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いつか役に立つことがあるかもしれません。

京劇の「覇王別姫」と能の「項羽」

覇王別姫(はおうべっき)」といえば、陳凱歌監督の映画「覇王別姫 さらば、わが愛」でも有名な京劇の演目です。楚の項羽と漢の劉邦が戦い、最後は項羽が追い詰められて虞姫(虞美人)と愛馬・騅と別れる……という悲劇。「四面楚歌」という成語の元になったお話でもありますし、敵の手に落ちる前に虞姫が自刃して果てる場面や、映画でも印象的に使われていた「垓下歌(垓下の歌)」などがよく知られ、人気のある演目です。

こちらの「中国語スクリプト」さんの解説がとても分かりやすいです。
覇王別姫
http://chugokugo-script.net/story/haoubekki.html

映画「覇王別姫 さらば、わが愛」についてはこちらのWikipediaをどうぞ。
さらば、わが愛/覇王別姫 - Wikipedia

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この映画や実際の公演をご覧になった方はお分かりだと思いますが、「覇王別姫」は京劇の面目躍如、非常に勇壮かつダイナミックで、なおかつ項羽と虞姫の別れという悲劇が時系列に沿って現在進行形で語られ、特に虞姫の自刃というクライマックスが大きくクローズアップされています。

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▲能「項羽」。写真は『能・中国物の舞台と歴史』口絵より。

ところで、日本の伝統芸能である能楽にも「覇王別姫」を題材にした曲(演目)があるのをごぞんじでしょうか。それが能「項羽」です。「項羽」は「覇王別姫」と全く同じように、四面楚歌となって戦意を喪失した項羽が虞姫や騅と別れ、最後は自身も果てるというストーリーを扱っています。中村八郎氏の『能・中国物の舞台と歴史』には「あらすじ」がこのように記されています。

四面楚歌の項羽(シテ)が烏江に落ちのび、追撃の漢軍と奮戦する様を能にしたもの。その間に例の有名な「時に利あらず、騅逝かず」の詩や愛姫虞美人(ツレ)の死などを取り入れ、最後に烏江の野辺の土中の塵となるのである。

このように、京劇「覇王別姫」と能「項羽」は全く同じ物語と言っていいのですが、その物語へのアプローチが全く違っています。京劇「覇王別姫」が現在進行形で生々しく物語るのに対して、能「項羽」はその悲劇から何年、何十年も経ったあとの烏江のほとりでのできごとから往事を回想するという手法を採っているのです。

こちらは「名古屋春栄会」さんのウェブサイトにある「項羽」の詞章です。
項羽
http://www.syuneikai.net/kouu.htm

「あらすじ」を読んでいただければ分かると思いますが、悲劇の物語を直接現出させず、前半は渡し船の船頭(実は項羽の幽霊)とのやり取りを延々と見せる中で虞姫を象徴する一輪の花に託して過去の悲劇の物語を呼び寄せ、後半は弔いの祈りの中で項羽の幽霊に往事の悲劇を再現させるという、なんとも凝った、情趣あふれるストーリーテリングです。悲劇を悲劇のまま見せず、深い鎮魂とともに時空を超えた演出で語る。これが日本的な発想というものでしょうか。

私は一度だけ能「項羽」を見たことがありますが、直接ダイナミックに描き出す京劇も、夢幻の中で追憶する能も、どちらも好きですし、ひとつの物語に対して彼我でこんなにもアプローチが違うということそのものが非常に興味深いと思います。

昨年は、京劇と能を融合させた野心的な舞台が企画上演されたそうですが、見逃してしまいました。残念です。
www.shincyo.com

できることなら、いつか「融合」ではなく、京劇「覇王別姫」と能「項羽」を連続で上演して見比べるような企画公演があったらいいなと思います。能舞台で京劇のアクロバティックな演技が可能かどうかは分かりませんし、京劇の演出に能舞台の構造は向かないかもしれませんが、伝統的な京劇の舞台(映画にも出てきます)はちょうど能舞台ほどの大きさで、客席から一段高い位置にあって、ぴったりな感じがするんですけどね。

ところで蛇足ですが、映画「覇王別姫」の邦題が「さらば、わが愛」っての、あまりに俗っぽくて昔から馴染めないです。中国語のタイトルをそのまま邦題にしても、中国語を学んだ方以外は「?」となって興行的によろしくないという判断なんでしょうけど、そもそもが中国映画なんだし「覇王別姫」のままでよかったのになと思います。

追記

この記事を書いたあと、古本屋さんで買って「積ん読」状態になっていた吉川幸次郎氏の『支那人の古典とその生活』を読み始めたら、冒頭からいきなりこんな文章があって驚きました。

支那人の精神の特質は、いろいろな面から指摘出来るでありましょうが、私はその最も重要なもの、或いはその最も中心となるものは、感覚への信頼であると考えます。そうして、逆に、感覚を超えた存在に対しては、あまり信頼しない。これが、支那人の精神の様相の、最も中心となるものと考えます。

なるほど、だから現実のチャイニーズに接してもゴリゴリとしたリアリズムを感じるし、上述の「覇王別姫」のストーリーテリングにしても現実そのままの現在進行形で物語り、能「項羽」が異なる時空の幽霊に物語らせるのとは明確なコントラストを成しているのですね。