎる」と思って、何かの理由をつけて断ってしまいたい誘惑に駆られるのですが、そこをぐっと抑えて引き受ける。で、引き受けた以上、何とかその仕事をこなして、まあ出来は八割か七割くらいだったかもしれないけど(クライアントさん、ごめんなさい)、やれば何とかなるもんだなと思う。その繰り返しで。

先輩の通訳者さんに伺った話では、通訳スクールの生徒さんにも「私などまだまだ」と言って仕事を受けない人がいるそうです。よく言えば自分の実力を客観的に見据えて無責任な仕事をしないという姿勢なんですけど、先輩曰く「それじゃ、いつまでたっても成長しないじゃんねえ」。

そうなんですよね。難しそうな通訳案件を受けた後はいつも後悔と不安でいっぱいになりますが、しぶしぶ予習を始めてみれば、徐々にそれが和らいで「大変だけど、何とかなる」という気持ちになるから不思議です。怖じ気づいて予習を渋っているあいだが一番妄想(失敗したらどうしようとか)が膨らむ魔の時間ですね。

次の一歩の先は進める前には想像できない

今年は著名なブロガーのちきりん氏の講演会に行く機会があったのですが、そこでもちきりん氏は、自分が今のような立ち位置にいることについて、同じようなことをおっしゃっていました。

いわく、自分だって今の立ち位置を最初から予想していたわけではないと。自分にはこんなことができるかなと最初の一歩を踏み出し、それをベースに次はこの一歩と踏みだし、そうやって一歩一歩を重ねているうちに自分でも想像もしなかった所まで来てしまって、そこで初めて最初の位置からの距離の長さに自分でも驚いている……とまあ、おおむねそのようなお話でした。

確か「次の一歩を踏み出してみたら、角を曲がって、今とは違う風景が見えるかもしれないじゃん」と言っていたような記憶が。そうなんだよね。そしてその風景は、その一歩を踏み出す前には想像することさえ不可能な風景なんですよね。

最近Kindleで読んだ堀江貴文氏の『ゼロ』にも同じような記述がありました。副題の「なにもない自分に小さなイチを足していく」というのが何だかもうこの本の全てなんですけどね。

80の力しかないのに100の仕事を引き受け、それを全力で乗り越える。すると次には120の仕事を依頼してもらえるようになる。信用とは、そうやって築かれていくものなのだ。

仕事を振ってくれる、ということは、相手は少なくとも「あんたならできる」と思ってくれたということですから。来た仕事は断っちゃいけないんですね、ダブルブッキングでない以上は。「あんたならできる」って、確か『サマーウォーズ』に出てくる陣内栄ばあさんのセリフでしたっけ。

とまあ、めいろま(@May_Roma)氏言うところの「キャリアポルノ」みたいな話になりましたが、小田嶋氏のネットラジオに触発されて、こんなことを考えました。要するに、私が一番好きな中国語の諺「車到山前必有路」というお話なんですが、これももう下書き保存せず、そのままエントリさせたいと思います。