インタプリタかなくぎ流

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バナナ

獅子文六氏の小説『バナナ』を読みました。ブログのコメント欄で知人が紹介してくれたので、さっそく購入して読んでみたところ、これがすごく面白い。文庫本で400頁以上の長編ですが、一気に読み終えてしまいました。


バナナ (ちくま文庫)

獅子文六氏といえば、たしか劇団「文学座」の創設者のひとりだったと記憶しています。数々の小説や随筆を残し、映画化やドラマ化された作品も多く、文化勲章の受賞者でもありますが、1969年に死去したあとは多くの作品が絶版になっていたとのこと。私も、短い随筆は読んだことがあるような気がしますが、氏の長編小説は初めてでした。

獅子文六 - Wikipedia

物語のお膳立てが実に魅力的です。時代は1950年代末期から1960年ごろ(もともと当時の読売新聞に連載された小説だったそうです)で、主人公は台湾系華人の呉天童の息子「龍馬」。作中では「りょうま」ではなく「ロンマー」とルビが打たれています。そう、この小説は、日本が1972年に中華民国と断交して中華人民共和国と「国交正常化」する以前の、日本における華人社会(とそこに関わる日本人)を描いているのです。

「中国通」ではなかったからこそ

小説の題名になっている『バナナ』は、台湾から輸入されるバナナの利権をめぐって、龍馬とその恋人、家族、華僑の人々が繰り広げる騒動から来ています。文庫版の帯には「レトロ&ポップなドタバタ青春物語」との惹句があり、銀座や渋谷や横浜や神戸を舞台に、獅子文六氏ならではの美食や音楽に関する一種のスノビズムがそこここに発揮された、読みごたえある娯楽作品になっています。

しかも驚くのは、これだけ当時の日本における華人社会の様々な側面を活写しながら(中台のどちらに帰属するかの逡巡や、無国籍の問題まで盛り込まれています)、獅子文六氏が必ずしもいわゆる「チャイナウォッチャー」的な、あるいは当節にいう「中国・台湾クラスタ」的な背景の方ではなかったという点です*1。小説の「あとがき」にはこう書かれています。

私は中国語をまるで知らず、万事、友人から教えて貰ったのだが、作中の呉一家は、台湾出身であるから、本来なら、その地の言葉に従うべきであるが、私は、日本で普及してる北京読みの方を採った。どうも、その方が、中国語くさいのである。例えば、龍馬を、台湾風にリェンベーと発音するよりも、北京風に、ロンマーと読む方が、少なくとも私には、感じが出るのである。結局、私は、大先輩近松門左衛門が『国性爺』を書いた例に倣うことにした。台湾の人々や、中国語をよく知ってる人には、滑稽であろうが、私には、北京語も、広東語も、台湾語も、問題ではなく、ワンタン、シューマイ的中国語で、事足りているのである。

時代ということもあるのでしょう。現代であればSNSで軽く炎上しそうな「ふてぶてしさ」ではありますが、それでも日本における華人社会を題材とする際に、なまじ深く知っている立場の人間だったら尻込みして筆が鈍りそうなところを、この小説ではそれはもう痛快なくらいに活き活きと、細かいディテールまで書き込まれています。

とはいえ、獅子文六氏は全くの無責任よろしく勝手な想像だけで書き散らしたのではありません。文庫本の付録に『神戸と私』という短い随筆が添えられていますが、それを読めば氏がこの作品を書くにあたって取材や調査を重ねたことが見て取れます。また氏自身がもともと多才多芸かつ博覧強記の人で、極めて豊かな教養と人生経験に裏打ちされた数々の蘊蓄があってこそ成立した作品世界なのでしょう。

現代と同期する若者像

私がこの小説でいちばん興味深かったのは、主人公龍馬の人物造形です。彼は大学でも特に勉強がよくできる部類ではなさそうですが、そこそこの資産家の一人息子ということもあってか、万事に鷹揚で屈託がありません。決して上品というわけでもなく、その立ち居振る舞いはどちらかといえば「無頼風」で「体育会系」なのですが、衣食足りて礼節を知るというか、基本的に素直で善良で、ネガティブなところがほとんど見当らないのです。

龍馬の人物像を自分なりに想像しながらこの作品を読み進めているとき、私はいま自分が仕事の現場で日々接している華人留学生のみなさんを思い浮かべてしまいました。時代はこの作品世界から半世紀以上も隔たっているのに、龍馬の醸し出す雰囲気はなぜか現代の華人留学生にとてもよく似ているのです。いささかの語弊を承知で言えばそれは、「お金に余裕があって『変にスレていない』チャイニーズ系の若者」の持つ、ある種の雰囲気です。

私が初めて華人留学生とあい対するようになったのは、世紀が変わろうとする西暦2000年前後からでした。当時日本政府は「留学生受け入れ10万人計画」のもと、留学生の受け入れ数を急増させつつありました。特にこの時期、入国規制の緩和に中国の急激な経済成長もあいまって日本語学校への留学生数が急増、現場ではその様々な余波に「てんやわんや*2」の日々が続いていました。

http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2011/201002_14.pdf(185頁参照)

職場で私は、この留学生受け入れ事務を担当していたのですが、学生の質は正直申し上げて玉石混淆(失礼)。極めて真面目な学生もいる一方で、明らかに出稼ぎ等が目的の、それこそ留学に際して提出が求められる出生から今日に至るまでの様々な公文書や書類がすべて偽造という「猛者」も少なからずいたものです。

それがいまではすっかり様変わりし、「いいところのお坊ちゃん・お嬢ちゃん」という雰囲気の学生が主流になりました。ハングリーさは良くも悪くも影を潜め、勉学もそこそこ真面目だけれど「石にかじりついても」的なスタンスは少なく、ゲームに浸り、コスプレに興じ、コミケに詣で、居酒屋に出没し、ポルノ映画館に潜入し、休日ともなれば日本全国ほとんどすべての都道府県を踏破するほど旅行したりして、青春を目一杯楽しんでいます。「アルバイトはしていません」という学生だって珍しくないのです。

『バナナ』は主人公龍馬を取り巻く人々の欲望がてんこ盛りで描かれており、今となっては懐かしい風俗習慣も多く盛り込まれている「レトロ」な小説ではあるのですが、物語の中心にいる当の龍馬自身がやけに現代の若者と同期している点が逆に非常に新鮮でした。そして、日本における在日華人の世界を題材にしている点で、国籍と民族と個人のアイデンティティを扱った極めて現代的な「越境文学」にも通じる魅力を感じたのです。

*1:むしろフランスの文化に造詣が深かったようです。

*2:この言葉も獅子文六氏の作品から流行語になったとのことです。