インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

憧れどもなお近寄りがたき「田舎」

上下篇を続けて読みましたが、なんだか新年から暗澹たる気持ちになる記事でした。

www.dailyshincho.jp

ここに書かれているような「田舎」の閉鎖性*1、私は身をもって体験したことがあるのでよく分かります。というか、私が体験したのはもう30年も前のことなのに、いまだにその本質は変わっていなかったのか……ということの方に驚きました。

私が東京から「田舎」に移り住んだのは、大学を卒業してすぐです。詳細は省きますけど、とにかくサラリーマンになるのがいやというその一点だけでいわゆる「就活」は行わず、田舎での就農をめざして熊本県水俣市に移り住んだのです。

一年目は農業体験ができるフリースクールで学び、二年目からはそのフリースクールの運営や、その母体である財団(ここは水俣病患者運動の支援や、水俣病関係の資料を集めて研究・展示する活動をしていました)での仕事をしつつ、農業のまねごとをやっていました。

水田で稲を作り、畑で野菜を育て、その他にも養鶏や農産物の産直や地元の漁師さんのお手伝いなどをしながら五年ほど過ごしました。それはそれでとても得がたい貴重な体験でしたが、結局は「田舎」の閉鎖性にうんざりして東京へ舞い戻ってくる結果になりました。

特に空き家になっていた一軒家を借りて住んでいたときが一番つらかったです。集落の共同作業や寄り合い、あるいはどこかの家で不幸があったときなどのお手伝いに参加させてもらっていましたから、決して上記の記事のような陰湿な「村八分」などはなかったのですが、やはり生活の事細かなことまでが集落中に知られ(口コミがものすごく発達しているのです)、男は力仕事・女は「おさんどん」をするという男女の役割が最初から固定された指示をされ(当時結婚していましたが、男女の役割についての旧態依然とした考え方一つ一つがストレスになりました)、その一方で「よそ者」として本当の意味での仲間にはしてもらえず(なにせ祖父母の代からこの集落に住んでいても「あの家は〇〇もんじゃけんな」と分け隔てられるのですから)、一見民主的なようでいてその実極めて非民主的かつ非生産的(形ばかりの寄り合いが開かれ、延々議論のようなものをおこなうものの、最後は必ず集落の長老的人物による鶴の一声で決するなど)なあれこれに耐えきれず、体調を崩し、危うく精神まで病むところでした。

そんな中で「そうだ、やっぱり東京に帰ろう」と私の背中を強く押してくれたのは、同じ熊本在住だった在野の思想家・渡辺京二氏の数々の著作でした。なかでも氏の最初の評論集である『小さきものの死』*2に収められた、水俣病闘争を主題とするいくつかの論考、「石牟礼道子の世界」、「義理人情という界域」、「現実と幻のはざまで」、「死民と日常」の四編は、いまでも折に触れて読み返しています。

小さきものの死
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9P26E/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_WlavAbHV6WQAJ
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この四編が描き出すものから、私は私のような者の手では到底受け止めることのできない巨大な「都市」と「田舎」の差と、さらにはすでに曲がりなりも大学を出てしまった「インテリの頭でっかち」*3と「そうではない存在」の間に横たわる懸殊(大きな隔たり)について、言わばそれまでの五年間を追体験し裏付けるような形でハッキリと手に取るように提示されたように感じました。いや、まわりくどいですね。要するに「腑に落ちた」のです。

そしてこの四編はまた、当時自分の中でいやがうえにも膨れあがっていた、水俣病患者を「患者『さん』」と持ち上げ聖化する心性への疑問にも早々に*4答えを出してしまっていました。そのことにも大きな衝撃を受けました。

患者を背後に光輪を負った聖者に仕立て上げる心的趨性は、水俣を聖地と観じる傾向と同根であって、いずれも衰弱した知性と昂進したセンチメンタリズムの所産に他ならなかった。水俣石牟礼道子氏の作品によってうかがわれるように自然の精気ともいうべきものにあふれた美しい町であって、集積された都市機能が麻痺寸前の状態にあり、管理社会的様相が一種の極限に近づきつつある東京の住民の疲労感と疎外感が、そこにある桃源郷を夢想するのはたしかに根拠のないことではない。しかし、水俣詣での知識人たちが「水俣よいとこ」風の私情を、たんに田園自然に対する趣味嗜好の問題として吐露するのならともかく、水俣を自分たちの病いに合わせて聖地のように賛美するのは、ほとほと滑稽なながめであった。のみならず、そのような水俣礼賛を、いまはやりの文明終末論的考察のはしきれや、聞きかじりのエコロジーや、ナロードニキ趣味の辺境論議で思想めかすような言辞を見聞きするたびに、私は心中、暗い嘲笑のごときものが突き上げてくるのを抑えることができなかった。彼らは一度、生涯そこから脱出できない宿命を背負わされて、水俣の部落社会に叩き込まれてみたらよいのだ。その時、彼らは、なぜ部落の青年男女たちが、彼らには桃源郷と観じられる水俣を捨てて出郷するのかということを、はじめて理解するはずだ。たとえ彼ら水俣感傷旅行者が水俣に定住することになっても、その水俣定住は彼ら自身の生活によって規定された宿命ではけっしてありえないゆえに、彼らは依然として水俣への感傷的視座から脱出することはできはしないのである。(死民と日常)

は〜っ。あれから何十年も経った今なら、渡辺京二氏に反論を試みてみる気概も少しは生まれたかもしれません。でも、二十代の私はこの文章を読んで、まさに自分に向けて書かれたものだと何ものかに射貫かれるような思いでした。渡辺京二氏にはその後「真宗寺講義」で何度か直接お目にかかりましたが、この件に関してはついに自分の考えを問うてみることはできませんでした。というより、この一文で完膚なきまでに叩きのめされていたのですから、もとより問えるはずもありません。

時が流れ、世界情勢も変わり、「田舎」が持つ役割や魅力も変わりつつあります。それに今を生きる若い世代の人々が「都会」の論理ではない全く新しい世の中のあり方を「田舎」から創造し始めている数多くの例も見聞きしています。たとえば、先日Twitterのタイムラインに流れてきたこちらの記事のように。

地方に移住してわかった、3つの良かったこと・困ったこと | MACHI LOG

ですからこれから先の「田舎」のありようが、数十年前に私が体験したような価値観の中だけでこの先も続いていくとは思えないし、思いたくもありません(それこそ「センチメンタリズム」ですよね)。それでも冒頭のような記事に接すると、つい「暗い嘲笑」がこみ上げてくるのを抑えることができないのです。この「変わらなさ」は、特に年寄り世代の頑迷さはどうしたものかと。現在の年寄り世代だって、かつては渡辺京二氏が描写した、都会者には「桃源郷と観じられる水俣を捨てて出郷」する「青年男女たち」でもあり、なかには「変えよう」と思った人もいたかも知れないのに。それでもやはり歳を重ねるごとに「田舎」に少しずつ心を許し、やがてはその頑迷さに取り込まれて行ってしまうのでしょうか。

私はそれでも、ゆくゆくは仕事からフェードアウトしながら「田舎」での暮らしに再度チャレンジしてみたいと思っているのですが、この「変わらなさ」では難しいかなあ……むしろ台湾の農村や離島あたり(若い人がいろいろな試みを活き活きと行っています)の方が実現しやすかったりするかも知れません。

*1:日本中の「田舎」がひとしなみに同じとはいえないでしょうから、「都会」に対する「田舎的な地域社会」という意味をこめてカッコ書きにしておきます。

*2:Amazonマーケットプレイスで旧版がまだ手に入るはずです。また新編の『民衆という幻像: 渡辺京二コレクション2 民衆論』にも収められています。

*3:当時の私は、若者にありがち(?)な「義憤」から自分を「民衆」の側に立つ人間だと自己規定していました。当節の佐々木俊尚氏がおっしゃるところの「マイノリティ憑依」だったわけですが、周囲からは「大学まで出ておいてそれはないわ」とあっさり一蹴されました。

*4:これら四編の初出は1972〜3年、私が悶々としていた時代のさらに20年近くも前です。