インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「語学では食えない」をめぐって

通訳翻訳業界ではよく知られている『通訳・翻訳ジャーナル』という雑誌があります。記事の内容は圧倒的に英語関係なので私はあまり買わないのですが(ごめんなさい)、たまに中国語や韓国語の特集が登場することもあります。

また別冊として『通訳者・翻訳者になる本』というムックも出ていて、現役で活躍している通訳者や翻訳者のインタビュー記事など、私もなかば身を焦がれるようにして読んだものです。


通訳者・翻訳者になる本2019 (プロになる完全ナビゲーションガイド)

この雑誌やムックの記事は、そのほとんどが語学を仕事にするにはどうすればよいか、つまり「語学で食っていくこと」にポイントが置かれています。そのため語学学校、なかんずく通訳学校や翻訳学校の授業体験記や勉強法、プロとしてデビューするまでにやるべきこと、仕事を取ってくるために求められること……などなど、まあちょっと業界外の方が読めば「ナマすぎる」トーンの記事が多いのが特徴です。でもそれが語学業界のリアルな姿なんですね。

そのためにこの雑誌は、語学学校の広告数が半端ではありません。というか、正確にページ数を数えてはいませんが、誌面の半分かそれ以上は広告か、語学学校とのタイアップ記事、さらには各学校の様々なデータバンク、という体裁になっています。そして出稿されている語学学校の広告はいずれも身を焦がす読者に向けた「語学を上達させる」「語学を仕事に」が通奏低音として流れているのです。

メルマガへの疑問

この雑誌の出版社は「つーほんメール」というメールマガジンも配信していて、私も登録して毎回配信して頂いています。語学関係の試験情報やイベント、法改正の動向や書籍の情報などいろいろと参考にさせてもらっているのですが、昨日配信された最新号には、東京国際映画祭東京オリンピックパラリンピックのボランティア募集について記事が載っており、ちょっと引っかかるものを感じました。

例えば東京国際映画祭については、こんな感じです。

海外から多くのゲストが参加する大規模な映画祭の運営は多くのボランティアによって支えられています。


(中略)なかには語学力を有する人を求めるもの、また、ずばり通訳や翻訳ができる人を求めるものもあるようです。たとえば、「ボランティア募集部署(3)プロモーショングループ【cyberTIFF】」では日本語・英語字幕の翻訳、インタビュー時のアシストや通訳等を行う「翻訳・通訳スタッフ」を6名程度募集しています。


(中略)映画が好きな人、通訳・翻訳を学習中の人はぜひ詳細をチェックしてみましょう。

東京オリンピックパラリンピックについては、こんな感じ。

東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会は7月24日、大会ボランティアの特設サイトを開設しました。活動分野や募集人数、応募の流れ、体験記などをチェックできます。


本メルマガの読者の方々が気になるのは「通訳」のボランティアではないでしょうか。通訳は「アテンド」と呼ばれる活動分野に属しており、選手がメディアからインタビューを受ける際のコミュニケーションサポート等をおこないます。

そして最後には、同出版社の近刊である『東京オリンピックのボランティアになりたい人が読む本』の広告が載せられています*1

……どこかおかしくないですか。

上述したように『通訳・翻訳ジャーナル』は通訳や翻訳で食べていこうとしている読者のための雑誌であるはずです。それなのにこうして「通訳や翻訳は無償でよい(しかも緊急避難や弱者支援ではない営利目的のイベントに)」という社会通念を後押しするような情報をメルマガで発信し、さらには書籍を出版するのは矛盾しており、かつジャーナリズムの放棄も甚だしいと思います。本来であれば、こうした風潮に対し批判を加え、通訳者や翻訳者の正当な権利を主張してこそ「ジャーナル」という雑誌名にふさわしいのではありませんか。

私はかつて(大昔です)この出版社から依頼されて芸能通訳に関する原稿を寄稿したことがあります。中国語を学び始めたのが遅かった私はずいぶん歳を取ってから通訳者になったのですが、そこを意気に感じて(?)原稿を依頼してくださった恩義を忘れてはいません。それでも、このメルマガや出版物は大いに疑問です。

英語だって「食えない」?

この出版社だけではありません。例えばTOEICの日本での運営を行っている「国際ビジネスコミュニケーション協会」がTwitterに投稿されたこちらのツイート。

もう募集は終わっていますが、こちらによれば2日間で、拘束時間は合計12時間、10名募集という、これはもうれっきとした業務で、それを無償で行わせようというのです。チャリティでも何でもないイベントなのですからきちんと予算を組んで、報酬を出すべきではないでしょうか。

TOEICは就職や昇進といった現場で指標として使われることが多い試験ですが、TOEIC自体はビジネスだけに目標をしぼっているわけではありません。それでもTOEICの実施団体が「語学を学んで無償で奉仕しよう」と言っているに等しいメッセージをなぜわざわざ発信するのか、そしてやはり「通訳という作業は無償でよい」という社会通念を後押ししようとするのかがわかりません。

……というようなことを嘆いていたら、なんと、私が奉職している通訳学校でもこんな短期コースが開講されると知りました。

https://www.issnet.co.jp/courses/e_i_short.html#feature1

おもてなし通訳を体験しよう!


日本を訪れる外国人の増加に伴い、サポートする人材も求められています。海外からのゲストをおもてなしするにはどうしたら良いのでしょうか?このクラスでは、「お出迎え・道案内」「日本文化・名所の説明 」「医療サポート」などを想定した演習を通して、英語でのご案内や簡単な通訳を体験していただけます。この機会に、ホスピタリティマインドに基づいた英語でのおもてなしを学んでみませんか?英語力を高めたい方や、ボランティア通訳などに興味があり、その内容を知りたい方におすすめのクラスです。

う〜ん、まずは入門編としてボランティア「あたり」から入ってもらって、徐々に力をつけたらプロを目指しましょう(その際にはぜひうちの学校で)という戦略だとは思います。それは分かるのですが、初手から「通訳はボランティアでもできる」というのを肯定しちゃうのは、プロの通訳者を養成する学校としては矛盾しているのではないでしょうか。

語学業界の深い森

以前のエントリですが、松田青子氏の小説『英子の森』は、こうした語学産業と実際の語学の現場の乖離、ないしは矛盾を悪夢のような文体で描き出した快作、いや怪作です。何度読み返しても怒りと悲しみと、そしてある意味私もそんな語学産業の一翼を担っているのではないかという自責の念に駆られます。

qianchong.hatenablog.com


英子の森 (河出文庫)

人から尊敬を受けたいなどと日々念じている人間など誰も尊敬しないと思いますが、それでもこの国の(他の国はどうなんだろう)語学に対するリスペクトの薄さは何とかならないものだろうか……一通のメルマガをきっかけにまたそんな煩悶が始まってしまったのでした。

ことここに到って、例えば「五輪を中止」などという選択は現実的にありえないでしょう。それでも最低限「ボランティア*2」への参加を「動員」するようなことがないこと、そして自分の意思で参加した人にきちんと報酬を支払うこと、この二点だけでも様々な場所で声を上げていきたいと思っています。

追記

この記事をまとめたあと、Twitterで教えていただいたこちらのページ。糸井重里氏主宰の『ほぼ日』のコンテンツですが、酷暑の五輪に対してSNSだけでなく大手メディアまでもが警鐘を鳴らし始めている今、ここまで脳天気に組織委のお先棒を担いでしまえるなんて……まさに仰天の記事です。ぜひご一読いただき、怒りで蒸し暑さを倍増させてください。

www.1101.com

*1:かつてリオ五輪に東京外大が「自腹ボランティア」を派遣したことがありましたが、その際に東京外大の教授にボランティア学生の募集を持ちかけたのが「オリンピックジャンキー」を自称されるこの方(http://blog.livedoor.jp/charlesnishikawa/archives/9354513.html)で、この本の著者です。ご自身で「ジャンキー」と称されるほどお好きで参加されるのはもちろん自由なのですが、巨大な営利目的のイベントと化した現代の五輪や、組織委と大手広告会社がもくろむ無償奉仕の実態、酷暑における開催によって社会の各方面と人々の命にまでしわ寄せが行くと懸念されつつある中、学生にこうしたボランティアを推すのは無責任ではないでしょうか。それを承ける大学も同断です。殊に「通訳は無償でよい」との通念を強化しているという自覚が外大関係者にあるのかが疑問です。誰よりも外語をよく知り、外語を学び活かすことの素晴らしさも難しさも、そして怖さをも熟知されている外大の方々には、少なくとも五輪のボランティア通訳に疑問の声を上げてほしいと思います。

*2:言葉の正しい意味でのボランティアではないけれど。